頑張ります
国境である赤竜の上顎を抜けた先。
一行は、深い森の中を進んでいた。
つい先ほどまで続いていた荒々しい岩山とは、まるで別世界だった。
どこまでも続く木々。太い幹を持つ大樹。空へ向かって伸びる枝。
幾重にも重なった葉が陽光を遮り、森の中には薄暗い影が落ちている。
風が吹くたび、ざわざわと枝葉が揺れる。
まるで森そのものが、何かを囁いているようだった。
地面は柔らかい。
長い年月をかけて積もった落ち葉が、馬の蹄や人の足音を吸い込んでいく。
それが余計に、不気味だった。
足音が聞こえにくい。
誰かが近づいてきても、気づくのが遅れるかもしれない。
待ち伏せには、これ以上ない場所だった。
最前線にエリス、ギレーヌ、アルブレヒト。続いて馬に乗ってルーデウスとシルフィ。それにアリエルとお付きのメイド2人が乗った場所が続き、最後尾にルークがつく。
そんな中、ルーデウスがある低木にマークがあるのを見つける。$のようなマークをしたそれは、オルステッドと事前に打ち合わせをしたものだ。
意味は、この先、待ち伏せあり。
アルブレヒトも気づき、振り向いてルーデウスと一瞬目を合わせる。
すると程なくして、一行の行く手を遮るように鎧姿の兵士たちが並んでいた。
「何用だ!」
ギレーヌの声に、兵士たちは答えない。
フルフェイスの兜により、表情は伺えない。
「…兄さん、警戒してください。オーベール殿はもう既に潜んでいるはずです」
「わ、わかった」
ルーデウスが馬から降り、周囲を警戒する。
アルブレヒトも奇跡"敵意の感知"を用いてオーベールを探すが、見つからない。
(…敵意の感知は闇霊のような殺意をむき出しにしている相手にしか通用しない奇跡。流石にオーベール殿には引っかからないか)
気配を消す技術。
敵の視界から消える技術。
そして、敵の意表を突く技術。
それに優れた男だった。
おそらく、こちらが警戒していることすら利用しているだろう。
北帝オーベール・コルベット。
剣の聖地で知り合った男。
そして今は、敵として自分たちの前にいる。
シルフィは馬に乗ったまま進み、凛とした声で宣言する。
「護衛術士のフィッツだ!
この馬車がアスラ王国第二王女アリエル・アネモイ・アスラのものと知っての狼藉か!どこの兵だ!名を名乗れ!」
「…………」
返事はなかった。
代わりに、兵士たちは剣を抜いた。
刃と鞘が擦れる音が森に響く。
それと同時に、森から続々と新しい兵士たちが現れ出る。
数は30近く。剣を持った者がほとんどだが、杖を持った者もちらほらといた。
「敵襲!」
その声と同時に、エリスとギレーヌが兵士たちに斬りかかる。
「うらあぁぁぁ!」
「ガアァァァ!」
凄まじい速さで斬り伏せられる敵兵。
敵も必死に抵抗するが、剣王二人相手には分が悪く、あっというまに数を減らしていく。
隙をついて迫りくる魔術も、ルーデウスとシルフィによってレジストされる。
戦況だけを見れば、こちら側が圧倒的に有利だった。
(…これは、囮だ)
そんな中、一歩引いた位置で戦場全体を警戒するアルブレヒト。
これが本命の攻撃であるわけがない。雑兵がいくら集まっても、こちらの戦力は打ち破れない。
すると、兵士たちの中から、三つの人影が前に出る。
一つは鏡のように輝く鎧を身に着けた小人族、二つは兎のような耳を持つ、ミルデッド族の双子。
「我が名は北王ウィ・ター!北神三剣士が一人!
『光と闇』のウィ・ターである!」
小人族の男、ウィ・ターが大声で名乗る。
「『黒狼』ギレーヌとお見受けする!
