玉葱騎士、六面世界に立つ   作:プラザ合意

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第52話 愛憎

 

 アルブレヒトが意識を失ってから数日が過ぎた。

 ペルギウスの協力を得て、ルーデウスたちは転移魔法陣でシャリーアへと帰還し、クリフのもとへ向かった。

 アルブレヒトの呪いを抑えていた魔道具の胸当ては大きく裂け、完全に破壊されていた。傷そのものは塞がっていたものの、魔道具が壊れた影響は無視できない。何より、本人が目を覚まさない。

 クリフが手を尽くす中、ルーデウスは何度も弟の様子を確かめた。

 大丈夫だ。きっと大丈夫。

 そう言い聞かせても、不安は消えなかった。

 

 アルブレヒトのもとには、何人もの見舞い客が訪れた。

 パウロは、ベッドに横たわる息子の顔を見つめ、いつもの調子で軽口を叩こうとしていた。だが、結局は何も言えず、ただ大きな手でアルブレヒトの頭を撫でてから部屋を出ていった。

 リーリャは静かに祈り、ゼニスは言葉もなく、眠り続けるアルブレヒトの手を握っていた。シルフィも、ロキシーも、ザノバも、それぞれに心配そうな顔をしていた。

 ノルンとアイシャも、何度か見舞いに訪れた。

 二人にとって、アルブレヒトが危険な場所へ向かうのは、これが初めてではない。ベガリット大陸へ向かったときもそうだった。

 あのとき、アルブレヒトは帰ってこなかった。

 だからこそ、今回も心配していた。無事に帰ってきてほしいと、二人とも願っていた。

 そして、帰還した兄が目を覚まさないと聞かされたとき、二人はどうしていいのかわからなかった。

 

「……お兄ちゃん、まだ起きないの?」

 

 アイシャが尋ねる。

 

「……うん」

 

 ノルンは短く答えた。

 ベッドに横たわるアルブレヒトは、目を閉じたまま動かない。

 声をかけても返事はない。ただ、眠っている兄を見つめることしかできなかった。

 

「クリフさんが治療してくれてるんだよね」

「そうだよ」

「だったら……きっと大丈夫だよね」

 

 アイシャはそう口にした。

 けれど、ノルンに同意を求めるような声だった。ノルンはすぐには答えられなかった。

 大丈夫だと信じたい。けれど、ベガリットでのことがある。

 あのときも、ジークフリートが――兄が帰ってくると信じていた。だが帰ってこなかった。だからこそ、今度こそ無事でいてほしい。

 もう一度、あんな思いをするのは嫌だった。

 

 アイシャが、そっと兄の手に触れる。

 いつものように、少しだけふざけた調子で。

 

「……お兄ちゃん、早く起きてよ。起きたら、またいっぱいお話ししようよ」

 

 返事はない。

 アイシャの笑顔が、少しずつ崩れていく。

 

「……ねえ、お願いだから、起きてよ……」

 

 ノルンは妹の肩に手を置いた。

 何か言ってあげたかった。大丈夫だと。きっと目を覚ますと。

 けれど、自分自身が同じ言葉を信じきれないまま、妹に言うことはできなかった。

 ノルンは黙って、アルブレヒトの顔を見つめた。

 帰ってきてくれた。それだけで、よかったはずなのに。

 今はただ、目を開けてほしかった。

 いつものように、自分たちの声に応えてほしかった。

 

 

■

 

 

 ルーデウスは、ずっとアルブレヒトの傍にいた。

 

 オルステッドとの戦いで、アルブレヒトは命を懸けた。そして今回もまた、自分たちを守るために傷ついた。

 いつか本当に、目の前で弟を失うのではないか。そんな恐怖が、ルーデウスの胸の奥にこびりついていた。

 

「……ん。……ここは」

 

 だから数日後、アルブレヒトがゆっくりと目を開けたとき。

 

「よかった……! アル、よかった……!」

 

 ルーデウスは、思わず弟に抱きついていた。

 

「兄さん……」

 

