第55話 近況
しんしんと雪が降り積もる季節。冬を迎えたシャリーアの街は、すっかり白く染まっていた。家々の屋根には雪が厚く積もり、道行く人々は外套の襟を立て、白い息を吐きながら足早に通りを行き交っている。時折吹き抜ける冷たい風が、軒先に積もった雪をさらい、細かな白い粒を宙に舞い上げた。
そんな寒さの厳しい季節に、グレイラット家では心温まる出来事があった。新たな家族の誕生である。ルーデウスとロキシーの間に生まれた娘、ララだ。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てる寝室には、穏やかな温もりが満ちていた。
窓の外では相変わらず雪が降り続いているが、部屋の中にいる者たちは、誰もその寒さを気に留めていなかった。
出産の報せを聞いた時、アルブレヒトは心から安堵した。新しい命が生まれる。それは、何度経験しても慣れるものではない。
「……小さいですね」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
ベッドに横たわるロキシーの腕の中で、ララはすやすやと眠っていた。
柔らかな布に包まれたその身体は、驚くほど小さい。頬はほんのりと赤く、閉じられた瞼の下には、まだ何も知らぬ無垢な寝顔があった。
時折、小さな唇がもごもごと動く。そのたびに、アルブレヒトは何事かと目を凝らしたが、ララは目を覚ますこともなく、規則正しい寝息を立て続けていた。
そんな様子がおかしかったのか、傍らにいたシルフィがくすりと笑った。
「そうだね。ルーシーも生まれた時はこんな感じだったんだよ」
懐かしむような声音だった。
シルフィはロキシーの腕の中を覗き込み、愛おしそうに目を細める。
その表情は、ルーシーを産んだ時のことを思い出しているようにも見えた。
「……こんなに小さいのに、生きているんですね」
アルブレヒトは、ぽつりと呟いた。
「アル、何を当たり前のことを言ってるんだ」
隣でパウロが苦笑する。
「いや、しかし……」
アルブレヒトは言葉を探した。
生きていることなど、無論、わかっている。胸が小さく上下するのも、時折身じろぎするのも、そこに確かな命が宿っているからだ。
だが、どうにも不思議だった。
剣を握ることもできず、自分の足で立つこともできない。誰かの手を借りなければ、食事をすることさえままならない。そんな小さな存在が、こうして生きている。
ララの手が、布の隙間からひょっこりと覗いた。
小さな指が何かを探すようにゆっくりと開き、また閉じられる。アルブレヒトは、その動きをじっと見つめていた。
この手も、いつかは大きくなるのだろう。何かを掴み、何かを作り、あるいは誰かの手を取ることもあるかもしれない。
何を好きになり、何を学び、誰と出会い、どんな人生を歩んでいくのか。今はまだ、誰にもわからない。それでも、この小さな身体には、これから先の長い時間が待っている。
「……健やかに育ってほしいものです」
ようやく出てきたのは、そんなありふれた願いだった。病に伏すこともなく、争いに巻き込まれることもなく、ただ元気に育ってほしい。笑い、泣き、時には誰かと喧嘩をして、また仲直りをする。そんな当たり前の日々を、何不自由なく過ごしてほしかった。
「うん。そうだな」
ルーデウスが、穏やかな顔で頷いた。
その視線はロキシーとララへ向けられていた。ロキシーは少し疲れた様子を見せながらも、腕の中の娘を慈しむように見つめている。ルーデウスもまた、そんな二人を眺めながら頬を緩めていた。
家族が増える。守るべきものが、また一つ増える。けれども、ルーデウスはそれを重荷だとは思わなかった。むしろ、喜ばしいことだった。この家にまた一人、帰りを待つ者が増えたのだから。
「あ、そういえば、エリスも妊娠したんだ」
不意に、ルーデウスが思い出したように口を開いた。
「……!そうですか!おめでとうございます、兄さん!」
「おう。ありがとう」
ルーデウスは嬉しそうに笑った。
アルブレヒトは、ゆっくりとエリスの方へ向き直る。
「エリスも、おめでとう」
「ありがと!」
エリスは、いつものように明るく笑った。
その笑顔には、出産に対する不安など微塵も感じられない。むしろ、これから生まれてくる子供のことが楽しみで仕方がないといった様子だった。
「元気な子を産むわ!」
力強く言い切るエリスに、アルブレヒトは思わず笑みを浮かべた。
