翌朝。
アルブレヒトが宿の外へ出ると、そこにルークが立っていた。
朝の冷たい空気が、二人の間を静かに流れている。
昨日の戦いで負った傷は、すでに治療されている。
身体に大きな傷は残っていない。
だが、その表情はどこか硬かった。
「……アルブレヒト殿。少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ああ、わかった」
アルブレヒトが頷く。
二人は宿から少し離れた場所まで歩いた。人の少ない道を選ぶようにして、足を止める。
すると、ルークは突然、深く頭を下げた。
「昨日のことを…いえ、これまでのことを、謝罪させてください」
「……」
「私は、アリエル様を疑いました」
声が震えている。
「自分の迷いを正当化するために、周囲を疑った」
アルブレヒトは黙って聞いている。
「そして……あなたにも、失礼な態度を取りました」
「……ああ」
「申し訳ありませんでした」
頭を下げたまま、ルークは続ける。
「私は、騎士として大切なものを見失っていました。主を信じることも、主のために剣を振るうことも、自分自身で決めることすら……できなくなっていた」
「アリエル様を守ることよりも、自分が正しいのかどうかばかりを考えていた」
「……」
「アルブレヒト殿やルーデウス…殿を疑って、自分の迷いを、他人のせいにして……」
「私は……騎士失格です」
アルブレヒトは静かにルークを見る。
「そうだな」
否定しなかった。
だが、責めるような声でもなかった。
「お前は迷い、成すべきことを見失った。だが、主を…大切なものを守れなかったわけではない。多少はマシだ」
「そ、そうですか……」
ルークは、ほんの少しだけ息を吐いた。
だが、その胸に、ふと不安がよぎる。
自分はまた迷うかもしれない。
また間違えるかもしれない。
その時、自分はアリエルを守り切れるのだろうか。
「も、もし、いつか……私が主を守れなかったとき。私は、どうすればいいのでしょうか」
「
即答だった。
「……!」
先ほどまでの、どこか穏やかな声とは違う。
底冷えするような声だった。
「守るべきを守れない騎士に、存在価値はない」
ルークの背筋が伸びる。
「守れなかった時点で、騎士をやめろ」
「…………」
厳しい言葉だった。
アルブレヒトの瞳には、冗談も迷いもない。
「…だが、それでも騎士と名乗りたいなら、その時は俺が叩き直してやる」
アルブレヒトの口元が僅かに歪む。
「まあ、今度は腕の一本や二本は覚悟してもらうがな」
冗談めかした口調。しかし、目は一切笑っていなかった。
「…は、はい!」
ルークは反射的に背筋を伸ばした。
昨日の戦いを思い出す。
自分がどれほど無力だったのか。
だが、それでも、最後まで剣を手放さなかったことを。
ルークは剣の柄に手を添える。
「……分かりました。私は、もう迷いません」
「それは違う」
「え?」
「迷うこと自体は悪くない」
アルブレヒトは静かに言った。
「迷ったなら、考えろ。自分が何を守りたいのか、誰のために剣を握るのか」
「そして、決めろ」
ルークは黙って聞いている。
「決めたのなら、その道を進め」
「……はい」
ルークは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、アルブレヒト殿」
「礼はいらない」
「ですが――」
「俺はお前に、騎士として当然のことを言っただけだ」
ルークは顔を上げる。
その表情には、昨日まであった迷いが僅かに薄れていた。
「……私は、アリエル様の騎士です。この先、何度迷うことがあっても。それだけは、忘れません」
ルークは剣の柄を強く握る。
アルブレヒトは小さく頷いた。
「なら、行け」
「はい」
ルークは振り返る。
そして、今度こそ自分の意思で。
主のもとへ歩いていった。
■
その後、街を出発して数日。
一行はついに王都へとたどり着いた。
王都アルス。
