玉葱騎士、六面世界に立つ 作:神聖龍 エモーショナル・ハードコア
昼下がりの庭は、穏やかな風が吹いていた。
鍛錬を終えたアルブレヒトは、汗を拭きながら木陰に腰を下ろす。
そこへ、リーリャが一通の封筒を差し出した。
「ロアからです」
その一言で、胸がわずかに高鳴る。
「……兄様からですか?」
「はい。あと、荷物も」
リーリャが持ってきた小箱を受け取る。
軽い。だが、ずしりとした期待がある。
丁寧に封を切る。
まず目に入ったのは、見慣れた几帳面な文字だった。
『アルへ。
元気にしてるか?』
その一行で、アルブレヒトの口元がわずかに緩む。
兄の声が、頭の中でそのまま再生された。
『こっちはまあまあだ。
エリスは相変わらず凶暴だ。いや、前よりはマシになった。たぶん。最近は殴られる回数も減った。俺の回避能力が上がっただけかもしれないけどな。
この前の誕生会では貴族用の踊りをやった。最初は足を踏まれて死ぬかと思ったけど、なんとか生き延びた。努力ってすごいな。人は成長するらしい。
家はどうだ?
父さんに鍛えられてるか?あんまり無茶はするなよ。
ノルンとアイシャを泣かせてないだろうな?
……って、まだ子供のお前に言うことじゃないか。
でもさ、俺はお前を頼りにしてる。
俺はちゃんと帰る。
だから、それまでみんなをよろしく。
あとうまくできたから騎士の人形を送る。魔術で丈夫にしておいたから、簡単には壊れないはずだ。たぶん。
遅くなったけど、5歳の誕生日プレゼントな。
アルは騎士っぽいからな。
守る側の顔をしてる。
……あんまり強くなるなよ。
兄の威厳がなくなる。
ルーデウス・グレイラット』
「……兄様らしい」
少しだけ誇張して、少しだけ強がって、
でもどこか本音が混ざっている。
読み進める。
――俺はお前を頼りにしてる。
指先が、止まった。
胸の奥が、じんわりと熱を持つ。
まだ8歳だ。
父より強くもない。
兄ほど賢くもない。
それでも、頼られている。
守る側の顔をしてる。
その一文を、何度も目でなぞる。
守る側。
自分が?
ふと、庭の向こうで遊ぶノルンとアイシャの姿が見えた。
ゼニスは木陰で刺繍をしている。
リーリャはその隣で穏やかに微笑んでいる。
パウロは日課の素振りだ。
この光景を、守る。
胸の中で、静かに何かが定まる。
箱を開けると、中には騎士の人形が入っていた。
簡素だが、細部まで丁寧に作られている。
鎧には、うっすら魔術での補強が感じられた。
アルブレヒトはその人形を両手で持ち、しばらく見つめたあと、そっと胸に抱いた。
(兄様は帰る)
手紙には、はっきりとそう書いてある。
帰ると言ったのなら、帰るのだ。
それまで、自分が守る。
それは重荷ではなかった。むしろ誇らしい。
木陰の風が、やわらかく頬を撫でる。
「……待っています。兄様」
静かにそう呟き、手紙を丁寧に折り畳む。
未来は、きっと続いていく。
父がいて、母がいて、リーリャがいて、妹たちがいて。
いつか兄も戻ってくる。
幸せな時間は終わらない。そう、確信していた。
■
空は、久しく曇天であった。
グレイラット邸は、いつも通りの匂いに包まれていた。
野菜の煮込みの香り。パンの焼ける匂い。
ノルンとアイシャの笑い声。
アルブレヒトは自室で、騎士の人形を机の上に立たせていた。
指で微調整する。
少し前傾になる。もう一度。
今度は、まっすぐ立った。
凛とした騎士。
守る者の姿。
「父様みたいだな」
小さく呟く。
自分も、こうありたい。
机の引き出しを開けると、丁寧に折り畳んだ手紙がある。
何度も読み返したせいで、角が少し柔らかくなっていた。
それをもう一度だけ開く。
――俺はお前を頼りにしてる。
指でなぞる。
「任せてください」
今度は声に出す。
誓いのように。
遠くからパウロの笑い声が聞こえる。
ゼニスが何か注意している声。
リーリャが穏やかに取りなす声。
家だ。
帰る場所だ。
守るべき場所だ。
アルブレヒトは手紙を畳み、胸元に一瞬当ててから、再び引き出しへしまった。
人形は、机の中央へ。
部屋を出る直前、ふと振り返る。
騎士の人形が静かに立っている。
頼もしく、揺るぎなく。
そのとき。
――空が、光った。
低い、歪んだ音。
地面が、わずかに震える。
窓の外、光が奇妙に歪む。
同時に、空気が重くなる。
ほぼ反射的に、傍らにあったパウロから贈られた剣と、ゼニスから贈られた指輪のネックレスを手に取る。
人形が、かすかに揺れた。
カタ、と小さな音を立てる。
アルブレヒトは振り返る。
次の瞬間。
視界が、白く塗りつぶされた。
轟音。
衝撃。
世界が裏返る。
机が吹き飛ぶ。
引き出しが開き、手紙が宙に舞う。
そして――
騎士の人形は、床に叩きつけられ、バラバラに飛び散った。
■
赤い。
岩肌も、空も、流れる川さえも、赤い。
いや、赤く見えているだけだ。目の奥が血で焦げ付いている。
――何度、こうしている?
