満月の光は、頭上に茂る木の葉に阻まれて、彼らを照らすことはない。
木に突き刺さった短刀は、衝撃でいまだに震えていた。
その振動が収まるより早く、カモンは足を踏み出した。
敵はショウフク。師であるからこそ、手を抜くわけにはいかない。上段を切り払い、中段を突く。短刀の分、間合いはカモンの方が長かった。 しかし、その刃はいまだショウフクには触れていない。
「どうした? 俺は丸腰でやってやると言ってるんだぞ」
「シッ!」
大きく踏み込むと同時に、カモンの短刀が胸元を狙う。だがショウフクはそれを右手で外側へ払いのけ、左の拳をカモンの顔面に打ち込む。
縦拳、裏拳。素早い二連撃に、カモンは後ずさった。
「一」
ショウフクは静かにそう言い、距離を詰める。今度は彼が攻め込む番だった。顔面への掌底を、カモンはのけぞってかわす。
そのまま、カモンは後ろへ尻餅をついた。拳と掌底で上に意識を向けさせつつ、足払いで相手を倒す。ショウフクの狙いは、成功したかに見えた。
カモンは倒れる勢いを利用して、そのままごろりと地面を転がった。木の幹に手をつき立ち上がると、正面を睨みつける。
ショウフクはその場にいなかった。風の音で木々がざわめく。カモンは左右を素早く見回す。だがショウフクは見つからない。
次の瞬間、カモンが前へ転がった。彼のシャツの背中には、靴の跡がついている。痛みを堪え、彼は蹴りの犯人を睨みつける。
「二」
木の枝から、ショウフクがぶら下がっていた。彼は素早く木を駆け上り、鬱蒼と茂る枝から枝へ飛び移って、カモンの背後に回ったのだ。
「俺が武器を持ってれば、お前を二回殺せている。もうやめろ」
ショウフクは、カモンを見据えたまま、後ろの木を親指で示した。彼が短刀を投げつけた木だ。幹には深々と短刀の傷が残っている。
「おおおっ!」
カモンはまだ諦めない。雄叫びを上げ、勢いよく襲いかかる。ショウフクの舌打ちが聞こえた。
短刀を右手に握って上段を突き、間合いを詰めて振り下ろす。袈裟懸けの一撃だったが、ショウフクは上体を反らして回避する。
だが、カモンはまだ回転を止めなかった。切りつけた勢いもそのままに半回転。今度は、カモンの背中越しの左手がショウフクに迫った。
本来ならば、紙一重でかわせていた。だが、カモンは左手にも短刀を握っていた。
ショウフクは気づく。さっき投げた短刀だ。彼が木に登ったあの一瞬で、カモンは幹から短刀を抜いていたのだ。
カモンは二本目の短刀でショウフクを切りつける。
その一撃を、ショウフクはさらにのけぞってかわし、後ろに尻餅をついた。カモンは振り向きざま、左の短刀の攻撃の直後、左足での足払いを繰り出していた。体勢を崩していたショウフクは、逃れることができなかった。
いつの間にか、カモンは短刀を逆手に持ち替えていた。仰向けに転がるショウフクへ飛びかかる。
手足の力を使い、ショウフクは後ろへ下がった。その瞬間、彼の両足の間に短刀が突き立てられた。
「おおっ!」
その短刀を握るカモンの左腕を、ショウフクは両足で挟み込む。同時に左に素早く寝返りを打ち、左肩の関節を極めようとする。
すぐさまカモンは地面に刺さった短刀を手放し、前転して腕を抜く。折られずに済んだ。今度は、ショウフクの上半身が近い。
カモンは、ショウフクに覆い被さった。右手に構えた短刀がショウフクの胸元を狙う。
ショウフクの左手がカモンの右手を食い止めていた。力比べだ。体重をかけられるとはいえ、小柄なカモンは不利だった。短刀の切先が震える。
「両手を使えよ、俺を刺し殺すんだろう?」
ショウフクは挑発した。言われるまでもない。カモンは左手を柄に添え、さらに体重をかけて短刀を押し込もうとした。
カモンの左の首筋に、冷たいものが触れた。ショウフクの右手が、短刀を突きつけていた。カモンが地面に突き立て、関節技を喰らって手放した短刀だ。
「三度目だ。……その武器を放せ」
お互いの喉元まで刃を届かせながらも、結局、カモンはショウフクに出し抜かれた。彼がこのまま力比べで勝つより早く、ショウフクが短刀で彼の首を掻き切るだろう。
「……わかりました」
歯軋りを残して、カモンは力を抜いた。短刀を地面に落とし、両手を上げる。
服の汚れを払いつつ、ショウフクも立ち上がる。
「火の国のモンスターの数は常軌を逸している。仮にこの件がなかったとしても、ギルドのハンターの手が回りきらず、遅かれ早かれ滅んでいたはずだ」
膝をついたままうなだれたカモンは、いつにも増して小さく見えた。
「ギルドは火の国と手を切る。その意味をよく考えろ」
彼はカモンの手に縄をかけた。彼らがギルドナイトであるという事実は、ターバンの男たちにも秘密だった。
────────────────
尋問は一人ずつテントの中で行われた。カモンへの尋問は通り一遍のことを聞くだけで早々に終わり、逮捕者用のテントで寝かされた。
やや固い地面から、寝袋越しに冷たさが伝わってくる。彼はまんじりともせずに、ただ待ち続けた。
ジャカへの尋問が最も長かった。同じテントで寝かされたエデッタとカモンは、朝まで一言も言葉を交わさなかった。
