アルブレヒトが意識を失ってから数日が過ぎた。
ペルギウスの協力を得て、ルーデウスたちは転移魔法陣でシャリーアへと帰還し、クリフのもとへ向かった。
アルブレヒトの呪いを抑えていた魔道具の胸当ては大きく裂け、完全に破壊されていた。傷そのものは塞がっていたものの、魔道具が壊れた影響は無視できない。何より、本人が目を覚まさない。
クリフが手を尽くす中、ルーデウスは何度も弟の様子を確かめた。
大丈夫だ。きっと大丈夫。
そう言い聞かせても、不安は消えなかった。
アルブレヒトのもとには、何人もの見舞い客が訪れた。
パウロは、ベッドに横たわる息子の顔を見つめ、いつもの調子で軽口を叩こうとしていた。だが、結局は何も言えず、ただ大きな手でアルブレヒトの頭を撫でてから部屋を出ていった。
リーリャは静かに祈り、ゼニスは言葉もなく、眠り続けるアルブレヒトの手を握っていた。シルフィも、ロキシーも、ザノバも、それぞれに心配そうな顔をしていた。
ノルンとアイシャも、何度か見舞いに訪れた。
二人にとって、アルブレヒトが危険な場所へ向かうのは、これが初めてではない。ベガリット大陸へ向かったときもそうだった。
あのとき、アルブレヒトは帰ってこなかった。
だからこそ、今回も心配していた。無事に帰ってきてほしいと、二人とも願っていた。
そして、帰還した兄が目を覚まさないと聞かされたとき、二人はどうしていいのかわからなかった。
「……お兄ちゃん、まだ起きないの?」
アイシャが尋ねる。
「……うん」
ノルンは短く答えた。
ベッドに横たわるアルブレヒトは、目を閉じたまま動かない。
声をかけても返事はない。ただ、眠っている兄を見つめることしかできなかった。
「クリフさんが治療してくれてるんだよね」
「そうだよ」
「だったら……きっと大丈夫だよね」
アイシャはそう口にした。
けれど、ノルンに同意を求めるような声だった。ノルンはすぐには答えられなかった。
大丈夫だと信じたい。けれど、ベガリットでのことがある。
あのときも、ジークフリートが――兄が帰ってくると信じていた。だが帰ってこなかった。だからこそ、今度こそ無事でいてほしい。
もう一度、あんな思いをするのは嫌だった。
アイシャが、そっと兄の手に触れる。
いつものように、少しだけふざけた調子で。
「……お兄ちゃん、早く起きてよ。起きたら、またいっぱいお話ししようよ」
返事はない。
アイシャの笑顔が、少しずつ崩れていく。
「……ねえ、お願いだから、起きてよ……」
ノルンは妹の肩に手を置いた。
何か言ってあげたかった。大丈夫だと。きっと目を覚ますと。
けれど、自分自身が同じ言葉を信じきれないまま、妹に言うことはできなかった。
ノルンは黙って、アルブレヒトの顔を見つめた。
帰ってきてくれた。それだけで、よかったはずなのに。
今はただ、目を開けてほしかった。
いつものように、自分たちの声に応えてほしかった。
■
ルーデウスは、ずっとアルブレヒトの傍にいた。
オルステッドとの戦いで、アルブレヒトは命を懸けた。そして今回もまた、自分たちを守るために傷ついた。
いつか本当に、目の前で弟を失うのではないか。そんな恐怖が、ルーデウスの胸の奥にこびりついていた。
「……ん。……ここは」
だから数日後、アルブレヒトがゆっくりと目を開けたとき。
「よかった……! アル、よかった……!」
ルーデウスは、思わず弟に抱きついていた。
「兄さん……」
目を覚ましたばかりのアルブレヒトは、少し困惑したように兄を見つめた。
それでも、振りほどこうとはしなかった。ルーデウスの腕が震えていることに気づいたからだ。
自分がどれほど心配をかけたのか。それくらいはわかった。
「……心配をかけて、すみません」
「本当だよ……!まったく、お前は……!」
ルーデウスは弟の肩を掴み、顔を確かめるように見つめる。文句の一つでも言いたかった。無茶をするなと。もう少し自分を大事にしろと。
けれど、目を覚ましたばかりの弟を前にすると、どの言葉も喉の奥につかえてしまった。
生きている。それだけで今は十分だった。
――だが。安堵の時間は、長く続かなかった。
「起きましたか」
静かな声がした。
ルーデウスとアルブレヒトが顔を上げる。
部屋の入口に、一人の女性が立っていた。
青い髪。整った顔立ち。背筋の伸びた立ち姿。
腰には、見慣れた剣がある。