アスラ王国の中心にして、世界最大級の都市。
小高い丘からその姿を見た時、ルーデウスとエリスは、あんぐりと口を開けた。
「でっか………」
思わず、そんな言葉が漏れる。
まず目に入るのは、遥か彼方まで続く巨大な都市だった。
建物がある。道がある。人がいる。
その全てが、どこまでも続いている。
そして、その中心。丘の上にそびえ立っているのが、王城だった。
銀色の外壁、幾つもの尖塔、幾重にも連なる巨大な建物。遠目に見ても、その威容は圧倒的だった。
シルバーパレス。
アスラ王国の王が住まう城。
王城を取り囲んでいるものは、それだけではない。王城の周囲には、巨大な城壁が築かれていた。まるで一つの要塞そのものだ。
高く、分厚い石壁。いくつもの塔が突き出し、その上には見張り台まで設けられている。
王城そのものを守るために築かれた、巨大な防衛線。あれを正面から突破するのは、軍でも容易ではないだろう。
そして、その城壁の外側。そこを取り囲むように、巨大な邸宅が並んでいる。
上級貴族たちの住む区画だ。
屋敷という言葉では収まらない。城と呼んだ方が相応しいものまである。
広大な庭園、複数の建物、高い塀。
それぞれが一つの領地のような規模を誇っていた。
そんな貴族街を、さらに外側の城壁が取り囲んでいる。
王城。それを守る城壁。上級貴族街。
そして、それらを守るさらに大きな城壁。
幾重にも重なった防衛線が、王都の中心を形作っていた。
「……これ、全部が王都なの?」
エリスが驚いて呟く。
だが、王都はそれでもまだ終わらない。
貴族街の外側から、ようやく一般の町並みが始まる。
石造りの建物、木造の家々、大通りを行き交う人々。
商店。宿。工房。
それらが隙間なく並んでいる。
そして街の中には、王都の巨大さを象徴するような建造物がいくつも存在していた。
遠くからでも目立つ巨大な闘技場。
騎士たちが鍛錬を行う広大な訓練場。
聖ミリス教団の神殿。
街の中を繋ぐ水道橋。
劇場が集まる一角。
商人たちが行き交う市場。
どこを見ても、人がいる。
どこを見ても、建物がある。
王都そのものが、一つの巨大な生き物であるかのようだった。
街を囲う城壁も、一つではない。中心部を守る巨大な城壁、その外側にも城壁があり、さらにその外側にも、壁が建てられている。
長い年月をかけて、街が広がるたびに、人が増えるたびに、新たな区画が作られ、それを守るために新たな城壁が築かれていったのだろう。
「すげー……」
「そうですか?ペルギウス様の城のほうが立派だと思いますが…」
「いや、ケイオスブレイカーもすごかったけど、これは都だし、また違う良さがあるっていうか…」
感動するルーデウスに、ペルギウスの城のほうがすごい、と言うアルブレヒト。空中城塞がすっかり気に入ったらしい。
「こほん。お二人とも、まずは私の別宅に移動しましょう。お話はその後で」
「ん、すまん。兄さん、まずは移動しましょう」
「ああ、そうだな」
そんな二人にアリエルが口を挟み、一行は王都へと入った。
■
王都の中は近づくと一般的な街並みをしており、一行は上級貴族の区画へと向かった。
ルークとシルフィを先頭に、アリエルが乗った馬車が続き、それをアルブレヒトたちが守る形だ。
「あれ……もしかしてルーク様とフィッツ様じゃないか……?」
「ホントだ……てことは、もしかしてあの馬車は……!?」
「アリエル様か!?」
「国王陛下のご病気を聞いて、戻ってらしたんだ!」
ルークとシルフィを見て、馬車がアリエルのものであると人々が気づき、声援がかけられる。
「キャー、ルーク様ー!」
「フィッツ様!」
「アリエル様ー! お帰りなさいませー!」
ルークは声援を受けるたびに、手を振り替えしている。対してシルフィは耳の後ろをポリポリと掻いており、少し恥ずかしそうだ。
「はー…すごい人気だ。追放されたって聞いてたから、意外だな」
「兄さん、失礼ですよ。アリエル王女は能力と王気を備えた方。当然の反応です」
