ある日の昼下がり。
縁側では、レイダとアルブレヒトが湯気の立つ茶を啜っていた。
「あんたも、ようやく落ち着いたねえ」
湯呑みを傾けながら、レイダが目を細める。
「あんなに前のめりだったのに。ちょっと前なら、あたしがお茶に誘っても『鍛錬がありますので』なんて言って断っていただろうさ」
「……それは、申し訳ありません」
アルブレヒトは少しだけ肩を竦める。
そんな様子を見て、レイダはくつくつと笑った。
「何も謝ることはないよ。これも修行の一つさ」
一口、茶を含む。
「鍛錬をしないこともまた鍛錬。剣ばかり振ってりゃ強くなるってもんじゃない」
その言葉に、アルブレヒトは静かに湯呑みへ視線を落とした。
「……皆のおかげです」
ぽつりと漏らす。
「今思えば、以前の俺は悩むことすらできませんでした。ただ答えから目を逸らして、闇雲に鍛錬を積み重ねていただけだったのだと思います」
レイダは何も答えない。
ただ満足そうに頷き、静かに茶を啜った。
雪はすでに止み、澄み切った冬の空気だけが庭を満たしている。
穏やかな静寂。
その空気を乱すように、襖が勢いよく開いた。
「俺様にもくれ」
入ってきたのはガル・ファリオンだった。
「茶瓶はそこにあるよ。飲みたきゃ自分で淹れな」
「はっ。不親切な婆さんだ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、ガルは茶瓶を手に取る。
「俺が淹れます」
「いい」
短く制した。
「自分で淹れる」
茶瓶を傾ける。
じょぽぽ、と静かな音を立て、湯呑みに茶が満ちていく。
一口。
熱い茶を啜ると、ガルは横目でアルブレヒトを見た。
「最近、調子いいみたいじゃねえか」
「……はい。そうかもしれません」
「実際、ガキどもの中じゃお前が一番だ」
ガルは鼻で笑う。
「北帝だからってわけじゃねえ。お前には才能がある」
湯呑みを口元へ運ぶ。
「やろうと思えば――」
その口元が僅かに吊り上がった。
「この俺様すら超えるかもしれねえ才能がな」
「そのようなこと――」
世界が凍り付く。
アルブレヒトの意識は瞬時に極限まで研ぎ澄まされた。
剣を抜く。
身体は考えるより早く動く。
死。その一文字だけが、脳裏を塗り潰した。
迫る光。
剣神流最速最強の斬撃。
光の太刀。
アルブレヒトは半歩だけ身体を捻り、受け流しの構えを取る。
次の瞬間、甲高い衝撃音が室内を裂いた。
火花が散る。
剣と剣が噛み合う。
受けた。
そう思った刹那。
重い。
あまりにも重い。
光の太刀は止まらない。
受け流しきれず、剣ごと押し潰される。
「がっ――!」
襖を突き破り、畳を抉りながら部屋の奥まで吹き飛ばされた。
障子が激しく震え、アルブレヒトが直前まで持っていた湯呑みが落ちて割れる。
ガルは何事もなかったように湯呑みを口へ運んだ。
「謙遜すんな」
一口茶を飲む。
「俺様の光の太刀をそこまで受けられるなら、大したもんだ」
レイダは呆れたように眉をひそめた。
「おい。今は茶を飲む時間だよ」
「いーや、稽古の時間だ」
ガルはにやりと笑う。
その獰猛な笑みのまま、アルブレヒトを見据える。
「……たった数年でここまで来るとは、末恐ろしいガキだぜ」
愉快そうに笑う。
「…お茶が、溢れてしまいましたね」
身体を押さえながら立ち上がるアルブレヒト。
畳には茶が広がり、湯呑みは無惨に砕け散っていた。
「湯呑みも割れてるじゃないか」
「ああ? 湯呑みの一つや二つくらい、気にすんな」
「あれは坊主のお気に入りだったのにねえ」
「いえ…」
アルブレヒトは割れた湯呑みを拾い集める。
「物はいつか壊れるものですから」
そう言いながらも、肩は目に見えて落ちていた。
「おーおー、可哀想に、乱雑な師匠を持つと弟子は苦労するねえ…」
レイダはわざとらしく首を振る。
「なんだ、俺様が悪いってのか?」
