玉葱騎士、六面世界に立つ   作:神聖龍 エモーショナル・ハードコア

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第6話 ターニングポイント

 

 昼下がりの庭は、穏やかな風が吹いていた。

 鍛錬を終えたアルブレヒトは、汗を拭きながら木陰に腰を下ろす。

 そこへ、リーリャが一通の封筒を差し出した。

 

「ロアからです」

 

 その一言で、胸がわずかに高鳴る。

 

「……兄様からですか?」

「はい。あと、荷物も」

 

 リーリャが持ってきた小箱を受け取る。

 軽い。だが、ずしりとした期待がある。

 

 丁寧に封を切る。

 まず目に入ったのは、見慣れた几帳面な文字だった。

 

『アルへ。

元気にしてるか?』

 

 その一行で、アルブレヒトの口元がわずかに緩む。

 兄の声が、頭の中でそのまま再生された。

 

『こっちはまあまあだ。

 エリスは相変わらず凶暴だ。いや、前よりはマシになった。たぶん。最近は殴られる回数も減った。俺の回避能力が上がっただけかもしれないけどな。

 

 この前の誕生会では貴族用の踊りをやった。最初は足を踏まれて死ぬかと思ったけど、なんとか生き延びた。努力ってすごいな。人は成長するらしい。

 

 家はどうだ?

 父さんに鍛えられてるか?あんまり無茶はするなよ。

 ノルンとアイシャを泣かせてないだろうな?

 ……って、まだ子供のお前に言うことじゃないか。

 でもさ、俺はお前を頼りにしてる。

 俺はちゃんと帰る。

 だから、それまでみんなをよろしく。

 

 あとうまくできたから騎士の人形を送る。魔術で丈夫にしておいたから、簡単には壊れないはずだ。たぶん。

 

 遅くなったけど、5歳の誕生日プレゼントな。

 アルは騎士っぽいからな。

 守る側の顔をしてる。

 

 ……あんまり強くなるなよ。

 兄の威厳がなくなる。

 

 ルーデウス・グレイラット』

 

 

「……兄様らしい」

 

 少しだけ誇張して、少しだけ強がって、

 でもどこか本音が混ざっている。

 読み進める。

 

 ――俺はお前を頼りにしてる。

 指先が、止まった。

 胸の奥が、じんわりと熱を持つ。

 まだ8歳だ。

 父より強くもない。

 兄ほど賢くもない。

 それでも、頼られている。

 

 守る側の顔をしてる。

 その一文を、何度も目でなぞる。

 守る側。

 自分が?

 ふと、庭の向こうで遊ぶノルンとアイシャの姿が見えた。

 ゼニスは木陰で刺繍をしている。

 リーリャはその隣で穏やかに微笑んでいる。

 パウロは日課の素振りだ。

 

 この光景を、守る。

 胸の中で、静かに何かが定まる。

 箱を開けると、中には騎士の人形が入っていた。

 簡素だが、細部まで丁寧に作られている。

 鎧には、うっすら魔術での補強が感じられた。

 

 アルブレヒトはその人形を両手で持ち、しばらく見つめたあと、そっと胸に抱いた。

 

(兄様は帰る)

 

 手紙には、はっきりとそう書いてある。

 帰ると言ったのなら、帰るのだ。

 それまで、自分が守る。

 それは重荷ではなかった。むしろ誇らしい。

 木陰の風が、やわらかく頬を撫でる。

 

「……待っています。兄様」

 

 静かにそう呟き、手紙を丁寧に折り畳む。

 未来は、きっと続いていく。

 父がいて、母がいて、リーリャがいて、妹たちがいて。

 いつか兄も戻ってくる。

 幸せな時間は終わらない。そう、確信していた。

 

 

 

 

 

 

 空は、久しく曇天であった。

 

