戦場は、荒廃していた。
森は薙ぎ払われ、大地は幾度となく魔術に焼かれ、黒く炭化している。
あちらこちらには巨大な鉄塊が転がっていた。
砕け散った魔導鎧。
腕、脚、装甲。
ルーデウス・グレイラットが最後の切り札として投入した鎧は、もはや原型すら留めていない。
焦げた金属の臭い。
血の臭い。
焼けた土の臭い。
それらが冷たい風に乗って漂っていた。。
中央には男が2人。
地に伏せ、両腕を切り落とされ、魔力が枯渇し髪が白く染まっている男――ルーデウス。
体中に傷を負っているが、両の足でしっかりと立ち、ルーデウスに刀を突きつけている男――『龍神』オルステッド。
どう見ても、ルーデウスは満身創痍だ。
もう勝ち目はない。それでも、彼はオルステッドの足にすがりつき、頭を地面にこすりつけて乞うように言った。
「お願いします。世界を滅ぼさないでください」
額が裂けるほど地面へ擦り付ける。
土と血と涙で顔が汚れても構わない。
「俺は殺してもいいです。俺の子供を、未来を、奪わないでください。お願いします。初めてなんです。あんなに幸せに思えたの、初めてなんです」
誇りなど、とっくに捨てた。
家族が助かるなら、そんなものはいくらでもくれてやる。
「お願いします。ヒトガミを、諦めてください。お願いします…」
涙を流して、無力で無様な姿を晒しながら、みっともなく懇願する。
「……それは、できん」
その言葉を聞いた瞬間、ルーデウスはオルステッドの足に噛み付いた。
「―――ふぐぅぅぅぁああ!」
噛みついたまま、切り落とされた右手を掲げ、魔術を繰り出そうとする。
刺し違えてでも、オルステッドを討つ。家族のために、守るべきもののために。
「
魔術はあっけなくかき消され、蹴り飛ばされるルーデウス。
意識が遠のく。本当に限界だ。
オルステッドがゆっくりと近づく。
ルーデウスの頭に、様々な感情が浮かぶ。
負ける。
殺される。
殺されたら、どうなる?
俺の、家族は。
ルーシーが、シルフィが、ロキシーが…
死ねない。こんなところでは死ねない。
まだ、まだ生きなければならない。
アルブレヒトに繋いでもらった命を、こんなところで失うわけにはいかない。あいつの帰る場所を、守らなければいけない。
帰ってこないかもしれないなんて、どうでもいい。俺は守り続けなければいけない、家族を、あいつの帰る居場所を、幸せを。
でも身体は動かない。
魔力はとうに枯渇した。
腕から流れる血は止まらない。
意識は朦朧として、目の前がチカチカする。
オルステッドの手が、視界を覆う。
あ、あ、ああ。
やめて、やめて…
誰か。
誰でもいい。
助けて。
誰か。
誰か―――
■
そして。
最初は小さな風だった。
だが、一瞬で
土煙が舞い上がる。木々が唸る。雲が裂ける。戦場すべてが、何かの到来を告げるように震えた。
オルステッドがぴくりと反応し、動きを止める。
遥か彼方から、凄まじい勢いで迫る何かを感じ、飛び退く。
轟音。
大地が爆ぜる。
白銀が俺とオルステッドの間に割って入る。
衝撃で土煙が舞う。
その中心にいたのは、騎士だった。
玉葱のような鎧をつけた、白銀の騎士。
古びた大剣を手に持ち、堂々と立っている。
後ろ姿だけで、正面は見えない。
だが、知っている。ルーデウスは、この背中を知っている。幼いころから、何度も守ってもらった。
「よく、頑張った」
血に濡れたルーデウスの前に、影が落ちる。
騎士が少しだけ振り向き、スリットの奥から、懐かしい青い瞳と目が合う。
「あとは任せろ」
アルブレヒト・グレイラットが、立っていた。
嵐を背負って。
■
アルブレヒトはストームルーラーを抜き、オルステッドと相対した。
それから数瞬遅れて、五人の人影がルーデウスのもとへと駆けつける。
「ルーデウス!」
先頭を駆けるエリス。
その後ろにはロキシー、シルフィ、ギレーヌ。
そして――。
「ア、アル……?」
掠れた声だった。
「アルなのか……!?」
パウロだった。
まるで亡霊でも見たかのように目を見開き、その場で足を止める。
父の目に宿るのは困惑と、信じ難いものを見る色。
「父様」
一瞬だけ、視線を向ける。
懐かしい顔。
白髪の増えた父。
その姿を、確かに見る。
「……今は、後にしましょう」
それだけ言って、前を向く。
振り返らない。
振り返れば、揺らぐと分かっているから。
「エリス、一生の頼みだ。ここは譲ってくれ」
「――――ッ!!」
激怒しそうになるエリス。
今ここに至るまで、幾度積み重ねてきたのか。何度鍛錬してきたのか。
血が滲むまで木剣を握り。骨が軋むまで鍛え。何度倒れ、何度立ち上がってきた。
全部、この日のためだ。
ルーデウスを守るため。今度こそ誰にも奪わせないため。
それを、譲れ?