「当たり前だろこのガサツもんが。ほれアルブレヒトおいで、婆ちゃんとお菓子でも食べようね」
レイダは手招きしながら、子供をあやすような口調で笑う。
「な、このババア…」
「レイダ殿。ガル殿をからかうのもその辺りで…あとガル殿は俺の師匠ではないです」
「おいお前もなんだコラ、毎日稽古つけてやってるだろうが」
「それには感謝していますが、それはそれ、これはこれです」
自分の師匠はシャンドル一人だけだ、とアルブレヒト。
「湯呑みか?湯呑み割ったから師匠じゃないってのか?」
「関係ないですよ…………多分」
「おい!絶対気にしてんじゃねぇか!」
その怒鳴り声に、レイダは腹を抱えて笑い始めた。
「ははは!剣神様が形無しだねえ!こりゃ面白い!」
「うるせえよ!…ったく、直せばいいんだろ、貸せ!」
そう言ってアルブレヒトの手から湯呑みの破片をひったくる。
「本当に気にしてませんよ。………でも、早く直してくれると助かります」
「お前意外と根に持つタイプだな!?」
ガルはぶつぶつ文句を言いながらも、器用な手付きで湯呑みを繋ぎ合わせていく。
「ったく……弟子でもねぇガキの機嫌まで取らなきゃならねぇとは」
「そこ、もっと丁寧にやりな」
「うるせぇ」
「ガル殿、欠片が逆です」
「うるせぇって言ってんだ!」
その日、剣神流道場では、割れた湯呑みを真剣な顔で修復する剣神と、それを横から指導する水神と北帝という、誰も見たことのない光景が広がっていた。
■
修行の合間、珍しくアルブレヒトはカークと木剣を交えていた。以前の彼なら、「必要のない手合わせに割く時間はない」と一蹴していただろう。
だが今は違う。肩の力が抜けたことで、こうした他愛もない手合わせにも意味を見出せるようになっていた。
乾いた音が道場へ響く。
何合か打ち合った末、カークの木剣が宙を舞った。
くるくると回転しながら地面へ落ちる。
「……ここまでだ」
アルブレヒトが木剣を下ろす。
「クソッ……」
床を拳で叩き、カークが悔しそうに唸った。
「これで俺の十連勝だ」
アルブレヒトは穏やかに言う。
「せめて十本に一本くらいは取れるようになれるといいな、カーク」
「……マジでムカつくぜ」
憎まれ口を叩くカークだったが、その顔にはどこか清々しさもあった。
最初に挑んだ頃は、一太刀も浴びせられなかった。
今では十本に一本届くかどうか。
少しずつではあるが、確かに差は縮まっている。
「チッ…そんなに強いなら、道場でも開いたらどうだ?」
木剣を拾いながら、カークが皮肉げに言う。
「北神流玉葱派だったか? お前、開祖なんだろ」
「…………」
アルブレヒトの表情が僅かに曇る。
「それは……なぜ広まっているんだ。俺は一度もそんな名乗りをした覚えはないぞ」
「は? 俺が知るかよ」
実際にはシャンドルが面白半分で吹聴しているだけなのだが、その事実を知る者はこの場にはいなかった。
「しかし……道場か」
アルブレヒトは少し考え込む。
「玉葱派かどうかはともかく、悪くないかもしれないな。誰かを守るための剣を教える。それも騎士の務めだ」
自然と零れた言葉だった。
以前なら考えもしなかった未来。
カークは鼻を鳴らす。
「ふん、お前にはお似合いだよ」
「もし道場を開いたら、門下生として招いてやってもいいぞ」
アルブレヒトは少しだけ口元を緩めた。
「ふふ」
「はぁ!? てめぇ舐めてんのか!?」
「本気だ」
アルブレヒトは真っ直ぐカークを見る。
「剣神流も向いているんだろう。だが、紛争地帯でのお前の剣を見た限りでは、なんでもありの北神流も性に合っている」
あまりにも真剣な眼差しだった。
怒鳴り返そうとしていたカークも、その勢いを削がれる。
「……まあ、そうだとしても」
頭を掻きながら、ぼそりと呟く。
「区切りをつけるまでは、ここを離れる気はねぇよ。せめて剣王になってからだ」
実際、壁は感じていた。
このまま積み重ねれば、剣王には届くだろう。
だが、その先。