 グレイラット邸は、いつも通りの匂いに包まれていた。

 野菜の煮込みの香り。パンの焼ける匂い。

 ノルンとアイシャの笑い声。

 アルブレヒトは自室で、騎士の人形を机の上に立たせていた。

 

 指で微調整する。

 少し前傾になる。もう一度。

 今度は、まっすぐ立った。

 

 凛とした騎士。

 守る者の姿。

 

「父様みたいだな」

 

 小さく呟く。

 自分も、こうありたい。

 机の引き出しを開けると、丁寧に折り畳んだ手紙がある。

 何度も読み返したせいで、角が少し柔らかくなっていた。

 

 それをもう一度だけ開く。

 ――俺はお前を頼りにしてる。

 指でなぞる。

 

「任せてください」

 

 今度は声に出す。

 誓いのように。

 遠くからパウロの笑い声が聞こえる。

 ゼニスが何か注意している声。

 リーリャが穏やかに取りなす声。

 

 家だ。

 

 帰る場所だ。

 

 守るべき場所だ。

 

 アルブレヒトは手紙を畳み、胸元に一瞬当ててから、再び引き出しへしまった。

 人形は、机の中央へ。

 

 部屋を出る直前、ふと振り返る。

 騎士の人形が静かに立っている。

 頼もしく、揺るぎなく。

 そのとき。

 

 ――空が、光った。

 低い、歪んだ音。

 地面が、わずかに震える。

 窓の外、光が奇妙に歪む。

 

 同時に、空気が重くなる。

 

 ほぼ反射的に、傍らにあったパウロから贈られた剣と、ゼニスから贈られた指輪のネックレスを手に取る。

 

 人形が、かすかに揺れた。

 カタ、と小さな音を立てる。

 

 アルブレヒトは振り返る。

 次の瞬間。

 視界が、白く塗りつぶされた。

 

 轟音。

 衝撃。

 

 世界が裏返る。

 机が吹き飛ぶ。

 引き出しが開き、手紙が宙に舞う。

 

 そして――

 騎士の人形は、床に叩きつけられ、バラバラに飛び散った。

 

 

 

 

 

 

 赤い。

 岩肌も、空も、流れる川さえも、赤い。

 いや、赤く見えているだけだ。目の奥が血で焦げ付いている。

 ――何度、こうしている?

 立ち上がろうとして、倒れ込む。足がない。

 感覚はない。だが痛みだけはある。

 

「………」

 

 声を出そうとしたが、喉が潰れていた。

 代わりに、泡のような息が漏れる。

 血の泡が弾けて空に散った。

 

 空を見る。

 

 雲が流れている。

 

 けたたましい叫び声。

 

 ああ、まだ動いている。世界は。

 ――帰らなければ。

 理由は思い出せない。

 だが、その言葉だけが、焼き付いて離れない。

 次の瞬間、影が落ちた。

 

 重い。

 

 熱い。

 

 視界が、溶ける。

 

 

 

 

 目を開ける。

 また、赤竜山脈だ。

 灰色の雲を引き裂いて、竜が飛び踊っている。

 

「……」

 

 声は出ない。

 名前も、出ない。

 代わりに、誰かの顔が浮かぶ。

 笑っていた、気がする。

 

 ――近くて、遠い笑顔。

 

 それが誰なのか、もう分からない。

 

 それでも立ち上がる。

 

 脳に詰まった残骸の灰を振り払う。

 

 剣を拾う。

 また、前へ進む。

 

 帰るために。

 帰る場所が、何なのかも分からないまま。

 

 

 

 

 思い出す。

 

 一度目は、恐怖だった。

 剣を振り、火を避け、爪から逃げきれずに死んだ。

 

 二度目は、混乱だった。

 なぜ蘇るのか、なぜ終わらないのかが分からず、足を止めて噛み砕かれた。

 

 三度目は、逃避だった。

 指輪を用いて隠れ、逃げて、見つかり、殺された。

 

 四度目は、怒りだった。

 叫びながら剣を振るい、力の差を思い知らされて死んだ。

 

