第53話 北神流玉葱派
イゾルテが去ってから、アルブレヒトはどこか元気がなかった。
食事は取る。鍛錬も欠かさない。頼まれた仕事もこなす。だが、普段と変わらない生活を送っているはずなのに、ふとした瞬間に表情が曇る。剣を振るっている時でさえ、時折、手が止まることがあった。
振り下ろしかけた剣が、空中で止まる。視線の先にあるのは、稽古場の壁でも、剣の刃先でもない。脳裏に浮かぶのは、あの日のイゾルテの姿だった。
自分の喉元に剣を突きつけた彼女。その手は震えていた。怒りに震えていたのか。それとも、別の感情によるものだったのか。アルブレヒトにはわからなかった。
ただ、彼女の瞳だけは、今でもはっきりと思い出せる。憎しみと悲しみ。抑えきれない怒り。そして、その奥にある、どうしようもない苦しみ。
あの時、イゾルテは自分を斬ろうとした。
祖母を殺した男を、自らの手で討とうとした。それなのに、最後まで剣を振り下ろすことはできなかった。
アルブレヒトは、彼女を責めることなどできなかった。むしろ、責められるべきなのは自分の方だった。
レイダを殺したのは、自分だ。どのような事情があろうと、どのような覚悟を抱いていようと、その事実は変わらない。そして、イゾルテにとってレイダは、かけがえのない祖母だった。その死を受け入れられないのは当然だろう。
それでも彼女は、アルブレヒトを斬ることができなかった。
そのことに安堵している自分が、どこかにいる。そう気づくたび、アルブレヒトは自分自身に嫌気が差した。彼女に許してほしいなどと、望む資格があるのだろうか。許されたいと思うことすら、身勝手なのではないか。答えは出なかった。
ただ、あの時の彼女の顔を思い出すたび、胸の奥に重いものが沈んでいく。そんな弟の様子を、ルーデウスは心配そうに眺めていた。
「アル、少し休んだらどうだ?」
「……問題ありません」
「問題ない奴は、そんな顔をしないと思うけどな」
アルブレヒトは自分の頬に触れた。
よくわからない。自分では、いつもどおりにしているつもりだった。
だが、どうやら顔に出てしまっているらしい。
「ありがとうございます、兄さん。ですが、本当に大丈夫です」
「……そっか」
ルーデウスはそれ以上、何も言わなかった。
無理に聞き出したところで、どうにかなるものでもない。
アルブレヒト自身、何を話せばいいのかわからなかった。イゾルテのことを考えている。そう口にしたところで、何かが変わるわけでもない。
あの時、彼女に何を言えばよかったのだろう。
謝罪はした。だが、謝ったところで、レイダが生き返るわけではない。彼女の悲しみが消えるわけでもない。それでも、ほかに言葉が見つからなかった。
今思えば、もっと何かできたのかもしれない。だが、何をすればよかったのかは、いくら考えてもわからなかった。
ただ一つ、確かなことがある。自分は彼女を傷つけた。
そして、その傷を癒やすことはできなかった。
アルブレヒトは、ゆっくりと息を吐いた。
どれほど鍛えようと、どれほど強くなろうと、できないことはある。それを思い知らされたのは今回が初めてではなかった。だが、だからといって簡単に割り切れるものでもない。
ちなみに、イゾルテはあの後アスラ王国へ戻り、アリエルの騎士になったという。その知らせを聞いた時、アルブレヒトは少なからず驚いた。レイダの死の遠因となったアリエルの配下になるとは思ってもいなかったからだ。
もっとも、事情はそれほど単純なものでもないのだろう。アリエルは反逆した水神流を一方的に切り捨てることなく、その地位を安堵した。その決断が、イゾルテの心に何らかの影響を与えたのかもしれない。あるいは、彼女なりに考えた末の選択だったのだろう。
だが、どれほど考えたところで、本人の胸の内などわからない。アルブレヒトにできるのは、遠く離れた場所で、彼女が選んだ道を思うことだけだった。
どうか、彼女が前を向いて歩いていけますように。そう願うことさえ、自分の身勝手なのかもしれない。
それでも、彼女には、幸せになってほしかった。
その願いだけは、どうしても捨てられなかった。
アルブレヒトは小さく息を吐く。
その様子を見ていた男が一人。パウロだった。