「えー、でもアルも仕えはしないんだろ?」
「まあ、それは…そうですが…」
「てことはお前も侮ってたってことじゃん?お前も同じ穴の狢だぞ〜、うりうり〜」
「む、むじな?…言葉の意味はわかりませんが、馬鹿にされてる感じがします」
「どうでもいいわ!声援を受けると気分がいいわね!」
そんなことをアルブレヒトたちが話していると、町民たちが暮らす区画を抜け、貴族街へと入る。
貴族街では声援は鳴りを潜め、静かな行進が続く。そんな中、見回りをしていた騎士の一行とすれ違う。
すると、騎士の一行の内、一人の騎士が部隊長と思しき者に何かを言うと、アルブレヒトたちに走り寄ってくる。
「……!」
一行が各々の武器を構える。
「わわ…!わ、私ですよ!」
驚いた騎士は兜を脱ぎ、顔を晒す。
「エリス、アルブレヒトさん、ギレーヌ!お久しぶりです!」
「…イゾルテ!」
騎士はイゾルテだった。
イゾルテ・クルーエル。剣の聖地で出会った、水神流王級の剣士。水神レイダの弟子だ。
「久しぶりね。変な鎧着てるから、一瞬誰かと思ったわ」
「変な鎧って……これ、アスラ王国騎士団の正式な甲冑ですよ?かっこいいでしょう?」
「動きにくそうだわ」
「水神流は動かなくてもいいから、これぐらいが丁度いいんですよ」
会話を弾ませるエリスとイゾルテの二人。
突然走り寄ってきた騎士に注意していたシルフィたちも、武器を持ちつつも警戒をある程度解く。
「今は、この馬車の方に仕えているのですか? 町中では第二王女様が帰ってきた、という噂が飛び交っていますが、もしかしてこちらの方は……でもどうしてエリスが…あ、確か魔法都市シャリーアに留学しているという話でしたね。そこで知り合って、剣王だから雇われたという感じですか?」
とてもよく喋るイゾルテ。
エリスは静かだ。雪崩のような言葉を浴びせられ、腕を組んでいつものポーズをとっている。
「………………まあ、だいたいそんな感じよ」
どうやら、途中から聞いていなかったらしい。
きっと、この二人の会話というのはいつもこんな感じなのだろうな、とルーデウスは推察した。
「私はお師匠様の推薦で、騎士になる事になりました。正式な騎士の任命と共に、水帝の称号をもらえる予定です」
「そう、良かったわね」
「ええ」
そんな中、アルブレヒトが口を挟む。
「久しぶりだな、イゾルテ。元気そうで何よりだ。…レイダ殿はどうしている?」
「お師匠ですか?元気ですよ。今は王城の方にいるそうです」
「そう、か……」
アルブレヒトは、わずかに表情を曇らせる。
ここにイゾルテがいるということは、レイダもここにいるということ。つまり、敵であることがほぼ確定した。
「…?それがどうかしましたか?」
「いや、なんでもない。悪いが急いでいてな。これで失礼する」
「あ、そうでしたか。お忙しい所すみませんでした…エリスもまた!」
「ええ、またね!」
そう言って騎士の一行に戻っていくイゾルテ。
アルブレヒトたちもアリエルの馬車のもとに戻り、また歩み始める。
「…………」
歩きながら、考え込むアルブレヒト。
石畳を踏む音だけが、妙に耳に残る。
レイダと戦うことになる。
自分たちは剣を持つもの。根本ではいつか戦う日が来るかもしれないとわかっていた…つもりだった。
しかし、いざ本当に戦うとなると、どこか躊躇う自分がいた。
レイダには本当に世話になった。目を曇らせた自分に修行をつけてくれて、共にお茶を飲んで談笑した。脇に置くには、あまりにも温かな記憶。
今の自分にレイダを斬れるのだろうか。
オーベールに言われた言葉を思い出す。
『そういう甘いところ!嫌いではないですが、直したほうが良いですぞ!』
オーベールに言われた通り、自分は甘いのだろう。…それが、今は鬱陶しい。家族を守るのに邪魔だった。
(ルークに騎士としての道を偉そうに指南しておいて、自分も迷っているとは…何たる不覚)
アルブレヒトは考える。
(俺は、何を守りたい?誰のために剣を握る?)