「ああ。楽しみにしている」
エリスならば、きっと賑やかな母親になることだろう。子供が歩けるようになれば、早速剣の稽古を始めようとするかもしれない。そして、それを兄が慌てて止める光景が、容易に想像できた。
もっとも、エリスの子供である。母親に似て、じっとしているのが苦手な子になる可能性も十分にあるだろう。
アルブレヒトは、そんな未来を思い浮かべながら、再びララへと視線を戻した。相変わらず、ララは気持ちよさそうに眠っている。大人たちが自分の誕生を喜び、これからの未来について語り合っていることなど、知る由もない。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
白く染まった街並みを眺めながら、アルブレヒトは胸の内に広がる穏やかな温もりを感じていた。
新しい命が生まれ、また新しい命が生まれようとしている。こうして少しずつ、家族は増えていくのだ。
グレイラット家は、また一段と賑やかになりそうだった。
■
もちろん、家族の問題がすべて解決したわけではない。
「…………」
アルブレヒトは、ゼニスの前に座っていた。
彼女は椅子に腰掛け、いつものようにぼんやりとした表情でこちらを見ている。
「母様。少し、失礼します」
アルブレヒトはそっと手を伸ばし、ゼニスの手を取った。
目を閉じ、意識を集中させる。
魂の感応。ソウルの力を用いて、彼女の内側にあるものへと触れようとする。
失われた記憶、かつての母親、家族と過ごした日々。それらを取り戻すことができれば。そう願いながら、何度も試みてきた。
「…………」
しばらくして、アルブレヒトは静かに目を開けた。
「……駄目か」
確かに、そこには何かがある。
言葉にはならない、微かな意志。アルブレヒトが呼びかけると、応えるように揺らぐものがある。だが、それだけだった。
母の記憶がどこにあるのか、どうすれば取り戻せるのか。いくら意識を集中させても、答えは見つからない。何度試しても同じだった。
そこにいることはわかる。けれど、手が届かない。
「……申し訳ありません、母様」
ゼニスは何も答えない。
ただ、アルブレヒトの手を握り返した。
「…………」
その手の温もりに、アルブレヒトは小さく目を伏せる。
焦るつもりはなかった。時間がかかってもいい。
いつか、きっと。そう信じていたかった。
ゼニスが微笑む。その笑顔は、以前と同じようでいて、どこか違う。
それでも、母はそこにいる。
アルブレヒトはもう一度だけ、その手を握った。
「……また、明日も来ます」
そう告げて、部屋を後にした。
■
それから、しばらくして。アルブレヒトは、魔法大学の掲示板を眺めていた。
「…………三年生か」
掲示板には、進級者の一覧が貼り出されている。
その中に、自分の名前があった。
アルブレヒト・グレイラット。三年生。
「……ふむ」
アルブレヒトは腕を組んだ。
入学してから、それなりに時間は経っている。
だが、その間に剣の聖地へ行き、七大列強の一角に名を連ねることになり、アスラ王国へ赴き、オルステッドの仕事まで引き受けるようになった。
大学に通っていた時間より、通っていなかった時間の方が長い気がする。なのに、自分はこうして進学できている。
「……特別生とは、すごいものなんだな」
しみじみと呟いた。
「いや、あんまり感心するところじゃないだろ。…俺も人のことは言えないけどさ」
通りかかったルーデウスが、呆れたように突っ込んだ。
「兄さん。俺は無事、三年生になれたようです」
「見ればわかるよ」
「これで、卒業に一歩近づきました」
「……お前、卒業する気はあるんだよな?」
「もちろんです」
「本当かなぁ……」
ルーデウスは疑わしげな目を向けた。
アルブレヒトは胸を張る。
「学業と鍛錬は両立できるものです」
「お前の場合、そこにオルステッド様の仕事と道場も入るんだよな……」
「問題ありません」
「その自信はどこから来るんだよ」
ルーデウスは頭を抱えた。
とはいえ、進級できたこと自体は喜ばしい。
アルブレヒトは、掲示板に貼られた自分の名前をもう一度見た。
「……よし」
小さく頷く。
卒業まで、あと少し。
……少し、だろうか。
まあ、なんとかなるだろう。
■
そして、もう一つ。
アルブレヒトには、どうしても解決したい問題があった。
「……やはり、ここが問題だな」
