ヘルカイトがグレイラット家の守護魔獣になってから、一週間が過ぎた。
とはいっても、守護魔獣になったからといって、ヘルカイトが何かを積極的に守るようになったわけではない。
昼間は庭の一角で大きな体を丸め、日向ぼっこをしている。時折、思い出したように翼を広げて空へ飛び立つこともあるが、それ以外はほとんど寝ている。
庭に赤竜がいる。
普通ならば、それだけで大騒ぎになりそうなものだ。
しかし、グレイラット家の面々はすっかり慣れてしまっていた。
ゼニスが近づけば、片目だけを開ける。
ルーシーが恐る恐る手を伸ばせば、面倒くさそうに鼻を鳴らす。
エリスが背中を撫でようとすれば、鬱陶しそうに尻尾を動かす。
嫌がっているようにも見えるが、本気で嫌ならば、そもそも近づかせないだろう。
少なくとも、グレイラット家の人間を敵として扱っている様子はなかった。
そして何より、アルブレヒトが家に帰ってくると、ヘルカイトは決まって顔を上げる。
大きな瞳が、門のほうへ向く。
やがてアルブレヒトの姿を見つけると、のそりと立ち上がる。
ずしん。ずしん。
巨大な体が揺れるたび、地面が僅かに震える。
そして、家の前まで歩いてきたアルブレヒトを出迎えるのだ。
それを見たアルブレヒトも、どこか嬉しそうにヘルカイトの首を撫でる。
その様子は、まるで主人を出迎える番犬――というより、帰ってきた友を出迎える友人だった。
ちなみに、グレイラット邸を中心とした半径三キロほどの範囲は、いつの間にかヘルカイトの縄張りになったらしい。
その結果、以前まで庭先を我が物顔で歩いていた野良猫たちは、一匹残らず姿を消した。
■
ところ変わって、アルブレヒト、ルーデウス、ザノバ、クリフは男たちだけで酒場に集まっていた。
赤の大鷲亭、というその酒場はクリフが選んだ上品な店で、彼らが集まったのも個室だった。
それぞれが丸いテーブルを囲むように座り、各々ジョッキを掲げる。
「では、アルブレヒト先生の帰還を祝って、乾杯!」
「「「乾杯!」」」
四つのジョッキが、軽い音を立ててぶつかる。琥珀色の液体が波打った。
それぞれ酒を口にする四人。
「いや、本当にめでたいですな、今夜は飲み明かしましょうぞ!」
「ほどほどにな、今日はいろいろ話すこともあるんだし…」
「話すこと?」
「ああ。…いきなりだが、ここ最近のお前の行動についてだ」
その一言で、先ほどまで酒で緩んでいた空気が、僅かに引き締まった。
「ルーデウス、アルブレヒト、龍神の軍門に下ったらしいな」
「……師匠」
ザノバも身を乗り出した。
いつもの大声ではない。
珍しく、少しだけ困ったような表情を浮かべている。
「余は師匠が何をしても、それについてゆくつもりであります。しかしながら、最近の師匠は秘密主義がすぎるのではありませんかな?」
「そうかな?」
ルーデウスは、いつも通りの顔で酒を飲んでいる。
自分が責められているという自覚が薄いのか。
あるいは、単純に気にしていないのか。
ザノバはそんなルーデウスを見て、さらに眉間に皺を寄せる。
「そうですとも!」
そして、溜め込んでいたものを吐き出すように口を開いた。
「唐突にあんなすさまじい鎧を作らせたと思ったら、途中からやけに詳しい技術をいくつも言い出し、挙句、何と戦うのか最後まで秘密にしていると思ったら――」
ザノバがテーブルを軽く叩く。
「相手は、あの七大列強の龍神オルステッド!」
拳を握る。
「しかも、師匠が本気で戦ったせいか、森がひとつ、消滅していたではありませんか!」
「いや消えたのは俺だけのせいじゃなくて…アルもやったというか」
「まあ、そうですね。森には悪いことをしました」
私がやりました、反省も後悔もしていません、みたいな顔で酒をあおるアルブレヒト。
「そこはどうでもよろしい!それよりも、あのような悪鬼の軍門にくだるなどと……」
「悪鬼って…言い過ぎだろ」
苦笑するルーデウス。
「そんなことはありません!」
ザノバは勢いよく立ち上がりかけ――個室だということを思い出したのか、途中で腰を下ろした。