あり得ない。
―――だが、同時にわかってしまう。
埋まらない力の差。
神級という隔絶した強さ。
アルブレヒトはそこにいる。
エリスはそこにいない。
「頼む。やっと、答えを見つけられたんだ」
その言葉に、エリスは唇を噛む。
歯が軋むほど強く。
「…………………ふん」
長い沈黙の末、不満そうに鼻を鳴らす。
「………貸しよ」
低く、ぶっきらぼうに言う。
「大きな、大きな、貸し」
その声音は乱暴だった。
けれど、それがエリスなりの信頼だった。
「…ありがとう」
エリスは拳を握る。
悔しさで、指先が白くなる。
それでも背を向けた。
エリスとギレーヌがルーデウスを抱え、後ろに下がる。
「ルディ!」
ロキシーとシルフィ、パウロが駆け寄り、血に濡れたルーデウスを抱き留める。
「ルディ、しっかりしてください!」
「大丈夫……もう、大丈夫だから……!」
震える手で傷口を押さえ、必死に治癒魔術を紡ぐ。
淡い光が傷口を包む。
だが、失われた腕は戻らない。
流れ出る血だけでも止めようと、二人は震える指先に魔力を込め続けた。
パウロは息子の肩を支えたまま、目を離せない。
ギレーヌも剣へ手を添えたまま、一歩も動かなかった。
エリスは唇を噛み締める。
飛び出したい。
自分が戦いたい。
それでも足は動かない。
誰もが理解していた。ここから先は、自分たちが踏み込める領域ではないと。
その向こうでは。
白銀の玉葱騎士と龍神が、静かに向かい合っていた。
風が止む。
まるで森全体が息を潜め、二人だけを見つめているかのようだった。
やがて、オルステッドが口を開く。
「二度目だな。ジークフリート」
「………違う」
アルブレヒトは兜の奥から真っ直ぐ龍神を見据えた。
「俺は、アルブレヒト・グレイラット。ルーデウス・グレイラットの、弟だ」
「そうか」
会話が途切れる。これ以上は必要ないと、お互いが思った。
オルステッドは神刀を左手に持ち、右手を構える。
神刀は、抜かない。
それでも十分だと言わんばかりに。
龍神の金色の瞳は、一切揺らがない。
対するは、アルブレヒト。
ストームルーラーをゆっくりと握り直す。
風が集まり始める。嵐が低く唸る。
まるで主の闘志に応えるように。
枯葉が舞い上がり、空中で粉々に裂ける。
森の空気が、鉛のように沈む。
一瞬の沈黙。
そしてオルステッドは、光を置き去りにした。
剣神流奥義『光の太刀』。
踏み込みは知覚できない。
振り抜く様も、迫る様も、何もかも。
結果だけが現れる。
光が走る。
空間が裂ける。
本来、誰であっても防御不能。回避不能。
龍神の技巧が極限まで研ぎ澄まされた必殺。
しかし。
(それは、もう見た)
嵐が吼える。
ストームルーラーが歓喜するように唸る。
光が到達する、その刹那。
風が
手刀と嵐が触れ合う。
衝突ではない。
分解。圧縮された斬撃を、風が繊維のようにほどいていく。
光が、裂けた。
一筋だった閃光が無数の風に食い千切られ、霧散する。軌道を失う。
必殺の太刀が、弾かれた。
大きく体勢を崩すオルステッド。
驚愕。
ほんの僅か。
だが確かに、表情が揺らいだ。
その一瞬を、アルブレヒトは逃さない。
受け流した力を、逆流させる。
嵐が牙を剥く。雷が、呼応する。
ストームルーラーを中心に、暴風が渦を巻き、空に至る。
雲が引き裂かれ、雷光が引きずり出される。
一瞬で、雷光が嵐の中心へ収束する。
圧縮。凝縮。限界まで。
「ぜあああぁッッッ!!!!」
父、ジークバルトにはない、ジークフリート――アルブレヒトだけが到達した、ストームルーラーの新たな境地。
風と雷を融合させた、破壊の奔流。
雷を喰らった暴風が、白く輝く。