いざ尋常に一騎打ちの勝負を挑む者なり!!」
続いて、兎耳の双子が口を開く。
「同じく、北神三剣士が一人、北王『双剣』のナックルガード」
「『狂剣王』エリスとお見受けする」
「我ら一人は半人前」
「二人で一人の一人前」
「二対一とて」
「卑怯とは言うまい」
「「いざ、一騎打ちを申し込まん!!」」
「ふん…いいだろう!剣王『黒狼』のギレーヌ!お相手する!」
「いいわ、かかってきなさい!」
そうして5人の戦いが始まる。
兵士たちや、ルーデウスたちは一歩下がり、一騎打ちの行方を固唾を呑んで見守る。
(…これも、囮)
今出てきた三人の剣士はなかなかの実力を有している。だが、それでも自分たちを相手にするには役者不足だ。
オーベールはどこにいる?唯一この状況をひっくり返せるとするなら、彼しかいない。
森の中に風を巡らせて探索する。
木々の影や隙間。
茂みの奥。
だが、オーベールの姿は見つけられない。
(…………まずいな)
一見、こちらが優勢なように見える。しかし、アルブレヒトは何かまずい方向に進んでいるような気がしてならなかった。
順当にいけば敵の狙いはアリエル。ならば、そこだけを守っていればいいのか?いや、その裏をかいてエリスやギレーヌ、ルーデウスを狙い、戦力を削ろうとするかもしれない。
(敵の狙いがわからない、ということがここまで剣を鈍らせるとは…)
こうやって悩んでいる間にも、時間は過ぎていく。
敵の思惑が見えない。何を警戒すべきなのかも分からない。
アルブレヒトは、敵の術中にはまっていくような感覚を覚えていた。
(………)
考える。
(……………)
考える。
(……………………)
考えた、結果。
「………性に、合わんな」
「え?」
ポツリと呟いたアルブレヒトに、驚いた声をあげるルーデウス。
「兄さん。暴れます」
「はい?」
ぽかんとするルーデウスを置き去りにして、ストームルーラーを抜き、嵐を起こすアルブレヒト。
小さなそよ風が、あっという間に暴風になり、嵐になる。
地面から砂塵が巻き上がる。
木々が大きく揺れ、枝がへし折れる。
やがて太い幹すら軋み、森そのものが悲鳴を上げ始めた。
「む、むう!一騎打ちの最中に横槍とは、卑怯な!」
「う、うわぁ!や、やばいよナクル兄ちゃん!」
「焦るなガド、こんなの大した風じゃない!」
嵐は一騎打ちの場にも波及する。
ウィ・ターとナックルガードが吹き飛ばされそうになり、踏ん張る。
エリスとギレーヌもまた、風に逆らいながら剣を振るう。
兵士たちは地面に伏せ、木にしがみつく。
馬車が激しく揺れる。
ルーデウスたちもまた、近くの木に手をかけて必死に耐えていた。
それでも、嵐は止まらない。
「なんとでも言え。俺は、兄さんが守ろうとするものを守るだけだ」
さらに風が強くなる。
木々が次々と倒れていく。地面を削り、根を引き剥がし、土と落ち葉を巻き上げる。
やがて、嵐は地面そのものを引き裂き始めた。
けたたましい音を立てながら、大地が割れていく。
「――ッ!」
その瞬間、ウィ・ターの顔色が変わる。
「――そこか」
アルブレヒトは、それを見逃さなかった。
ストームルーラーに嵐を纏わせ、地面へ突き立てる。
凄まじい風圧と回転する土砂が、まるで巨大なドリルのように地面を掘り進み、大地を破壊し尽くす――その直前。
「――おおっとぉ!!」
一つの影が地から飛び出した。
赤青黄の三色の外套、腰には三本の剣、頬には孔雀の入れ墨、そしてパラボラアンテナのような髪型の男。
彼は土まみれで、長い間土の中にいたことが伺える。地を掘り進め、奇襲をかけようとしていたのだろう。
「なんとなんと。豪快ですなあ…」
「…オーベール殿」
男は土を払いながらニコニコと笑い、話しかけてくる。まるで戦場とは思えないほどに。
『孔雀剣』オーベール・コルベット。
アルブレヒトにとっては、久しぶりの再会であった。
■
「お久しぶりです、アルブレヒト殿。奇遇ですな」
「……ええ」
ストームルーラーを握り、警戒しつつも言葉を返す。
オーベール・コルベット。正直、彼とはそこまで深い関係というわけでもなかった。剣の聖地で偶然出会った同門の剣士というだけだ。
だから、敵になったとしても迷うことはない…はずだ。
「残念ですなあ、まさかこんな再会になるとは…」
しかし、まるで友人のように話しかけてくるオーベールに調子を崩される。
周囲では未だに嵐が吹き荒れていた。
巻き上げられた土と落ち葉が宙を舞い、折れた枝が地面を転がっている。
森の木々は何本も倒れ、根元から引き剥がされた木の根が、むき出しのまま地面に転がっていた。
先ほどまでの整然とした森は、見る影もない。
一騎打ちの最中のエリスとギレーヌはもちろん、ルーデウスやシルフィも、すぐには動けないだろう。
「そういえば道場の件はどうなさったので?某としても楽しみに――」
「問答は無用」
オーベールの話を冷たく切り捨てる。
ストームルーラーの切っ先を、真っ直ぐ彼へ向けた。
「剣を抜け、オーベール殿」
俺は守るべきものを守る。それだけだ。
昔、剣の聖地で言葉を交わした。
同じ場所で剣を鍛えた。
…だから何だ。
今、この男は敵だ。
ならば、迷う必要はない。
「ふむ、おしゃべりは嫌いですか」
肩をすくめるオーベール。
「ですが――甘い」
突如、オーベールの外套の下から白い煙が吹き出す。
視界が白一色に染まる。
「――ッ!」
すかさず風を巻き起こし、煙を吹き飛ばす。
白煙が渦を巻き、木々の間を一気に駆け抜けていく。
視界が晴れ、周囲を見回す。
――いない。
オーベールも、ウィ・ターも、ナックルガードも。
……逃げられた!