「先日、その姿をこの目で見ただけで、奴が敵であると確信しました!」
「ん?見たら…?見る前は違ったのか?」
「む……」
ザノバの口が止まる。
腕を組み直し、真剣な顔で考え込む。
「言われてみれば……」
「だろ?」
「奴と相対する前は、師匠が悲壮的な顔をしていなかったゆえ、大丈夫なのかと思っておりました」
「じゃあ、やっぱり……」
「ですが!」
ザノバが勢いよく顔を上げた。
「会えばわかります!奴は悪魔です!」
「話が戻ったな……」
ルーデウスは額を押さえた。
つい先日、ザノバがオルステッドに遭遇して眠らされたことを思い出す。この態度が呪いのせいなのはわかるが、会うまでは発動していなかったようだ。
そういえば、ノルンやアイシャはオルステッドと直接会ったことがない。だからなのか、二人がオルステッドに対して特別な恐怖を抱いている様子はなかった。
やはり、直接会うことが呪いの発動条件なのだろうか。そんなことを考えていると、ザノバが重々しく口を開いた。
「あんな者に仕えるなど、正気の沙汰とは思えません……」
ザノバは信じられない、というように首を降る。
「僕はオルステッドに会ったわけじゃない。だが、対面した人たちは揃ってオルステッドを危険視しているということは、そういうことなんだろう」
クリフが静かに口を開く。
「本当に大丈夫なのか、ルーデウス、アルブレヒト。君たちは、間違った方向に進んでるんじゃないのか?」
心配そうに二人を見つめるクリフ。
アルブレヒトは黙って酒を飲む。
ルーデウスは少し考えると、口を開いた。
「わかりません」
がくっ、と体勢を崩すクリフとザノバ。
「わ、わからないって…」
「わかりませんが、オルステッド様は家族を守る方法も教えてくれました。だからといって信用するわけではありませんが、現状裏切ったりする理由はありません」
「だが…」
「…わかりました、事情をお話します」
そうしてルーデウスは呪いのこと、ヒトガミという悪神に騙されてオルステッドと戦うことになったこと、だが和解し、許してもらう対価に配下となったことを説明した。
話が進むにつれ、クリフの表情は何度も変わった。
ザノバは黙って聞いている。
時折、難しい顔をしながら酒を口に運ぶ。
「余は信じませんぞ。あの男が配下を必要とするなどとは思えませぬ」
「うーん、ザノバもこう言ってることだし…」
ルーデウスがすかさず口を挟む。
「逆に考えてください。あのザノバが、人形にしか興味のないザノバが、他人に対してこうまで固執している。おかしいと思いませんか?これが呪いの効果ですよ」
「はっ、言われてみると……いや、でもザノバはお前の事となるとちゃんと考えてるし、あんまりおかしな相手だったら、そりゃ心配ぐらいするだろ」
見事な正論だった。ルーデウスも思わずむむむ、と唸る。
正攻法で彼らを説得するのは、どうにも難しそうだった。
そんな三人を見ながら、アルブレヒトは静かにジョッキをテーブルへ置いた。
「俺も、最初はそうだった」
アルブレヒトが、ぽつりと口を開いた。
「だが、奴を見て思うところはある」
「思うところ?」
「…俺も、呪いを持っているからだ」
場の空気がほんの少し落ち込む。
クリフとザノバも、口を挟もうとはしなかった。
「俺の呪いはオルステッドとは違う。だが、呪いというものが人の心を歪めることは知っている。俺を見ただけで恐れる者もいる。何もしていなくても、俺という存在そのものを危険だと思う者もいる」
過去が、僅かに脳裏をよぎる。
向けられた敵意。怯えた目。排斥された記憶。
アルブレヒトは、それらを振り払うように酒を一口飲んだ。
「だから、オルステッドが他人から恐れられていること自体は、仕方のないことと思っている」
「……それで、オルステッドを信用できると言うのか?」
クリフが問う。
「いや。俺は奴を信用していない」
「え?」
「少なくとも、何も知らずに信用できるほど、俺は愚かではない」
あまりにもあっさりと言われ、クリフが目を瞬かせる。
「じゃあ、なんで従うんだ?」
「兄さんを守るためだ」