空気が焦げる。
地面が割れる。
木々を粉砕し、森が一直線に消し飛ぶ。
雷嵐が、龍神へと迫る。
轟音。
閃光。
衝撃。
森が放射状に薙ぎ払われる。
地面が裂ける。
地層がむき出しになる。
龍聖闘気が軋む。
大気が震える。
「ぐ……っ!」
オルステッドは、渾身の力を込めて踏みしめる。
足元の地面が陥没する。
雷を呑み込み。
嵐を押し返す。
衝突点が爆発する。
二人の間の地面が消し飛び、巨大なクレーターが生まれる。
衝撃波が森を走る。
数百メートル先の木々がまとめて薙ぎ倒される。
アルブレヒトの身体が後方へ弾かれる。
しかし着地。
嵐は消えていない。
即座に敵を見据えるアルブレヒト。
オルステッドの腹部が、裂けている。
ルーデウスが刻んだ傷口が再び開き、そこへ嵐の刃が抉り込まれた。皮膜が剥離し、深い傷跡から血が流れ出ている。
雷が体内で暴れ、神経を焼く。
龍聖闘気が、乱れる。
オルステッドの口元から、血が一筋零れる。
それでも、膝は折れない。
最強と、最凶。
視線が交差する。
嵐が再び吼える。
アルブレヒトが踏み込む。
地面が爆ぜる。
森を薙ぎ払った暴威が、再び一点へ収束する。
オルステッドはゆっくりと、神刀の柄に指をかけた。
構える。
静かに。
音もなく。
その瞬間、空気が変わった。
嵐が、わずかに“後退”する。
龍神の気配が膨れ上がる。
重い。
世界そのものが、オルステッドの側に傾いたかのような圧。
アルブレヒトは歯を食いしばる。
踏み込む。
「まだだァッ!!」
嵐と雷が奔る。
神刀が、振られる。
今度も“見えた”。
刀と剣の切っ先が交わる。
先ほどと同じくまた逸らし――
重い。
疾い。
逸らしきれない。
嵐を引き裂き、神刀が鎧を裂く。
肩口から血が飛ぶ。
浅い。
まだやれる。
また神刀が迫る。
もう一度。
次は力を込めて、刀身をぶつけ合う。
雷を孕んだ暴嵐が、神刀と鍔迫り合う。
激しく、けたたましい音を立てるストームルーラーに対して、神刀は静かだった。
嵐が、破壊の具現が、オルステッドの身体を削ろうと迫るが、神刀はただ静かに佇み、嵐を裂き続ける。
逸らしきれない暴嵐がオルステッドの体を薄く割くが、それだけ。揺るがない。
ゆっくりと、鍔迫り合いが動く。
ストームルーラーが、押し込まれる。
形勢不利を悟ったアルブレヒトが鍔迫り合いを逸らす。
だが、逸らしきれずに足を切り裂かれる。
血が弧を描く。
また、浅い。
浅いが、確実に削られていく。
幾度も剣が交わり、嵐と龍が交差する。
ストームルーラーが唸るたび、風が裂ける。
神刀が振るわれるたび、空間が歪む。
激突。
雷が走る。
龍聖闘気が爆ぜる。
一合。
二合。
三合。
十合。
二十合。
三十合。
数える余裕は、すぐになくなった。
どちらも退かない。
その度に両者は傷つき、血を流す。
嵐の刃がオルステッドの肩を裂く。
龍神の一太刀がアルブレヒトの脇腹を抉る。
だが、オルステッドの傷は浅い。
対してアルブレヒトは、確実に肉を削がれていく。
息が荒くなる。
血が鎧の隙間から滴る。
それでも剣は止まらない。
少しずつ。だが確実に、アルブレヒトは押し込まれていった。
一歩。
また一歩。
踏み込みの力が違う。
剣圧が違う。
オルステッドの剣は、重い。
技ではなく、力でもなく、ただ純粋な「格」が違う。
オルステッドが負う傷より、アルブレヒトが負う傷の方が深く、多い。
その差はじっくりとアルブレヒトを追い詰めていく。
血が地面に落ちる。
呼吸が乱れる。
視界がわずかに霞む。
「ガアアアアァァ!!!」
だが怯まない。
死ぬまで。死んでも。退かない。
ルーデウスを、家族を、今度こそ守る!
