翌日。
森に朝の日差しが差し込んでいた。
木々の隙間から差し込む光が、夜露に濡れた葉を照らしている。
昨夜の騒ぎが嘘のように、森は静かだった。
「おはよう、アル」
「兄さん、おはようございます」
朝の挨拶を交わす。
すると、ルーデウスが少しだけ真面目な顔をした。
「突然だけど、ちょっと話があるんだ」
ルーデウスはそう言うと、昨夜アリエル、オルステッドと会談してこちらの事情を共有し、ルークに関してはアリエルに任せることになったことを伝えた。
「そうですか……」
「どうした?何か気になることがあるのか?」
「…少し。ルークはアリエル王女に忠誠を誓っているのは確かでしょうが、今は不安定すぎます」
昨夜のルークの姿が脳裏に浮かぶ。
父親への疑念。
ルーデウスへの疑念。
そして、それをアリエルの前で隠しきれなかった姿。
「本当に、任せて大丈夫でしょうか」
「うーん、とは言っても俺たちでどうにかできるわけじゃないからな。アリエルに任せるしかないよ」
「………そうですね」
頷くアルブレヒトだったが、不安そうな表情は消えない。
同じ騎士として。そして、大切なものを守る者として。アルブレヒトは、ルークに思うところがあるのだろう。
それ以上、ルーデウスも何も言わなかった。
■
盗賊団のもとへは、兄さんの手引きでかなりスムーズに行くことができた。
以前オルステッドと話した、ダリウスを失脚させる鍵。トリスティーナ・パープルホースこと、盗賊トリスともすぐに会うことができた。
…驚いたのは、会ってすぐにアリエルがいきなりトリスの素性を問うたことだ。
「貴女、もしかしてトリスティーナ・パープルホースではありませんか?」
突然自らの過去を暴かれ、動揺するトリスにアリエルは問を畳み掛け、彼女から半生を聞き出した。
幼い頃に攫われたこと、ダリウスの性奴隷として暮らしていたこと、その後、盗賊団に売られたこと、そして、親分の気まぐれで盗賊としての修行を始めた事。
やがて親分が代替わりし、自由の身となったこと。
トリスは、それらを淡々と語った。
泣くことも、笑うこともない。
自分とは関係のない誰かの人生を語っているかのような様子だった。
話を聞き終えたアリエルは、涙を流していた。
「……ごめんなさい。貴女の辛さを、私には完全には理解できない」
アリエルは真っ直ぐにトリスを見つめる。
「ですが、貴女を地獄に突き落とした張本人には、相応の報いを受けさせます」
「だから……お願いです。ダリウスに奴隷として扱われていたことを、証言していただけませんか」
トリスはすぐには答えなかった。
アスラ王国は強大な国で、ダリウスはとても狡猾な男だ。いくらアリエルが王女であろうと、そう簡単に勝てる相手ではないと主張した。
だが、アリエルはそれを否定した。
「勝てます」
その言葉に迷いはなかった。
シルフィや兄さん、俺、エリス、ギレーヌ、そしてペルギウスの名を出し、ダリウスを失脚させ、王位を取る事ができると説得した。
トリスは黙っていた。
長い。本当に長い沈黙だった。
時間にして、一時間ほど。
その間、誰も急かさなかった。
やがて、トリスがゆっくりと顔を上げる。
「……わかりました」
小さな声だった。
「協力します」
「アリエル様を無事に王都へ送り届けること」
「そして、ダリウスを討つこと」
「その手助けをすると、神に誓います」
そして、トリスはアリエルの仲間になった。
見事なものだった。俺も兄さんも、口を挟む余地がなかった。やはり王となる者には王気というものが備わっており、人々はそれに導かれるのだと、理解できた。
■
その翌日、トリスの手引きで国境を超えることになった。
朝日が昇る前、まだ空が薄暗い時間から、森の中を音もなく進み続ける。
森は深く、どこまでも続いているように思えた。
しかし。ある茂みを抜けた瞬間、景色が唐突に開けた。
目の前に広がっていたのは、地図には載っていない湖だった。湖畔の崖には、魔術によって巧妙に隠された洞窟がある。
そこへ入り、洞窟を抜ける。