 目を覚ましたばかりのアルブレヒトは、少し困惑したように兄を見つめた。

 それでも、振りほどこうとはしなかった。ルーデウスの腕が震えていることに気づいたからだ。

 自分がどれほど心配をかけたのか。それくらいはわかった。

 

「……心配をかけて、すみません」

「本当だよ……!まったく、お前は……!」

 

 ルーデウスは弟の肩を掴み、顔を確かめるように見つめる。文句の一つでも言いたかった。無茶をするなと。もう少し自分を大事にしろと。

 けれど、目を覚ましたばかりの弟を前にすると、どの言葉も喉の奥につかえてしまった。

 生きている。それだけで今は十分だった。

 ――だが。安堵の時間は、長く続かなかった。

 

「起きましたか」

 

 静かな声がした。

 ルーデウスとアルブレヒトが顔を上げる。

 部屋の入口に、一人の女性が立っていた。

 

 青い髪。整った顔立ち。背筋の伸びた立ち姿。

 腰には、見慣れた剣がある。

 

「……イゾルテ」

 

 アルブレヒトの表情が僅かに変わった。

 イゾルテ・クルーエル。

 アルブレヒトが斬った女の、たった一人の孫だった。

 

 アルブレヒトが上体を起こそうとする。

 だが、イゾルテはその動きを遮るように口を開いた。

 

「表に出てください」

 

 その目は濁りきっていた。怒りと、憎しみと、悲しみと、もう一つで。

 

「決闘です」

 

 

■

 

 

 時間は、王選の場へと遡る。

 

 会場では、意識を失ったアルブレヒトを抱えるルーデウスと、彼らを取り囲む人々がいた。

 そして、その前に立つ女性。

 イゾルテ・クルーエル。

 つい先ほどまで、彼女は祖母の亡骸を静かな場所へと安置していたはずだった。

 最愛の祖母を失ったばかりなのだ。泣き崩れていてもおかしくはない。怒りに任せて剣を振るっても、おかしくはない。

 

 だが、戻ってきたイゾルテの表情からは、感情らしいものがほとんど読み取れなかった。

 その静けさが、かえって周囲を緊張させた。

 周囲にいた者たちも、ほとんど反射的に身構えた。

 イゾルテにとって、アルブレヒトは祖母を殺した仇だ。その仇が、今まさに意識を失っている。抵抗することも、剣を抜くこともできない。仇討ちを果たすには、これ以上ない機会だった。

 

「アルブレヒト殿に手出しはさせん…!」

 

 ルークが一歩前へ出た。

 剣を抜き、イゾルテとの間に立ち塞がる。

 つい先ほど、アルブレヒトは自分の父を救ってくれた。

 彼がいなければ父は処刑されていた。その恩を返すのなら、今しかない。

 

 だが、イゾルテは驚くほど落ち着いていた。

 怒りに顔を歪めるでもなく、殺気を露わにするでもない。

 ただ、静かにアルブレヒトを見ていた。

 

「………死にましたか?」

 

 あまりにも平坦な声だった。

 その言葉に、ルーデウスは一瞬返答に詰まった。

 死んだと答えれば、彼女は諦めてくれるだろうか。

 いや、無理だ。そんな言葉を簡単に信じるとは思えない。仮に信じたとしても、一時しのぎにしかならないだろう。あとになって嘘だと知れば、余計に事態を悪化させるだけだ。

 

「…生きてます」

「そうですか」

 

 イゾルテは、ゆっくりと視線を落とした。その先にいるのは意識を失ったアルブレヒト。

 彼女の青い瞳は、ぞっとするほど冷たく濁っていた。

 そこには、憎しみがある。悲しみがある。そして、言葉にできない何かが、深く沈んでいるようにも見えた。

 イゾルテの手が、腰の剣へと伸びる。

 ルーデウスは思わず息を詰めた。やはり、殺すつもりなのか。

 当然だ。彼女の祖母を殺したのはアルブレヒトなのだから。

 どれほど事情があろうと、どれほど苦しい決断だったとしても、レイダはもう帰ってこない。

 イゾルテにとって、その事実は何も変わらない。

 

