また、今話を読む前に活動報告をご覧いただけるとお話がわかりやすくなりますので、ぜひ。
光が奔る。
脇に控えていたペルギウスの配下、『光輝』のアルマンフィが、光速でレイダの背後を取る。
そして、すぐに両断され、光の粒子となって消滅した。
次に動いたのも、ペルギウスの配下『波動』のトロフィモス。
彼は手をレイダに向けて、何かを放とうとした。
だが、レイダが一瞬、剣を傾けただけで、トロフィモスは真っ二つになった。
彼もまた、光の粒子となって消滅する。
「誰も動くんじゃないよ。こうなりたくなかったらね」
『剥奪剣界』。範囲内で動いたものに反応して、すべてを切り捨てる結界。
――動けない。
誰も、動けない。
呼吸すら、意識しなければならなかった。
吸う。吐く。
それだけの動作が、命懸けになる。
指一本動かせない。衣服の裾すら、揺らせない。
誰かの額から、一筋の汗が落ちようとした。
「……っ」
それを見た瞬間、誰もが息を呑んだ。
汗の雫が落ちる。それだけで斬られる。そんな恐れがあった。
汗を拭うこともできない。顔を動かすこともできない。
ただ、その雫が落ちるのを見ているしかない。
ぽたり。雫が落ちる。
場は、完全にレイダが支配していた。
「……動く奴ぁいないようだね。それじゃ、オーベール」
「な、なんですかな……?」
「アリエルとペルギウスと……あと泥沼とアルブレヒトだね。さっさとそいつらの首を刎ねちまいな」
冷たく言い放つレイダ。
アルブレヒトとは一時期手ずから教えた関係ではあったが、剣を持ち対面した以上、レイダに一切の容赦はなかった。
「そ、某がか?」
「そうだよ。他に誰がやるんだい?」
「しかし……」
オーベールはそこで、ちらりとエリスとアルブレヒトの方を見た。
特に、アルブレヒトと目が合う。オーベールの目には強い迷いが見えた。
レイダはそれを横目で見て、据わった目のままチッ、と舌打ちをした。
「相手にエリスとアルブレヒトがいたのがいけなかったんだねぇ。森での襲撃にしても、夜道での襲撃にしても、半端な事やりやがって。あんたみたいな卑怯者でも、弟子や友人の前だと剣士っぽく振る舞っちまう」
レイダは苛立ちのまま罵り続ける。
「あんた、なんのために高い金もらって雇われてんだい?北帝って箔で金だけ取って、兄弟弟子を三人も失って。それで雇い主が死ぬのを指くわえて見てるためかい?」
「……」
「あんたぁ、もっと汚いはずだろう?」
「……そうであるな」
オーベールが動いた。
剣を抜き、アリエルのいる方向へと向かって、歩き出した。
「……なっ!これは!」
その時、城の警備をしていた者達が、部屋に突入してきた。
鎧姿の騎士たち。
「け、剣を捨て……!」
「動くんじゃないよ!」
レイダの一喝は、騎士を止めさせた。
しかし、その中に一人、忠告を聞かずに数歩、前に出る者があった。
その人物は、重圧の中で数歩歩き、兜を取り去った。
兜の下から現れたのは、水王イゾルテ・クルーエル。
「お師匠様、なぜ、これは、一体、どういう…?」
「ああ、イゾルテかい……」
「このような場で奥義を使うなんて……!」
「はいはい、説明してあげるよ。本日この場にて行われるのは、水神レイダと北帝オーベールの凶行さね」
「凶……行?」
イゾルテが眉をひそめ、レイダが言葉を続ける。
「二人は共謀し……そうさね、王竜王国にでも雇われてたって事にしようかね。莫大な金に目がくらみ、王国の要人を暗殺しようとしたのさ。アリエルと他何名かを惨殺した所で、たまたま居合わせた見習い騎士のあんたに斬られる。イゾルテ・クルーエルは英雄となり、水神流は存続する……」
イゾルテは、言葉を失った。
何を言っているのだろう。
自分の師匠が。自分を育ててくれた人が。
自分の知らないところで、こんなことを企んでいたというのか。
それとも、これは何かの冗談なのだろうか。
