"久々のシャーレだ…"
デカグラマトンとの激闘をどうにか制し、なんとか帰ってこれた仕事部屋は良くも悪くもいつも通りだった。…机に大量の書類が置かれていること以外は。
"これは…明日やろうか"
「それでも先生ですか?全く…」
隣に居るケイにじとりと睨まれる。しばらくこちらを見たのち、視線を床にやる。
「これから、私はどうすればいいんでしょう…」
心配そうに呟くケイに、大丈夫だよ、と伝えた。
"明日、仕事が一段落したらミレニアムに行こう。"
"編入手続き出来ないか相談してみるよ。"
「わかりました。では──」
ケイが何か言いかけたが、それは腹の虫の鳴き声で遮られてしまった。横を見やれば顔を見らずとも、頬を赤く染めているのが分かるくらい、耳が赤くなっていた。
「…っ!!いやっ、これはまだ身体の制御に慣れてないだけで、そこまでお腹を空かせてる訳じゃ…!」
あたふたと弁明しようとするケイの頭をそっと撫で、優しく笑ってみせる。
"…ご飯、食べにいこうか。"
「うぅ…っ、はい…」
「おお…!」
煌びやかに光るネオンの看板、足取り軽く行き交う人々、規律正しく動く車達。どれもケイには目新しい物のようで、せわしなく首と目を動かしている。
"冷凍食以外を食べるのは、"
"今回が初めてだったよね?"
「そうですね…でも、あれはあれで悪くなかったです。味覚と言うものを初めて体感できましたから」
箸の使い方に苦戦し、最終的にはアリスにあーんしてもらっていたが、満更でもない様子で食べていたのを思い出し、ふっと口がニヤけてしまう。慌てて口元を抑えて平穏を装い、質問する。
"あの時食べたご飯は美味しかった?"
「まあ…美味しかったです」
"それなら、良かった"
と話しているうちに、目的の場所に着いた。暖簾を手で払い、中にいる人に話しかける。
"大将、食べに来たよ"
「へい、らっしゃい…って、シャーレの先生じゃないか!久しぶりだな!」
やってきたのは柴関ラーメン。給料日前の時、仕事が辛いことを吐露したい時、何気なくガッツリしたものが食べたい時。迷ったら大体ここに行き着く場所をケイの初食事場所にした。
「隣の生徒さんは…」
「天童ケイです。アリスの従しゃ…んむ!?」
"じゃなくて!アリスの妹なんです!"
従者、なんて言ってしまうと変に怪しまれかねないので、咄嗟に口元を塞いで誤魔化した。
「へえ、アリスちゃんの妹かい…言われてみればそっくりだなぁ」
"そ、そうですよね!"
"(ケイ、今は話を合わせてくれないかな…?)"
(…分かりました)
小声でやり取りし、ケイはアリスの妹、ということにした。このまま深掘りされる前に、注文することにしよう。
"えっと、じゃあ…"
"柴関ラーメンの並を二つ。"
数分としないうちに、スープのいい香りがしてきた。鼻腔を刺激し、食欲をおおいに誘うとてもいい香りが。
「…っ」
ごく、と生唾を飲み込む音が聞こえる。脊髄反射、とでも言うのだろうか。ここのラーメンの香りは何度堪能しようが、いざ嗅いでみれば、一瞬にして生唾が込み上げ腹が鳴るのだ。
"……早く食べたいね"
「……そうですね」
しばしの沈黙。外はもうとっぷりと日が落ち、照明が最も輝く時間になっていた。
「はいお待ち!柴関ラーメンの並二つ!」
ようやくお出ましになったラーメンは、照明のお陰か空腹のお陰か、キラキラと輝いていた。ストレートの麺や醤油スープはもちろん、味玉、めんまにネギ、チャーシュー。麺に負けてたまるかと言わんばかりの佇まいをしていて、今すぐにでもがっつきたい衝動に駆られる。
「せ、先生…もう食べていいですよね?」
"うん、食べようか。"
ケイに急かされるように言われ、箸とレンゲを手に取る。いただきます、と手を合わせ早速スープを頂くことにする。レンゲですくい、ずずずと1口。
"あぁ、最高に美味しい…"
涙が出そうなくらい美味しかった。シンプルかつ奥深い風味が口いっぱいに広がり心地よい塩味が舌を撫でる。疲労、空腹、塩気がほぼなかった食事…すべてがこの1杯を最高に美味しくするスパイスになっていた。隣のケイを見やると、髪を耳にかけながら、ちょうど麺をすすっていた。…すする、というよりは箸で何度も口元に運んでいたけれども。
「……!!こっ、これは…」
"どう?おいしい?"
「本当に美味しいです…こんなにしょっぱいのに、麺の味そのものも感じられますし…端的に言って、最高です」
ケイにもこの魅力が最大限伝わったようだ。大きく頷きながらもう一度麺をすする。他の具材達もひとつたりとて残さぬようにいただく。2人とも夢中ですするうちに、箸が何もすくわなくなってしまった。
"いつもはスープは残すけど…"
"今日くらいは…!"
「せ、先生…何を…?」
怪訝な目を向けられつつも、器そのものに手を伸ばす。
「え、あ…!まさか…」
"ふっふっふ…そのまさかだよ!"
そのままぐいっ、とスープを煽る。あっさりとした、それでいてしっかりとした味が全身に満ちわたる。いつもはブレーキをかけるための背徳感すらスパイスにして、一息に全部飲みほした。
"ふぅ。"
"美味しかった…"
「あんなに塩分が多いものを一息に…不健康まっしぐらですよ、先生」
"そういうケイちゃんも、"
"ほとんどスープが残ってないみたいだけど?"
「誰がケイちゃんですか…じゃなくて!こっ、これはですね!美味しくて止まらなかったとかじゃなくて、残すのは忍びないと思ってるだけなんです!先生みたいに直接口をつけるなんてはしたないことはしてませんから!」
"ふぅ〜ん?"
「そのしたり顔やめてください!あーもうっ、この大人は本当に…」
…結局2人とも、器の中をほぼ空っぽにして店をあとにした。そのままシャーレに戻り、念入りに歯を磨いてから睡眠をとった。久々のシャーレのベッドはいつもと変わらず体を包み込んでくれた。