「……イゾルテ」
アルブレヒトの表情が僅かに変わった。
イゾルテ・クルーエル。
アルブレヒトが斬った女の、たった一人の孫だった。
アルブレヒトが上体を起こそうとする。
だが、イゾルテはその動きを遮るように口を開いた。
「表に出てください」
その目は濁りきっていた。怒りと、憎しみと、悲しみと、もう一つで。
「決闘です」
■
時間は、王選の場へと遡る。
会場では、意識を失ったアルブレヒトを抱えるルーデウスと、彼らを取り囲む人々がいた。
そして、その前に立つ女性。
イゾルテ・クルーエル。
つい先ほどまで、彼女は祖母の亡骸を静かな場所へと安置していたはずだった。
最愛の祖母を失ったばかりなのだ。泣き崩れていてもおかしくはない。怒りに任せて剣を振るっても、おかしくはない。
だが、戻ってきたイゾルテの表情からは、感情らしいものがほとんど読み取れなかった。
その静けさが、かえって周囲を緊張させた。
周囲にいた者たちも、ほとんど反射的に身構えた。
イゾルテにとって、アルブレヒトは祖母を殺した仇だ。その仇が、今まさに意識を失っている。抵抗することも、剣を抜くこともできない。仇討ちを果たすには、これ以上ない機会だった。
「アルブレヒト殿に手出しはさせん…!」
ルークが一歩前へ出た。
剣を抜き、イゾルテとの間に立ち塞がる。
つい先ほど、アルブレヒトは自分の父を救ってくれた。
彼がいなければ父は処刑されていた。その恩を返すのなら、今しかない。
だが、イゾルテは驚くほど落ち着いていた。
怒りに顔を歪めるでもなく、殺気を露わにするでもない。
ただ、静かにアルブレヒトを見ていた。
「………死にましたか?」
あまりにも平坦な声だった。
その言葉に、ルーデウスは一瞬返答に詰まった。
死んだと答えれば、彼女は諦めてくれるだろうか。
いや、無理だ。そんな言葉を簡単に信じるとは思えない。仮に信じたとしても、一時しのぎにしかならないだろう。あとになって嘘だと知れば、余計に事態を悪化させるだけだ。
「…生きてます」
「そうですか」
イゾルテは、ゆっくりと視線を落とした。その先にいるのは意識を失ったアルブレヒト。
彼女の青い瞳は、ぞっとするほど冷たく濁っていた。
そこには、憎しみがある。悲しみがある。そして、言葉にできない何かが、深く沈んでいるようにも見えた。
イゾルテの手が、腰の剣へと伸びる。
ルーデウスは思わず息を詰めた。やはり、殺すつもりなのか。
当然だ。彼女の祖母を殺したのはアルブレヒトなのだから。
どれほど事情があろうと、どれほど苦しい決断だったとしても、レイダはもう帰ってこない。
イゾルテにとって、その事実は何も変わらない。
ルーデウスはアルブレヒトを抱きしめる腕に力を込めた。
今は戦いたくない。弟を連れて、一刻も早く治療を受けさせたい。
だが、相手が剣を抜くというのなら、たとえ水王相手であろうと、退くわけにはいかなかった。
「…一刻を争う状態です。……どうか、今は見逃していただけませんか」
苦々しい思いを押し殺し、ルーデウスは口を開いた。
頼む。
今だけでいい。
せめて、弟を助ける時間をくれ。
「どうしてですか?」
イゾルテは剣に手をかけたまま、首をわずかに傾げていた。
「どうして、私が今アルブレヒトさんを殺すと?」
ルーデウスは言葉を失った。
背後でエリスが、剣の柄にかけた手を緩めることなく、イゾルテを見据えている。その目には警戒があった。
それに気づいているのかいないのか、イゾルテは淡々と続けた。
「早く行けばいい。もし治癒師の当てがないなら、紹介しましょう」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
レイダを殺した男を、見逃す。
それどころか、治療の手助けまで申し出る。
そんなことをする理由が、ルーデウスにはわからなかった。
「………え。……な、なんで?」
思わず声が漏れる。
「…………」
イゾルテは答えない。
答えられないのかもしれなかった。
彼女自身にも、わかっていないのだ。
アルブレヒトを憎んでいる。
祖母を失った悲しみは消えない。
あの場で何もできなかった自分への悔しさも、アルブレヒトに助けを求めてしまったことへの屈辱も、確かに残っている。
彼を許すことなどできない。許していいはずもない。