「そういう甘いところ!嫌いではないですが、直したほうが良いですぞ!」
森のどこかから声が響く。
「……くっ!」
残された敵兵たちは一斉に動き出し、エリスやギレーヌに斬りかかる。
ルーデウスやシルフィたちにも、森の奥に潜んでいた兵士たちが襲いかかった。
どうやら、最初からこうなることを想定していたらしい。兵士たちは囮であり撤退のための肉壁でもあったのだ。
「……!」
一瞬だけ後ろを見る。
エリスの剣が敵兵を弾き飛ばす。
ギレーヌが唸り声を上げながら斬り込む。
ルーデウスが魔術で2人を援護する。
シルフィが杖を振るう。
アリエルの馬車はルークが守っている。
大丈夫だ。
任せられる。
そして、今オーベールを追えるのは、自分しかいない。
「――追います!」
森に飛び込む。
枝が兜にぶつかり、音を立てて折れる。
倒木を飛び越え、根を踏み越え、木々の隙間を縫うように走る。
遥か前方。
かすかに葉が揺れている。
オーベールは遠く、速い。
しかも、ただ逃げているわけではない。
森そのものを利用している。
このままでは追いつけない。
木々が多すぎる、枝が視界を塞ぐ、倒木が進路を遮る。
(ならば、全て薙ぎ倒す)
ストームルーラーに嵐を纏わせ、振り抜く。
轟音。
森を暴風が駆け抜ける。
幹が軋み、枝葉が千切れ、太い木々が次々と倒れていく。
木が倒れる。
その向こうに、また木がある。
それも倒す。
森の一角が、まるで巨大な斧で薙ぎ払われたかのように崩れていく。
「!?」
だが、道は開かれない。
何本もの倒れた木々が、不自然な形で折り重なっている。
倒れた木々が互いに支え合い、まるで巨大な壁のようになっていた。
「……仕込んでいたか!」
切断面を見れば分かる。
あらかじめ、幹に細工が施されている。一定方向から力が加われば倒れ、互いに噛み合うように。
森そのものが、オーベールの逃走経路になっていた。
「こんなもの……!」
ストームルーラーを振る。
木の壁が吹き飛ぶ。
だが、その向こうにも、また木々がある。
そのさらに先にも。
オーベールはもう遠い。
「まだ…!」
風を飛ばす。
木を抜け、枝を抜け、葉を抜け、森全体に、風の感覚を這わせていく。
そして、かすかに人影を捉える。
成人男性ほどの体躯、1人…オーベールだ。
距離はかなり遠い。だが、捉えた。
中空に手を掲げ、雷を呼ぶ。
雷は光を迸らせながら弓の形になる。
奇跡"雷の弓"。まだ止まらない。弓を握る手に、さらにソウルを注ぎ込む。
黄金の雷光が膨れ上がる。
弓身が軋む。雷が弦を伝い、周囲の空気を震わせる。
小さな弓が、大きく、さらに大きく。
やがて、人の身の丈を超えるほどの大弓へと変化していく。
その姿はもはや弓というより、雷そのものを無理やり武器へと変えたようだった。
足を踏みしめ、大弓を構える。
弦へ手をかけけ、引く。
ギリギリと雷鳴が鳴った。
弦が引き絞られるほどに、周囲の雷が一点へ集まっていく。
弓の中央へ、膨大な雷光が凝縮されていく。
一本の矢。いや、矢と呼ぶには、あまりにも大きい。
黄金の雷が何重にも絡み合い、巨大な大矢を形作っていく。
周囲の木々が震える。
地面に落ちた小石が跳ねる。
「――はっ!」
放つ。
轟音。
雷鳴そのものが森を駆け抜けた。
黄金の閃光が視界を塗り潰す。
大矢は一直線に森を突き抜けていく。
軌道上にあった枝葉が一瞬で焼け落ちる。
木々が震える。
次の瞬間、雷の大矢が一本の大木を貫いた。
幹が爆ぜる。
焼け焦げた木片が四方へ吹き飛び、遅れて轟音が森を揺らした。
だが――オーベールを捉えてはいない。避けられた。
焦げた木の匂いが鼻を突く。
すぐさま次の矢を作る。
雷が集まり、凝縮する。
弦を引き、放つ。
かわされる。
三射目。
放つ。
かわされる。
四射目。
雷光が森を裂く。
オーベールは木の幹を盾にするように身を滑らせ、直撃を避ける。
オーベールは走りながら、時に木を盾にし、時に地面へ身を伏せ、時に進行方向を変える。