ストームルーラーが強く、強く応える。
大地を引き裂き、雲を断ち、雷が地から空へと迸る。
―――ずるり。
嫌な感触。
確かに叩き込んだはずの衝撃が、空を切る。
水神流。
刹那。神刀が、瞬く。
音がない。
触れた感覚すら曖昧なまま――神刀が、アルブレヒトの左腕を飛ばす。
熱。
遅れて、激痛。
(だから、なんだ?)
そんなものは、無視しろ。
まだやれる。まだ。
この瞬間に全て賭ける。
自分の全てをここに投じる。
まだ右腕が残っている。
ストームルーラーは握ったままだ。
まだだ。
こんなところで、負けられない!
「ッッオオオ゛オ゛オオオオ!!!!!」
嵐を編む。
何もかもを吹き飛ばし、切り裂き、打ち倒すための嵐を。
脚に力を込める。
視界の向こう。
龍神がいる。
「……………まだ、やるか」
「無論ッ!!!!!」
守る。
今度こそ!
必ず!!
「お、ぉ……ああああァァァァッ!!」
血を吐きながら踏み込む。
龍神が構える。
神刀が、静かに持ち上がる。
嵐が、再び吠える。
神刀が煌めく。
嵐の中をくぐり抜け、刀身がアルブレヒトに迫る。
左腕を失ったアルブレヒトでは、それに対応できなかった。
「―――――」
神刀が、振り抜かれる。
遅れて風が鳴る。
白銀の首が宙を舞った。
世界が、一瞬だけ静止する。
「―――アルッッッ!!!!!」
ルーデウスの悲痛な叫びが木霊する。
ぼとり、とアルブレヒトの頭が落ちる。
がくん、と力を失い、アルブレヒトの身体が地に伏せる。
次第に身体は灰となり、消え去っていく。
「…………」
しかし、オルステッドは警戒を解かない。
まるで、戦いが終わっていないかのように。
風が吹く。
首を失った騎士の亡骸は、静かに崩れていく。
鎧が、肉が、骨が。
すべて灰へと変わり、音もなく風に溶けていった。
やがて、戦場からアルブレヒトという存在そのものが消える。
残ったのは、風に舞う灰だけだった。
誰もが息を呑む。
ルーデウスも、ロキシーも、シルフィも、パウロも。
その終わりを見届けた――その瞬間だった。
灰が、止まる。
風に流されていたはずの灰が、まるで意思を持つように空中で渦を描いた。
一粒。また一粒。
灰が騎士の輪郭を描いていく。
兜。
鎧。
肩当て。
白銀の騎士が、灰の中からゆっくりと形を取り戻していく。
そして最後に、スリットの奥で、青い瞳だけが静かに灯った。
まるで、最初から死など存在しなかったかのように。
騎士は一歩、踏み出す。
瞬間、風が爆ぜた。
灰を引き裂きながら、オルステッドの背後へと躍り出る。
一切の躊躇なく。
ストームルーラーが龍神の首を薙ぐ。
だが、神刀が、それを受け止めていた。
金属音が森を裂く。
オルステッドは振り返らない。
背後を見ることすらせず、神刀だけで斬撃を止めていた。
「チッ!!!!!」
舌打ちとともに、アルブレヒトが大きく飛び退く。
灰が尾を引く。
オルステッドもまた追撃しない。
ゆっくりと向き直る。
二人の間に再び距離が生まれる。
白銀の騎士。
最凶の龍神。
互いに視線を外さない。
「やはり、か」
小さく、息を吐くオルステッド。
「一つ聞く」
「なぜお前はそこまでして戦う」
「死を体験してまで、蘇ってまで」
「ヒトガミのためか?」
「―――違う。ヒトガミのためのわけがない」
「兄さんのためだ。家族のためだ」
「兄さんたちが、安心して暮らせるように!日々を安寧に過ごせるように!お前を、ここで倒す!!」
嵐が応える。
雷鳴が低く唸り、大気が震える。
「……………そうか」
これ以上の問答は無用。
ストームルーラーを構えるアルブレヒト。
オルステッドも神刀を構える。
二つの刃が、再び交差しようとした。
―――その瞬間。
「やめろっ!!!アルブレヒト!!!」
一瞬、すべてが止まった。