机の上には、以前使っていた呪いを抑えるための魔道具が置かれていた。胸当てのような形をした、大型の装置である。これまで呪いの影響を抑えるために使ってきたものだが、問題も多かった。大きく、重く、壊れやすい。
「魔力の流れを安定させるために、どうしても装置そのものが大きくなってしまうんだ。それに負荷が集中する部分がある。そこが壊れると、全体が使い物にならなくなる」
「……なるほど」
クリフが腕を組んで唸る。
アルブレヒトは、机の上の装置を見つめた。
「もっと小さくできれば、日常生活でも使いやすくなるのだが」
「簡単に言ってくれるな。魔力の流れを維持したまま小型化するのが難しいんだよ」
「だが、クリフなら可能だろう?」
「……お前、そうやって人を乗せるのが上手くなったな」
クリフは苦笑した。それでも、悪い気はしなかったらしい。再び机に向き直り、装置の構造を調べ始める。
アルブレヒトにできることは限られていた。必要な素材を集め、試作品が完成すれば実際に身につけて効果を確かめる。呪いの抑制が弱まることはないか。身体に違和感はないか。長時間使用しても問題はないか。
そうした使用者としての感覚を、できる限り正確にクリフへ伝えるのが彼の役割だった。
時には、実験が失敗することもあった。
「……どうだ?」
「……少し、呪いの影響が強くなった気がする」
「くそっ! やっぱり駄目か……!」
クリフが頭を抱える。
「すまない。俺にはこれくらいのことしかわからん」
「何を言ってる。実際に呪いを受けているお前の感覚が一番重要なんだよ。こっちは数値だけじゃ判断できないこともあるんだからな」
「……そういうものか」
そうして、研究は少しずつ進んでいった。
そんな中、クリフが目をつけたのが、一つの指輪だった。尊い温もりの指輪。以前、ルーデウスたちからアルブレヒトへ贈られたもの。
「……これを使えないだろうか」
クリフは指輪を手に取り、しげしげと眺めた。
「この指輪には、元々特殊な力が宿っている。だったら、これを土台にして呪いを抑える機構を組み込めるかもしれない」
「……できるのか?」
「わからん。だが、試してみる価値はある」
クリフは指輪を光にかざした。
「もっとも、相当繊細な作業になるぞ。失敗すれば、指輪そのものを壊してしまう可能性もある」
「…………」
アルブレヒトは少し考えた。
家族と友人たちから贈られた、大切な指輪である。できることなら、傷つけたくはない。
だが、この指輪が呪いを抑える助けになるのなら、それ以上に嬉しいこともなかった。
「……頼む、クリフ」
「いいのか?」
「ああ。お前を信じている」
「……そうか。なら、任せておけ!」
それから、幾日もの研究が続いた。
クリフは魔力回路の設計を見直し、何度も試作品を作り直した。アルブレヒトも可能な限り研究室へ顔を出し、実験に付き合った。
必要な素材があれば調達し、試作品ができれば身につけて効果を確かめる。時には、研究に没頭して食事を忘れたクリフへ、差し入れを持っていくこともあった。
机に向かい、難しい顔で設計図を睨むクリフ。
「……何かわかったのか?」
「今考えてるところだ。少し静かにしてくれ」
「……わかった」
アルブレヒトは素直に口を閉じた。
しばらくして、クリフが突然顔を上げる。
「……そうか!」
「む?」
「魔力を流す経路を分けるんじゃなくて、制御する段階で調整すれば……!」
クリフは勢いよく紙に何かを書き始めた。
「……なるほど」
アルブレヒトは頷いた。もちろん、何がなるほどなのかはさっぱりわかっていなかった。だが、クリフの表情を見る限り、何か重要なことに気づいたのだろう。
そこから研究は大きく進展した。幾度もの調整と試験を経て、ついに一つの魔道具が完成した。
以前の胸当てとは比べものにならないほど小さな、指輪型の魔道具である。
「…………できた」
クリフが、疲れ切った顔で呟いた。
「……試してみろ」
指輪を差し出すクリフ。
その声には、いつもの自信に満ちた響きがなかった。幾度となく失敗を繰り返し、ようやく辿り着いた完成品だ。理論上は問題ない。だが、実際に機能するかは別の話だった。
アルブレヒトは頷き、指輪を受け取る。そっと指にはめた。
「…………」
しばしの沈黙。やがて、指輪から流れ込む魔力がソウルへと行き渡り、呪いの影響を抑え始めた。
「……どうだ?」
クリフが身を乗り出す。
「問題ない。以前と同じように、呪いが抑えられている」
「……本当か?」
「ああ。成功だ、クリフ」