そして、あっさりとアスラ王国へと入った。
その後の旅路も順調だった。
トリスのルート選択は見事で、人目につかない裏道を選び、危険な場所を避けながら素早く移動していく。おかげで、オーベールの襲撃もなかった。
先日の緊張が嘘のように、平和な旅が続いていた。
そして、道中、フィットア領の近くを通った。
復興が始まってから、すでに数年。
荒れ果てていた大地には、ちらほらと麦畑が戻ってきている。
新しく建てられた家も見える。
道を歩く人々の顔にも、少しずつ活気が戻っているようだった。
だが、まだ遠い。
アルブレヒトの記憶にある、かつてのフィットア領。
見渡す限り広がっていた、金色の麦畑。
風が吹けば、一面の麦が波のように揺れていた。
今の景色は、それには遠く及ばない。
「……懐かしいな」
アルブレヒトが、麦畑を眺めながら呟いた。
その声には、どこか嬉しそうな響きがあった。
「そう?」
エリスが隣から尋ねる。
「復興も進んで、人々にも笑顔が戻ってきている。喜ばしいことだ」
「……ふん、どうでもいいわ」
「どうでもいいって事は無いでしょ。ボクらの故郷なんだからさ」
エリスのぞんざいな発言に、シルフィが口を挟む。
「戻ってこようとは思わないけど……エリスにだって知り合いぐらいいるでしょ?」
「いないわ。私は嫌われてたもの」
「そういえば、ボクも嫌われてたなぁ……」
シルフィは苦笑しながら、懐かしそうに目を細める。
「む、そうだったのですか。シルフィさんのような出来た人が、なぜ…」
「あはは、ボクはそんな立派な人じゃないよ。昔は髪色のこともあって、色々ね」
アルブレヒトは少し考えてから、真顔で続けた。
「エリスはともかく、シルフィさんが嫌われるなんて想像ができません。周りの人たちは見る目がなかったのでしょうね」
「ちょっと、どういうことよ!」
「別にお前を貶すわけではないが、その気性では合う合わないが激しかっただろう。当然の推論だ」
「………ふん!」
言い返せなくなったエリスは、アルブレヒトの頭を軽く叩いた。
「いたい」
「こら、エリス!アルくんを叩いたらダメでしょ!」
「失礼なことを言うからよ!」
「だからって叩いちゃダメ!」
「むうぅぅぅ……!」
そんな光景を見て、少し離れたところから見ていたルーデウスが小さく笑う。
旅の緊張が、少しだけ遠のいていく。
それからも、他愛のない会話は続いた。
ふと、エリスが遠くを見ながら口を開く。
「言っとくけど、私がここに残っても、どうせ何もできなかったわ」
「……?」
首を傾げるアルブレヒトとシルフィ。
「あ、そっか。エリスは領主様の所のお姫様だったっけ。なんか忘れてた」
「ふん、どうせお飾りよ」
「でも、風格はあるよ?今のエリスが領主様になっても、違和感は無いんじゃないかな?」
「……そう?」
エリスの表情が少し明るくなる。
「でも、別に領主になりたいわけじゃないわ。どうせ私には務まらないもの」
「そうだな。エリスは剣を振ってる方が似合っている」
「でしょ?」
アルブレヒトが合いの手を挟む。
また機嫌を良くするエリス。
単純である。
「でも、ちょっと違えば、エリスがアスラ王国で貴族やってた可能性もあるんだよね」
「無いわよ」
「ルディがエリスを擁立させて、影で操る感じでさ。ルディの事だから、あっというまにエリスをボレアスの当主に据えたと思うんだ」
シルフィが楽しそうに笑う。
「アルくんはルディの側近かな?」
「悪くないですね。兄さんの騎士として働けるなら、本望です」
「でしょー?」
あったかもしれない未来を想像しながら、足を進める一行。
王を決める過酷な争いの中、しばしの間だけだが、穏やかな時間が流れていた。
■
十数日ほど移動し続け、リケットという街に辿り着く一行。ドナーティ領の端、アスラ王領との接続点となる大きな街だ。
本来ならば大きな街に滞在するのは襲撃の恐れもあり、避けたいところではあったが、ドナーティ領から王都へと向かう道はここからしか出ておらず、やむなく一度リケットで泊まることとなった。
