白い空間で、目覚める。
いや、目覚めるという表現は適切ではない。今は夢の中だ。
何もない世界。空も地面も境界が曖昧で、自分と世界の間隔が曖昧になる。
「やあ」
聞き慣れた軽い声。
振り返れば、そこには満面の笑みを浮かべたヒトガミが立っていた。
「神級、おめでとう〜!」
拍手をしながら声をかけてくる。
「いやあ、本当に驚いたよ。まさか剣神ガル・ファリオンに勝っちゃうなんてね」
ヒトガミは楽しそうに笑う。
「これで君は七大列強第六位だ」
アルブレヒトは無表情のまま彼を見る。
「……何の用だ」
「いやいや、冷たいなぁ。せっかくお祝いに来たのに」
ヒトガミは露骨に肩を落とし、わざとらしくため息を吐く。
「それだけじゃない。君に助言をあげようと思って来たんだよ?」
「いらない」
「えー……」
しばらく頬を膨らませたあと、まあいいや、と笑うヒトガミ。
「僕は優しいから、勝手に教えてあげる」
アルブレヒトは黙っていた。
ヒトガミはその反応を楽しむように笑う。
「ねえ」
一歩近づく。
「君さ」
その笑みは変わらない。
「呪いのこと、忘れてない?」
アルブレヒトの眉がわずかに動く。
「……忘れる、わけがない」
「そうかなぁ?」
ヒトガミは首を傾げた。
「お茶飲んで、馬鹿騒ぎして、昔話なんてしちゃってさ。もしかして、家族のもとに帰りたーい、とか思ってたり?」
その言葉に、アルブレヒトは答えられなかった。
ヒトガミは見逃さない。
「ありえないよね、だって君は呪われ人なんだから。今度はシルフィだけじゃ済まないかもしれないよ?」
「剣の聖地では毎日殺されてたから闇霊は出なかったみたいだけど、シャリーアに戻ってからはどうかな?もう前みたいに人間らしく笑えるようになってきた君なら……」
少しだけ口元を吊り上げる。
「闇霊も喜ぶんじゃないかな?また誰かを傷つけられるって」
アルブレヒトの拳が震えていた。
神級になった。七大列強になった。
それでも、恐怖だけは消えなかった。
どれだけ強くなっても、誰かを傷つけることへの恐怖だけは何一つ変わらない。
ヒトガミはその様子を満足そうに眺める。
「だからさ」
最後に優しく笑った。
「帰らない方がいいよ。君は一人でいるのが、一番みんな幸せなんだから」
その言葉は、呪いよりも重く、アルブレヒトの胸へ沈んでいった。
「忘れちゃ駄目だよ。君が、呪われ人だってこと」
■
「ねぇ、ニナ、本当におかしくないかしら?」
「はいはい、全然おかしくないわ。凄く立派よ」
不安そうな顔のエリスと、呆れた様子でなだめているニナをぼんやりと見るアルブレヒト。
剣王となったエリスは、ルーデウスのもとに向かうための支度をしているところだった。ニナとアルブレヒトはそれに付き合い、道場の外へ出ていた。
「アルブレヒトはどう思うのよ」
「…………ん。いいんじゃ、ないか?」
ちなみに、ぼんやりとしているアルブレヒトは気づいていないが、この問いは今日で5回目だった。
「あんた、またそれ?エリスがいかに面倒くさいとはいえ、もうちょっと真面目に答えなさいよ」
「……面倒って何よ」
ニナに注意される。エリスは不満げだ。
「…………ああ。すまん」
気もそぞろで返事する。
「面倒は面倒でしょ。あなたは彼氏のことになると本当面倒だわ…」
「なによ!恋人もいたこともないくせに!」
「な…!私だってジノと…!」
言い争う二人を眺めながら――いや、ルーデウスのもとへ向かおうとしているエリスを眺めながら一人考える。
羨ましい。
何の呪いもなく、何の障害もなく、ルーデウスのもとへ馳せ参じることができる。
なんて羨ましいんだろう。
(俺も…兄さんのところへ行きたい)
胸の奥で言葉が漏れる。
会いたい。謝りたい。力になりたい。