その言葉を聞いた瞬間、クリフは椅子の背もたれに身体を預けた。
「……はあああっ! やっとできた……!」
大きく息を吐き、天井を仰ぐ。
アルブレヒトはそんな友人の姿を見て微かに笑った。
「……すごいな」
「ふふん。天才魔術師クリフ様の実力を思い知ったか!」
「ああ。さすがだ」
アルブレヒトは素直に頷く。
自分には到底できない仕事だった。
魔道具の仕組みも、複雑な術式も、最後まで完全には理解できなかった。それでも、クリフは諦めず、こうして形にしてみせたのだ。
「……ありがとう、クリフ」
「いいってことさ。僕だって、お前には何度も世話になってるからな」
クリフは照れくさそうに顔を背けた。
アルブレヒトは、改めて指輪を見つめた。家族から贈られた、大切な指輪。そして今、友人の手によって、自分を守るための魔道具となった。
その小さな輪には、家族と友人の思いが込められている。
「……大切に使わせてもらう」
「ああ。そうしてくれ」
クリフは満足げに笑った。
こうして、アルブレヒトの呪いを抑える魔道具は、大幅な小型化に成功した。
■
ある日、オルステッドから命じられていた仕事を終え、アルブレヒトは事務所へと戻ってきた。
報告は滞りなく終わった。任務の経過と結果を簡潔に伝え、オルステッドがそれを確認する。いつも通りの必要最低限のやり取りだった。
これ以上、ここに留まる理由はない。アルブレヒトは部屋を後にしようとした。
だが、扉へ向かいかけたところでふと足が止まった。以前、兄から聞いた話が脳裏をよぎったのだ。
オルステッドは何度もこの世界を繰り返しているという。決められた時まで生き、時が来れば過去へと戻る。そして、また同じ時代を生き直す。それを幾度となく繰り返し、ただ一つの目的を果たすために戦い続けている。
初めて聞いた時は驚いたものだった。だが同時に、奇妙な親近感を覚えたことも確かだった。
「オルステッド」
「……なんだ」
呼びかけに応じ、オルステッドが顔を上げる。
その鋭い眼差しを受け、アルブレヒトは一瞬だけ言葉を探した。
繰り返し。世界の理から外れ、何度も何度もやり直し、ただ目的のために邁進する。
それは、自分とよく似ていた。
使命を果たすため、立ちはだかる障害に何度も挑み、何度も死に、何度も蘇る。時間の狂った灰の世界で、終わりの見えない戦いを続けてきた。
倒したはずの敵が再び現れ、歩んだはずの道をまた歩く。幾度となく死を迎え、そのたびに立ち上がる。果てしなく続く戦いの中で、いつしか昨日と今日の境目すら曖昧になっていった。
死ぬことそのものよりも、終わりが見えないことの方が恐ろしかった。どれだけ戦えばいいのか。あと何度、死ねばいいのか。そんなことを考えた夜もあった。
無論、オルステッドの経験してきた繰り返しが、自分と同じものであるとは思っていない。彼には彼の戦いがあり、自分には想像もつかない苦労があったはずだ。それでも、その過酷さは理解しているつもりだった。
「辛くは、ないのか」
「……何がだ」
「繰り返しのことだ。たった一人で、何度も失敗し、時に死に、やり直し続ける」
オルステッドは何も答えなかった。
ただ、アルブレヒトをじっと見つめている。
その沈黙を受け、アルブレヒトは少しだけ視線を落とした。唐突な質問だったことは自覚していた。そもそも、他人が軽々しく踏み込んでよい話ではないのかもしれない。
だが、一度口にした以上、途中で引っ込める気にもなれなかった。
「……俺も似たような経験がある。やらなければならないことだったが、苦しい戦いではあった」
アルブレヒトはかつての世界を思い出した。
灰に覆われた大地。朽ち果てた城。血と死の臭いが染みついた戦場。幾度となく死を迎え、そのたびに立ち上がった。そうする以外に、前へ進む方法がなかったからだ。
あの世界での人生は、今となっては遠い出来事だ。だが、そこで味わった苦痛や絶望まで忘れたわけではない。何度でも立ち上がれることと、何度でも立ち上がりたいと思えることは、決して同じではなかった。
「お前は、辛くなかったのか?」
もう一度、問いかける。
しばしの沈黙が流れた。
オルステッドは腕を組んだまま、微動だにしなかった。何かを考えているのか、それとも答える必要を感じていないのか。その表情からは、何も読み取れない。
やがて、静かに口を開いた。
「……考えたこともない」
短い答えだった。