いつものように、こちらをからかっているだけなのではないか。そうであってほしかった。
「はっ……」
レイダが愉快そうに笑った。
「いい筋書きじゃあないか。物書きにでもなればよかったねぇ……そういう方向で頼むよ、グラーヴェルの坊や」
「何を馬鹿なことを言ってるんですか、お師匠様……っ!」
イゾルテが声を荒らげた。
考えるより先に、足が動いていた。
師匠のもとへ。一歩。
だが、二歩目を踏み出すことはできなかった。
殺気が膨れ上がる。
「――ッ!」
全身を貫くような圧迫感。
足が止まる。呼吸が詰まる。
剣を握る指先が強張る。
これ以上進めば斬られる。
相手は、水神レイダ・リィア。
まだ自分の手が届かない、高い、高い場所にいる人。
それでも。それでも、目の前にいるのは師匠なのだ。
剣の振り方を教えてくれた。水神流を教えてくれた。厳しく叱り、時には笑いながら茶を飲んだ。
自分を育ててくれた、大切な人なのだ。
「お師匠様……どうして……」
声が掠れる。
「どうして、こんなことを……!」
「悪いね、イゾルテ」
レイダは少しだけ目を細めた。
その声には、いつもの気安さが残っていた。
「そんな……!」
イゾルテは、歯を食いしばった。
何かしなければ。止めなければ。
このままでは、本当に王族たちが殺されてしまう。レイダが、本当に大罪人になってしまう。
けれど、身体が動かない。自分の剣では届かない。
師匠を止めるどころか、近づくことすらできない。
騎士たちも同じだった。誰もが剣を構えながら、踏み出すことができずにいる。
どうすればいい。
誰か。誰か、助けて。
その時、イゾルテの視線が部屋の奥へと向いた。
玉葱のような鎧を身に纏った青年。
アルブレヒト・グレイラット。
彼は、先ほどから一言も発していなかった。
「…………」
ただ、じっと考え込んでいる。
その姿を見た瞬間、イゾルテの胸にかすかな希望が灯った。
彼なら。彼なら、何とかしてくれるかもしれない。
剣の聖地で見たあの圧倒的な剣技。神級になったとも聞く。
今ここで、彼が動いてくれれば。
誰かが、この状況を変えてくれれば。
イゾルテは、無意識に一歩踏み出そうとした。
殺気がさらに強まる。
それでも、今度は足を止めなかった。
「アルブレヒトさん……!」
声が震えた。
彼が、こちらを見る。
兜のスリット越しに、青い瞳と目が合う。
その時、イゾルテの中で張り詰めていたものがわずかに緩んだ。
「お願いです……!」
自分でも驚くほど、弱々しい声だった。
水王として。騎士として。師匠の弟子として。
本来なら、自分で何とかしなければならない。
誰かに頼るのではなく、自分の剣で道を切り開かなければならない。
「どうか……お師匠様を……止めてください……!」
それなのに、言ってしまった。
師匠を止めてほしいと。
自分では止められないから、代わりに止めてほしいと。
それは、あまりにも身勝手な願いだった。
アルブレヒトに何をさせるつもりなのか。
相手は水神レイダなのだ。彼女がどれほど強いか、イゾルテ自身が誰よりもよく知っている。
それでも、どうしても、彼に縋らずにはいられなかった。
「アルブレヒトさん……!」
もう一度、名前を呼ぶ。
今度は、先ほどよりも切実に。
助けてほしい。誰も死なせたくない。
師匠にも、こんなことをしてほしくない。
どうか、誰か。
どうか――。
「……………」
アルブレヒトは、応えなかった。
イゾルテの声を聞いていないわけではない。
視線は、確かにこちらを向いていた。
それなのに、彼は何も言わなかった。
「……アルブレヒト、さん……?」
イゾルテの声が、か細くなる。
胸の奥に灯った希望が、少しずつ揺らいでいく。
どうして。あなたなら、何とかしてくれると思ったのに。
どうして、何も言ってくれないの。
アルブレヒトは応えない。