息子たちの父親として、そして、かつて剣を教えた師として。
彼は、アルブレヒトがどうすれば少しでも元気を取り戻せるのか考えていた。
「なあ、アル」
「はい、父様」
「お前、北帝なんだよな?」
「……はい?」
あまりにも唐突な話だった。
「いや、だからさ。北神流の北帝だろ? せっかくなんだから、誰かに剣を教えてみたらどうだ?」
「剣を、教える……」
アルブレヒトは考え込んだ。
人に剣を教える。考えたことがないわけではない。剣の聖地では誰かに人を守る剣を教えたいと思ったこともあったが、今はそんな気分になれなかった。
「……申し訳ありません。今は、あまりそういうことを考えられません」
「うん。まあ、そう言うと思ったよ。…でもな、アル」
その声は、いつになく真面目だった。
「俺は、お前やルーデウスに剣を教えてた頃、結構救われてたんだよ」
「……父様が?」
「ああ」
パウロは懐かしそうに笑った。
「ゼニスと喧嘩したり、仕事がうまくいかなかったり、嫌なことはいろいろあった。でも、お前たちと剣を振ってると、そんなことも忘れられたんだ」
「……」
「子供ってのは不思議なもんでさ。こっちが教えてるつもりなのに、いつの間にかこっちが元気をもらってる」
アルブレヒトは黙って聞いていた。
「もちろん、今すぐやれって話じゃない。けどな、お前が誰かに剣を教えることで、少しでも気が紛れるなら……やってみてもいいんじゃないか?」
アルブレヒトは俯いた。
イゾルテのことを忘れられるとは思わない。
悲しみが消えるとも思わない。
それでも、誰かのために剣を振るうことなら、自分にもできるかもしれない。
やがて、アルブレヒトは顔を上げた。
「……わかりました」
「おっ、やるか?」
「はい。そこまで父様がおっしゃるのであれば」
パウロは満足そうに笑った。
「よし!じゃあ、まずは場所を決めないとな!庭とかにするか?」
「……そうですね。じゃあ、そうしましょうか」
小さく笑うアルブレヒト。あまり乗り気にはなれないが、父がここまで言うのならばやる価値はあるだろう。
(まあ、大した人数は来ないだろう…)
しかし、その考えはすぐに覆されることになる。
■
北帝…いや、『嵐神』アルブレヒト・グレイラットが道場を開く。その噂は、あっという間にシャリーア中へ広がった。
七大列強第六位の称号を持つ男が剣を教えるというのだから、注目を集めないはずがなかった。
冒険者。傭兵。腕に覚えのある剣士。果ては、ただの物見遊山で訪れた者まで。
グレイラット家の庭には、入門希望者が押し寄せていた。
「…………」
アルブレヒトは、目の前に並ぶ人々を眺めた。
十人。二十人。三十人…数えるのをやめる。
せいぜい数人、多くても十人程度を想定していたのが、まさかこれほど集まるとは。庭を道場に選んだことを、アルブレヒトは早くも後悔し始めていた。
「……父様。これは、どうすればいいのでしょう」
「いや、俺に聞かれても……」
パウロは困ったように頬を掻いた。
アルブレヒトは庭を見回した。庭はある程度の広さはあるが、これだけの人数が剣を振るうには狭すぎる。とはいえ、集まった者たちを帰すわけにもいかない。
アルブレヒトは一つ息を吐き、前へ出た。
集まった者たちが、一斉に背筋を伸ばす。
「……よし。とりあえず、全員でかかってこい」
「……は?」
誰かが間の抜けた声を上げた。
無理もない。入門希望者たちは今の言葉が聞き間違いでなければ、という顔で互いを見合わせていた。
だが、アルブレヒトは気にせず続ける。
「俺から一本でも取れたら……そうだな。北聖として認めてやる」
その瞬間、空気が変わった。
「北聖……!?」
「本当か!?」
「嵐神直々の認定だぞ!」
北聖の称号を得られれば、一角の実力者として扱われる。荒事に関わる仕事を続ける者にとっては、喉から手が出るほど欲しい肩書きだった。
しかも、相手は北帝どころか、七大列強の一角に名を連ねる嵐神である。その本人が認めるというのだ。
無茶な条件であることはわかっていた。だが、挑戦するだけなら自由だ。万が一にも勝てれば、人生が変わる。そう考えた者たちの目に、欲望の色が浮かんだ。