だが、脳裏へ、夢の中で聞いた声が蘇る。
『帰らない方がいいよ』
『君は一人でいるのが、一番みんな幸せなんだから』
拳が自然と握られる。
怖い。
また闇霊が現れたら。
また誰かが傷ついたら。
そう思うだけで、一歩が踏み出せなかった。
その時だった。
遠くから蹄の音が響く。
四頭の馬がゆっくりとこちらへ近付いてきた。
先頭はギレーヌ。
続いてイゾルテ。
そしてレイダ。
エリスの旅立ちに合わせ、三人もまた剣の聖地を離れる準備を終えていた。
「また喧嘩か?」
ギレーヌが苦笑する。
「ニナが悪いのよ」
エリスが口を尖らせる。ニナは呆れたように腰に手をあて、ため息をつく。
そんな姿を見て、ギレーヌは小さく笑った。
「剣神様は来られないのでしょうか?弟子の旅立ちだというのに…」
イゾルテが道場の方を見て怪訝そうな顔をする。
「…ま、なかなか顔を出しづらい理由もあるのさ」
レイダがアルブレヒトを見ながら呟く。
剣神ガル・ファリオン。
あの男が今どんな顔をしているのか。
わざわざ見に行かなくとも、なんとなく想像はついた。
レイダは小さく笑い、それ以上は口にしない。
「それより坊主。本当にいいのかい?」
「…なんでしょうか」
「
「師匠…?」
イゾルテが首を傾げる。
その疑問にも答えず、レイダは真っ直ぐアルブレヒトを見据えた。
「あんたがここで学ぶことはもうないよ。いつまで足踏みするつもりだい?」
「…………それは」
わかっている。本来、もうここに用はない。ルーデウスのもとへ向かいたい。だが、ヒトガミの声が呪縛となり、口を開けない。
――その時だった。
「すみませーん」
場違いなほど明るい声が雪道に響く。
荷物を抱えた一人の男が、大きく手を振りながら駆け寄ってきた。
「エリス・ボレアス・グレイラットさん宛てに、お手紙でーす」
この場にいる全員から視線を向けられる男だが、そんなことも気にせず、荷物から手紙を取り出す。
今?今なの?なんか重要そうな空気だったけど…とニナとイゾルテが思っている中――
「えーと、ルーデウス・グレイラット様からです」
「ルーデウス!」
エリスが男から手紙をひったくる。
「ちょっ…サインお願いしますよ、それがないと報酬が…」
「どこによ」
「ちょっと待ってくださいね…」
男は黒檀の棒と領収書のようなものを差し出し、エリスはそれをひったくるようにして奪い、乱雑に名前を書く。男はその文字をまじまじと見て、なんとかエリス、という文字列を確認すると、「よし」と頷いた。
「はい、どうも……と。いやー、割りのいい仕事だったなぁ……」
男はそれを受け取ると、上機嫌に道を戻っていった。
エリスはそんな男の行方などどうでもいいと言わんばかりに、封筒にとりかかった。
そのまま手紙を開き、読み始めるが、読めない。難しい字が多すぎて、読めない。
「エリス、なんて書いてあるんだ」
「…………」
ルーデウスからの手紙、ということで興味津々のアルブレヒト。
「エリス?」
「うるさいわね!ちょっと難しい字が多いから読めないだけよ!アルブレヒト、あんた読みなさいよ!」
「…まあ、いいが」
アルブレヒトは手紙を受け取り、読み始める。
「前略 エリス様。ルーデウス・グレイラットです。我々が別れてから、早いものでもう5年に――」
偶然舞い降りたルーデウスからの手紙。どこか懐かしむように読み進める。
それはどこか、離れた手をつなぎ直すような行為だった。
「こうして筆を取ったのは、ある人物にエリスの気持ちについて言われたからです。私はてっきり、あなた様は私を切り捨て、一人で旅立って――」
しかし。
この手紙はそんな生易しいものではなかった。
「私には現在、二人のっ……!?」
急に口を止めるアルブレヒト。
「どうしたのよ。二人の何?」