ただ、じっと考え込んでいた。
何かを見極めるように。何かを決断するように。
そして、レイダが静かに口を開いた。
「……はやくやりな、オーベール」
「……」
「なんだい、北神流の地位が下がるとか考えてんのかい?ふざけんじゃないよ、あんたの不手際の尻拭いをしてやってんだ。今更尻込みするんじゃないよ、覚悟を決めな」
オーベールは唇を噛み、拳を強く握った。
そして剣を持ち直し、アリエルに向き直る。
だが、剣が震えている。躊躇しているのだ。
しかし、オーベールもいつまでも迷ってはいないだろう。アリエルに凶刃が振り下ろされるのは、遠くない未来だった。
レイダたち以外の、誰もが動けない。
イゾルテもまた、立ち尽くしていた。
助けを求めた相手は、まだ動かない。
どうすることもできない自分が、ただそこにいた。
「…………」
イゾルテは唇を噛みしめた。
それでも、アルブレヒトから目を逸らせなかった。
彼が動いてくれると、信じたかった。
信じるしかなかった。
そして――レイダたち以外の、誰もが動けない中。
ただ一人。アルブレヒトだけが、覚悟を決めて進もうとしていた。
「やめろ、アル…!死ぬぞ…!」
その気配を察知し、必死に止めるルーデウス。
剥奪剣界。
ほんの僅かでも動けば、神速の剣が襲いかかる。
そんな領域に自ら踏み込もうとしているのだ。止めない理由などなかった。
「大丈――」
「蘇るから大丈夫、なんて言ったら絶対許さないぞ。お前だって無限に生き返れるわけじゃないだろ……」
アルブレヒトの言葉を遮るルーデウス。
その声は震えていた。
弟が目の前で斬られるかもしれない。その恐怖をどうしても抑えられない。
「大丈夫です」
「だから――!」
ルーデウスは思わず声を荒らげる。
だが、アルブレヒトは動じない。その顔は、いつもと変わらなかった。
冷静で、静かで。そして、決意だけがはっきりと宿っている。
「策があります」
「……!」
「少し賭けにはなりますが、うまくいけば一度も死なずに剥奪剣界を突破できます」
「…本当、なのか?」
「本当です」
ルーデウスは弟の瞳を見つめた。
嘘をついているようには見えない。
かといって、安心できるわけでもなかった。
策がある。その言葉を信じるしかない。
だが、もし失敗すれば――
「…………」
「このままだとアリエル王女も、兄さんも死んでしまう。危険でもやるしかないんです」
「だけど……」
ほかに方法はないのか。
お前が命を懸ける必要が、本当にあるのか。
言いたいことは山ほどあった。
けれど、目の前の弟がもう決めてしまっていることも、ルーデウスには分かっていた。
「俺を、信じてください」
ルーデウスは顔を歪めた。
しばらく弟を見つめたあと、大きく息を吐く。こういう時のアルブレヒトは絶対に譲らない。昔からそうだった。
誰かを守ると決めた時。そのために自分が傷つくことを、まるで当然のように受け入れてしまう。
そして、そんな弟を止められた試しはほとんどない。
「……あー、もう。なんだかんだ、毎回言いくるめられてる気がしてきた。…わかったよ、好きにやれ」
ルーデウスは苦笑する。
それでも、その顔には心配が消えていない。
「でも、絶対死ぬんじゃないぞ」
「はい」
アルブレヒトは短く応えた。
そして、前を向く。
踏み出そうとした、その時だった。
視線の先に、イゾルテがいた。
「…………アルブレヒトさん!」
悲痛に歪んだ顔。
助けを求める瞳。
師を止めてほしい。
この状況を終わらせてほしい。
その願いが、痛いほど伝わってくる。
アルブレヒトは、ほんの一瞬だけ彼女を見つめ――目を逸らした。
そして、ついに一歩、踏み出した。
「―――あたしは、忠告したよ」
黄金の剣が煌めく。
速い。
目で追うことさえ難しい一閃。
剣筋が通り過ぎた時には、すでに結果が出ていた。