(…決まっている。家族のためだ)
(……家族のためなら、俺は――)
■
時刻は夕刻を回り、ようやくアリエルの別邸に到着する。
各々部屋を割り当てられ、水浴びで旅の汚れを落とし、食事を取った後、アリエルがアルブレヒトとルーデウスに声をかけてきた。
「少し、よろしいでしょうか?」
「はい」
「ああ」
「ありがとうございます。それでは、こちらへ」
二人が案内された部屋には、すでに準備が整えられていた。
大きな机には王都の地図が広げられ、いくつもの紙束が置かれている。
貴族の名簿、王都の各施設に関する資料。
地図には小さな印がいくつも付けられていた。
アリエルは二人が席につくのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「私は、明日より動き始めます。ペルギウス様をお出迎えするための、そしてダリウス上級大臣を失脚させるための『場』を用意します。
私がいない間に寝返った貴族の確認に、情報収集、予め潜伏させておいた味方への連絡、各所への根回し……忙しくなります」
「はい」
ルーデウスが頷く。
アルブレヒトは黙ってアリエルを見ていた。
王都に着いたばかりだというのに、すでに次の戦いを見据えている。
これが王になるということなのだろう。
「ダリウスらに手を打たれぬように、早い段階で『場』を展開します。幸いにして、父上が病気という事で主要な貴族は王都に集まっていますので」
「どれほどの時間を使うつもりですか?」
「十日を目処に」
「了解です」
短い返事だが、ルーデウスの表情は真剣だった。
十日。長いようでいて、短い。
その間に敵が何を仕掛けてくるのかを考えているのだろう。
「既にこちらの手札は揃っています。それ以外にも手は打ちますが、基本的な勝利は疑いようがないものと考えております。また、可能性としては低いと思いますが、『場』において、苦し紛れに戦闘を仕掛けてくる可能性もあります」
敵も、黙って見ているわけではない。
こちらが準備をしているなら、向こうも準備をする。
その間に、何かを仕掛けてくる可能性は十分にある。
「こちらの戦力も十分にあるとは思いますが、万が一という事もあります。その前に、敵勢力の主要人物を削いでおきたいところです」
アルブレヒトは黙って聞いていた。
昼間、イゾルテから聞いた言葉が脳裏に残っている。
レイダは王城にいる。敵として立ちはだかる可能性は高い。
そして、自分はレイダと戦うことも、オーベールと戦うことも…迷っているのだろう。
だが、それでも――
「アリエル王女。その役目、俺に任せてくれないか」
「…アル?」
ルーデウスが不安そうにアルブレヒトを見る。
アリエルも僅かに目を見開いた。
「どうするおつもりですか?」
「前回の襲撃で、全員が揃っていては敵わないと相手も理解しているはず。そこで俺があえて孤立し、敵をおびき寄せる」
アルブレヒトは静かに答え、机の上の地図に視線を下ろす。
「ふむ、ですが、七大列強のアルブレヒト様が囮として使えるかどうか……」
「俺と戦うことは避けられないとオーベール殿は理解しているはず。絶好の好機として、俺を奇抜派の四人で囲む可能性はあるはずだ」
ルーデウスが不安そうに口を挟む。
「アル、いくらなんでも危険すぎだ。お前が強いのは分かってるけど、四人相手じゃ…」
「兄さん」
アルブレヒトがルーデウスを見る。
その瞳は、静かだった。
「俺を、信じてくれませんか」
一瞬、辛そうな顔をするルーデウス。そして、しばらく考えると、大きなため息をついた。
「……わかったよ。でも、危なくなったらすぐに逃げろ。逃げられなかったら、俺たちを呼ぶんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