即答だった。
ルーデウスが目を見開く。
「俺は兄さんを信じている」
「兄さんが選んだ道なら、俺はその道を歩く」
「そして、もしその道が間違っていたなら――」
「その時は、俺が兄さんを守る」
「………!!」
ルーデウスは、しばらく何も言えなかった。
アルブレヒトは、オルステッドを信じているわけではない。
それでも、自分を信じて、その選択についてきている。
――なんだか、少しだけ嬉しかった。
「……そこまで言うなら。僕は、もう何も言わない」
クリフが小さく息を吐いた。
完全に納得したわけではない。
それでも、アルブレヒト自身が決めたことならば、それ以上口を出すつもりはなかった。
「ですが、師匠があの男の配下になるなど……」
しかし、ザノバはまだ納得できない様子だ。
「ザノバ」
「はい」
「俺たちは、友だろう?」
「もちろんですぞ!」
「なら、俺が自分で決めたことくらい、信じてくれ」
そう言って軽く笑うアルブレヒト。
ザノバは難しそうに顔をしかめると、腕を組んで唸り声をあげる。しばらくして、口を開く。
「……………わかりました。一旦、この件についてはお任せいたします」
「うん。ありがとう、ザノバ」
「そうだ、クリフ。オルステッドの呪いについても頼めないか」
「え?」
突然の頼みに、クリフが目を丸くする。
「嫌われる――いや、萎縮される呪いのせいで様々な弊害が起きている。お前にはたびたび苦労をかけるが、お願いできないか?」
クリフは顎に手を当てて考え込む。
「うーん、研究自体は問題ないが、オルステッド相手となると…本当に協力してくれるのか?」
「奴も呪いについては煩わしく思っているようだ。十分協力するだろう。それに、もしまた奴と戦うことになった時、他の仲間が萎縮していては勝負にならん」
「……なるほど」
クリフの顔から、不安が少しずつ消えていく。
「確かに、それなら研究する価値はある。二つも三つも変わらない、やってやろう!」
「頼んだ」
あまりにもあっさりと話がまとまった。
ルーデウスは思わず二人を見比べ、目をぱちくりとさせた。
こっそりアルブレヒトに話しかけるルーデウス。
「お前、口上手くなったな…」
「…兄さんほどでは」
兄弟は、顔を合わせて笑った。
■
こうして、オルステッドについての話はひとまず終わった。
重かった空気も、少しずつ元に戻っていく。
ちょうどその頃、料理も運ばれてきた。
焼いた肉の香ばしい匂い。
湯気の立つ煮込み料理。
そして、新しい酒。
卓上に料理が並ぶにつれて、先ほどまでの緊張も酒と一緒に流れていった。
「そういえば師匠、赤竜を家に迎えたそうですな」
「あー、うん。まあ一応…」
「ヘルカイトという。俺の友人だ」
「はー…赤竜を守護魔獣にするなんて、初めて聞いたぞ」
「……父様には最初、反対されたな」
「そりゃそうだろ!」
クリフが呆れたように笑う。
先ほどまでの重苦しさが嘘のようだった。
「それにしても素晴らしいですな!一度、観察させていただくことはできますでしょうか?」
「まあいいが、気難しいやつだから気をつけてくれ」
「もちろんですとも!」
ザノバは嬉しそうに頷いた。
目が完全に芸術家のそれになっている。
「そういえばお前、赤竜…ヘルカイトの身体を調べたことはあるのか?」
「ない」
「ないのか!?赤竜だぞ!?鱗の高い魔力伝導性、ブレスの元となる火炎袋、頑強な肉体…とても興味深い。ぜひ調べてみたいものだ」
「そういうものか」
アルブレヒトは酒を一口飲み、首を傾げた。
自分にとってヘルカイトは友人だ。
だが、クリフにとっては珍しい研究対象でもあるらしい。
そして、しばらくすると、今度はザノバが何かを大事そうに抱えてきた。
「見てください、余の新作人形です!」
「……これは誰だ?」
「ジュリです」
「似てないな」
「なっ!?」
「うーん、造形はともかく、表情が淡泊すぎるかな…」
ルーデウスも人形を覗き込みながら口を挟む。
「むむむ、どうにも上手くいかないのです」
「ザノバは、形を作ることばかり考えているんじゃないか?」