それなのに、目の前で倒れている彼がこのまま死んでしまうことを想像すると、胸の奥がひどく痛んだ。
そんな自分が、理解できなかった。
どうして、憎い相手の命を惜しむのか。
どうして、祖母の仇を前にして剣を抜けないのか。
どうして、助けたいなどと思ってしまうのか。
イゾルテは視線を落とした。倒れたアルブレヒトの顔を見る。
つい先ほどまで、この男は自分の祖母と戦っていた。
そして、殺した。
自分が止められなかった祖母を。
自分が救ってほしいと願った祖母を。
それなのに、今はその男が死なないでほしいと願っている。
矛盾している。どうしようもなく、矛盾している。
「………………なんで、でしょうね」
自嘲するような声だった。
「憎いのに、辛いのに、苦しいのに。なんで……」
言葉が途切れる。
答えなど、見つからない。
憎しみが消えたわけではない。悲しみが癒えたわけでもない。
アルブレヒトを許したわけでも、許せるようになったわけでもない。
それでも、死んでほしくない。
その気持ちだけが、どうしても消えてくれなかった。
■
グレイラット家の庭。
柔らかな風が吹き抜ける中、二人の剣士が向かい合っていた。
一人は、水神流王級剣士、イゾルテ・クルーエル。
もう一人は、七大列強第六位、嵐神アルブレヒト・グレイラット。
今さっきまで生死の境をさまよっていた男と、祖母を失ったばかりの女。
その二人が、決闘をしようとしている。
周囲には、グレイラット家の面々が集まっていた。
ルーデウスとパウロは不安そうにアルブレヒトを見つめ、エリスはいつでも割って入れるように身構えている。シルフィは心配そうに、ロキシーもただならぬ表情でアルブレヒトたちを見つめる。
ノルンとアイシャも、緊張した空気を感じ取っていた。リーリャも、ゼニスを支えながら神妙な面持ちでアルブレヒトたちを見つめる。
庭の一角では、赤竜ヘルカイトが低い唸り声を上げていた。
灼熱の瞳がイゾルテを睨みつけている。
相棒に敵意を向ける者を、見過ごすつもりはないらしい。
「やめろ」
冷たく言い放つアルブレヒト。
ヘルカイトは苛立たしげに唸ったが、やがて、ふん、と鼻息を吐いて黙り込んだ。
イゾルテはヘルカイトにも、グレイラット家の面々にも目を向けない。
ただ、アルブレヒトだけを見つめていた。
その手には、剣が握られている。
「……始めましょう」
イゾルテが告げた。
アルブレヒトは何も言わず、剣を構える。
決闘が始まる。
■
しばらく、二人は剣を構えたまま動かなかった。
水神流は返しの剣。
相手の攻撃を受け、その動きに応じて反撃する。
相手が動かなければ、水神流も動かない。
焦れて踏み込んでくるのなら好都合。攻めあぐねて隙を見せるのなら、それもまた好都合。
待つことを恐れず、相手の動きを見極める。それが水神流だった。
だから、イゾルテは崩れないはずだった。いつものようにできるはずだった。
これまで何度も訓練を積んできた。丸一日剣を構え続けても、敵を待ち続けられるように鍛えてきた。
なのに、彼を目の前にすると心が軋む。剣を握る手に力が入りすぎる。
剣を握る手に、余計な力が入る。肩が強張る。呼吸が乱れる。
落ち着け、いつも通りに。相手の動きを待てばいい。そうすれば、いずれ隙が生まれる。
わかっている。わかっているのに。
アルブレヒトは、何も言わなかった。
ただ、こちらを見ていた。
その眼差しが、耐え難かった。
憐れむような。苦しむような。まるで、自分の痛みまで背負おうとしているかのような目。
そんな目で見られる筋合いはない。祖母を殺したのはあなたなのに。私が祖母を救えなかったのに。
どうして、あなたがそんな顔をするの。
切っ先が震えた。
僅かにぶれる。
「ッ……!ふッ、ふっ………!ぐううッ!」
呼吸が乱れる。
水王とは思えないほど、剣を握る手が震えていた。
それでも、イゾルテは剣を下ろさなかった。下ろせなかった。
アルブレヒトは、そんな彼女をじっと見つめていた。悲しむように。苦しそうに。
「………ッッッ!!!」
見るな。
そんな目で、私を見るな。
私は、あなたに同情されるような人間じゃない。
あなたを憎んでいる。
あなたを許せない。
なのに、どうして、そんな目をするの。
「うわああああああッッ!!!!!」
イゾルテが叫んだ。
そして、無茶苦茶に踏み込む。水神流の理合いも何もない。相手の動きを待ち、返しの剣で制する。そんな基本さえ忘れたような、稚拙な斬撃だった。