念を押すように言うルーデウスに、頭を下げるアルブレヒト。
「まったく、この頑固弟が」
「すみません」
「謝るくらいなら、もう少し人の言うことを聞いてくれよ」
ルーデウスは呆れたように言う。
だが、その声音には怒りよりも、心配の色が強く滲んでいた。
「でも、これが最善だと思います」
「そうですね、こちらも戦力を分散させることになりますが、敵の主要人物を一人でも削げれば、その後の戦いは大きく楽になります」
アリエルが頷く。
「分かりました。アルブレヒト様にお願いしましょう」
「ありがとうございます」
そう言うと、アルブレヒトは静かに目を伏せた。
自分は迷っている。それはもう、認めるしかない。
だが、それでも家族は守る。
そのためなら、どれほど血で汚れようと構わない。
騎士は、静かに覚悟を決めた。
■
翌日。
早速アルブレヒトは一人で行動し、鎧姿で王都中を練り歩いた。
アリエルは『場』を整えるための準備を行い、ルーデウスたちはそれを護衛する。
暗殺者の襲撃は何度もあったが、肝心のオーベールたちは一度も襲撃を仕掛けてこなかった。
アルブレヒトが抜けたとはいえ、護衛には王級剣士が二人、王級魔術師と聖級魔術師が一人ずつ。まともに襲撃を仕掛けても、勝ち目はないと判断したのだろう。
このまま、何も起きないのではないかとルーデウスは思っていた。
しかし――
「いえ、オーベール殿は確実に仕掛けてきます。俺相手か、兄さんたち相手かわかりませんが、警戒はしておいてください」
「お、おう。わかった」
そうして、九日が過ぎた。
■
その夜。
月のない夜だった。
雲に覆われた空には、月明かりすらない。
王都の街路には、まばらな明かりだけが灯っている。
その中を、アルブレヒトは一人で歩いていた。
鎧が、かすかな音を立てる。
足音が石畳へ落ちる。
一定の間隔で、それだけが闇の中に響いていた。
ふと、アルブレヒトが立ち止まる。
「オーベール殿。奇襲は通用しませんよ」
闇夜に向けて、言葉を投げる。
返事はない。ただ、静寂だけが夜を満たしている。
しかし、しばらくして、一人、二人、三人、四人と、どこからか人影が現れ、アルブレヒトを囲むように立つ。
オーベール、ウィ・ター、ナックルガードの双子だった。
「……これはこれは。参りましたな。気づかれておりましたか」
オーベールが口を開く。
顔色は変わっていない。いつもの飄々とした態度。
だが、その手はすでに剣へ伸びている。
「一騎打ちはやめたのですか?」
アルブレヒトが問う。
少し、顔を歪めるオーベール。
「…奇抜派に正道はあらず。なんとしてでも嵐神の首を取らせていただきます」
そう言って、剣を抜くオーベール。
ウィ・ター、ナックルガードの双子――ナクル、ガドも剣を抜いた。
四本の剣が、月のない夜に鈍く光った。
「そうですか」
その言葉に感情は全く乗っていなかった。
アルブレヒトもストームルーラーを抜き、構える。
四人が、一斉に襲いかかった。
四方向。
四本の剣。
闇夜に紛れた黒い剣に、黒い鎧。視覚することも困難だ。
本来、回避不能、防御不能。
死は見えている。
しかし、アルブレヒトは一歩下がった。
次の瞬間、爆発的な風が吹き荒れた。
周囲の空気が、一気に膨れ上がる。
「……ッ!」
「くそっ!」
「うわぁ!」
ウィ・ター、ナクル、ガドがまとめて吹き飛ばされた。
石畳を転がり、壁へ叩きつけられる。
「ハァッ!!!」
だが、オーベールだけは違った。
真正面から嵐を切り裂く。風圧に身体を持っていかれながらも、なお前へ出る。
アルブレヒトの懐へと潜り込んだ。
ストームルーラーとオーベールの剣が噛み合う。
金属音が夜の街に響いた。
「……!」
重い。
まるで大木に切りかかっているような光景を、オーベールは幻視した。
「……ッッ!」
すぐに押し込まれる。