「?」
「人形というのは、顔だけで感情を表すものじゃないだろ?姿勢とか、手の位置とか視線、身体の向きとか。顔をいじる以外にもできることはあるよ」
「お、おおお!流石師匠です、やはりあなたは芸術を理解していらっしゃる!」
「ははは、それほどでもあるよ、ザノバくん……」
話が盛り上がる。酒が進む。料理が減る。笑い声が増える。
最初は四人とも、それなりに真面目に話していた。
だが、酒が回れば人間というのは単純なものだ。いつの間にか声は大きくなり、話題はあちらこちらへ飛び、誰かが話せば誰かが茶々を入れる。
「アル〜、お前また勝手にとんでもないことしたな。あーいうことをするなら事前に相談しろ!」
「まあまあ、師匠。結果的には上手くいったではありませんか」
「お前はアルの味方するな!」
ルーデウスがアルブレヒトに絡み、ザノバが笑いながらそれを諌める。
アルブレヒトは困ったように酒を飲むだけだった。
「ヘルカイト……家族が増えたんだな」
ふと、クリフが呟いた。
「ああ」
アルブレヒトも静かに頷く。
それだけの短いやり取りだった。
だが、クリフはジョッキを傾けながら、しばらくアルブレヒトを見ていた。
「……アルブレヒトは、本当に変わったな」
「そうか?あまり自覚はないが……」
「変わったさ」
クリフは笑った。
「以前のお前なら、何でも一人で抱え込んで、どっかに行ってしまっただろ?」
アルブレヒトは黙った。
言われてみれば、確かにそうだった。
自分一人でどうにかしようとして。
誰にも頼らず、誰にも弱さを見せず。
守るべきものが増えるほど、一人で戦おうとしていた。
「でも今のお前は、ちゃんと家族と暮らして、こうして僕たちとも酒を飲んでる」
クリフは少しだけ目を細めた。
「変わったよ」
アルブレヒトは、卓上に置かれた酒を見つめる。
そこには兄がいる。
友がいる。
家族がいる。
そして、自分が守りたいと思えるものが、いくつもある。
「そうか……」
小さく呟く。
「……そうかもな」
アルブレヒトは静かに笑った。
その笑顔は、以前よりもずっと穏やかだった。
■
その後も酒を飲み続け、店が閉店した後も酒だけを買い、宿屋の一室を借りて一晩中どんちゃん騒ぎをして楽しんだ翌日。
ルーデウスたちは二日酔いに苦しんでいた。
「うぅ〜…頭痛い……」
「おはようございます、兄さん」
「おお…アル、お前は大丈夫なのか…?」
「はい。昔から酒は強い方でしたので」
「すごいなあ……」
ルーデウスは死んだ魚のような目でアルブレヒトを見る。
「うっぷ……解毒魔術、使お……」
「余にも頼みます…」
「僕も使うか……」
そうしてルーデウスたちは解毒魔術で痛む頭を治療した。しばらくすると、顔色が戻ってくる。そして、宿屋で軽く朝食を取った後、四人は宿を出た。
「じゃあな、ザノバ、クリフ」
「師匠、先生、また飲みましょう!」
「今度は飲み過ぎるなよ〜?」
「それは兄さんにも言えることですよ」
「いやいや、ほどほどだったぞ!」
「どの口が言ってるんだ…」
そんなやり取りを交わし、ザノバとクリフと別れる。
そしてルーデウスとアルブレヒトは、家へ向かって歩き始めた。
「アル、本当に解毒魔術使わなくて大丈夫か?」
「はい、問題ありません」
「お前本当にすごいな。父さんも俺も酒そんなに強くないのに、お前だけ強いんだなあ…」
「…いえ、もしかしたら、父譲りかもしれません」
「え?どういうこと?」
「秘密です」
「えー?なんだよー、教えろよー!」
兄弟でじゃれ合いながら、帰路を進む。
すぐに家には着いた。しかし、なにやら騒ぎ声がする。
声の聞こえてくる方向に目を向けると、なにやら二人の人影が――ルークとエリスが会話をしている。いや、よく見ると一方的にルークがエリスに話しかけているようだ。
「…?エリ――」
「しっ!ちょっと待て、様子を見よう」
話しかけようとするアルブレヒトを遮り、物陰に隠れるルーデウス。アルブレヒトも疑問符を浮かべながらも兄に従って隠れる。
「ああ、こんなステキな方がこの町に来ていたとは!