「では、参ります!」
「覚悟しろ!」
「俺が北聖になってやる!」
先ほどまで戸惑っていた男たちが、我先にと剣を構える。中には、仲間と目配せをして包囲の形を取ろうとする者もいた。
正面から一人ずつ挑んでも勝ち目がない。ならば、数を頼みに一斉に攻める。考え方としては悪くない。少なくとも、相手が普通の剣士であれば。
「では……行くぞ!」
誰かの掛け声を合図に、挑戦者たちが一斉に動いた。十数人の剣士が、四方からアルブレヒトへ殺到する。
木剣が風を切る音。踏み込む足音。怒号。
そのすべてが、狭い庭に重なった。
対するアルブレヒトは、わずかに肩を落とした。正直なところ、あまりやる気が出ない。だが、手を抜くつもりもなかった。北聖の称号が欲しいというのなら、まずは自分との実力差を知ってもらう必要がある。
もっとも、それを理解させるために、わざわざ全力を出す必要はなかった。
最初の一人が、正面から剣を振り下ろす。
アルブレヒトは半歩だけ横へずれた。木剣が空を切る。その剣筋を軽く受け流し、相手の足を払う。
「うわっ!?」
男の体が宙に浮き、背中から地面へ転がった。
アルブレヒトは倒れた男に目もくれず、次の相手へ向き直る。
右から剣が迫る。木剣の腹で弾き、続けて手首を打つ。
「痛っ!」
男が剣を取り落とした。
その隙を突こうと、背後から別の剣士が踏み込んでくる。
アルブレヒトは振り返りもしなかった。一歩踏み込み、体を半身に開く。相手の剣が脇を通り過ぎた瞬間、木剣の柄で腹を突いた。
「ぐはっ!」
男が腹を押さえてうずくまる。
わずか数秒。それだけで、三人が戦闘不能になった。
「な……!?」
「怯むな!数はこちらが上だ!」
誰かが叫ぶ。その声に押されるように、残った者たちが再び攻め込んだ。
しかし、結果は変わらなかった。アルブレヒトの動きは、あまりにも無駄がなかった。
大きく振りかぶることもない。力任せに叩きつけることもない。相手の剣を受け流し、足を崩し、武器を弾き、必要ならば急所を外して打ち据える。
ただ、それだけ。相手が動けば、その動きの先に剣を置く。踏み込んでくれば、踏み込んだ足を払う。剣を振りかぶれば、その隙に懐へ入り込む。力比べにすら持ち込ませてもらえない。
挑戦者たちが必死に工夫を凝らすほど、アルブレヒトは少ない動きでそれを封じていった。
「くそっ、化け物かよ……!」
「七大列強だぞ!当たり前だろ!」
「それにしたって何もできねえじゃねえか!」
誰かの悲鳴じみた叫びが響く。北聖の称号に目が眩む程度の者が、嵐神に敵うはずもなかった。
やがて、庭に倒れる者が増え始めた。
腕を押さえてうずくまる者。尻餅をついたまま立ち上がれない者。仲間の背後に隠れようとする者。
それでも、北聖の称号を諦めきれない者たちは、何度でも立ち上がった。
「ま、まだだ……!」
「次こそは……!」
アルブレヒトは、倒れた男たちの間を歩きながら首を傾げた。なぜ、そこまで必死になるのだろう。強くなりたいのなら、地道に鍛錬を積めばいい。称号が欲しいのなら、それに見合う実力を身につければいい。
少なくとも、彼にとってはそういうものだった。だからこそ、彼らの執念がいまひとつ理解できない。
「……次は誰だ?」
その言葉に、挑戦者たちの肩がびくりと跳ねた。
「も、もう無理だ……」
「腕が……!」
「ちょっと待ってくれ、休ませて……!」
ついに、何人かが膝をついた。息は荒く、腕は震え、木剣を握る手にも力が入らない。
アルブレヒトは、その様子を見下ろした。
「……俺は、まだ休めと言っていないが」
「ひっ……!」
誰かが悲鳴を上げた。別に脅したつもりはなかった。ただ、まだ稽古の途中なのだから、もう少し頑張ってほしいと思っただけだ。
アルブレヒトは首を傾げる。
「立てる者は立て。まだ続けるぞ」
「ま、待ってくれ!」
「もう少し手加減を……!」
「しているが」
「嘘だろ!?」
思わず叫んだ男の声が、庭に響いた。
アルブレヒトは本気で不思議そうな顔をした。これでも、相手の力量に合わせて加減しているつもりだった。