 ルーデウスはアルブレヒトを抱きしめる腕に力を込めた。

 今は戦いたくない。弟を連れて、一刻も早く治療を受けさせたい。

 だが、相手が剣を抜くというのなら、たとえ水王相手であろうと、退くわけにはいかなかった。

 

「…一刻を争う状態です。……どうか、今は見逃していただけませんか」

 

 苦々しい思いを押し殺し、ルーデウスは口を開いた。

 頼む。

 今だけでいい。

 せめて、弟を助ける時間をくれ。

 

「どうしてですか?」

 

 イゾルテは剣に手をかけたまま、首をわずかに傾げていた。

 

「どうして、私が今アルブレヒトさんを殺すと?」

 

 ルーデウスは言葉を失った。

 背後でエリスが、剣の柄にかけた手を緩めることなく、イゾルテを見据えている。その目には警戒があった。

 それに気づいているのかいないのか、イゾルテは淡々と続けた。

 

「早く行けばいい。もし治癒師の当てがないなら、紹介しましょう」

 

 誰も、すぐには言葉を返せなかった。

 レイダを殺した男を、見逃す。

 それどころか、治療の手助けまで申し出る。

 そんなことをする理由が、ルーデウスにはわからなかった。

 

「………え。……な、なんで?」

 

 思わず声が漏れる。

 

「…………」

 

 イゾルテは答えない。

 答えられないのかもしれなかった。

 彼女自身にも、わかっていないのだ。

 

 アルブレヒトを憎んでいる。

 祖母を失った悲しみは消えない。

 あの場で何もできなかった自分への悔しさも、アルブレヒトに助けを求めてしまったことへの屈辱も、確かに残っている。

 彼を許すことなどできない。許していいはずもない。

 それなのに、目の前で倒れている彼がこのまま死んでしまうことを想像すると、胸の奥がひどく痛んだ。

 そんな自分が、理解できなかった。

 どうして、憎い相手の命を惜しむのか。

 どうして、祖母の仇を前にして剣を抜けないのか。

 どうして、助けたいなどと思ってしまうのか。

 イゾルテは視線を落とした。倒れたアルブレヒトの顔を見る。

 つい先ほどまで、この男は自分の祖母と戦っていた。

 

 そして、殺した。

 

 自分が止められなかった祖母を。

 自分が救ってほしいと願った祖母を。

 それなのに、今はその男が死なないでほしいと願っている。

 矛盾している。どうしようもなく、矛盾している。

 

「………………なんで、でしょうね」

 

 自嘲するような声だった。

 

「憎いのに、辛いのに、苦しいのに。なんで……」

 

 言葉が途切れる。

 答えなど、見つからない。

 憎しみが消えたわけではない。悲しみが癒えたわけでもない。

 アルブレヒトを許したわけでも、許せるようになったわけでもない。

 それでも、死んでほしくない。

 その気持ちだけが、どうしても消えてくれなかった。

 

 

■

 

 

 グレイラット家の庭。

 柔らかな風が吹き抜ける中、二人の剣士が向かい合っていた。

 一人は、水神流王級剣士、イゾルテ・クルーエル。

 もう一人は、七大列強第六位、嵐神アルブレヒト・グレイラット。

 今さっきまで生死の境をさまよっていた男と、祖母を失ったばかりの女。

 その二人が、決闘をしようとしている。

 周囲には、グレイラット家の面々が集まっていた。

 ルーデウスとパウロは不安そうにアルブレヒトを見つめ、エリスはいつでも割って入れるように身構えている。シルフィは心配そうに、ロキシーもただならぬ表情でアルブレヒトたちを見つめる。

 ノルンとアイシャも、緊張した空気を感じ取っていた。リーリャも、ゼニスを支えながら神妙な面持ちでアルブレヒトたちを見つめる。

 庭の一角では、赤竜ヘルカイトが低い唸り声を上げていた。

 灼熱の瞳がイゾルテを睨みつけている。

 相棒に敵意を向ける者を、見過ごすつもりはないらしい。

 

「やめろ」

 