「俺には、果たさねばならん使命がある。それだけだ」
その声には、何の感慨もなかった。
まるで、至極当然のことを述べているかのようだった。
「……そうか」
アルブレヒトは小さく頷いた。
だが、納得したわけではなかった。
考えたことがないのと、辛くないのは、違う。
それを、アルブレヒトは知っていた。
かつての自分もそうだった。目の前の敵を倒し、次の目的地へ向かう。立ち止まって考えたところで、何かが変わるわけではない。だから、ただ前へ進み続けた。苦しいかどうかなど、考える余裕すらなかった。
もっとも、オルステッドが同じように感じているとは限らない。彼が何を思い、何を背負い、どれほどの時間を戦い続けてきたのか。アルブレヒトにはそれを知る術がなかった。
だから、それ以上は尋ねなかった。
「……余計なことを聞いたな」
「構わん」
オルステッドはそれだけ答えた。
アルブレヒトは軽く頭を下げ、再び扉へ向かう。
聞きたいことは聞いた。答えも得られた。これ以上、話すことなどないはずだった。
だが、扉の前で、またしても足が止まった。
何かが胸の内に引っかかっていた。このまま立ち去ってよいのだろうか。そんな、漠然とした思いだった。
アルブレヒトは振り返った。
「もし何かあれば、俺を頼れ」
口にしてから、自分でも驚いた。
それは、アルブレヒト自身も想定していなかった言葉だった。今では配下として働いているとはいえ、かつては互いに命を懸けて戦った相手である。あの圧倒的な力を忘れたわけではない。
オルステッドが信用に値する人物であることは、兄を通じて理解していた。それでも、心のどこかには警戒心が残っていた。必要以上に近づこうとはせず、交わす言葉も最小限。これまでの二人はそういう関係だった。
だというのに、なぜ今になってこんな言葉をかけたのだろう。繰り返しの話を聞いて親近感が湧いたのだろうか。過去の自分と重ね、共感したのだろうか。あるいは、ただ放っておけなかっただけなのか。
自分でも、よくわからなかった。
「お前の使命を、俺が代わることはできない。だが、共に戦うことくらいはできる」
オルステッドは何も言わなかった。
アルブレヒトも、返事を期待していたわけではない。それでも、言わずにはいられなかった。
しばらくして、オルステッドが口を開いた。
「……そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
いつもと変わらぬ、抑揚の乏しい声。そこにどのような感情が込められているのか、アルブレヒトにはわからなかった。
だが、それで十分だった。
「……では、失礼する」
アルブレヒトは踵を返し、部屋を後にした。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
オルステッドは、何も言わなかった。
ただ、アルブレヒトが去っていった扉を、しばらく見つめていた。
■
そんなこんなで、グレイラット家には平和な日々が流れていた。
新しい命が生まれ、家族が増え、子供たちは成長していく。アルブレヒトは大学へ通い、道場で子供たちに剣を教え、時折オルステッドの仕事をこなす。ゼニスの記憶を取り戻すための試みも、地道に続けていた。
忙しくはある。だが、穏やかだった。
そんなある日のこと。
「ただいま!!」
玄関から、聞き覚えのある声が響いた。
「……ん?」
アルブレヒトが顔を上げる。
続いて、どたどたと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ぎにゃああああっ!痛い!痛いニャああっ!」
「うるさいわね!暴れないで!」
「ぎにゃっ!?」
何やら、ただ事ではない。
アルブレヒトが廊下へ出ると、そこにはエリスがいた。
そして、その手には。
「…………リニア?」
猫耳の少女が、首根っこを掴まれていた。
リニアーナ・デドルディア。
魔法大学を卒業し、商人になると言って旅立っていった、リニプルコンビの片割れである。
その姿は、以前と比べ……
「……ええと」
アルブレヒトは言葉を選んだ。
服は薄汚れ、髪は乱れ、耳はへたり、尻尾は力なく垂れている。
どう見ても、まともな生活を送っていたようには見えなかった。
「……何かあったのか?」
「え?誰だニャ?」
目をぱちくりさせてアルブレヒトを見るリニア。
「ああ、そういえばお前には顔を見せてなかったな。俺はジークフリートだ。今はアルブレヒトと名乗っている」