そして、アリエルは宿で待機、トリスは情報収集へ。残った者たちはアリエルの護衛となった。
エリスとシルフィ、ルーデウスが2階でアリエルの部屋を、そしてアルブレヒト、ギレーヌが1階の階段を守っている。
従者2人は変装して買い出しに出かけ、ルークはアリエルと一緒に部屋にいる。
「アルブレヒト」
2人が階段で見張っている中、突然ギレーヌが口を開く。
護衛に徹し、口数の少なかった彼女にしては珍しい行為だった。
「森での戦いの時は助かった。お前の起こした嵐のおかげで、ウィ・ターの鎧が汚れて互角に戦うことができた」
「ん…そういえば、奴の鎧は鏡のようだったな。あれで目をやられていたのか」
「ああ。ありがとう」
言葉少なに感謝を告げるギレーヌ。
それきり会話が途切れる。
「…前のこと、すまなかった」
「……?」
次に口を開いたのはアルブレヒトだった。
話に覚えのないギレーヌは疑問符を浮かべる。
「剣の聖地でのことだ。家族のもとへ帰れと言ってくれたのに、冷たくあしらってしまった」
「ああ、あのことか。気にしていない」
当時のアルブレヒトが何を抱えていたのか、ギレーヌには分からなかった。
ただ、あの頃の少年が今ではこうして家族と共にいる。
今はそれだけで十分だった。
「…それより、エリスお嬢様のことの礼を言うのも忘れていたな」
ギレーヌはふと、アルブレヒトを見る。
「お前のおかげで、ルーデウスとお嬢様は結婚することができた。感謝する」
「いや、大したことはしていない。俺が何もしなくても、2人は結ばれただろう」
「それでもだ。あたしは剣ばかりで気が利かない。あの2人の間に立つのはお前しかできなかったろう」
「そんなことはないと思うが…」
そんなことを話していると、宿の外から気配を察知する2人。一瞬警戒するが、覚えのある気配であることに気付き、すぐに警戒を解く。
宿に入ってきたのは、トリスだった。
「お疲れさん、はい、差し入れだよ」
「ありがとう」
「トリス姉さんに感謝しながらいただくように」
アルブレヒトが受け取って中を見ると、果物が入っていた。
一つ取り出してギレーヌに渡すと、彼女は皮も剥かずに齧りついて食べ始めた。
「んじゃ、頑張ってな」
トリスは手をひらひらと振りつつ、上機嫌そうに宿の二階へと上がっていった。
「機嫌が良さそうだったな。何かあったのか?」
「いい情報が手に入ったんだろう。ギースもそうだったが、そういう時、あの手の連中はやたらと機嫌がよくなる」
「ギース?」
「ああ、そういえば知らなかったか。あたしが冒険者をやっていたときの仲間で、ルーデウスも世話になったやつだ。たしか、転移の迷宮でも――むっ」
話を途中で止め、耳と尻尾をピクリと立てるギレーヌ。
表情が険しい。敵襲か、と警戒するアルブレヒトだったが、ギレーヌの視線は階段の上に向いていた。
耳を澄ますと、2階から誰かが言い争う音が聞こえてくる。
「少し、見てくる」
「ああ」
ギレーヌを置いて階段を上がるアルブレヒト。
廊下には、ルーデウス、シルフィ、エリスが心配そうな顔で扉を見ていた。
「どうかしましたか?」
「アル、ちょうど良かった。トリスが帰ってきてから、アリエル様とルークが喧嘩してるみたいなんだ。とりあえず一緒に入ろう」
「…わかりました」
なんとなく、嫌な予感がするアルブレヒト。
ルーデウスは扉をノックすると、部屋に入り込んだ。
そこには、立ち上がって顔面を蒼白にしたルーク、椅子に座ってすました顔のアリエル、困った顔を浮かべたトリスがいた。
「ルーデウス様、アルブレヒト様、いい所に参られました」
アリエルは2人の顔を見ると、すまし顔のまま口を開いた。
「何かありましたか?」
「はい。トリスが情報を持ってきてくれました。……サウロス・ボレアス・グレイラットに関する情報です」
場に少しの緊張が走る。
サウロス・ボレアス・グレイラット。エリスの祖父で、ルーデウスも幼少期世話になった人物。彼は何者かの手引きにより陥れられ、転移事件の全ての責任を取らされて処刑された。