あなたは素晴らしい。その美しく意思の強い瞳、その流れるような髪。
まさに天使……いや、この世に舞い降りた美の女神だ!
一目みた時から愛していました!」
すると、歯の浮くような口説き文句が聞こえてくる。
思わず顔をしかめるルーデウスに、さらに疑問符を増やすアルブレヒト。
「おっと、これは申し訳ない。申し遅れました。
私はルーク・ノトス・グレイラット。
アスラ王国の四大地方領主ノトス・グレイラットの次男です」
止まらないルーク。
エリスは黙って腕を組み、ルークを睨みつけている。
「できれば、あなたのお名前もお聞かせ願えませんか?
ああ、もちろん、家名など言いたくない場合は結構です。
どうか、美しいあなたのお名前を心に刻み、せめてもの慰めとしたいのです」
多分殴られるな、とアルブレヒトは思った。
「ああ、お名前は教えていただけないのですね。
では、せめて、その美しい御手にキスをする栄誉をお与えください。
それだけで、私は……」
ルークが腰を落とし、エリスへと手を伸ばす。その時、ルークの頭が、一瞬ブレた。
すぐにばたり、と倒れるルーク。ピクリとも動かない。
「………ふん」
そしてエリスは倒れたルークを足で蹴り転がした。
雪の上を二度、三度と転がっていく。
門の出入りの邪魔にならない場所まで移動させると、何事もなかったかのように家の中へ戻っていく。
「………」
「………」
揃って沈黙するグレイラット兄弟。
少し間を置いてから、ルークに近づく。
雪に埋もれた情けない姿を見ながら、ルーデウスが口を開く。
「アル、これ、死んでないか?」
「いえ、流石に手加減はしたでしょう、気絶してるだけだと思います」
「…………じゃあ、運ぶ?」
「…………うーん、まあ、仕方ないですね」
アルブレヒトはしゃがみ込み、ルークを抱き上げた。そのまま家へ向かう。
ルーデウスも後ろからついていく。
ただし、心なしか、ルークへ向ける視線が冷たい。
自分の妻を口説いた男なのだから、仕方がないと言えば仕方がない。
アルブレヒトはそんな兄の様子に気づいていたが、何も言わなかった。
■
「夢を見たんだ。赤い髪の天使の夢だ」
比較的早く、ルークは目を覚ました。
だが、まだ頭が正常に働いていないらしい。
「美しく、可憐ながらも力を感じさせる天使だった。まさに俺の理想とも言える天使で、その手にキスをしようとすると目が覚めたんだ」
「はあ……」
うつろな目で、よく分からない独り言をぶつぶつと繰り返している。
「落ち着いてください、ルーク先輩。赤い髪の天使なんていません」
「ああ……ルーデウスか……」
ルークはぼんやりとした顔でルーデウスを見る。
「なんで、ルーデウスがいるんだ?あれ、ここは……ルーデウスの家の中?さっきまで、門で、天使が……あれ?」
記憶が混濁しているらしい。
アルブレヒトは黙ってその様子を見ていた。
もう一回殴ったら直るかな。
そんなことを、何となく考える。
「あぁっ!」
突然、ルークが叫んだ。
ルーデウスとアルブレヒトが振り返る。
開け放たれた扉の向こうに、エリスが立っていた。
どうやら様子を見に来たらしい。
「ふん!」
エリスはルークを一瞥すると、鼻息を一つ。
そのまま居間へと戻っていった。
どうやら、一応気にはしているらしい。
「あっ、待ってくれ!」
ルークが寝台から飛び出そうとする。
「名前を、名前を聞かせてくれ!ついでに住所と、どんな花が好きかも!好みの男のタイプも!」
「落ち着いてください、ルーク先輩」
ルーデウスが慌ててルークの肩を掴む。
「彼女の住所はここです」
「なに!?」
ルークはルーデウスの肩を掴み返した。
「ルーデウス、お前の家にいるということは、お前の知り合いか!?教えてくれ、彼女はいったい何者なんだ!?」
「彼女はエリス・グレイラット。先日、俺の妻になってくれた女性です」
「なっ……妻だと……」
ルークが凍りつく。
「じゃあ、お前の女ってこと……か?」