「アニキ?…くんくん、ニャ……確かにこの匂いはアニキ!久しぶりだニャ!」
「ああ、久しぶりだな。で、改めて聞くが、何かあったのか?」
「ニャ゛……い、いや?何もないニャー。あちしは元気だニャー!」
目を逸らし、口笛を吹きながら誤魔化そうとするリニア。
その言葉に、エリスはぐいっ、とリニアに顔を近寄せる。
「何もないのに、なんで奴隷商人から逃げてたのよ!」
「それは、その、あれニャ!ちょっとした行き違いニャ!」
「借金を返せなくなったんでしょ!」
「ぎにゃっ!?」
図星だったらしい。
リニアは目を泳がせた。
「……ち、違うニャ。商売がちょっとだけ上手くいかなかっただけニャ」
「ちょっとだけ?」
アルブレヒトが目を細める。
「それにしては、身なりが貧相すぎるぞ」
「…………」
リニアは沈黙した。
どうやら、商人としての人生は順風満帆とはいかなかったらしい。むしろ盛大に転覆していた。
「とりあえず、家に入るわよ!」
「あー待って!それは良いけど優しくして欲しいニャ!あ、あ、待って、助けてアニキぃ〜!!」
エリスは、リニアを引きずるようにして家の中へ入っていった。
アルブレヒトは、その後ろ姿を見送り、手に持っていた茶を啜る。
「……嵐が来たな」
■
「いやあ、助かったニャ……」
居間の椅子に座り、リニアがぐったりと息を吐いた。着替えと食事を与えられ、ひとまず落ち着いたらしい。ただし、その顔には疲労と気まずさが色濃く残っていた。
「まったく……」
騒ぎを聞きつけてやってきたルーデウスが額を押さえる。
「商人になるって言って卒業したんじゃなかったのか?」
「なったニャ!ちゃんと商売したニャ!」
「で、失敗したと」
「…………そうニャ」
リニアは耳を伏せた。
「最初は上手くいってたニャ。でも、仕入れで失敗して、損を取り戻そうとして、さらに失敗して……」
「典型的なやつだな……」
ルーデウスが遠い目をした。
「借金を返せなくなって、奴隷商人に売られることになったニャ。だから逃げたニャ!」
「逃げたって、どこに行くつもりだったんだよ……」
「それは……考えてなかったニャ」
リニアの視線が泳ぐ。
「お前なぁ……」
ルーデウスが深々とため息をついた。
そこへ、玄関の外から声がした。
「ごめんくださーい!」
男の声だった。
リニアの耳がぴんと立つ。
「ぎにゃっ!?」
そのまま椅子の後ろへ隠れようとした。
…どうやら、男は奴隷商人かそれに類する者らしかった。
「リニア」
アルブレヒトが静かに呼ぶ。
「……何ニャ?」
「隠れても、解決せんぞ」
「そんなこと言われてもニャあ……!」
怯えるリニア。一つため息をつき、ルーデウスの方を見るアルブレヒト。
「しょうがない。兄さん、行きましょう」
「ま、そうだな。ちょっと頑張りますか」
■
「ウチの奴隷、いるんでしょ。わかってるんですからね」
「なんのお話かさっぱりわかりません。お引取りください」
ルーデウスとアルブレヒトが玄関に赴くと、すでにリーリャが対応をしていた。
相手は二人。先頭に立つのは小柄で背の低い男、その後ろには筋骨隆々とした男。全身から荒々しい気配が漂っている。
「そう言わずに……この町で人を真っ二つにできる赤毛の妊婦と、大きな白い犬の組み合わせなんて、他にいませんよ」
「エリス奥様はところ構わず暴れるお方です。もしかするとそうかもしれません。しかし、うちに奴隷など存在いたしません。お引取りを」
毅然とした態度のリーリャに、後ろの男がチッと舌打ちした。小男を押しのけるように前に出て、リーリャへと手を伸ばす。
「てめぇ、ババァ。あんまり調子こいてっと――」
リーリャはびくりと身を震わせた。
乱暴に肩を掴まれ――
「おい」
その寸前で、風より早く間に入り、男の腕を掴んだアルブレヒト。
「なんだ、この手は?」
「あぐっ!いっ、痛っ、いててて!」
凄まじい力を込めて握り続ける。
「あーすみませんすみません!うちのものが失礼いたしました!すみません、どうか手を離していただけないでしょうか」
小男が慌てて謝る。
「……ふん」
渋々ながらも手を離すアルブレヒト。
男は離された腕を擦りながら一歩下がる。その男の頭をはたく小男。
「お前はヴァカか!このメイドはあのルーデウス・グレイラットとアルブレヒト・グレイラットの乳母で、異母妹の母だぞ!痣の一つでも作ってみろ、一族郎党皆殺しにされっぞ!」