もし本気で剣を振るえば、木剣どころか相手の骨まで砕きかねない。そうならないよう、十分に気を遣っている。それなのに、なぜ文句を言われるのだろう。アルブレヒトにはよくわからなかった。
結局、挑戦者たちは再び立ち上がった。
そして、また倒された。
立ち上がる。
倒される。
立ち上がる。
倒される。
繰り返すうちに、最初の威勢はすっかり消えていた。北聖の称号を夢見ていた男たちの顔には、いつしか疲労と後悔が浮かんでいる。
それでも、彼らが北聖の称号を諦めない限り、アルブレヒトも付き合うつもりだった。少なくとも、本人はそれを親切のつもりでいた。そうしているうちに、空はゆっくりと赤く染まり始めた。
庭の隅に、夕暮れ時の長い影が伸びる。
アルブレヒトは、地面に座り込んだ男たちを見回した。
「……どうした。もう終わりか?」
返事はなかった。
誰もが荒い息をつき、木剣を手放している。
やがて、一人の男が力なく手を挙げた。
「……辞めます」
「俺も……」
「すみません、もう無理です……」
その声をきっかけに、次々と辞退の言葉が上がった。北聖の称号を手にするどころか、明日まともに歩けるかどうかすら怪しい。誰もがそれを悟っていた。
結局、日が暮れる頃には、入門希望者たちは一人残らず去っていった。
庭には、アルブレヒトだけが残された。
「…………」
彼は周囲を見回した。先ほどまで大勢いたはずなのに、誰もいない。木剣を片手に、しばらく考え込む。
「……あれ?」
首を傾げた。どうして、誰もいなくなってしまったのだろう。
ぽこり。
パウロの優しいチョップが頭に落ちた。
「アル、やりすぎ」
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
パウロは呆れたように息を吐いた。
「お前、晩までずっと全員をボコボコにしてただろ」
「ですが、このくらいはできなければ話になりません。騎士になろうというのなら――」
「アル」
パウロが遮った。
「大半の奴は騎士になろうとしてないんだよ。みんな、興味本位で来ただけだ」
「……!?」
がーん。と、アルブレヒトは目に見えて肩を落とした。
そこまで乗り気ではなかったが、騎士になろうとする者がこれほど多く来たのは少し嬉しかった。自分のように、誰かを守るために剣を握ろうとする者たちがこれほどまでに…と思ったが、現実は違ったらしい。
「……そう、なのですか」
「アルの騎士道は立派だよ」
パウロは、少しだけ優しい声になった。
「でも、みんながみんな、お前と同じように考えてるわけじゃないんだ」
「…………」
「それに、強くなりたい理由は人それぞれだ。名声が欲しい奴もいれば、仕事のために腕を磨きたい奴もいる。そういう奴らに、お前と同じ稽古をさせても続かないさ」
アルブレヒトはしばらく黙っていた。
自分の考えが、誰にでも通じるわけではない。そんな当たり前のことを改めて突きつけられた気がした。
「……申し訳ありません」
「いや、誰だって最初はそんなもんだ」
パウロはアルブレヒトの肩を叩いた。
「まあまあ、今日は飲もうぜ。残念会だ」
「……はい」
肩を落とすアルブレヒト。
その肩を抱きながら、パウロは豪快に笑った。
「わははは!まあ、こういう失敗も経験だ!」
その笑い声に、アルブレヒトもほんの少しだけ口元を緩めた。
■
翌日。
北神流玉葱派(別に玉葱派とは名乗っていないが、勝手にそう認識されている)の道場は、二日目にして早くも閑古鳥が鳴いていた。
庭には誰もいない。昨日までの騒がしさが嘘のようだった。
「……これは、早々に閉めることになるのでしょうか」
「いや、まだわからないだろ」
パウロがそう答えた、その時。
「すみませーん……」
門の向こうから、遠慮がちな声が聞こえた。
二人が振り向く。
そこにいたのは、数人の小さな子供と、その親だった。
「こちらで、剣を教えていただけると聞いたのですが……」
「ああ、そうだが」
アルブレヒトが答えると、一人の子供が一歩前へ出た。
「あの……ぼく、アルブレヒトさんみたいに強くなりたいんです!」
その言葉に、アルブレヒトは目を瞬かせた。
「……俺のように?」
「はい!」
子供は、緊張しながらも真っ直ぐに頷いた。
「だから、剣を教えてください!」