「あ、ああ…いや……」
「なによ。いいから続けなさいよ!」
「あの…うん。かなり、衝撃的と言うか、驚くかもしれないんだが、いいか?」
「いいから!何が書いてあるか教えなさいよ!」
「…………………わかった」
息を大きく吸い、再度口を開く。
「…私には、現在、二人の妻がいます」
フリーズ。
場の空気が凍りつく。
エリスが目を丸くする。
こころなしか瞳孔が狭まっているような気もする。
「……どちらも、暗く落ち込んだ私をすくい上げてくれた方で――」
エリスの顔色を伺いつつ、朗読を続けるアルブレヒト。
騎士階級の家に生まれ、ゼニスとリーリャという2人の母がいる彼は一夫多妻制に理解がある方だ。しかし、実際に兄が一夫側、友人が多妻側になるとなれば話は別だ。
(気まずい。すごく、気まずい。)
エリスが、兄――ルーデウスのことを心から愛しており、彼のために長い研鑽を積んできたことは重々承知していた。
だからこそ、ルーデウスとエリスには添い遂げて欲しかったし、自分にできることならシルフィに次ぐ二人目の妻として推挙するつもりではあった。実際に会いに行けるかどうかは置いておいて、そのくらいの気持ちではあった。
「エリスが本当に、以前と変わらぬ気持ちでいてくださっているのなら。私と結婚し、私と一緒に暮らしたいと思ってくださっているのなら。私には受け入れる準備があります……」
しかし、しかし!
なぜか、兄には既に二人目の妻がいた!
誰だ、誰なんだ。リニアか?プルセナか?会ったことはないが、仲が良いと聞くサイレントだろうか。いや誰でもいい。そんなことは今関係ない。
どうして兄はあのできた妻であるシルフィで満足できなかったのだろうか。傍から見てもあの二人は仲の良い夫婦で、間に入るものなどないと思っていたのだが…
「エリスにとっては不本意でしょうが、今の二人と別れるつもりはないため、三番目の妻という形になり…ます……」
あまりに衝撃的な文言を、ギシギシとロボットのように朗読するアルブレヒト。
なんてことを言うんだこの兄は。エリスのことをなんだと思っているのか。
「もし不本意であり、どうしても許せないというのなら、私にはあなたの拳を受ける覚悟があります。2〜3発で勘弁してもらえればな、と思っています…」
死ぬまで殴られるか、一発も殴られないかの二択だろうな、となんとなくアルブレヒトは思った。特に理由はないが、そう思った。
「以上です。ルーデウス・グレイラットより…」
冷たい風が、剣の聖地に吹いた。
エリスは、ただ腕を組み、空を見上げていた。
「な、なんて酷い男なんですか!既に二人も妻がいる時点でおかしいのに、三人目として仕方なく引き取ってあげますよというこの態度!エリスを舐めているとしか思えません!どういうことなんですか、アルブレヒトさん!!」
「兄さん………嘘だろ……………」
イゾルテに詰め寄られるアルブレヒト。
別にアルブレヒトが悪いわけではないのだが、怒りの行場がそこにしかなかった。
「ちょっとやめなさいよ、アルブレヒトが悪いわけじゃないでしょ。それに、手紙もかなりエリスに配慮して書いてあると思うけど?」
「配慮!?三番目のどこが配慮してるんですか!!」
ニナとイゾルテが揉め始める。
そもそもルーデウスの上から目線が気に入らない、いやほったらかしにしたエリスにも責任がある、いやいやエリスの剣術の腕や身体が目当てなのだ、いやいやいや流石にそれはリスクが高すぎる……
言い争いは加熱していき、収まる気配がない。
レイダはそんな弟子たちの姿を見ながら呆れたようにため息をつき、ギレーヌは難しい顔をして唸っていた。
エリスは空を見上げたまま動かない。
その瞳には、何も映っていない。
空と同じく、エリスの心は不思議と凪いでいた。