アルブレヒトの胸が、鎧ごと袈裟懸けに裂かれる。
鮮血が弾け、傷口から臓腑がこぼれ出そうになる。
「―――ッ!?」
驚愕するレイダ。
確実に胸を真っ二つにしたはずだった。しかし、なぜか皮一枚アルブレヒトは耐えている。
「――――!!」
"奇跡"惜別の涙。致命傷であっても、命を踏みとどまらせる奇跡。パーティが始まる前、念のためにかけておいた奇跡だ。
しかし、ほんの瞬きほどの時間しか稼げない。命を繋ぎ止めている間に、次の一撃を受ければ終わる。
レイダはすぐさま剣を返した。
二の太刀が迫る。
だが、その一瞬で十分だった。
アルブレヒトの手が動く。
傷口から血を滴らせながら、腰の剣を抜き放つ。
黄金の剣閃が奔る。
それよりも早く――ストームルーラーが振るわれた。
嵐と、剣が激突する。
轟音が会場を揺るがした。
「――チッ!」
何度も、黄金が煌めく。
神速の剣が、間断なくアルブレヒトへと襲いかかる。
そのたびに、嵐が唸った。
風が剣筋を逸らし、暴風が黄金の刃を受け止める。
激突するたび、空気が震え、ずれた剣閃が床を傷つける。
アルブレヒトは止まらなかった。
一歩。また一歩。
血を流しながら、嵐を纏って前へ進む。
レイダの剣を相殺しながら、剥奪剣界の中心へと、ゆっくりと歩き出した。
「計画変更だ!オーベール、ダリウスを連れて逃げな!」
レイダの判断は早かった。
「な、なぜダリウスを?グラーウェル殿下ではなく…?」
「ま、あたしみたいな婆でも、恩を忘れないってことさね」
オーベールはなおも何か言いたげだったが、やがて口を閉じた。レイダの判断に従い、ダリウスを連れてその場から離れていく。
その背中を見送ることもなく、レイダは正面へ向き直った。
そして、アルブレヒトが、レイダに迫る。
最初に負った傷も、片手に持った聖鈴の奇跡で治癒した。
鎧には血がこびりついている。
それでも、その足取りに乱れはなかった。
ゆっくりと、ゆっくりとレイダに近づく。
一歩。また一歩。
ゆっくりと。
「……っ」
レイダの剣が閃く。
黄金の軌跡が、幾重にも走った。
一歩踏み込めば斬られる。
腕を動かせば斬られる。
息をすることさえ躊躇われるほどの剣界。
それでも、アルブレヒトは止まらない。
轟々と吹き荒れる嵐が、その身を包んでいる。
レイダの剣閃が迫る。
無数の斬撃が、あらゆる方向からアルブレヒトへ襲いかかる。
だが、そのすべてが、嵐に阻まれた。
黄金の剣閃が風に弾かれる。
弾かれ、砕ける。そのたびに、黄金の火花が宙に散った。
風の中で、黄金が弾ける。
ひとつ。またひとつ。
アルブレヒトが一歩進むたび、その光が増えていく。
まるで、荒れ狂う嵐の中で、黄金の花が次々と咲いているようだった。
アルブレヒトは歩く。
一歩。また一歩。
レイダとの距離が、少しずつ縮まっていく。
「…………」
レイダの目が細くなる。
剣閃がさらに速くなる。
だが、それでも止められない。
アルブレヒトは、ただ前を見る。
剣を構え、嵐を纏い、ゆっくりと。
恩人へ向かって歩いていく。
ふと、アルブレヒトの脳裏に、遠い日の光景が浮かんだ。
剣の聖地で過ごした、あの日々。
それは冬が終わり、春が近づいていた日だった。
いつものようにレイダから修行を受けていた時、風に乗って金色の花びらが流れてきた。
ひらり。
ひらり。
花びらは二人の間を通り抜け、雪の残る地面へと落ちていく。
『…アルブレヒト、ちょっと修行を中断するよ』
『…?どうかしましたか?』
『ちょっと、お花見でもしようかと思ってね』
そう言って、レイダは悪戯っぽく笑った。
連れられていった先には、見渡す限りの黄金の花畑が広がっていた。
春の陽射しを受けた花々が、風に揺れている。
あまりにも穏やかな景色だった。
『見事なもんさね。どうだい?たまには修行も忘れて、ゆっくりお花見でもしようじゃないか』