ただ逃げているだけではない。
こちらが射る瞬間、狙いを定める瞬間。その一瞬一瞬を読んでいる。
少しずつ、確実に、距離が開いていく。
感知から、人影が遠ざかっていく。
さらに一矢。
雷光が奔り、轟音が響く。
しかし、届かない。
また一矢。
それでも届かない。
もう、気配すら捉えられない。
大弓から雷がほどけていく。最後に一筋の光が指先から弾け、消えた。
木々の遥か向こうを睨む。
荒れ果てた森に、風の音だけが残っていた。
「……逃げられた、か」
荒れ果てた森を見渡す。
風が木々の間を抜けていく。
オーベールの姿は、もうどこにもない。
アルブレヒトは、しばらく黙っていた。
(……オーベール殿)
思えば、不思議な男だった。
剣の聖地で何度か顔を合わせた。
道場で見かけることもあったし、言葉を交わしたこともある。
だが、特別親しいわけではない。
酒を酌み交わしたこともなければ、共に旅をしたこともない。
それでも――
(……どうにも、憎めない人だったな)
飄々としていて、何を考えているのかよく分からない。
こちらが真面目に話しているというのに、どこか楽しそうに笑っている。
今だってそうだった。
戦場で再会したというのに、まるで旧友に会ったかのように話しかけてきた。
「……甘い、か」
あの言葉を思い出す。
腹立たしい。
実際、逃げられた。
こちらが全力で追っていることなどお構いなしに、煙を使い、木々を利用し、こちらの隙を突いて逃げていった。
(……あの人らしい)
思わず、そう思ってしまった。
真正面から力で押し通るのではなく、相手の意表を突き、こちらの想像の外側へと、するりと抜けていく。
前から、そういう男だった気がする。
アルブレヒトは小さく息を吐いた。
(敵になってしまったのは、残念だな)
ほんの少しだけ、そう思った。
だが、すぐに顔を上げる。
今は戦場だ。
オーベールは敵。
自分が守るべき人々を襲った者の一人だ。
ならば、次に出会った時は、迷わない。
剣を握る。
そして、仲間たちのもとへ戻るため、荒れた森を歩き始めた。
■
森から、一行のもとへ戻るアルブレヒト。
先ほどまで吹き荒れていた嵐は、すでに収まっていた。
荒れ果てた森。折れた木々。抉れた地面。
そして、そのあちこちに転がる敵兵の死体。
ルーデウスたちは、残された敵兵の遺体を集め、火を放って処理していた。
「お、帰ってきたか」
ルーデウスがアルブレヒトに気付き、軽く手を上げる。
アルブレヒトも頷きながら近づいていく。
「すみません。逃げられました」
「そっか」
ルーデウスは特に責める様子もなく答えた。
「逃げに入ったオーベールを捕らえるのは、オルステッド様でも苦労するらしいし、仕方ないさ」
そう言って、ぽんぽんとアルブレヒトの肩を叩くルーデウス。
「……ありがとうございます」
アルブレヒトは小さく頭を下げた。
周囲を見渡す。
敵兵はほぼ壊滅。
こちら側の被害はない。
主戦力を取り逃がしたとはいえ、十分な戦果と言える。
しかし、そんな中で一人だけ明らかに様子がおかしい者がいた。
「そんな……」
ルークだった。
彼は、一人の兵士の死体を見つめている。
正確には、その兵士が身につけていた鎧を。
「ありえない……」
青ざめた顔。
僅かに震える唇。
「ねぇルーク、この紋章って…」
兵士の胸元。
そこに刻まれていたのは、ミルボッツ領の紋章だった。
ミルボッツ領。その領主は、ピレモン・ノトス・グレイラット。
ルークの父親である。
「……」
ルークは答えない。
ただ、紋章を見つめ続けている。
「ルーク?」
シルフィがもう一度呼びかける。
「……馬鹿な」
ようやく、ルークの口から声が漏れた。
「そんな……馬鹿な……」
視線が、別の兵士へ移る。
そこにも同じ紋章。さらに、その隣にも。
一人ではない。何十人もの兵士が、ミルボッツ領の兵士だった。
「…………」
ルークの顔から、血の気が引いていく。