立ち上がろうとして、倒れ込む。足がない。
感覚はない。だが痛みだけはある。
「………」
声を出そうとしたが、喉が潰れていた。
代わりに、泡のような息が漏れる。
血の泡が弾けて空に散った。
空を見る。
雲が流れている。
けたたましい叫び声。
ああ、まだ動いている。世界は。
――帰らなければ。
理由は思い出せない。
だが、その言葉だけが、焼き付いて離れない。
次の瞬間、影が落ちた。
重い。
熱い。
視界が、溶ける。
■
目を開ける。
また、赤竜山脈だ。
灰色の雲を引き裂いて、竜が飛び踊っている。
「……」
声は出ない。
名前も、出ない。
代わりに、誰かの顔が浮かぶ。
笑っていた、気がする。
――近くて、遠い笑顔。
それが誰なのか、もう分からない。
それでも立ち上がる。
脳に詰まった残骸の灰を振り払う。
剣を拾う。
また、前へ進む。
帰るために。
帰る場所が、何なのかも分からないまま。
■
思い出す。
一度目は、恐怖だった。
剣を振り、火を避け、爪から逃げきれずに死んだ。
二度目は、混乱だった。
なぜ蘇るのか、なぜ終わらないのかが分からず、足を止めて噛み砕かれた。
三度目は、逃避だった。
指輪を用いて隠れ、逃げて、見つかり、殺された。
四度目は、怒りだった。
叫びながら剣を振るい、力の差を思い知らされて死んだ。
五度目は、計算だった。
逃げたふりをして、誘き出す。だが無駄だった。竜は強大すぎた。炎の息で焼き殺された。
最後に覚えているのは焦燥。
どうやって帰る。どうやって戦う。どうやって逃げる。どうやって生きる。
何度も死んで蘇る。
死の回数は、すぐに分からなくなった。
蘇るたび、何かが軽くなった。
何だったかは、思い出せなかった。
痛みは、薄れていった。
恐怖も、薄れていった。
「……」
言葉を発することが、減った。
剣を抜く。
指輪を握る。
動く。
死ぬ。
それだけの循環。
赤竜の動きは、少しずつ分かるようになった。
翼の使い方。
尻尾の振り払い。
首のしなり。
息を吸う前の間。
避けられる攻撃が増えた。
だが、その分だけ別の攻撃で死ぬ。
牙で、爪で、炎で。
剣を振るう回数が増えた。
当たる回数も増えた。
それでも、殺される。
竜の動きを覚えたと思っても、奴らは一匹ではない。
囲まれ、踏み潰される。
首を噛み砕かれ。
胴を引き裂かれ。
灼熱で息もできず。
竜の鳴き声が、蟻を見下す嗤い声に聞こえる。
死ぬ。
蘇る。
繰り返す。
■
ある時、剣を落としたまま立ち尽くした。
「……」
拾わなかった。
代わりに、砕けた人形のかけらを握っていた。
なぜ握っていたのかはわからなかった。
赤竜が迫る。
避けもしない。
噛み砕かれた。
次に蘇った時、無言で剣を拾った。
別の時、指輪を握るのを忘れた。
気づいた時には、もう遅かった。
焼かれた。
次は、最初から握った。
存在が薄れる。
それが、当たり前になる。
時間の感覚が、壊れていく。
昼か夜かも分からない。
何日経ったのかも分からない。
家の記憶が、遠くなる。
いつも語りかけてくれた、優しい声を思い出すことも難しくなってきた。
大切な人の顔が、ぼやける。
「……」
名前を、口に出そうとして――
出なかった。
わからない。
ただ、胸の奥に引っかかるものがある。
それが何か、思い出せない。
……思い出せないくせに、帰りたい。
思考がうまく噛み合わない。
意識が断ち切られる。
暗闇。
再構築。
蘇る。
赤竜が嗤っている。
殺される。
殺される。
殺される。
殺す。
赤竜を、一体倒した。
何度目だったかは、分からない。
達成感は、なかった。
「……あ、あ」
久しぶりに出た声は、不思議と聞き覚えがなかった。
剣の振りは、無駄がなくなっていく。
身体から余計な動きがなくなる。
感情が、邪魔だったことに気づく。
怒りは鈍る。
恐怖は判断を狂わせる。
だから、切り捨てた。
切り捨てたものは、戻らなかった。
ある死の直前、ふと思った。
自分は、何と呼ばれていたっけ。
答えは出なかった。
次に蘇った時、その疑問も消えていた。
ただ、生き延びる。
ただ、殺す。
それだけが残った。
剣と、指輪と、不死。
それ以外は――
徐々に、削れていった。
赤竜が迫る。
死が迫る。
剣を握る。
立ち向かう。
胸の奥に残った、正体の分からない熱を無視して。
読んでいただき、ありがとうございました。
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