そう言うと、男はおののいた表情でリーリャとアルブレヒトを見た。
と、そこで小男はルーデウスの存在に気づくと、途端に柔和な顔をつくり、揉み手をした。
「あっ、こりゃどうもルーデウスさぁん……」
ねちっこい声だ。
「……リーリャさん、あとは俺が対応します」
「分かりました、ルーデウス様」
リーリャは一礼し、数歩下がった位置で止まった。アルブレヒトも、ルーデウスの隣へと移動した。
ルーデウスは、改めて小男へと向き直った。
「どうも、初めましてルーデウスさん」
小男は揉み手をしながら、改めて頭を下げてきた。
「あっしはリウム商会傘下、バルバリッド商店で揉め事を担当しとります、キンチョと申します」
「初めまして、ルーデウス・グレイラットです。で、そのキンチョさんが、どのようなご用件で?」
「いやね、ルーデウスさん。この間、うちの奴隷が一匹、逃げ出したんですわ」
「ほう。どんな奴隷ですか?」
「ドルディア族の娘。戦闘能力も高くて魔術も使える、最高の奴隷ですわ」
アルブレヒトは、奴隷という言葉を聞いてから、ずっと黙っていた。人を物のように扱う話には、思うところがあるのだろう。
「そいつを追わせた連中が、全員真っ二つにされてましてね。まあ、相手が龍神様の配下ともなれば、文句は言えませんが……ただね、奴隷の値が少々張るんですわ。もう買い手もついてまして」
「…その買い手って、ボーース・グーーーートって感じですか」
「ええ、ええ、そうですそうです。ルーデウスさんも、よくご存知の、あの!」
エリスの実家の、獣族好きな一族だ。
アルブレヒトが小さく息を吐いた。
「ドルディア族の姫君で、戦えて魔術も使えて、しかも美人で生意気な処女。そう聞いて、前金でアスラ金貨三百枚、ポンとくれましたよ」
アルブレヒトは眉をひそめた。
リニアが何をできるか、どんな血筋か、そんな話ばかりで人の価値を測る理由になるのが気に入らないのだろう。
「こんな大金の奴隷、滅多にいませんからねぇ。こっちも泣き寝入りするわけにはいかないんですわ」
「まあ、そうでしょうね」
「わかっていただけますかねぇ。こっちも引くに引けないんですよ。仕入れにも金が掛かっていますから……」
「……」
「そういえば、ルーデウスさん」
迷うルーデウスに、キンチョはやや凄んだ笑みを向けてきた。
「妹さんと奥さんの一人、魔法大学に通ってらっしゃるんでしたよねぇ。ともすると居心地が悪くなったりとか……」
「お前……ノルンとロキシーに手を出すつもりなの?」
「……今の言葉、脅しのつもりか?」
ルーデウスとアルブレヒトの気配が変わる。
静かな佇まいはそのままなのに、目だけが冷たくなっている。明確な殺意がこもった低い声だった。
キンチョが一瞬、言葉に詰まる。
「あ、あー、今の無し、今の無しです。もちろん。もちろん、お二人と敵対したいってわけじゃないんですよ?仲良くしたいんです。ただ、奴隷を返していただかないと、こちらも首をくくる羽目になるんですわ」
キンチョの言い分は真っ当だった。アスラ金貨三百枚もの前金をもらった状態でキャンセルなどすれば、信用はガタ落ちだ。リニアを手に入れるのにも、かなりの金を使っているのだろう。
このままでは確実に倒産し、そしてそうなれば、死に物狂いでなんとかしようと思うだろう。
「ふぅ……」
ルーデウスは考える。
正直、ここで無駄に奴隷商人たちと揉める必要はない。この状況はリニアの自業自得であり、自分たちには関係ない。見捨てるのが合理的だ。
まあ、多少気は使ってやろう。ボレアスの家にあんまり無体はしないように一筆書くとか。
「……兄さん」
そう考えたところで、アルブレヒトがルーデウスの顔を見た。何か言いたそうな顔だったが、結局、口は開かなかった。兄が決めることだと考えているのかもしれない。
そのまま、キンチョに向き直るルーデウス。
「わかりました」
「わかっていただけましたか」
「ええ、今……」
リニアを連れてきます、と言いかけつつ振り返り――言葉を飲み込んだ。
階段の上にいる存在に目がいった。
「……」
ルーシーだ。
彼女は不安そうな顔で、階段の手すりの影からこちらを見ていた。
「……………リーリャさん」
「はい、なんでしょうルーデウス様」
深く考えるルーデウス。ここで、こんな脅しに屈して、頭を下げてリニアを引き渡してもいいのか。
不安そうにしているルーシーの前で。
父親が。うちを頼って怯えている子を、引き渡してもいいのか?