「あ…すまん。もう一枚あった」
そこで、アルブレヒトが封筒のなかにもう一枚の手紙が入っていることに気づく。
そのまま開き、朗読する。
「――追伸。私はこれから、龍神オルステッドに戦いを挑みます」
場が、再び凍りつく。
「勝てるかどうかはわかりません。この手紙が届いた時、私はすでに……この世、には…いないかも、しれません。
もし、生きて帰ってこれたら、話の続きをしま、しょう……」
読み切った時、アルブレヒトの顔は固まっていた。
ニナも、イゾルテも、レイダも、ギレーヌも固まっていた。
誰もが戦慄していた。
『龍神』オルステッドに戦いを挑む。
その重さを、その意味を知らぬ者はここにはいない。
だが、エリスだけは違った。
エリスの口元には、笑みが浮かんでいた。瞳には闘志と狂気の炎。
「急がないと、遅れちゃうわね」
そう言うと、エリスは馬に飛び乗った。
「行くわよ、アルブレヒト!」
エリスの声がアルブレヒトを打ち据える。
「……っ!!」
答えようとした。
もちろんだと。
兄さんを助けに行くのだと。
オルステッドを打ち破るのだと。
『忘れちゃ駄目だよ。君が、呪われ人だってこと』
言葉が呪いとなる。
枷となって外れない。
今すぐ走り出したいのに、兄さんの元へ行きたいのに、身体が動いてくれない。
アルブレヒトは、ただ立ち尽くしていた。
「…………………」
それを見て、エリスは少し考えた。
「…………」
怖気づいた…わけがない。彼はそんなやつでは無いし、こんなところで怯えるならあの狂気の死と生を繰り返す修行をやり遂げられるわけがない。
それに、エリスは知っていた。
自分が剣王になった日、神の位が動いたことを。
「あんた、剣神に勝ったんでしょ」
場の空気が止まった。
「……え?」
ニナが固まる。
ギレーヌも目を丸くする。
イゾルテは思わずエリスとアルブレヒトを見比べた。
レイダだけが、当然だ、というように素知らぬ顔をしていた。
「…どうして、それを」
「庭に刺さってた『喉笛』。あれを見ればわかるわ」
剣士の魂である自らの剣。
それを地に突き立てたまま放置することなどあり得ない。
誰かに、負けたのでもない限り。
「龍神を倒すためにここまで来たんでしょ?」
「…………」
答えられない。
このままでは兄さんが危険だ
心は今すぐにでも走り出そうとしていた。
オルステッドを倒すために。
兄を守るために。
そのために俺は剣神を倒したはずだ。
そのために俺は神級になったはずだ。
なのに、足だけが動かなかった。
「………」
エリスは何かを言いかけた。
だが、何も言わなかった。
手綱を握り直し、そのまま馬首を返す。
「行くわよ、ギレーヌ!」
そう叫び、馬を走らせる。
馬は雪を蹴飛ばしながら走り、ギレーヌがそれを追った。
白い雪煙が舞う。
やがて、二人の姿は見えなくなった。
アルブレヒトは、ただ、それを見送るしかなかった。
■
剣の聖地を吹き抜ける風は冷たかった。
乾いた雪が舞い上がり、足跡をゆっくりと埋めていく。
人の気配はない。遠くで木々が軋む音と、木剣が空を裂く音だけが、白く染まった山に響いていた。
アルブレヒトは一人、剣を振る。
振るって。
振るって。
ただひたすらに振り続ける。
だが、雑念が混ざる。
自分は何をしているのか。誰かを守るために強くなったのではないのか、龍神を倒すために強くなったのではないのか。
なのに、なぜ俺は今ここにいる。
どうしてエリスを追いかけていない。
どうして兄さんの元へ行かなかった。
どうしてまた、逃げて―――
「――やっ、どうも!」
その時、場違いなほど軽い声が、静寂を切り裂いた。
ぴたり、と木剣が止まる。
風が止み、舞っていた雪がゆっくりと地へ落ちる。
アルブレヒトは振り返った。