そしてギレーヌは、サウロスの仇を取るためにこの旅に同行している。
「それで、サウロス様を陥れた者の主犯が誰か、わかりました」
「……」
ルークは険しい顔をしている。
アリエルは能面のような表情をしていた。感情のない顔だ。
「やはり、私たちの陣営の者が動いていたようです。その上、サウロス様に個人的な恨みがあった人物……」
アリエルは間髪入れずに言った。
「ピレモン・ノトス・グレイラットです」
ルーデウスもアルブレヒトも、あまり驚かなかった。
ルークの顔を見れば、想像はできた。
「……それで、アリエル様はどうするつもりなんですか?」
「約束通り、ギレーヌに斬らせます」
ルーデウスの問いに即答するアリエル。
「……待ってください。裏切りも、主犯も、まだ確証のある話では、ありません」
ルークが苦い顔をしながら口を開く。
以前、アリエルとの会話でやっと落ち着きを取り戻したが、父が殺されるという可能性を突きつけられたことで、再び心が乱れている。
冷静に考えなければならない。
そう分かっているのに、焦りが先に立つ。
「何者かが、我々を陥れようとしているのかも……」
ルークが、ルーデウスとアルブレヒトを見る。
その視線には、明らかに疑念が滲んでいた。
空気が張り詰める。
アリエルが仲裁しようと、口を開こうとしたとき――
「…いい加減にしろ、騎士ルーク」
アルブレヒトが、それを遮った。
低く、静かな声。
怒鳴っているわけではない。
それでも、その一言だけでルークの身体が強張った。
「どうして貴公は、自分の主を信じようとしない?」
強い目線でルークを見つめるアルブレヒト。
騎士として、どうしてもルークに伝えたいことがあった。
「アリエル王女は兄さんを信じている、なら貴公も兄さんを――ルーデウス・グレイラットを信じようとは思わないのか?」
「…信用できない。今の状況は、あまりにお前たちに都合よく進みすぎている!何か企んでいるのではないのか!?」
「企みなどない。ただアリエル王女と、王女が信じる兄さんを信じろ。それが騎士の役目だ」
「……主が間違った道に進もうとしているのを、黙って見過ごせというのか!?」
ルークの声が荒くなる。
「アリエル様が騙されて死ぬのを、愚かにも見ていろと!?」
「なら守ればいい」
「――!」
静かに答えるアルブレヒト。
あまりにも簡潔な答えだった。
「主が間違った道を進むと言うなら、共に付き添って守ればいい。それが主に忠誠を誓うということだ」
一歩。
アルブレヒトが近づく。
ルークは無意識に後ずさりそうになる。
「なのに、なぜ貴公はヒトガミの言葉を信じる?見ず知らずの神を名乗る不審者の言葉を信じ、なぜ自分の主を信じられない」
「な、なぜヒトガミ様のことを――」
「そんなことはどうでもいい」
「騎士ルーク。お前は未熟だ」
アルブレヒトの手が、腰の剣へ伸びる。
「剣を抜け。"騎士"というものを、教えてやる」
鞘走る音。剣が抜かれた。
その瞬間、空気が重くなる。
アルブレヒトから、凄まじい圧が放たれた。
七大列強第六位、『嵐神』。その圧はルークを簡単に怯ませた。
「な、なぜ……」
「戦う理由が必要か?なら作ってやる」
アルブレヒトの瞳に、迷いはなかった。
「お前が剣を抜かなければ、アリエル王女を殺す」
殺意。圧倒的な、意思。
嘘や脅しではない。単純な事実だ。このまま何もしなければ、アルブレヒトは剣を振るうだろう。
「う……」
怯えるルーク。
絶望的な戦力差。蟻と竜の戦い。
どうひっくり返っても、ルークが勝つことはない。
逃げろ。
そう、本能が囁く。
お前では勝てない。
剣を捨てろ。
命を拾え。
あまりにも真っ当で、魅力的な誘い。
――だが、もう一つの信念が、否と叫んでいた。
戦え。
剣を抜け。
主を守れ。
「……………ッ!!」
震える手で、怯えながら剣を抜くルーク。
その瞬間、アルブレヒトの姿が消えた。
「――がはっ!!」
壁に叩きつけられるルーク。
肺から空気が抜ける。
ずるり、と身体が落ちる。
床へ膝をついた。
視界が明滅する。足に力が入らない。