水神流にあるまじき無様。
それでも、今のイゾルテには、そうすることしかできなかった。
「アル!!」
叫ぶルーデウス。
アルブレヒトは何もしなかった。
黙って、剣を受け入れた。
刃が、アルブレヒトの喉元で止まる。
皮膚が薄く裂け、赤い筋が浮かんだ。
それだけだった。
イゾルテの剣は、それ以上進まなかった。
「…なんで、なんで!何もしないんですか!あなたなら、当然止められたでしょう!」
「…………わからない」
アルブレヒトは、静かに答えた。
「ふ、ふざけてるんですか!?私、私がっ、どんな思いで…!」
言葉にならない。
どんな思いで、あなたに助けを求めたのか。
どんな思いで、祖母が死ぬところを見ていたのか。
どんな思いで、今ここに立っているのか。
そんなこと、あなたにわかるはずがない。
わかってほしいと思うことさえ、間違っている。
「…………………すまない」
「……ッ!!謝るな!!!」
イゾルテの目が見開かれる。悲鳴のような声だった。
「おばあちゃんを殺したお前がっ、謝って済まされると思うな!!!」
アルブレヒトは、何も言い返さなかった。
弁解もしない。自分が正しかったと主張することもない。ただ、剣を下ろした。
そして、地に跪いた。両膝をつき、額が地面につくほど深く頭を下げる。
「……それでも、すまない」
静かな声だった。
「すまなかった」
「……………!!」
イゾルテは思う。
どうして、こんなことになったのだろう。
こんなことをしたいわけじゃなかった。
おばあちゃんのことが好きだった。厳しく、優しく、いつも傍にいてくれた大切なおばあちゃん。
剣を教えてくれた。間違えれば叱ってくれた。それでも、最後には笑ってくれた。大好きなおばあちゃんだった。
そして、多分、アルブレヒトさんのことが好きだった。その眼差しが好きだった。冷たいようでいて、誰よりも温かいその心が大好きだった。
誰かを守るためなら、自分が傷つくことを厭わない。目の前にいる人間を見捨てない。そういうところが、好きだった。
だからこそ、おばあちゃんを止めてほしかった。おばあちゃんを殺さないでほしかった。
アルブレヒトさんなら、何とかしてくれるかもしれない。
そう思ってしまった。
でも、おばあちゃんは死んだ。アルブレヒトさんに、殺された。
おばあちゃんから剣を向けたことはわかっている。
剣士同士の、譲れないものを懸けた戦いだったこともわかっている。
正々堂々、正面から戦い、決着がついたこともわかっている。
おばあちゃんは、自分の意志で戦った。
アルブレヒトさんも、自分の信念を曲げなかった。
どちらか一方が悪いわけじゃない。
そんなことは、わかっている。わかっているのに。
でも、でも。どうして、おばあちゃんのことを忘れられるだろう。おばあちゃんを殺した相手を、憎まずにはいられない。
でも、アルブレヒトさんのことを嫌いになれない。憎いのに、愛しい。殺したいほど憎いのに、死んでほしくない。
剣を振り下ろせば、すべて終わるはずだった。おばあちゃんの仇を討てる。自分の気持ちにも、決着をつけられる。
そう思っていた。なのに、刃を振り下ろせなかった。
殺意と愛情が、ごちゃごちゃに絡み合う。
どちらかを選ぶこともできない。
どちらかを捨てることもできない。
「ううっ、う゛う゛っ!!ああ゛!!」
心に爪を突き立てられ、抉られているような痛みを感じる。
痛い、痛い、痛い。
憎しみの色と愛しさの色が、心でぐちゃぐちゃに混ざり合って、泥のような醜い色に変わる。
吐き気がする。ただ謝り続けるアルブレヒトさんにも、剣を止めてしまった自分にも。
いっそ殺してくれればよかった。こんな無様な自分は嫌だった。祖母の仇を前にして、剣を振るうことさえできない。水神流の使い手としても、おばあちゃんの孫としても、あまりにも情けない。
「ああああ゛あ゛あ゛ああああっっ!!!!」
髪を振り乱して絶叫する。
叫んでも叫んでも、心は収まらなかった。
アルブレヒトさんは、微動だにしない。
跪いたまま、頭を下げている。剣を振り下ろせば、首を落とせるだろう。
今なら、できる。
この男は抵抗しない。私を止めようともしない。
でも、できない。
自分から決闘だなんて言い出したくせに、なんてざまだろう。