『…お断りします。俺に花を愛でている時間はありません』
その時はそう言って去ってしまった。
今思えば、どうして断ってしまったのだろうか。
どうして、今になって思い出してしまったのか。
どうして、あの時の自分は、ほんの少し立ち止まることすらできなかったのだろう。
後悔ばかりだ。
もっと言葉を重ねればよかった。
もっと時間を共にすればよかった。
あの花畑で、レイダの隣に座っていればよかった。
いや、結局剣を交えることになるのなら、そんなことはしなくてよかったのかもしれない。そう思おうとしても、今はただただ無性にむなしかった。
本当に彼女には世話になった。
だが、ここで彼女を見逃すわけにはいかない。
家族のため、血で汚れる覚悟はもうできている。
しかし――
ついにレイダの眼の前に立つアルブレヒト。
轟々と吹き荒れていた嵐が、静かに収まっていく。
黄金の火花が消える。
剥奪剣界は、解除されていた。
「強く、なったねえ…」
感慨深そうにつぶやくレイダ。
「…レイダ殿。剣を引く気はありませんか」
アルブレヒトは、静かに問いかける。
まだ、間に合うのなら。ここで剣を収めてくれるのなら。
そんな願いが、ほんの僅かに残っていた。
「ないね。ダリウスを殺させる気はない」
言葉少なに否定するレイダ。
「……………そうですか」
本当に悲しそうに、残念そうに目を伏せるアルブレヒト。
しかし、それは一瞬だけで、すぐに向き直る。
「では」
「ああ」
短い言葉を交わす。
それが、最後だった。
一歩、踏み込む。
ストームルーラーが閃いた。
風を纏った刃が、レイダの胸を貫く。
心臓を、一突き。
首は落とさない。死体はなるべく綺麗にしたかった。それがアルブレヒトの唯一の慈悲だった。
びくり、と一瞬身体が震え、レイダの身体から力が失われていく。
レイダは、薄く笑みを浮かべていた。
その笑みが何を意味していたのか、アルブレヒトには分からなかった。
ただ、その身体から温もりが失われていくのを感じていた。
「お、おばあちゃん!!!」
イゾルテの絶叫が響く。
アルブレヒトは優しく、ゆっくりとレイダの胸から剣を引き抜いた。
血に濡れた刃を引く手つきは、驚くほど静かだった。
そして、崩れ落ちるレイダの身体を、そっと抱き留める。
つい先ほどまで、あれほどの剣技を振るっていた人とは思えないほど、その身体は軽かった。
「おばあちゃん!おばあちゃあん!」
イゾルテが駆け寄り、レイダの亡骸を奪うように抱きしめた。
亡骸に縋りつき、泣き続けるイゾルテ。
「おばあちゃん……っ」
声が震える。
涙が頬を伝い、レイダの衣服へと落ちていく。
「うああああ!ああああ!!」
アルブレヒトは、それから目を逸らさなかった。
自分がやったことだ。自分が産んだ悲劇だ。せめて、向き合うのが礼儀だと思った。
「……なんで」
不意に、イゾルテの声が漏れた。
レイダの身体を抱きしめたまま、俯いている。
「なんで……っ」
握りしめた拳が震えていた。
やがて、イゾルテは顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、アルブレヒトを捉えた。
「なんで、助けてくれなかったんですか……!」
「…………」
「アルブレヒトさんなら…!あなたなら、助けられるって…!あなたなら、おばあちゃんを止められるって、思ったのに……!!」
アルブレヒトは応えない。
「なのに、なんで……!」
イゾルテの顔が歪む。
責めたいのだ。目の前の男を。祖母を殺した男を。
どうして助けてくれなかったのかと。
どうして殺してしまったのかと。
けれど、その言葉を口にしている自分自身が、誰よりも分かっていた。
アルブレヒトだけを責めることなどできない。
自分は、彼に助けを求めた。祖母を止めてほしいと願った。
けれど、それまでに自分は何をした?