そこには、以前と何一つ変わらない、人懐っこい笑みを浮かべた男が立っていた。
「――師匠!?」
シャンドル・フォン・グランドール。
ジークフリートの――いや。
アルブレヒト・グレイラットの、たった一人の師匠。
降り積もった雪を踏みしめながら、シャンドルは以前と変わらない柔らかな笑みを浮かべていた。
「元気……ではなさそうですね」
白い息を吐き、困ったように笑う。
「それでも、久しぶりに会えて嬉しいですよ。ジークくん……いや、今はアルブレヒト、でしたっけ」
アルブレヒトは言葉を失う。
目の前の光景が現実とは思えなかった。
「……師匠。どうして、ここに」
「ん?」
シャンドルは気楽そうに頭を掻く。
「オーベール……ある門下生から、君が剣の聖地にいると聞きましてね」
にこりと笑う。
「気になって来ちゃいました」
その言葉が、胸に痛いほど染みた。
自分を気に掛けてくれる人が、まだいた。
そんな当たり前の事実すら、アルブレヒトは忘れかけていた。
「君はシャリーアにいるものだと思っていました」
風が吹く。
二人の間を雪煙が静かに流れていく。
「何があったんです?」
アルブレヒトは視線を落とした。
答えようと口を開く。
だが、声にならない。
「……それ、は」
言葉が喉で止まる。
雪だけが静かに降っていた。
「シャリーアには戻らないのですか?」
長い沈黙。
「………俺には」
やがて、搾り出すように呟く。
「戻る資格が、ありません」
シャンドルは少しも驚かなかった。
まるで最初から、その答えを知っていたように。
「私は、そうは思いませんけどね」
「……師匠には、分からないですよ!」
その一言で、胸の奥へ押し込め、誰にも見せまいと蓋をしてきた感情が、堰を切った濁流のように溢れ出す。
怒りではない。
恐怖だ。
誰かを傷つけてしまう恐怖。
大切な人を失う恐怖。
そして、自分自身が何より恐ろしいという絶望。
「俺は、俺はいるだけで誰かを傷つけてしまう!」
声が震える。
息が乱れる。
喉が焼ける。
それでも止まらない。
「だから離れた!家族からも、仲間からも!」
拳を強く握り締める。血が滲むほど強く。
「俺が近くにいるだけで闇霊が現れる!誰かが傷つく!」
思い浮かぶ。
シルフィの血。
家族の悲鳴。
あの日、自分へ向けられたルーデウスの目。
忘れられるはずがなかった。
「だったら、一人でいるしかないでしょう!」
山々へ反響した声が、何度も何度も木霊する。
やがて、力が抜けたように肩が落ちる。
荒い呼吸だけが、白い雪原へ静かに溶けていった。
シャンドルは一度も遮らなかった。
否定もしない。
慰めもしない。
最後まで、ただ弟子の叫びを聞いていた。
やがて、小さく頷く。
「……そうですか」
静かな声だった。
雪が降る。
風が止み、世界から音が消えたようだった。
荒れ狂っていた心だけが、取り残されたように静かになっていく。
「辛かったですね」
その一言は、慰めでも励ましでもなかった。
ただ、苦しみをシャンドルは受け止めた。
それだけだった。
それだけなのに。
アルブレヒトの胸の奥で凍り付いていた何かが、小さく軋む。
張り詰めていた糸へ、初めて小さな緩みが生まれた。
シャンドルは急かさなかった。
ただ、弟子と同じ景色を見つめながら、穏やかに口を開く。
「ですが、一つだけ聞いてもいいですか?」
返事はない。
それでも構わないというように、シャンドルは続けた。
「一人になって、幸せになれましたか?」
アルブレヒトの肩がわずかに震える。
「家族を守れましたか?」
瞳が揺れる。
「笑えるようになりましたか?」
喉が詰まる。
「夜は、ちゃんと眠れていますか?」
夢の中で聞こえる悲鳴。
闇霊。
血に濡れたシルフィ。
ルーデウスの怒鳴り声。