剣帝。そして剣神への道は、あまりにも遠かった。
「…………ん?」
カークが眉をひそめる。
「おい待て。今、紛争地帯って言ったよな」
「…………」
じっとアルブレヒトを見つめる。
「お前、それ覚えて――」
「知らんな」
アルブレヒトは即答した。
「覚えてないぞ」
「嘘つけ!」
カークが思わず叫ぶ。
「いつから思い出しやがった!」
「知らん、知らん」
そっぽを向くアルブレヒト。
「覚えてないぞー」
「てめぇ絶対思い出してるだろゴラァ!」
道場中にカークの怒鳴り声が響き渡り、それを聞いた門下生たちは一斉に苦笑した。
そんな二人のもとへ、一つの影がゆっくりと近づいてくる。
「ほうほう。なにやら面白そうなお話をしていますな。某も混ぜていただいてもよろしいかな?」
頬に孔雀の入れ墨、パラボラアンテナのような髪型をした奇怪な剣士。彼は北神流奇抜派『北帝』オーベール・コルベット。
「オーベール……さん。何の用だよ」
「うむ、一応礼儀は知っているようで何よりですよ、『剣聖』カークくん」
「てめッ……!」
アルブレヒト相手なら軽口で済ませるカークも、オーベールだけは別だった。
今にも剣を抜きそうな勢いで睨みつける。
「落ち着け、カーク。…それで、何のご用ですか、オーベール殿」
「いえなに」
オーベールはにこりと笑った。
「奇抜派に続いて玉葱派という、同じく不治瑕北神流の流れを汲む新流派が誕生したと聞きまして」
一拍置いて、胸に手を当てる。
「同志として、ご挨拶に参った次第です」
「だから、俺は一度も玉葱派なんて名乗っていませんが」
「ほほう?」
オーベールは顎に手を当てる。
「では、シャンドル殿の情報は誤報でしたか」
「…………師匠」
アルブレヒトは静かに額を押さえた。
「やっぱりあの人か……」
「ははは。シャンドル殿らしいですな。それでは、玉葱派は開かないので?」
「……………もういいです、玉葱派で。どうせ師匠は広め続けるだろうし」
諦めたように肩を落とすアルブレヒト。
オーベールは満足そうに何度も頷いた。
「結構結構。では、いつ頃開祖として道場を?」
「気が早すぎます」
「しかし、先ほどカーク殿にも仰っていたではありませんか。いずれ道場を開き、剣を教えたい、と」
「…………」
アルブレヒトは少しだけ考え込む。
「……そうですね、いつになるかは分かりません。ですが、その時が来たなら」
庭の雪景色へ目を向ける。
「誰かを守るための剣を教えられる場所にはしたいと思います」
オーベールは満足そうに笑った。
「それでこそ同志!派閥は違えど、北神流は同じ。困った時はいつでも奇抜派を頼ってくだされ」
「……考えておきます」
「おい」
そこで黙って聞いていたカークが眉をひそめる。
「本当に玉葱派でいくのかよ」
アルブレヒトは少しだけ考え――
「…………名前は、考え中だ」
真面目な顔で答えた。
「そこは否定しろよ!!」
カークの叫びが道場中に響き渡り、周囲の門下生たちはまたしても吹き出した。
■
またある日。
修練を終えた午後だった。
アルブレヒトは縁側へ腰を下ろし、静かに降り積もる雪を眺めていた。
庭一面を覆う白銀。吐く息は白く、冬の空気は頬を刺すように冷たい。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
剣を握っている時とは違う、何も考えない時間。雪が枝から落ちる音だけが、静かな庭に響いている。
「ねえ、ちょっといい?」
そんな穏やかな時間を破るように、聞き覚えのある声がした。
振り向くと、エリスが腕を組んで立っている。
「……なんだ、いきなり?」
「あんた、ルーデウスの弟ってことは、昔のルーデウスのこと知ってるのよね」
そう言うと、エリスは返事も待たず、当然のように隣へ腰を下ろした。
「話しましょうよ。ギレーヌとはもう話し尽くしちゃったし」
あまりにも突然だった。