アルブレヒトは、しばらくその子を見つめていた。
昨日までの大人たちとは違う。
称号を求めているわけでも、名声を得ようとしているわけでもない。
ただ、憧れたから。自分も強くなりたいから。そのために、ここへ来たのだ。
アルブレヒトの胸の奥で、何かが小さく動いた。ぱっと表情を明るくする。
「……その意気や良し!では早速――」
「素振り!素振りからだな、アル!」
パウロが慌てて割って入った。
「……なぜです?」
「なぜじゃない! この子はまだ剣を持ったこともないんだぞ!」
「……なるほど」
アルブレヒトは真剣な顔で頷いた。
どうやら、いきなり実戦形式の稽古をさせるのは間違いらしい。その程度のことも、自分一人では気づけなかった。
「では、父様。お願いします」
「おう、任せとけ!」
こうして、パウロを中心とした子供向けの稽古が始まった。
「よし、まずは木剣を持て!」
パウロの声に、子供たちが元気よく返事をする。
「はい!」
「おう、いい返事だ。じゃあ、最初は構えからだな」
パウロは一本の木剣を手に取ると、子供たちの前に立った。
「剣ってのは、ただ握ればいいってもんじゃない。まずは足だ。右利きなら、右足を少し後ろに引いて……そうそう。腰を落としすぎるなよ。そんなにしゃがんだら、敵が来る前に疲れちまうぞ」
冗談めかして言うと、子供たちから笑い声が上がった。
「じゃあ、実際にやってみろ!」
子供たちはそれぞれ木剣を構えた。
足を左右に大きく開きすぎる者。
反対に、足を揃えてしまう者。
木剣を握る手に力が入りすぎて、肩まで強張っている者。
見事なほどに、ばらばらだった。
「おいおい、そんなに力を入れるな。剣が逃げるわけじゃないんだから」
パウロは笑いながら、一人の少年の肩を軽く叩いた。
「ほら、肩の力を抜いてみろ」
「こ、こうですか?」
「そうそう。剣を握る手はしっかり、でも腕までガチガチにする必要はない。実際に振ってみればわかるさ」
今度は別の子供の足元に目を向ける。
「そっちは足が開きすぎだな。もう少し狭くしてみろ」
「これくらい?」
「そうだ。よし、じゃあ、そのまま一歩前に出てみな」
少年が踏み出す。少しよろけた。
「おっと。大丈夫か?」
「だ、大丈夫!」
「ははは、元気があっていいな。最初から上手くできる奴なんていないさ。もう一回やってみろ」
少年は頷き、今度は慎重に足を踏み出した。
先ほどよりも、ずっと安定していた。
「おっ、いいじゃないか!」
「本当!?」
「ああ。今のはよかったぞ!」
褒められた少年の顔が、ぱっと明るくなった。
その様子を、アルブレヒトは少し離れた場所から眺めていた。
(……なるほど)
まずは構え。それから、実際に動かしてみる。失敗したところを直し、できたことは認める。単純なことのようでいて、自分が最初に考えていた稽古とはずいぶん違っていた。
アルブレヒトは、これまで強くなるための鍛錬を積んできた。そして、剣を握る者ならば、ある程度の厳しさは当然だと思っていた。
だが、目の前にいる子供たちはまだ剣を握り始めたばかりだ。いきなり実戦を想定した稽古をさせても、何が悪いのかすらわからないだろう。それでは、ただ疲れさせるだけだ。
「よし! じゃあ、次は素振りだ!」
パウロが声を張り上げた。
「まずは頭の上まで剣を持ち上げて……そうだ。そこから、まっすぐ振り下ろす!」
パウロ自身が手本を見せる。
木剣が風を切った。
「おおっ!」
子供たちが歓声を上げる。
「どうだ、簡単だろ?」
「はい!」
「よし、じゃあ、やってみろ!」
子供たちが一斉に木剣を振り下ろした。
ぶんっ、ぶんっ、ぶんっ。
あちこちから、頼りない風切り音が聞こえてくる。
「待った待った!」
パウロが慌てて手を上げた。
「一気に振り下ろそうとするな。まずは、ちゃんと剣を持ち上げる。そこから、まっすぐ振るんだ」
そう言って、一人の少女の前に立つ。
「ほら、肘が曲がりすぎてるな。少し伸ばしてみろ」
「こう?」
「そうだ。で、振り下ろしたら、そこで止める!」
少女が木剣を振る。
先ほどよりも、綺麗な軌道を描いた。
「おお、いいぞ! 今のはまっすぐ振れてた!」
「やった!」