認めたくない。だが、認めざるを得ない。
この兵士たちは、自分の父親が治める領地から来た兵士たちだ。
「父上が、アリエル様を……」
その先を口にすることができない。
アリエルを裏切ったと。
自分が仕える主君を、自分の父親が、一族が裏切った。
「……そんな」
ルークは呆然と立ち尽くす。
握り締めた拳が、僅かに震えている。
アリエルを見ることもできない。
父親を信じたい。
だが、目の前にある現実が、それを許さない。
「……………」
その姿を見て、アルブレヒトたちはただ沈黙していた。
やがて、ルークが顔を上げる。
その目にあったのは、悲しみだけではなかった。
「…………」
戸惑い。そして、ほんの少しの疑念。
その視線が、ゆっくりと動く。
ルーデウスとアルブレヒトへ。
ただ一人、ルークの中で。
何かが、静かに崩れ始めていた。
■
襲撃から幾ばくか経ち、一行は森の奥まった場所で野営をしていた。
焚き火が小さく揺れている。
先ほどまでの戦闘が嘘のように、森は静まり返っていた。
だが、その静寂とは裏腹に、空気は重い。
ルークはずっと茫然自失のままだった。
焚き火を眺めたまま、ほとんど動かない。
作戦会議が始まっても、まともに話を聞いている様子すらなかった。
そんなルークを気にしながらも、ルーデウスは地図を広げる。
「アリエル様、このまま関所まで進むのは危険です」
「……理由を聞きましょう」
「今回は無事に撃退できました。ですが、オーベールたちは予想以上に強敵でしたし、敵の数も多かった」
ルーデウスが地図上の国境を指でなぞる。
「次も同じとは限りません。むしろ、次回以降はさらに大規模な襲撃が待っていると考えたほうがいいでしょう」
「……撃退は困難だと?」
「困難とは言いません」
ルーデウスは首を横に振った。
「ですが、安全を考えるなら、関所を通るのはおすすめできません」
「なぜ?」
「私が敵なら、確実に罠を仕掛けます」
その言葉に、ぴくりと反応するルーク。
「ですが、転移魔法陣はありません。先に進むしかないでしょう」
「ええ。ですが、みすみす罠があるとわかっている場所に飛び込む必要はありません。この国境付近には、密輸や奴隷売買を生業とする盗賊団がいると聞きます。それに渡りをつけましょう。うまくいけば、関所を通らずに国内に入れるかもしれません」
「……ふむ」
考え込むアリエル。その横で、シルフィが少し訝しげな表情を浮かべる。
エリスとギレーヌはそもそも聞いておらず、アルブレヒトは兄さんの言うことなんだから間違ってるわけないな、という顔。
ルーデウスが何かを考えている。ならば、それに従えばいい。
少なくともアルブレヒトにとっては、それだけの話だった。
「シルフィ、どう思いますか?」
「……いいと思います。その盗賊団ってのがどれだけ信用できるかわからないけど、でもルディが提案するのなら、危険は少ないと思いますし」
完全に納得しているわけではないが、ルーデウスを信じて賛成の立場だった。
「では…ルークは?」
その名前を呼ばれ。
焚き火を見つめていたルークが、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、どこか据わっている。
そして、ルーデウスを見た。
「お前、何を企んでいる…?」
「何、とは?」
空気が変わった。
ルーデウスが眉をひそめる。
「オーベールも、やけにあっさりと引いた。まるで事前に決められていたように」
「…何が言いたい」
ルーデウスを庇うようにアルブレヒトが立つ。
「あなた……いや、お前たちは敵と通じているんじゃないのか!?」
「…言葉を選べ、ルーク」
「だが!」
「兄さんを疑うのか」
アルブレヒトの声は静かだった。
それだけに、冷たい。
「アリエル様の首を差し出して、その褒美にノトスの家を乗っ取ろうとしているんじゃないのか!?」
ルークが叫ぶ。
「……」
アルブレヒトの眉が僅かに動いた。