剣を捨てて、子供みたいに泣き叫んで。
……なんで、こんなことしてるんだろう。
おばあちゃん。
私、どうすればいいのかな。
■
どれほどの時間が過ぎたのか。
やがて、イゾルテは急に静かになった。あれほど泣き叫んでいたのが嘘のように、声も、身体の震えも止まっていた。
ただ、剣を握ったままそこに立っている。
目の前には、跪いて頭を下げるアルブレヒト。
その姿を見つめていたイゾルテは、やがて小さく息を吐いた。
「もう、いいです」
それだけだった。
彼女は剣を収め、背を向けた。
誰も引き止めなかった。声をかけることもできなかった。
彼女の背中を見送ることしかできなかった。
アルブレヒトは、しばらく頭を下げたまま動かなかった。やがて、ゆっくりと顔を上げる。
喉元には、薄い傷が残っていた。傷そのものは、すぐに治るだろう。
だが、彼女が抱えている痛みは、そう簡単には癒えない。そして、その痛みを作った原因は自分にある。
アルブレヒトは去っていくイゾルテの背中を見つめていた。
呼び止める資格があるとは思えなかった。謝罪を受け入れてほしいとも、許してほしいとも言えなかった。
ただ、彼女がこれ以上傷つかないように。そう願うことさえ、今の自分には身勝手なのかもしれなかった。
それでも、願わずにはいられなかった。
■
白い世界。
そこには、何もなかった。
地面も、空も、果てしない白に溶け込んでいる。
その世界の中で、ヒトガミはいつものように笑っていた。
「……やあ、―――。調子はどうだい?」
軽い声だった。まるで、久しぶりに会った友人に話しかけるような気安さ。
しかし、返ってきた反応を見て、ヒトガミは肩をすくめた。
「……ああ。不機嫌そうに見える?」
自分の顔を確かめるように頬を撫でる。
「まあね。今回は、ちょっとやられちゃったから」
そう言って、わざとらしくため息をついた。
「せっかく色々と仕込んでおいたのにさ。ルーデウスも、アルブレヒトも……思った以上に好き勝手やってくれたよ」
声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
それでも、ヒトガミはすぐに笑顔を取り戻す。
「まあ、いいけどね。失敗なんていくらでも取り返せる。次があるんだから」
指先をひらひらと振る。
一拍。
そして、何でもないことのように告げた。
「そう。次は、君にも協力してもらうよ」
「……!――――。―――――――!」
返ってきた言葉に、ヒトガミの眉が僅かに動いた。
「準備が足りない?危険?性急すぎる?」
聞き返す声には、まだ笑みが残っていた。
だが――
「……あのさぁ」
ヒトガミは、ゆっくりと首を傾げた。
「君、誰に意見してるの?」
先ほどまでの軽薄さが消えた。
白い世界が、僅かに冷えたようにすら感じられる。
「僕はね、君に相談してるんじゃないんだ。命令してるの」
口元だけが笑っている。
ヒトガミは、相手の返事を待たなかった。
「君は黙って、僕の言う通りにすればいい。それだけでいいんだよ」
そして再び。
にこり、と笑った。
「十分、時間は与えたよね?"アレ"の準備も、もう終わってるはずだ」
「………………」
しばらくして、ヒトガミは満足そうに頷いた。
「……そう。それでいいんだよ」
その顔には、もう苛立ちの欠片もなかった。
あるのは、己の思い通りに事が進むと信じて疑わない、歪んだ確信だけ。
「僕は生き残る」
ぽつりと呟く。
「何があっても、何を失っても」
笑顔が、ゆっくりと歪んでいく。
「何を犠牲にしてもね」
そして、ふいに何かを思い出したように笑った。
「くくっ……アルブレヒト」
その名を口にした途端、笑みが深くなる。
「君は、ずいぶん自分が変わったと思っているみたいだけど……忘れちゃいけないよ」
声が、白い世界に響く。
愉快そうに、言葉を重ねる。
「君は呪われ人だ。どれだけ家族ができても、どれだけ幸せになっても、君の中にあるものはなくならない」
口元が吊り上がる。
その笑顔には、他者の苦しみを眺めることを楽しむような、底知れぬ悪意があった。
「――思い出させてあげるよ」
次の瞬間。
「あはっ」
堪えきれないように、笑いが漏れた。
「あははははっ!」
白い世界に、声が響き渡る。
「はははははははははははっ!!」
何もない世界に、ヒトガミの笑い声だけが、いつまでも響き続けていた。