 五度目は、計算だった。

 逃げたふりをして、誘き出す。だが無駄だった。竜は強大すぎた。炎の息で焼き殺された。

 

 最後に覚えているのは焦燥。

 どうやって帰る。どうやって戦う。どうやって逃げる。どうやって生きる。

 

 何度も死んで蘇る。

 

 死の回数は、すぐに分からなくなった。

 

 蘇るたび、何かが軽くなった。

 何だったかは、思い出せなかった。

 

 痛みは、薄れていった。

 恐怖も、薄れていった。

 

「……」

 

 言葉を発することが、減った。

 

 剣を抜く。

 指輪を握る。

 動く。

 死ぬ。

 

 それだけの循環。

 

 赤竜の動きは、少しずつ分かるようになった。

 

 翼の使い方。

 尻尾の振り払い。

 首のしなり。

 息を吸う前の間。

 

 避けられる攻撃が増えた。

 

 だが、その分だけ別の攻撃で死ぬ。

 

 牙で、爪で、炎で。

 

 剣を振るう回数が増えた。

 当たる回数も増えた。

 

 それでも、殺される。

 

 竜の動きを覚えたと思っても、奴らは一匹ではない。

 囲まれ、踏み潰される。

 首を噛み砕かれ。

 胴を引き裂かれ。

 灼熱で息もできず。

 

 竜の鳴き声が、蟻を見下す嗤い声に聞こえる。

 

 

 死ぬ。

 

 

 蘇る。

 

 

 繰り返す。

 

 

 

 

 ある時、剣を落としたまま立ち尽くした。

 

「……」

 

 拾わなかった。

 

 代わりに、砕けた人形のかけらを握っていた。

 なぜ握っていたのかはわからなかった。

 

 赤竜が迫る。

 

 避けもしない。

 

 噛み砕かれた。

 

 次に蘇った時、無言で剣を拾った。

 

 別の時、指輪を握るのを忘れた。

 

 気づいた時には、もう遅かった。

 焼かれた。

 

 次は、最初から握った。

 

 存在が薄れる。

 それが、当たり前になる。

 

 時間の感覚が、壊れていく。

 昼か夜かも分からない。

 何日経ったのかも分からない。

 家の記憶が、遠くなる。

 

 いつも語りかけてくれた、優しい声を思い出すことも難しくなってきた。

 大切な人の顔が、ぼやける。

 

「……」

 

 名前を、口に出そうとして――

 出なかった。

 

 わからない。

 ただ、胸の奥に引っかかるものがある。

 それが何か、思い出せない。

 

 ……思い出せないくせに、帰りたい。

 思考がうまく噛み合わない。

 

 

 意識が断ち切られる。

 

 暗闇。

 

 再構築。

 

 蘇る。

 

 赤竜が嗤っている。

 

 殺される。

 

 殺される。

 

 殺される。

 

 殺す。

 

 赤竜を、一体倒した。

 何度目だったかは、分からない。

 達成感は、なかった。

 

「……あ、あ」

 

 久しぶりに出た声は、不思議と聞き覚えがなかった。

 

 剣の振りは、無駄がなくなっていく。

 身体から余計な動きがなくなる。

 

 感情が、邪魔だったことに気づく。

 怒りは鈍る。

 恐怖は判断を狂わせる。

 

 だから、切り捨てた。

 切り捨てたものは、戻らなかった。

 ある死の直前、ふと思った。

 

 自分は、何と呼ばれていたっけ。

 

 答えは出なかった。

 次に蘇った時、その疑問も消えていた。

 

 ただ、生き延びる。

 ただ、殺す。

 それだけが残った。

 剣と、指輪と、不死。

 

 それ以外は――

 徐々に、削れていった。

 

 赤竜が迫る。

 

 死が迫る。

 

 剣を握る。

 

 立ち向かう。

 

 胸の奥に残った、正体の分からない熱を無視して。





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