レイダの前に立ったのか。
剣を抜き、止めようとしたのか。
それとも、命を懸けてでも祖母を止める覚悟を示したのか。
違う。
何もできなかった。
レイダの圧倒的な力に気圧され、身体を強張らせて。
どうすればいいのか分からず、ただ立ち尽くして。
最後には、アルブレヒトに縋った。
自分では何もできないから。彼なら何とかしてくれると、信じたかったから。
そのくせ、レイダが死んだ今になって、彼を責めている。
「……あなたなら、助けられたのに……!」
最後の言葉は、叫びというより、悲鳴に近かった。
アルブレヒトは、何も言わなかった。
できなかったのか。しなかったのか。
その違いを今ここで説明したところで、何になるのだろう。
レイダは剣を引くつもりがなかった。
ダリウスを守るために、命を懸けた。
そして、自分もまた、守るべき家族のために彼女を斬ることを選んだ。
善悪を問うことは意味がない。
ただ、レイダを殺したのはアルブレヒトだ、という純然たる事実だけがあった。
「…………」
応えない。
アルブレヒトは、ただ静かに立っていた。
反論することも、言い訳することも、許しを乞うこともせず。まるで、彼女の言葉を一つ残らず受け止めるかのように。
いや、受け止めなければならないのだ。
これは、自分が選んだ結果なのだから。
ふと、テーブルに供えられている花が視界に入る。剣の聖地で見た、黄金の花だった。
今さら花を供えたところで、何かが変わるわけではない。
それでも。せめて、最後に一輪だけ。
アルブレヒトはレイダの亡骸の傍らに、黄金の花を静かに置いた。
そして、立ち上がる。
イゾルテに背を向ける。
彼女に許してもらおうとは思わなかった。
許してほしいと願うことさえ、今はできなかった。
背後から聞こえる嗚咽に、足が止まりそうになる。
それでも、振り返らなかった。
「兄さん、行きましょう。オーベール殿たちを追わないと」
「…………ああ、わかった」
ルーデウスは何か言いたげにしていたが、状況がそれを許さない。
オーベールは、ダリウスは逃げたままだ。
ダリウスが死なない限り、この戦いは終わらない。
■
ダリウスとオーベールを追う。
エリス、ギレーヌ、ルーデウスと共に、アルブレヒトは廊下を駆けていた。
「こっちだ!」
先頭を走るギレーヌが叫ぶ。
鋭い嗅覚が、逃げた二人の残した気配を追っている。
王宮の廊下を、四人の足音が駆け抜けていく。
絨毯を踏み、角を曲がり、さらに奥へ。
「……見えた!」
ダリウスたちが逃げてからしばらく経っていたはずだが、あっさりと追いつく。
ダリウスはその太りきった巨体をオーベールに抱えられ、ぜぇぜぇと息を吐きながら廊下を歩いていた。
走ることすらできない。オーベールがいなければ、とうにその場にへたり込んでいただろう。
「………!」
オーベールは鋭い視線で後ろを振り返ると、ダリウスの首根っこを掴み、近くの部屋へと逃げ込んだ。
すぐにアルブレヒトたちもその部屋に駆け込む。
扉を蹴り開ける。
部屋には、へたり込んだダリウスと、剣を抜いたオーベールが待っていた。
「……く、くっ!」
ダリウスはへたり込みつつ、ルーデウスとアルブレヒトを睨みつけた。
「こ、こんな馬鹿な事があってたまるか。こんな、こんなのはおかしい」
「しかしなぁダリウス殿。長い人生では、こうした事もありましょう。今は腹を据え、窮地を脱するべく頭を使うべきかと思いますが?」
喚くダリウスに、返事をするオーベール。
しかし、ダリウスは真っ赤な顔で反論する。
「儂は神の言う通りにしたのだ!その儂が追い詰められるなど、あってはならん!」
「……やれやれ、信心深いことですが……ならせめて、今は息を整えつつ、某の勝利を祈っていただけませんかねぇ」
軽口。
いつものオーベールらしい声音。
だが、その目だけは笑っていなかった。
「『北帝』オーベール・コルベット」
アルブレヒトがストームルーラーを中段に構え、エリスが剣を抜き大上段に、ギレーヌが居合の構えを取った。
それぞれの殺気が、狭い室内へ満ちていく。
「『嵐神』アルブレヒト・グレイラット」
「『剣王』エリス・グレイラット」
「同じく『剣王』ギレーヌ・デドルディア」
その時、ダリウスが跳ねるようにエリスを指さした。
「その赤毛!ボレアスか!貴様、ボレアスの者だな!」