「ええ、そうなりますね」
「そうか……」
「すいませんね」
反射的に謝るルーデウス。
だが、ルークは首を傾げた。
「なんで謝るんだ?」
「え?」
「こういうのは、早い者勝ちだろう?」
「まあ、そうですが……」
大きくため息をつくルーク。
「…そろそろいいか?」
ここまで完全に蚊帳の外だったアルブレヒトが口を挟む。
「今日は何の用で家に来たんだ?」
「はっ……!」
ここでようやくアルブレヒトに気づくルーク。
「七大列強第六位…『嵐神』……!」
「ん……まあ、そういうことになっているな」
大学では顔を合わせる程度。
それほど親しいわけではない。
だが、七大列強として名を知られているアルブレヒトを前に、ルークの表情から一気に緩みが引いていく。
「そ、そうだ。今日は頼みごとがあってきたんだ」
ルークは居住まいを正した。
「俺たちに……アリエル王女に、協力してくれないか?」
そうして話し出すルーク。
ルーデウスの魔術の腕、様々な実力者と交友を深める会話術、龍神と渡り合う戦闘能力。ルーデウスはアリエル陣営にとってとても魅力的な人材だった。
これまではシルフィに配慮して勧誘はしていなかったが、ペルギウスの支援をどうしても得られず、思い詰めたルークはグレイラット邸に直談判に来た、ということだった。
「もちろん、アルブレヒト殿の剣術の腕も高く評価しています。王竜王国での逸話をはじめとした武勇、龍神に傷をつけたその力、そして何より七大列強という称号。ぜひ私たちの仲間になってほしいのですが…」
「………前も言ったが、アリエル王女に仕える気はない」
アルブレヒトは以前、大学にいた頃にもアリエルから勧誘を受けていた。
アリエルのカリスマ性、人を率いる力、王としての器。それらは認めている。
だが、自分が仕えるべき主ではない。
アルブレヒトは、そう感じていた。
「そこをどうにか……お願いできませんか」
ルークが食い下がる。
「ルーデウス、お前も頼む」
必死だった。
「うまく言葉にはできないが……二人には『何か』を感じるんだ。武力や人脈、それだけじゃない。それにとどまらない『何か』を、お前たちは持っている」
その声に、先ほどまでの軽薄さはなかった。
「それを、ほんの少しだけでも……アリエル様に向けてほしいんだ」
必死に懇願するルーク。
アルブレヒトは考える。
同じ騎士として、思うところはある。
自分の主を王にする。そのために、自分の力を捧げる。その覚悟そのものは理解できる。
だが、自分にも守るべきものがある。
家族。そして、オルステッドのこともある。
今の自分が、何も考えずにアリエルの陣営へ加わるわけにはいかなかった。
「どうしても、どうしても。俺は、アリエル様を王にしたいんです」
ギラついた信念を、目から感じる。
ルークは本気でアリエルを王にしようとしている。そのためなら、どんな代償でも払うだろう。アルブレヒトは、そんな目が嫌いではなかった。
同じ騎士として、主を、大切なものを守り、支えようとする気持ちは理解できる。
だが、家族を二の次にしてまでそれに応えるか、と問われれば、それは否だった。
「少し、家族と相談させてくれ」
「…俺も、同じです」
二人がそう言うと、ルークは泣き笑いのような表情を一瞬作った。
そして、ふらりと立ち上がった。
「…………わかりました。無理を言って、申し訳ありません」
「いや……」
ルークはゆっくりと立ち上がった。
その肩は落ちている。
先ほどまでの勢いは、もうなかった。
「失礼します」
部屋から出ていく。
ルーデウスはそれを見て、慌てて立ち上がった。
「送ります」
「……ありがとう」
ルークの後を追って部屋を出ていく。
アルブレヒトは、その後ろ姿をじっと見つめていた。
ただの軽薄な男ではない。
少なくとも、あの目だけは本物だった。
主のためなら、自分の大切なものすら犠牲にする。
その覚悟をアルブレヒトは知った。
だからこそ、簡単には答えを出せなかった。