「ご飯は食べてますか?」
どの問いにも答えられない。
雪の上へ視線を落としたまま、唇だけが小さく震えていた。
シャンドルは悲しそうに微笑む。
「あなたは、人を守るために強くなった人です」
その声は責めるものではない。
誇るような声だった。
アルブレヒトは顔を上げられない。
視界に映るのは、自分の足元へ降り積もる白い雪だけ。
そこへ、シャンドルは一歩だけ歩み寄る。
雪を踏む音が、小さく響いた。
「なのに今は、人から逃げるために強くなろうとしている」
剣神を倒した。
神級に届いた。
それほどの力を得てもなお、自分は家族のもとへ帰ることすらできない。
強くなったはずなのに、恐怖から逃げ続けている。
それが何よりの答えだった。
「それは……苦しいでしょう」
その一言で、また胸の奥が軋んだ。
責められているわけではない。
説教されているわけでもない。
ただ、誰にも言えなかった苦しみを。自分でも認めようとしなかった弱さを。師だけが、静かに言葉へしてくれた。
雪が降る。
二人の間へ、静かに、静かに。
長い沈黙が流れた。
やがてシャンドルは、いつもの調子で肩を竦めた。
「まあ、無理する必要はありませんよ」
いつものように、どこか力の抜けた笑みを浮かべる。
その笑顔は、あの日と何も変わっていなかった。
紛争地帯で初めて出会った時と。
毎日木剣を振り回しながら笑っていた時と。
免許皆伝を告げてくれた時と。
何一つ。
「帰りたくなったら、帰ればいいんです」
「家族というものは、案外、それくらい都合のいいものですから」
一見無責任なようにも見える。
シャンドルは、アルブレヒトの事情をすべて知っているわけではない。
呪いのことも、あやふやにしか知らない。
だが、ただ信じていた。
自分の自慢の弟子は、誰かを守り、幸せにできる男だと。
アルブレヒトはゆっくりと目を閉じる。
そして、笑い合った日々を。守りたかった人たちを思い出す。
剣を握ることの楽しさを教えてくれた父、パウロ。
どれだけ泥にまみれて帰っても、優しく抱きとめてくれた母、ゼニス。
自分を一人の人間として扱ってくれて、見守ってくれたもう一人の母、リーリャ。
泣き虫だけど頑張り屋で、いつも一生懸命な妹、ノルン。
賢く、生意気だけどまだまだ未熟な可愛い妹、アイシャ。
何度すれ違っても、何度離れても、帰りたいと思えるたった一人の兄。ルーデウス。
会いたい。
帰りたい。
守りたい。
胸の奥で、何かが音を立ててほどけた。
「……行きます」
静かな声だった。
「家族のもとへ」
一歩、前へ踏み出す。
「家族を、助けに行きます」
もう足は震えていなかった。
「もう、逃げたくありません」
「そうですか」
嬉しそうに、本当に嬉しそうにシャンドルが笑う。その笑顔は、これまで見たどんな笑顔よりも優しかった。
目尻には小さな皺が寄り、まるで、自分の息子がようやく家へ帰ると言ってくれたかのように。心の底から嬉しそうに。
「やはり、君は誰かを守ろうとしている時が一番かっこいいですよ!」
その言葉で。
アルブレヒトの迷いは、完全に消えた。
「ありがとう、ございます」
深く。
本当に深く頭を下げる。
そして踵を返した。
雪を蹴る。
一歩。
また一歩。
その足取りは、本当に軽かった。
「……がんばれ!」
思わずシャンドルが叫ぶ。
弟子へ送る、ただ一つの声援だった。
その声にアルブレヒトは立ち止まり、振り返ってまた一礼する。
「…行ってきます!」
それだけを告げる。
シャンドルは、すぐに柔らかく笑った。
「ええ、行ってらっしゃい」
その言葉を背に受けて、アルブレヒトは駆け出した。
その足取りに、もう迷いはない。
帰るべき場所へ。
守るべき人たちのもとへ。
もう二度と、逃げないために。