ルーデウスの、怒号のような、悲鳴のような、懇願のようなその叫びに。
「もう、やめてくれ…!二度も、お前を失いたくない……」
神刀が止まる。
血が落ちる音だけが、やけに鮮明だった。
ぽたり。
ぽたり。
風が止み、雷鳴が遠ざかる。
折れた木々が軋む音だけが森に残った。
誰も動かない。
誰も息をしない。
嵐が消える。
森を引き裂いていた暴威が、凪いだ。
先ほどまで滾りに滾っていたアルブレヒトの闘気は、ルーデウスの声を聞いてから嘘のように萎びていた。
「兄、さん…」
アルブレヒトの手から、ストームルーラーがわずかに傾く。
握っているが、振らない。
振れない。
オルステッドの金色の瞳が、静かにこちらを見ている。追撃はない。ただ、選択を待っている。
アルブレヒトの喉が震える。
(立て)
騎士なら。
(抗え)
父なら、そうした。
脳裏に焼きつく背中。
ジークバルト。
血に塗れ、満身創痍でもなお立ち続けた男。古き友との約束を果たすために、最後の最後まで剣を握り続けた男。
誇りだった。
ああなりたいと、心から思った。
死んでも戦う。亡者になっても剣を振るう。
それが騎士だと。それが、父だと。
なのに。
「一緒に帰ろう、アル…」
その言葉が、刃より深く刺さる。
兄の顔が見える。
震える声。歪んだ表情。必死に手を伸ばす姿。
二度も失いたくない、と。
「……もう、いい」
いつも冷静で、計算高くて、頼りがいのある兄。
そんな兄が、顔をぐしゃぐしゃにして、泣きながら懇願していた。
「もう、いいんだ」
「…………………兄さん」
(兄さんに、こんな顔をさせているのは…俺だ)
(俺が死ねば、兄さんはまた、あの顔をする)
胸の奥が軋む。
騎士失格だ、と誰かが囁く。敵に膝を折るなど、誇りを捨てるも同然だ、と。
だが。
(兄さんが泣くのは、耐えられない)
その想いもまた、嘘ではない。
剣が、重い。
これまでなら、誰に止められようと振り払った。 例え兄でも。例え家族でも。
死ぬまで。死んでも。
だが今、膝が折れる。
アルブレヒトは、ゆっくりと頭を垂れた。
戦場を破壊し尽くした嵐は、兄の一言で、止んだ。
「…ルーデウス・グレイラット!そして、アルブレヒト・グレイラット!」
低い声が森を圧した。
名を呼ばれた瞬間、ルーデウスの肩が跳ねる。
「俺は貴様たちがヒトガミに組する限り、逃しはしない! この場にいる全ての人間、町にいる全ての人間を皆殺しにしてでも、お前を追い詰めて殺す!」
脅しではない。
事実の提示。
ルーデウスの震えが強まる。
視線が落ちる。
アルブレヒトの指が、再びストームルーラーを握り直す。
嵐が、微かにざわめく。
「ヒトガミの言葉など信用しないが……ヒトガミが本当にお前の言った言葉を吐いたのであれば、お前を殺した上で、お前の子供を拐かす!」
空気が凍った。
その瞬間。
ルーデウスの震えが、止まる。
ゆっくりと、顔を上げる。
瞳に宿るのは、恐怖ではない。
怒りと、殺意だ。
アルブレヒトが一歩前へ出る。
しかし。
「だが、お前たちには利用価値がある!」
「ヒトガミを裏切って俺に付け!」
「…!?」
「そうすれば、俺に奇襲を掛けた件は水に流し、お前たちの怪我も治療しよう!」
「……」
ルーデウスは気づく。
その声音の奥に、硬い何かが混じっていることに。
焦燥。
わずかな、切迫。
喉の奥の震え。
「俺の……龍神の加護を得れば、ヒトガミもそう安々と貴様たちに手は出せんはずだ」
ルーデウスとアルブレヒトの瞳には、懐疑と迷いの光があった。
「今、この会話も、奴には届いていまい!」
「……」
「もし、お前たちが嫌々ヒトガミに従っているのなら、悪い話ではないはずだ!」
「…………」
「選べ! ルーデウス・グレイラット!アルブレヒト・グレイラット!