「よし、その調子だ!」
パウロは満足そうに頷いた。
その後も、何度も素振りを繰り返させる。
疲れて腕が下がってきた子供には、無理をさせずに休憩を取らせた。
「ほら、水を飲んでこい。休むのも稽古のうちだぞ」
「えー、まだできるよ!」
「その元気は立派だが、疲れたまま続けても変な癖がつくだけだ。休んだらまたやろうぜ」
そう言って頭を撫でる。
子供たちは水を飲みながら、楽しそうに今日の稽古について話していた。その輪の中に、パウロも自然に加わっている。
厳しくするところは厳しく。だが、できないことを責めるのではなく、できるようになるまで付き合う。それが、パウロの教え方だった。
アルブレヒトは、その一つひとつを目に焼き付けていた。
(相手に合わせて、教え方を変える……)
自分に足りなかったのは、きっとそういうことなのだろう。
強くなるための道筋を示すだけでは、人はついてこない。
その道を歩き始めたばかりの者には、まず一歩目を教えなければならないのだ。
「よし、休憩は終わりだ! もう一度やるぞ!」
「「「はい!」」」
子供たちが元気よく立ち上がる。
木剣を構え、今度は先ほどよりも少しだけ綺麗な姿勢で素振りを始めた。
その姿を見て、アルブレヒトは小さく頷いた。
まだまだ未熟だ。剣筋も、足運びも、力の入れ方も。直すべきところはいくらでもある。
だが、昨日まで剣を握ったことすらなかった子供たちがもう自分の力で木剣を振っている。
その事実が、アルブレヒトには妙に眩しく見えた。
「……父様」
「ん? どうした、アル」
アルブレヒトは真剣にパウロを見つめる。
「勉強になります」
「おっ、そうか?」
パウロは少し照れくさそうに笑った。
「まあ、俺も昔はお前たちに教えてたからな。これくらいはお手の物さ!」
「……はい」
アルブレヒトは、子供たちへ視線を戻した。
その顔には、これまでの沈んだ色がほんの少しだけ薄れていた。イゾルテのことを忘れたわけではない。悲しみが消えたわけでもない。
けれど、子供が笑いながら剣を振る姿を見ていると、胸を締めつけていたものがほんの少しだけ和らぐ気がした。
こうして、北神流玉葱派の道場は少しずつ形になっていった。
子供が通い、その親が知り合いに話し、また別の子供がやって来る。口コミは広がり、いつしか庭には、毎日のように子供たちの声が響くようになった。
「アル、これ」
ある日、パウロが銀貨の入った袋を差し出した。
「これは?」
「月謝だよ。お前の分」
アルブレヒトは袋を見つめた。
自分が、人に剣を教えて金を受け取る。
なんだか、不思議な気分だった。
「……俺は、これで生活していけるのでしょうか」
「まあ、子供相手ならそこまで高い月謝も取れないけどな」
「そうですか……」
「でも、無職卒業だな!」
「……無職ではありません。オルステッドの仕事もありますし、冒険者としての活動も――」
「はいはい、そういうことにしとこう」
「父様……」
パウロは笑った。
アルブレヒトも、呆れながら少しだけ笑った。
こうして、北神流玉葱派は始まった。
ただし、大人の入門希望者が完全に途絶えたわけではなかった。時折、腕に覚えのある剣士や冒険者が訪れる。そして、彼らは決まってアルブレヒトに立ち合いを申し込んだ。
なぜなら、いつの間にか妙な噂が広まっていたからだ。
――北神流玉葱派に入門するには、師範アルブレヒトから一本取らなければならない。
もちろん、そんな決まりはない。ただ、最初の日にアルブレヒトが口にした条件が、どこかで誤って伝わったらしい。
「師範!ぜひ、手合わせを!」
「……わかった」
アルブレヒトは、訪れた剣士に木剣を渡す。
そして数秒後。
「……参りました」
剣士は地面に膝をついていた。
「……そうか」
アルブレヒトは頷いた。
剣士は肩を落として帰っていった。
その後も挑戦者たちは誰一人としてアルブレヒトから一本を取れず、道場を去っていった。
「…………あれ?」
アルブレヒトは首を傾げた。
子供たちは順調に増えている。月謝も、少しずつ安定してきた。
だが、大人の門下生だけがまったく定着しない。
どうしてだろう。
アルブレヒトには、さっぱりわからなかった。