たった一撃。
それだけで、身体が戦うことを拒んでいた。
アルブレヒトは、倒れたルークを一瞥する。
そして何事もなかったかのように、アリエルへ向かって歩き出した。
アリエルは何の表情も浮かべず、口も挟まない。
「――ま、待てッ!」
ルークは咄嗟に手を伸ばした。
剣を杖代わりにして、震える身体を無理やり起こす。
「アリエル、様に…手出しは、させない!」
なんとか剣を構える。
切っ先が震えている。腕も、脚も。
それでも、ルークはアルブレヒトに剣を向けた。
アルブレヒトの姿がまた消える。
「ごふっ!!」
拳が腹へめり込んだ。
鈍い衝撃。
身体の奥で、何かが軋む。
「がっ、くっ、ぐっ……!」
ルークは腹を抱えて崩れ落ちた。
呼吸ができない。
喉から声すら出ない。
アルブレヒトは、その姿を冷たく見下ろした。
「それで、次はどうする?」
痛い、痛い、痛い。
勝てるわけがない。敵うはずがない。こんなの無理だ。
ふと、ルークの頭に、ある考えがよぎる。
これは、ただの冗談なのではないかと。
アリエル様を殺すなどと嘘で、自分を試しているだけなのではないかと。
だって、そうだ。剣すら中途半端な自分が、七大列強に敵うはずがない。
だから、だから――
「―――ふざ、けるな…!」
ルークは、震える声を絞り出した。
だから何だ?
敵わないから、勝てないから、負けてもしょうがないから。だから逃げていいのか?
そんなわけはない。
騎士に逃走は許されない。
その背には、守るべきものが常にあるのだから。
「まだ、だ……!」
ルークは立ち上がった。
膝が笑っている。
まともに立つことすらできない。
それでも――
「俺、俺が……アリエル様を、守るんだ!!」
それでも、叫ぶ。
その姿を見て、それまで一切の感情を見せなかったアルブレヒトの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
その後も一方的な戦いは続いた。
何度も何度も打ち据えられるルーク。
拳で殴られ、足で蹴られ、剣で峰打ちされ、地に這いつくばらされる。
だが、ルークは立ち上がった。
一度。
二度。
三度。
何度目かも分からなくなった頃には、全身が傷だらけになっていた。
「はっ、はっはっ…はァっ!!」
息が続かない。
肺が焼けるように痛い。視界も霞む。
剣を握る手には、もうほとんど力が残っていない。
それでも。
「……まだ、だ……!」
立つ。
倒れる。
また立つ。
その繰り返しだった。
圧倒的な実力差。
勝負にすらなっていない。
それでも、ルークは剣を手放さなかった。
「はっ……はっ、はァっ……!」
息も絶え絶えで。
見るに堪えないほど、ボロボロになって。
それでも、ルークは挫けなかった。
その姿を、アリエルは黙って見ていた。
「……まだ、だ……」
ルークが、また立ち上がる。
膝が崩れそうになる。
それでも剣を杖にして、身体を起こす。
「俺は…、俺は……まだ……」
掠れた声。
「アリエル様を……守る……」
その言葉を最後に。
ルークの身体から、ふっと力が抜けた。
「ま、だ……まだ、だ……」
うわ言のように呟きながら、しかし闘志を失わぬまま、ルークは意識を失った。
長い沈黙が落ちる。
アルブレヒトは、床に倒れたルークを見下ろしていた。
やがて剣を収める。
「……これで、十分だろう」
アリエルの方に顔を向ける。
「脅すような真似をして、すまなかった」
「いえ、必要なことでしたので」
落ち着き払った表情で返すアリエル。
「アルブレヒト様、ありがとうございます」
「…大したことはしていない。あとはルーク次第だ」
再度、ルークを見る。
倒れ伏すルークの手には、剣が握られたままだった。
「……………」
アルブレヒトは、それをしばらく見つめる。
そして、満足そうに、ほんの僅かに頷いた。
それ以上は何も言わず、部屋を出ていった。
■
「う、うう……」
しばらくして、ルークが目を覚ました。
ベッドに寝かされており、傍にはアリエルがいた。