 冷たく言い放つアルブレヒト。

 ヘルカイトは苛立たしげに唸ったが、やがて、ふん、と鼻息を吐いて黙り込んだ。

 イゾルテはヘルカイトにも、グレイラット家の面々にも目を向けない。

 ただ、アルブレヒトだけを見つめていた。

 その手には、剣が握られている。

 

「……始めましょう」

 

 イゾルテが告げた。

 アルブレヒトは何も言わず、剣を構える。

 

 決闘が始まる。

 

 

■

 

 

 しばらく、二人は剣を構えたまま動かなかった。

 水神流は返しの剣。

 相手の攻撃を受け、その動きに応じて反撃する。

 相手が動かなければ、水神流も動かない。

 焦れて踏み込んでくるのなら好都合。攻めあぐねて隙を見せるのなら、それもまた好都合。

 待つことを恐れず、相手の動きを見極める。それが水神流だった。

 だから、イゾルテは崩れないはずだった。いつものようにできるはずだった。

 これまで何度も訓練を積んできた。丸一日剣を構え続けても、敵を待ち続けられるように鍛えてきた。

 

 なのに、彼を目の前にすると心が軋む。剣を握る手に力が入りすぎる。

 剣を握る手に、余計な力が入る。肩が強張る。呼吸が乱れる。

 落ち着け、いつも通りに。相手の動きを待てばいい。そうすれば、いずれ隙が生まれる。

 わかっている。わかっているのに。

 

 アルブレヒトは、何も言わなかった。

 ただ、こちらを見ていた。

 その眼差しが、耐え難かった。

 憐れむような。苦しむような。まるで、自分の痛みまで背負おうとしているかのような目。

 そんな目で見られる筋合いはない。祖母を殺したのはあなたなのに。私が祖母を救えなかったのに。

 どうして、あなたがそんな顔をするの。

 切っ先が震えた。

 僅かにぶれる。

 

「ッ……!ふッ、ふっ………!ぐううッ!」

 

 呼吸が乱れる。

 水王とは思えないほど、剣を握る手が震えていた。

 それでも、イゾルテは剣を下ろさなかった。下ろせなかった。

 アルブレヒトは、そんな彼女をじっと見つめていた。悲しむように。苦しそうに。

 

「………ッッッ!!!」

 

 見るな。

 そんな目で、私を見るな。

 

 私は、あなたに同情されるような人間じゃない。

 あなたを憎んでいる。

 あなたを許せない。

 なのに、どうして、そんな目をするの。

 

「うわああああああッッ!!!!!」

 

 イゾルテが叫んだ。

 そして、無茶苦茶に踏み込む。水神流の理合いも何もない。相手の動きを待ち、返しの剣で制する。そんな基本さえ忘れたような、稚拙な斬撃だった。

 水神流にあるまじき無様。

 それでも、今のイゾルテには、そうすることしかできなかった。

 

「アル!!」

 

 叫ぶルーデウス。

 アルブレヒトは何もしなかった。

 黙って、剣を受け入れた。

 

 刃が、アルブレヒトの喉元で止まる。

 皮膚が薄く裂け、赤い筋が浮かんだ。

 それだけだった。

 イゾルテの剣は、それ以上進まなかった。

 

「…なんで、なんで!何もしないんですか!あなたなら、当然止められたでしょう!」

「…………わからない」

 

 アルブレヒトは、静かに答えた。

 

「ふ、ふざけてるんですか!?私、私がっ、どんな思いで…!」

 

 言葉にならない。

 どんな思いで、あなたに助けを求めたのか。

 どんな思いで、祖母が死ぬところを見ていたのか。

 どんな思いで、今ここに立っているのか。

 そんなこと、あなたにわかるはずがない。

 わかってほしいと思うことさえ、間違っている。

 

「…………………すまない」

「……ッ!!謝るな!!!」

 

 イゾルテの目が見開かれる。悲鳴のような声だった。

 

「おばあちゃんを殺したお前がっ、謝って済まされると思うな!!!」

 

 アルブレヒトは、何も言い返さなかった。

 弁解もしない。自分が正しかったと主張することもない。ただ、剣を下ろした。

 そして、地に跪いた。両膝をつき、額が地面につくほど深く頭を下げる。

 