スリットの奥から見えるアルブレヒトの瞳には、何の感情もなかった。
「オーベール!」
吹き飛ばされたウィ・ターが態勢を立て直し、オーベールを助けようと剣を振るう。
アルブレヒトは鍔迫り合いをしていたストームルーラーを僅かにずらした。
「――ッ!」
そして、オーベールの腹へ蹴りを叩き込む。
「がはっ!」
肺の空気をすべて吐き出しながら、オーベールが吹き飛ぶ。
アルブレヒトは追わない。
そのまま、ウィ・ターへと振り向いた。
「―――」
その時。
ウィ・ターの脳内に浮かんだ一文字は、
死ぬ。
このままでは、死ぬ。
振り抜こうとしていた剣を、咄嗟に防御へ回す。
その直後、ウィ・ターを暴威が襲った。
壁のように迫る嵐。
渦巻き、うねり、悲鳴のような音を立てたそれは、容易にウィ・ターの剣を砕き、鎧にヒビを入れた。
「ぐがっ!!」
そのまま吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「…………」
オーベールの方に向き直るアルブレヒト。
それを、二つの刃が阻んだ。
ナクルとガドだ。
二人は夜闇に隠れ、前後を挟み、アルブレヒトを襲った。
完璧に隙をついた。
アルブレヒトの間合いの外から斬りかかる。
二つの剣は高速で、アルブレヒトの首に迫った。
しかし。
「遅い」
二人の剣は、風よりは遅かった。
目にも留まらぬ速さで、回転しながらストームルーラーを振るう。
だが、間合いの外。ナクルとガドの胴に、紙一重届いていない。
((獲った!))
二人の思考が、まるで鏡のように重なる。
奴は間合いを見誤った。この距離なら届かない!
剣を振るう双子。
―――しかし、その剣は誰も捉えることはなかった。
(あれ?)
(なんで?)
どしゃり、と地面に倒れ込む双子。
…まずい、こんな時に足を滑らせてしまったのか。早く立ち上がらなければ!
そう思い、手をつき、足を立てて、立ち上がろうとする。
だが、立てない。
(あれ?)
(あれ?あれ?)
足に力が入らない。
何度力を込めても、身体を起こそうとしても。
下半身が、まるで自分のものではないかのように動かなかった。
早く立ち上がらなければ。一刻も早く態勢を立て直さなければ、嵐神に斬られる。
だが、一向に足は言うことを聞かない。
(ガド……!)
(ナクル兄ちゃん……!)
二人は互いを求める。
助け合わなければ。いつもそうしてきた。
どんな時も、二人なら。
互いの姿を探す。
そうして、互いの姿を、見つめた。
「「…………え?」」
二人の声が重なった。
ナクルには、ガドには。下半身がなかった。
上半身のまま、地に伏せていた。
血がどくどくと流れ出る。
身体の熱が、急速に失われていく。
二人はようやく理解した。
届かなかったのではない。
避けたのでもない。
双子の剣が届くより先に、ナクルとガドはストームルーラーの間合いに入っていた。
一見届かなかったように見えたストームルーラーは、不可視の風の刃を纏っており、双子の腹を容易に切り裂いたのだ。
「ナクル、兄ちゃ……」
「ガ、ド…」
互いに手を伸ばす。ナクルに向けて、ガドに向けて。
アルブレヒトは何の温度もなく、双子の首を斬り落とした。
ほぼ同時に、ナクルとガドは絶命した。
「……ッ!これほど、までとは…!」
なんとか呼吸を取り戻したオーベールが呟いた。
舐めていたわけではなかった。
むしろ、最大限の警戒をしていたはずだ。
だから、四人がかりで闇討ちを行った。北帝一人、北王一人、北聖二人。
いくら神級とはいえ、一人では、と。十分に勝ち目があるはずだった。もし蘇ったとしても、囲んで何度でも殺し続ける策だった。
だが、初手で奇襲を見破られ、四人同時に襲いかかっても簡単に対応され、あっという間に二人殺された。
(甘いのは、こちらでしたか…!)