露骨に顔をしかめるエリス。
「……もう違うわ」
「儂は、儂はボレアスには十分な便宜を計ってやったぞ!」
ダリウスはエリスの言葉など聞かず、唾を飛ばしながら喚き続ける。
「フィットア領消滅の際にも、金を出してやった!」
必死に自分の功績を示すダリウス。
「私には関係ないわ!」
だが、エリスは斬って捨てた。
「ジ、ジェイムズも助けてやった!」
ジェイムズ。現在のボレアスの当主、エリスの伯父のことだ。
「貴族たちの総攻撃で潰されかかっていたボレアスを立てなおしてやったのも儂だぞ!その甲斐あって、フィットア領の復興も順調に進んでおる!」
ルーデウスが呆れたように口を開く。
「王都に来る途中で見てきましたが、フィットア領はまだ全然復興が進んでいないようですが」
「聞いたふうな口を利くな若造!ボレアスが完全に潰されていれば、今頃はほかの領主共がフィットア領を切り売りし、今よりもっと荒んでおったわ!」
それは一面では事実だった。
しかし、ダリウスは決定的な失敗をしている。
「それなら、サウロスの爺さんも助けてくれればよかったのに……」
思わずルーデウスがぽつり、と呟くとダリウスの顔色は劇的に変わる。
「サウロス!?馬鹿を言うな、あんな現実の見えていない猪武者に何ができる!後先考えずにフィットア領復興にボレアスの全財産を使おうとした男に!」
先ほどまでの必死な弁明が、いつしか憤怒に変わっていた。
「儂は、その事で泣きついてきたジェイムズを助けてやった!強引に事を進めるサウロスを亡き者とし、ジェイムズが当主となれるように手引もしてやった!」
ダリウスは、もはや周囲の反応すら目に入っていない。
自分の正しさを証明しようと、ただひたすらに言葉を重ねていた。
「ボレアスの家が未だに存続しておるのは、フィットア領が未だに存在しておるのは、すべて儂の手によるものだ!だから助けてくれ!見逃してくれるだけでいい!」
唾を飛ばして喚き散らすダリウス。致命的な失言をしたともわからずに。
「つまり、あんたはサウロスお祖父様の仇ってわけね」
「なるほど、そういう事か」
エリスの言葉に、ギレーヌが頷いて、獣のように歯をむき出しにして剣を構える。
「ならば、斬る」
「ひっ」
ダリウスが短く悲鳴を上げ、オーベールが深々とため息をついた。
「交渉決裂ですなぁ」
剣を構え直すオーベール。
真正面から、アルブレヒトたちと向き合う。
「思えば、真剣勝負は三度目ですな。これほどまでに戦うことになるとは思いませんでした」
「…それは、オーベール殿がいつも逃げるからでしょう」
「ははは!確かにそうですな!」
カラカラと笑うオーベール。
そして、笑みを消す。
「……ですが、今度は逃げませぬ」
声が落ちる。
その声音には、先ほどまでの軽さがなかった。
「いざ、尋常に」
アルブレヒトたちは腰を深くし、構える。
オーベールも剣を握り、構える。
戦いは、荒々しく始まった。
「ガアアァァァァ!」
「ウラアアァァァ!」
エリスとギレーヌが、ほとんど同時に踏み込んだ。
剣王二人による挟撃。左右から迫る剣閃が、オーベールを斬り裂こうとする。
しかし、その足元にはすでに罠が仕掛けられていた。
床に敷かれた赤い絨毯。
その上に、周囲へ紛れるように置かれた小さな赤い玉。
「あっ!」
「むっ!?」
破裂音が響いた。
次の瞬間、粘着性の高い液体が飛び散り、二人の足の裏を絨毯へと縫い付けた。
北神流奇抜派――『赤墨』。
まともに剣を交えることすらせず、相手の動きを封じるための奇策だった。
「『水流』!」
ルーデウスは水魔術で二人の足元を洗い流す。赤墨は水に弱い。オルステッドに事前に聞いていた通りだった。
しかし、隙をついてオーベールは二人の間をすり抜け、ルーデウスに迫る。
それを庇うようにアルブレヒトが立つ。
オーベールは止まらない。
両手に握った二本の剣を、勢いよく振り下ろした。
アルブレヒトはストームルーラーを横に構え、二本の刃を受け止める。
金属音が部屋に響いた。
その瞬間、オーベールが剣を手放した。
「――!」
空中へ投げ捨てられた二本の剣。
オーベールは上体を倒しながら、腰に残した一刀へと手を伸ばす。
北神流奇抜派奥義――『朧十文字』。
相手が防御した瞬間を狙い、倒れ込むような姿勢から腰の剣を抜き放ち、横一線に斬りつける。