「……それでも、すまない」

 

 静かな声だった。

 

「すまなかった」

「……………!!」

 

 イゾルテは思う。

 どうして、こんなことになったのだろう。

 こんなことをしたいわけじゃなかった。

 

 おばあちゃんのことが好きだった。厳しく、優しく、いつも傍にいてくれた大切なおばあちゃん。

 剣を教えてくれた。間違えれば叱ってくれた。それでも、最後には笑ってくれた。大好きなおばあちゃんだった。

 そして、多分、アルブレヒトさんのことが好きだった。その眼差しが好きだった。冷たいようでいて、誰よりも温かいその心が大好きだった。

 誰かを守るためなら、自分が傷つくことを厭わない。目の前にいる人間を見捨てない。そういうところが、好きだった。

 だからこそ、おばあちゃんを止めてほしかった。おばあちゃんを殺さないでほしかった。

 アルブレヒトさんなら、何とかしてくれるかもしれない。

 そう思ってしまった。

 

 でも、おばあちゃんは死んだ。アルブレヒトさんに、殺された。

 

 おばあちゃんから剣を向けたことはわかっている。

 剣士同士の、譲れないものを懸けた戦いだったこともわかっている。

 正々堂々、正面から戦い、決着がついたこともわかっている。

 おばあちゃんは、自分の意志で戦った。

 アルブレヒトさんも、自分の信念を曲げなかった。

 

 どちらか一方が悪いわけじゃない。

 そんなことは、わかっている。わかっているのに。

 でも、でも。どうして、おばあちゃんのことを忘れられるだろう。おばあちゃんを殺した相手を、憎まずにはいられない。

 でも、アルブレヒトさんのことを嫌いになれない。憎いのに、愛しい。殺したいほど憎いのに、死んでほしくない。

 剣を振り下ろせば、すべて終わるはずだった。おばあちゃんの仇を討てる。自分の気持ちにも、決着をつけられる。

 そう思っていた。なのに、刃を振り下ろせなかった。

 殺意と愛情が、ごちゃごちゃに絡み合う。

 どちらかを選ぶこともできない。

 どちらかを捨てることもできない。

 

「ううっ、う゛う゛っ!!ああ゛!!」

 

 心に爪を突き立てられ、抉られているような痛みを感じる。

 痛い、痛い、痛い。

 憎しみの色と愛しさの色が、心でぐちゃぐちゃに混ざり合って、泥のような醜い色に変わる。

 吐き気がする。ただ謝り続けるアルブレヒトさんにも、剣を止めてしまった自分にも。

 いっそ殺してくれればよかった。こんな無様な自分は嫌だった。祖母の仇を前にして、剣を振るうことさえできない。水神流の使い手としても、おばあちゃんの孫としても、あまりにも情けない。

 

「ああああ゛あ゛あ゛ああああっっ!!!!」

 

 髪を振り乱して絶叫する。

 叫んでも叫んでも、心は収まらなかった。

 アルブレヒトさんは、微動だにしない。

 跪いたまま、頭を下げている。剣を振り下ろせば、首を落とせるだろう。

 今なら、できる。

 この男は抵抗しない。私を止めようともしない。

 

 でも、できない。

 

 自分から決闘だなんて言い出したくせに、なんてざまだろう。

 剣を捨てて、子供みたいに泣き叫んで。

 

 ……なんで、こんなことしてるんだろう。

 

 おばあちゃん。

 私、どうすればいいのかな。

 

 

■

 

 

 どれほどの時間が過ぎたのか。

 やがて、イゾルテは急に静かになった。あれほど泣き叫んでいたのが嘘のように、声も、身体の震えも止まっていた。

 ただ、剣を握ったままそこに立っている。

 

 目の前には、跪いて頭を下げるアルブレヒト。

 その姿を見つめていたイゾルテは、やがて小さく息を吐いた。

 

「もう、いいです」

 

 それだけだった。

 彼女は剣を収め、背を向けた。

 誰も引き止めなかった。声をかけることもできなかった。

 彼女の背中を見送ることしかできなかった。

 