見誤っていた。
神級を。
嵐神を。
アルブレヒト・グレイラットを。
ウィ・ターがオーベールのもとへと駆けつける。
「撤退するっ!!」
そう言って、懐から玉を取り出し、地面に叩きつける。
黒い煙が噴き出した。
「……!」
視界が黒で塗りつぶされる。
濃い。あまりにも濃い。
アルブレヒトはすぐさまストームルーラーを振るった。
風が巻き起こる。
煙を吹き飛ば――せない。
煙は重く、動かない。
「……」
特殊な煙幕。
視界を遮るためだけではない。
風でも吹き飛ばされないように作られた、奇抜派特製の煙幕だった。
アルブレヒトは、静かに気配を探る。
右。
いや、違う。
左。
さらに遠く。
逃げている。
アルブレヒトは目を閉じる。
風を起こす。
煙幕を吹き飛ばすためではない。
風を、感じる。
空気の流れ。
建物の間を抜ける風。
そして、その中に混じる、僅かな違和感。
「……そこか」
不吉な風が、オーベールの身体を撫でた。
アルブレヒトの手に、雷が集まる。
巨大な雷の弓矢を具現化する。
"奇跡"雷の大弓。
弦を引き絞る。
「――二度目は、ない」
放つ。
轟音。
雷光が闇を裂いた。
「なっ――!?」
煙幕の向こうから声が響く。
オーベールが反応する。
だが、間に合わない。
雷の矢が迫る。
「オーベェェェル!!!」
その前に、ウィ・ターが飛び込んだ。
雷撃が、その身体を貫く。
「――――」
声すら上がらなかった。
身体が、その場で僅かに跳ねる。
そして、力を失った。地面へ落ちる。
ウィ・ターは、絶命した。
「―――ッッッ!!!!!」
オーベールは走った。
止まってはいられない。
仲間が命を懸けて作った時間を、無駄にはできない。
少し遅れてアルブレヒトが追う。煙幕を抜ける。
オーベールは街路を駆け抜ける。
そして、川へとたどり着き、飛び込む。そしてそのまま川につながっていた下水道へと逃げた。
「……!」
アルブレヒトも続く。
水面を割って川へ飛び込む。
鎧のまま器用に泳ぎ、下水道へと潜り込む。
「な……」
だが、その先には、いくつもの分岐があった。
王都の地下に張り巡らされた下水道。
暗闇、狭い通路、複雑に入り組んだ道。
「……くっ!」
アルブレヒトは走る。
足音を探す。
気配を探す。
ストームルーラーで風を巡らす。
だが、もう、どこにもいない。
「…………」
静寂だけが残っていた。
アルブレヒトは立ち止まる。
握ったストームルーラーから、僅かな風が消えていく。
「………くそっ」
結局、オーベールを斬ることはできなかった。
殺すつもりだった。
覚悟したつもりだった。
だが、目の前で誰かが誰かを庇った瞬間。
その一瞬だけ、身体が止まった。
アルブレヒトは拳を握る。
胸の奥に、重いものが残っている。
自分は甘い。
オーベールの言った通りだ。
だが。それを今さら、どうすればいい。
答えは出なかった。
ただ、翌日には決着がつく。
アリエルの『場』は、すでに整っている。
十日。
長いようで短い時間だった。
そして、明日。
全てが決まる。