「起きましたか、ルーク」
「あ、アリエル様…」
身体中が痛い。
起き上がろうとしただけで、全身から鈍い痛みが返ってくる。
「…………っ」
思わず顔を歪める。
だが、ルークの内心は以前とは違っていた。
胸の中にあった焦燥が、少しだけ薄れている。
疑念そのものが、完全に消えたわけではない。
ルーデウスが信用できないという気持ちも、まだ残っている。
それでも、もう、その疑念だけに心を支配されてはいなかった。
ベッドから身体を起こし、ルークはアリエルへ頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。私が騎士として未熟なばかりに、大変なご迷惑を……」
「…迷いは晴れましたか?」
ルークはすぐには答えなかった。
しばらく目を伏せる。
「……正直、まだルーデウスへの疑念はあります。ですが、アルブレヒト殿は剣を通し、大切なことを教えてくれました」
あの圧倒的な力。
何度斬られても、殴られても、到底届かなかった。
だが、アルブレヒトはただ力を振るっていたわけではない。戦いを通して、大切なことを伝えてくれた。
「騎士は、主を守る者。それだけで、よかったのです」
ルークは静かに呟いた。
それが、今まで自分が見失っていたものだった。
主を疑うな、何も考えるな、という意味ではない。
主が迷えば、共に迷えばいい。
主が間違えば、隣に立って守ればいい。
それこそが、自分の選んだ道だった。
「私はそれを見失っていた。……このような無様を晒した私など、アリエル様に仕えるに値しないかもしれません」
しばしの沈黙。
ルークは深く頭を下げる。
「ですが許されるのならば、もう一度、あともう一度だけ、アリエル様に忠誠を誓わせてはいただけないでしょうか」
「どうか、お願いします」
アリエルは、その姿を静かに見つめる。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「確かに、最近のあなたは無様でしたね」
「……はい」
「疑念に目を曇らせ、迷い、剣は鈍りきっていた」
ルークは黙って聞いている。
言い返すことはできない。
すべて、その通りだった。
「……………ですが、よくよく考えてみると、それは私も同じでしたね」
「ペルギウス様の問いに答えられず、王を志した信念を忘れ、なぜ王になりたいのかもわからず悩んでいました」
アリエルは、自嘲するように笑った。
「無様な王です」
「アリエル様……」
「でも、あなたはそれでも私を見捨てず、一緒に悩んでくれましたね」
その言葉に、ルークの目が僅かに見開かれる。
胸の奥が熱くなる。
「……それは、騎士として当然のことです」
ようやく絞り出した言葉。
アリエルは、ほんの少しだけ笑った。
「ええ、だからこそ、あなたを責めることなどできません」
アリエルが立ち上がる。
そして、深く頭を下げているルークの前まで歩み寄る。
「騎士ルーク。あなたを許します」
その言葉に、涙が滲む。
慌てて顔を伏せる。
それでも、こぼれ落ちた涙を止めることはできなかった。
「……ありがとう……ございます……」
震える声。
涙が、ぽたり、ぽたりと寝具へ落ちていく。
「ありがとう……ございますっ……!」
その肩が、小さく震えていた。
アリエルはそんなルークを静かに見つめる。
そして、そっと、その肩へ手を置いた。
「顔を上げなさい、ルーク」
ルークは涙で濡れた顔を上げる。
「あなたは、私の騎士でしょう?」
「……はい」
「なら、これからも私の隣にいてください」
ルークは目を見開いた。
「……はい!」
今度の返事には、迷いがなかった。
「この命ある限り、私はアリエル様の騎士です」
アリエルは微笑んだ。
「ええ。それでいいのです」
窓から差し込む光が、二人を照らしていた。
迷いは、すべて消えたわけではない。
疑念も、完全に消えたわけではない。
それでも、ルークは、もう一度立ち上がった。
今度は自分が何者なのかを、見失わないために。
騎士として、アリエルの隣に立つために。