理由も前置きもない。
いかにもエリスらしい誘いだった。
だが――
「……ああ。いいぞ」
自然と頷いていた。
エリスと同じだった。
自分もまた、大好きな家族の話をしたかったのだ。
「ルーデウスはすごいんだから!」
待ってましたと言わんばかりに、エリスが身を乗り出す。
「私と一緒に誘拐犯に攫われたときも、全然慌てなかったのよ!すぐに私を連れて逃げ出して、そのあとギレーヌと一緒に誘拐犯までやっつけちゃったんだから!」
目を輝かせて話す姿は、まるで昔へ戻ったようだった。
アルブレヒトも思わず笑う。
「兄さんは、小さい頃からすごかった。魔術が苦手だった俺の特訓にも付き合ってくれてな。兄さんのおかげで、俺も初級魔術を使えるようになった」
「そうそう!」
エリスは何度も頷く。
「私の10歳の誕生日もよ! 一緒にダンスを踊ってくれたの!」
エリスは当時を思い出したのか、どこか誇らしげに胸を張る。
少し照れ臭そうに笑いながら続けた。
「最初は全然できなかったけど、ルーデウスが教えてくれたおかげで、とっても綺麗に踊れたんだから」
「さすが兄さんだ…!」
思わず感嘆の声が漏れる。
兄なら、それくらいやってのけてもまったく不思議ではない。
アルブレヒトの脳裏にも、優しく笑いながら誰かに何かを教えるルーデウスの姿が浮かんだ。
「そう言えば昔、リーリャの妊娠が発覚して、父様と母様が喧嘩したときも1人で仲裁して場を収めたんだ。6歳の子供がだぞ?俺には真似できない」
「ほんと、ルーデウスって昔から変なところで肝が据わってるのよね」
「魔大陸に転移したあともすごかったわ! 冒険者になってすぐにお金を稼いで、ルイジェルドと三人で旅をしたの!」
一度笑ってから肩を竦める。
「……まあ、ちょっと失敗もしたけど」
「まあ、そういうこともある」
二人は思わず顔を見合わせ、くすりと笑った。
ルーデウスのことを話しているだけで、不思議と場の空気が柔らかくなる。
「兄さんと再会したのは、赤竜の下顎だったな……」
アルブレヒトがぽつりと呟く。
その一言で、先ほどまでの穏やかな空気が少しだけ静まった。
「あの時は、不甲斐ない姿を見せてしまった」
俯くアルブレヒト。
エリスもまた、遠くを見るような目をした。
「……そうね。私も、何の力にもなれなかった」
エリスの表情から笑みが消える。
拳をぎゅっと握り締めた。
「だから私は強くなったのよ」
その声には、今のエリスを支えている揺るぎない意志が宿っていた。迷いはなかった。
ルーデウスの隣に立つため。
守れる自分になるため。
それだけを目指して剣を振ってきたのだ。
しばらく二人は、他愛もない思い出話を続けた。
幼い頃の失敗。
旅の出来事。
ルーデウスの妙に理屈っぽいところ。
それでも最後には必ず誰かを助けてしまうところ。
話せば話すほど、懐かしい笑顔が次々と浮かんでくる。
気付けば、日は傾き始めていた。
「じゃあ、私は稽古に戻るわ」
エリスは立ち上がる。
「また思い出したら聞かせなさい」
「ああ」
短く頷く。
エリスが去り、縁側にはアルブレヒトだけが残った。
静かだった。
雪が、音もなく降り続いている。
ルーデウス、パウロ、ゼニス、リーリャ、ノルン、アイシャ。
皆の笑顔が胸の中へ浮かんでは消えていく。
これまで、ずっと認めたくなかった。
でも、もう認めるしかない。俺は家族のもとへ帰りたいんだ。
ただ一緒に食卓を囲んで、くだらない話をして、笑って。そんな当たり前の日々へ、帰りたい。
その願いを、初めて自分で認めた。
だが、胸の奥に浮かんだ温かな願いは、すぐに苦い現実に押し潰される。
――俺には、その資格はない。
「帰り、たいな」
誰に聞かせるわけでもなく、ポツリと呟く。
その言葉だけは、もう嘘をつけなかった。
雪は静かに降り続ける。
誰にも届かない小さな本音を包み隠すように、世界はゆっくりと白く染まっていった。