初見であればまず対応できない。防御のために構えた武器が、そのまま致命的な隙を生む。
それこそが、この技の恐ろしさだった。
しかし、この技も既にオルステッドによって割れている。
アルブレヒトは、ストームルーラーから右手を離し、一閃を受け止めるように滑り込ませる。
渾身の闘気が込められたオーベールの刃は、手甲を切り裂き、肉へと届く。しかしそこで終わりだ。骨を断つには至らず、剣は止まる。
「ふっ!!」
左手も手放し、全力で拳を振り抜くアルブレヒト。オーベールは回避も防御も間に合わない。拳を受け、吹き飛ばされる。
「がはっ……!」
あまりにも、大きな隙。
ダリウスを守るものは、もういなくなった。
「ま、待て!やめ――」
ギレーヌは一切容赦なく、剣を振るった。
いとも簡単に、ダリウスの首が落ちる。
ダリウスは死んだ。
「かっ、かはっ……」
全力で殴られたオーベールは、まだダメージが抜けきっていないようで、苦しそうに声を上げている。
「は、はあ……やはり、無理でしたか……」
諦めたように、天井を見上げるオーベール。
そこには、先ほどまでの飄々とした笑みはなかった。
ただ、敗北を受け入れた剣士の顔があった。
「……兄さん、オーベール殿のことは、俺に任せてくれませんか」
「……ああ。わかった」
ルーデウスがエリスとギレーヌへ視線を向ける。
二人も何も言わず、後ろへ下がった。
アルブレヒトは、一人オーベールへ歩み寄る。
足音が部屋に響く。
オーベールは動かない。
逃げようとも、戦おうともしない。
「オーベール殿。終わりです」
「ふ、ふふ。そうですな」
掠れた笑みを浮かべるオーベール。それは、守るべき依頼主を守れなかった自嘲によるものに見えた。
「まさか、ここまで何もできないとは。北帝の称号も、返上しなければいけませんかなあ…」
アルブレヒトは、静かに答えた。
「…引いてください。もうあなたを殺す理由はない」
「そうですかな?某は何度もあなたたちの邪魔をしました。十分殺す理由にはなるのでは?」
「それでもです」
二度も襲われた。その遺恨がないわけではない。だが、ダリウスは死んだ。もう戦う理由はない。
「……ウィ・ターも、ナクルも、ガドも、某のせいで死にました。某だけが、生き残るわけには――」
俯くオーベール。握った拳が震える。
「本当に、らしくないですね」
それを見て、ため息をつくアルブレヒト。
「ウィ・ターも、ナックルガードの双子も、殺したのは俺です。あなたが気に病む必要はない。むしろ、剣士の死を過度に悼むのは冒涜だ」
オーベールが目を伏せる。しばらく何も言わない。
「それに、いつものあなたなら、何としてでも命を拾おうとするのではないですか?」
オーベールの肩が僅かに揺れた。
「……………そうかも、しれませんな」
小さな笑み。
それは、ほんの少しだけ、いつものオーベールらしい笑みだった。
「どうしてもあの三人のことが気になるなら、俺を殺しに来ればいい。いつでも相手になります」
あまりに苛烈な発言。
だが、それが剣士としてのアルブレヒトの励ましだった。
「仇討ち、ですか」
「ええ。だからそれまでは、生きていてください」
「……………そう、ですか」
オーベールは目を閉じた。
大きく息を吸う。肺に空気を入れる。ゆっくりと吐き出す。
そして、壁に手をつきながら、立ち上がった。
まだ足元はふらついているが、それでも自分の足で立った。
アルブレヒトを見つめる。
「……困りましたね。借りができてしまいました」
「借りなどではありません」
アルブレヒトは首を横に振る。
「……俺も、これ以上、恩人や友人を斬りたくないだけです」
「……甘いですな」
皮肉げに笑みを作るオーベール。
「だが、あなたらしい」
アルブレヒトは何も答えなかった。
足元に落ちていたオーベールの剣を拾い上げる。
そして、その柄をオーベールへ向けて差し出した。
「……また、会いましょう。今度は、敵としてではなく」
「…………」
オーベールはしばらく剣を見つめていた。
やがて、ゆっくりと手を伸ばし、剣を受け取る。
「ええ」
その声には、先ほどまでの諦めはなかった。
「では、またいつか」
「はい」
オーベールは背を向ける。
ふらつきながらも、一歩ずつ歩いていく。
その背中を、アルブレヒトは黙って見送った。