ヒトガミに付き、俺の手で全てを失うか!
俺に付き、共にヒトガミと戦うか!」
3人の視線が絡む。
ルーデウスはゆっくりと息を吐いた。
何かを確かめるように、じっとオルステッドの顔を見た。
表情の奥にある真実を見ようとした。
何も、見えなかった。
だが、ルーデウスは、よろよろとロキシーの手を離れた。
倒れそうになりながら、ゆっくりと歩き、ギレーヌの肩にすがり、よろめいてシルフィに支えられ、エリスの脇を抜けて、パウロに手助けされ。
アルブレヒトは動かない。
ただ兄の背を見ている。
そして、ルーデウスはオルステッドの足元へと倒れこんだ。
両膝をついたまま、オルステッドを見上げる。
「……本当に」
声が掠れる。
「ヒトガミから、家族を守れる方法があるんですか」
「ある!奴は強大な未来視を持つが、全てが見えるわけでも、全知全能なわけでもない」
「その方法は、絶対に、絶対に、大丈夫なんですか?」
「……絶対ではない。俺も、奴の力を全て把握しているわけではない」
言い切らない。
約束しない。
安心も与えない。
それでも嘘はない。
ルーデウスの目に涙が滲む。
恐怖か。悔しさか。安堵か。
自分でも分からない。
だが、決断だけは、揺らがなかった。
「……俺は、あなたの下に付きます。助けてください」
その言葉が落ちた瞬間、森が静まり返った。
風が止む。
鳥の羽音すら、ない。
アルブレヒトは兄の背を見た。
膝をつき、頭を下げるその姿。
家族のために、膝を折っている。
胸が、締め付けられる。
(これでいいのか)
騎士失格だ、と心のどこかが吠える。
敵に膝をついた。しかも、自分たちを圧倒し、斬り伏せた男に。
父ならどうした。ジークバルトなら。
きっと立ったまま死んだ。
頭など下げなかった。
――だが。
(父は、帰らなかった)
その事実が、重くのしかかる。
アルブレヒトの握った拳が軋む。
誇りのために死ぬことと、守るために生きること。
どちらが正しい。
どちらが強い。
わからない。
だが、兄は、生きる道を選んだ。
自分を守るために。
家族を守るために。
(なら――――)
アルブレヒトは、ストームルーラーを地に突き立てた。
嵐は起きない。
ただ、深く息を吐く。
そして、兄の隣へ、歩く。
オルステッドの前に立ち、膝をついた。
頭を垂れる。
屈辱が、焼けるように熱い。
だが逃げない。
目を閉じない。
地面を見つめながら、言う。
「……俺もだ」
声が低く震える。
「兄さんと、同じだ」
騎士であろうとする自分が、叫ぶ。
それでも。
アルブレヒトは顔を上げた。
「あんたの下につく」
真正面から、龍神を見据える。
金色の瞳。
底の見えない、深淵。
怒りも。哀れみも。優しさも。
何も見えない。
ただ、使命だけが燃えている。
その異様さに、背筋が冷える。
この男は、世界を殺すことも、本気でやる。
町ごと、皆殺しにすると言った。あれは脅しではない。
事実だ。だからこそ。
(この男は、本当にヒトガミを殺す気だ)
狂気とも言える殺意。
神を殺す。
それほどの覚悟。
それだけは、本物だと信じられた。
アルブレヒトは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「中途半端はしない」
まるで、騎士の誓いのように。
「俺は、あんたの剣になる」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥で、何かが軋んだ。
父を裏切った気がした。
だが同時に、兄の背が、少しだけ軽く見えた。
オルステッドは二人を見下ろし、わずかに目を細めた。
「……いいだろう」
短い言葉。
だがその瞬間、空気が変わる。
圧が、少しだけ和らいだ。
その日。
森は半壊し、大地は抉れ、空は裂けていた。
戦いは、選択という形で終わった。
龍神は配下を得た。
そして一人の騎士は、誇りよりも守るべきものを、選んだ。