 アルブレヒトは、しばらく頭を下げたまま動かなかった。やがて、ゆっくりと顔を上げる。

 喉元には、薄い傷が残っていた。傷そのものは、すぐに治るだろう。

 だが、彼女が抱えている痛みは、そう簡単には癒えない。そして、その痛みを作った原因は自分にある。

 アルブレヒトは去っていくイゾルテの背中を見つめていた。

 呼び止める資格があるとは思えなかった。謝罪を受け入れてほしいとも、許してほしいとも言えなかった。

 ただ、彼女がこれ以上傷つかないように。そう願うことさえ、今の自分には身勝手なのかもしれなかった。

 それでも、願わずにはいられなかった。

 

 

■

 

 

 白い世界。

 そこには、何もなかった。

 地面も、空も、果てしない白に溶け込んでいる。

 その世界の中で、ヒトガミはいつものように笑っていた。

 

「……やあ、―――。調子はどうだい?」

 

 軽い声だった。まるで、久しぶりに会った友人に話しかけるような気安さ。

 しかし、返ってきた反応を見て、ヒトガミは肩をすくめた。

 

「……ああ。不機嫌そうに見える?」

 

 自分の顔を確かめるように頬を撫でる。

 

「まあね。今回は、ちょっとやられちゃったから」

 

 そう言って、わざとらしくため息をついた。

 

「せっかく色々と仕込んでおいたのにさ。ルーデウスも、アルブレヒトも……思った以上に好き勝手やってくれたよ」

 

 声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。

 それでも、ヒトガミはすぐに笑顔を取り戻す。

 

「まあ、いいけどね。失敗なんていくらでも取り返せる。次があるんだから」

 

 指先をひらひらと振る。

 一拍。

 そして、何でもないことのように告げた。

 

「そう。次は、君にも協力してもらうよ」

「……!――――。―――――――!」

 

 返ってきた言葉に、ヒトガミの眉が僅かに動いた。

 

「準備が足りない?危険?性急すぎる?」

 

 聞き返す声には、まだ笑みが残っていた。

 だが――

 

「……あのさぁ」

 

 ヒトガミは、ゆっくりと首を傾げた。

 

「君、誰に意見してるの?」

 

 先ほどまでの軽薄さが消えた。

 白い世界が、僅かに冷えたようにすら感じられる。

 

「僕はね、君に相談してるんじゃないんだ。命令してるの」

 

 口元だけが笑っている。

 ヒトガミは、相手の返事を待たなかった。

 

「君は黙って、僕の言う通りにすればいい。それだけでいいんだよ」

 

 そして再び。

 にこり、と笑った。

 

「十分、時間は与えたよね?"アレ"の準備も、もう終わってるはずだ」

「………………」

 

 しばらくして、ヒトガミは満足そうに頷いた。

 

「……そう。それでいいんだよ」

 

 その顔には、もう苛立ちの欠片もなかった。

 あるのは、己の思い通りに事が進むと信じて疑わない、歪んだ確信だけ。

 

「僕は生き残る」

 

 ぽつりと呟く。

 

「何があっても、何を失っても」

 

 笑顔が、ゆっくりと歪んでいく。

 

「何を犠牲にしてもね」

 

 そして、ふいに何かを思い出したように笑った。

 

「くくっ……アルブレヒト」

 

 その名を口にした途端、笑みが深くなる。

 

「君は、ずいぶん自分が変わったと思っているみたいだけど……忘れちゃいけないよ」

 

 声が、白い世界に響く。

 愉快そうに、言葉を重ねる。

 

「君は呪われ人だ。どれだけ家族ができても、どれだけ幸せになっても、君の中にあるものはなくならない」

 

 口元が吊り上がる。

 その笑顔には、他者の苦しみを眺めることを楽しむような、底知れぬ悪意があった。

 

「――思い出させてあげるよ」

 

 次の瞬間。

 

「あはっ」

 

 堪えきれないように、笑いが漏れた。

 

「あははははっ!」

 

 白い世界に、声が響き渡る。

 

「はははははははははははっ!!」

 

 何もない世界に、ヒトガミの笑い声だけが、いつまでも響き続けていた。

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