――否。
「俺の部屋の金庫から、あるだけ持ってきてください」
「……かしこまりました」
リーリャはすぐに奥へ引っ込み、ほどなくして大きな袋を抱えて戻ってきた。ルーデウスは中から小袋を一つ取り出し、キンチョへ放った。
「……これは?」
「魔石です。売ればアスラ金貨五百枚ほどにはなるでしょう」
「え?あ?」
袋を開いたキンチョの顔色が変わる。
「それと、もう一つ」
二つ目の袋が渡される。
「アドルディアの姫君も捕まえていませんか? あの二人はいつも一緒でしたから」
「え?い、いや、奴隷は一匹だけですよ?」
「嘘をいうとためになりませんよ」
ルーデウスはそう言いつつ、三つ目の袋を投げ渡した。
キンチョはそれを受け取りつつ、しかし表情には戸惑いの色が強くなる。
「言っておきますが、俺があなた方の店を消し炭にした後は、こうやって金を積んだりするつもりはありませんからね」
キンチョの顔がサッと青くなった。
「ほ、本当です。奴隷はデドルディアの娘一匹です。一匹だけなんです!」
「そうですか……じゃあそいつで、俺がリニアを買い取ります」
「ええっ!?これ、三袋!?」
「足りませんか……じゃあ、もう一つ?それともマジックアイテムがいいですか?」
次の袋に手を伸ばすルーデウス。
「い、いや、こ、これで、これで結構!」
「まぁ、そう言わずに。最近俺も家を空けることが多いのでね。留守中、家族に何かあっては困るんですよ」
ルーデウスは釘を刺すようにキンチョの肩に手を置いた。
「今後も仲良くしていただきたい。俺の知り合いや家族が困った時、融通を利かせてもらえる程度には」
「も、もちろんです!」
「お礼にマジックアイテムもつけましょうか。額が光る兜なんですが」
キンチョの体がブルリと震え、怯えた表情で頭を下げてきた。
「わ、わかった!売る!十分だ。あんたを敵に回すつもりはないんだ、脅すのはもう勘弁してくれ!」
「どうも」
ルーデウスの隣で、アルブレヒトが小さく息を吐き、微かに笑った。リニアが助かることを喜んでいるのだろう。
「ボレアスに対しては俺から一筆書いておきますよ。また後日、取りに来てください。領収証といっしょにね」
「ああ、た、助かり……ます」
キンチョはそう言うと、大男を連れて足早に去っていった。
「ふぅ……」
「ルーデウス様、お見事です」
リーリャは、少し笑って頭を下げてくれた。
満足げなルーデウス。ルーシーに良いところを見せたい、という考えからアスラ金貨千五百枚相当の大金を使ってしまったが、なかなかにかっこいいところを見せられたのではないか?
「……あっ!」
そう思いつつ後ろを向くが…すでに階段の上にルーシーの姿はなかった。
しょぼん。落ち込むルーデウス。
だがすぐに顔を上げ、アルブレヒトに向き直る。
「アルブレヒト。お前、今の見てたよな?」
「何をですか?」
「何をって……俺の勇姿をだよ!」
「見てました」
「そうか!なら、わかるだろう。父親っていうのは、いざって時に家族を守るものなんだ!」
アルブレヒトは、少しだけ首を傾げた。
「兄さんは、いつも家族を守ろうとしているでしょう?」
「……え?」
「だから、今日のことだけを特別に見せる必要はないと思いますが」
「………お、おう」
弟に真っ直ぐ褒められ、妙に照れくさいルーデウス。咳払いをして、話を切り上げる。
「……ま、まあな!」
「流石です」
笑顔で小さく拍手するアルブレヒト。
ともあれ、こうしてリニアは救われ、グレイラット家で暮らすこととなった。…奴隷として。