あまりにも突飛な話だった。
「ルーク先輩、それが目的ならもっと早く俺たちはアリエル王女に取り入ったでしょう」
ルーデウスはルークをまっすぐ見据える。
「そもそも、俺たちはルーク先輩に頼まれてアリエル様に協力している立場です。裏切るなんてありえないことです」
「……確かにそうだが」
ルークが俯く。
理屈では分かっている。
ルーデウスの言っていることは正しい。
アルブレヒトも黙っているが、同じ考えだった。
「けど、おかしいじゃないか。父上が裏切るはずないんだ…」
それは、ルーデウスたちを疑う言葉というより、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。
「父上が……そんなことをするはずがない……!」
父親が裏切った。
そんな現実を認めたくない。
だからこそ、別の可能性を探してしまう。
たとえ、それがどれほど無理のあるものだったとしても。
「ルーク。落ち着きなさい。ルーデウス様やアルブレヒト様がそのようなことを考えているわけがないでしょう」
アリエルが静かに声をかける。
「…最近のルーデウスは不透明です。盗賊団などと!アリエル様を売り払おうとしているのでは…!」
アリエルが再度口を開く。
その声は穏やかだった。
「ありえません。私を売ろうとしているなら、力ずくで引き渡せばいいでしょう。お二人にはその力があります。わざわざここまで協力する必要がありません」
「……」
ルークは言葉を失う。
そんなことは分かっている。
ルーデウスも、アルブレヒトも、自分より遥かに強い。
本当にアリエルを売るつもりなら、こんな回りくどい真似をする必要などない。
「ですが、父上が……!」
「ルーク・ノトス・グレイラット」
凛とした声が森に響いた。
誰もが言葉を失った。
焚き火の爆ぜる音だけが、静かに響く。
アリエルが、じっとルークを見ていた。
その表情に怒りはない。責める色もない。
ただ、真っ直ぐに、自分の騎士を見つめている。
「あなたは、私の何ですか」
「……っ」
ルークの目が見開かれる。
その問いは、あまりにも単純だった。
だからこそ、答えに詰まった。
父親。ノトス家。裏切り。ルーデウスたちへの疑念。
頭の中を埋め尽くしていたものが、一瞬だけ遠のいていく。
目の前にいるのは、自分が仕える人。自分が守ると誓った人。
ルークの膝から力が抜ける。
ゆっくりと跪いた。
「私は……」
頭を垂れる。
「あなたの騎士です」
「そう。そして私は、あなたの王女です」
静かな言葉だった。
責めるわけでもない。
怒るわけでもない。
ただ、それだけを告げる。
「……」
ルークは俯いた。
自分が今、誰を疑ったのか。
自分が今、誰の前で何を口にしたのか。
ようやく理解したようだった。
「……申し訳、ありません」
小さな声。
「少し……混乱していました」
「ええ」
アリエルはそれ以上、追及しなかった。
「今は休みなさい」
「……はい」
ルークは深く頭を下げる。
それで、その場の話は終わった。
誰も、それ以上は何も言わなかった。
ルークも焚き火から少し離れた場所へ移動し、膝を抱えるようにして座り込んだ。
その背中は、先ほどまでよりも小さく見えた。
アルブレヒトは、そんなルークの背中を静かに見つめていた。
父親を信じたい、その気持ち自体は分かる。家族なのだから。
自分だって、父や母を疑いたくはない。家族を信じたいと思うこと自体を責めるつもりはなかった。
だが、だからといって兄を疑った上、王女を守るべき騎士が、その主君の前であれほど取り乱す。
騎士としてあるまじき姿だ。
今のルークには、あまりにも迷いが多すぎる。
だが、ルークはアリエルの騎士だ。
ならば、自分が口を挟むことではない。
今のところは。
そう考え、アルブレヒトは静かにルークから視線を外した。
ただ――
(……次に兄さんを疑ったら、その時は――)
そこから先は、考えないことにした。
少なくとも、今は。