「お疲れ様でした。ハンターのお二人は、火の国にお帰りください」
翌朝、すっかり恰幅の良いターバンの男に戻ったショウフクがそう言った。カモンとエデッタは目を丸くする。
「え……」
「あちらの馬車をお使いください。御者もおつけします」
ギルドでの拷問すら覚悟していたエデッタは、堪えきれずに尋ねる。
「ちょ、ちょっと待ってよ。あたしたち、密猟者なんだよ」
「あなた方はジャカさんに脅されて密猟に関わっていたとのことで。お戻りください」
目を白黒させながら、エデッタは馬車に押し込まれた。続いてカモンが乗り込む。御者が馬に鞭を入れると、馬車はすぐに動き出した。
昨日と同じように車内が揺れる。椅子の上に膝を抱えるように座ったエデッタが、ふと口を開いた。
「あいつ……あたしのこと庇ったんだ」
ジャカのことだ。カモンはエデッタの横で、呟くように答えた。
「お前を追い詰めた責任があると思ったんだろう」
エデッタの肩が震える。その震えを笑い飛ばすように誤魔化す。
「バカじゃないの? あたしがそんなことで……」
「両親が死んだ後は、ジャカの家で育ったんだろう」
調査の最中、カモンはそれを知った。身寄りを失った彼女は、ジャカの家で、アトリと共に育った。
「……二、三年だけね」
「あいつはずっと、お前のことを気にかけてた」
「うるさい」
エデッタは、膝の上の腕に額を押し付けていた。声は小さく、低い。
火の国に戻った後どうするつもりか、聞くことはできなかった。
「ここでいいんですか?」
「ああ。歩いて帰れる」
カモンとエデッタは西陽が照らす道に降りた。御者に礼を言うと、幌馬車は向きを変えた。馬の鼻息が聞こえた。
一度伸びをして、二人は歩き出す。無言のまま進んでいくと、薄暗くなっていく空の中、道の先に火の国の光が見えた。紅蓮石を用いた、火祭り独特の装飾だ。
二人はカモンの家の前に差し掛かる。ここまで、火の国の民とは出会わなかった。ほとんどが広場に集まっているのだろう。
カモンは自分の家を指した。
「お前はここで待て」
エデッタは答えなかった。
「おい」
カモンの言葉に押されて、エデッタは肩をすくめる。首を少し捻って、彼を見下ろすように答えた。
「そうするよ。ギルドナイト様のご命令だもん」
「そのことは言うな」
カモンはつい、強い調子で言ってしまった。エデッタは言い返さなかった。
彼女は目を合わせようとしなかった。カモンも視線を落とす。
「アトリを呼んでくる」
「……処刑でもする気?」
エデッタは顔を背けていた。カモンの家の方に目をやっているが、どこかを見ている風ではない。
「違う。火の国の奴らはお前に危害を加えるかもしれない。だから、その前にアトリに保護してもらうんだ」
「ふーん」
エデッタは賛成も反対もしなかった。そっけない返事を残して、カモンの家に向かっていく。カモンは何も言えず、道をまた歩き出す。
家の前に差し掛かった。カモンの言葉を待つこともなく、彼女は玄関に向かう。
不意に、彼女は足を止めた。
「ねえ、カモン」
「何だ」
「どの道、この国は滅ぶんだよ」
ハンターズギルドの手助けは、もうない。モンスターに悩まされ続けるこの国は、長くは持たないだろう。
「俺は、やれるだけのことをやってみる」
「……ふーん」
彼女の返事は、またしてもそっけなかった。
家に入ったエデッタは、何もする気にならなかった。
あのまま、馬車から降りて火の国から逃げてしまえばよかった。そうすれば、彼女はどこかでハンターとして生きていくことができるだろう。だが、彼女はそうしなかった。
壁にもたれるようにして、目を閉じる。その壁は冷たかった。
────────────────
どん、どどん、どん。
規則的な太鼓のリズムに合わせて、鼓手たちが低く唸る。身をよじるような旋律を笛が奏で、いくつもの蹄を糸で繋いだ楽器が、やかましく音を立てた。
広場に設けられた小さな舞台は、四方に焚かれた火に赤々と照らされている。その上に、一人の女が立っていた。色とりどりの紐で髪を飾り、鮮やかな彩りの衣服を着ている。アトリだ。
全身を振り乱すような踊りだった。くねらせ、沈め、飛び上がる。衣がたなびき、髪飾りが舞う。見せつけられたその生命の根源に、カモンは目を奪われていた。
舞台を囲み、楽器に合わせて叫び、拳を振り上げる参加者たち。
アトリも声を上げた。それは火の山の神の力を讃え、許しを乞う意味の歌だったが、カモンにはわからなかった。古語と化した言語と独特の節回しが、それを何か恐ろしいもののように感じさせた。
歌と舞は終わった。息を整え、彼女はまた、為政者として声を張り上げる。
「これで火祭りのうち二日が終わった! 今より、明日の夜、火の山の神に供物を捧げるまで、火の山を犯すことは厳禁である!」
火祭りは三日三晩行われる。明日の夜、貢物を捧げ、最後の宴を以て終了となる。
「今、この火の国は混乱の中にある。だからこそ、皆の力が必要なのだ!」
民衆の雄叫びが応えた。
アトリが舞台を降りると、参加者たちも三々五々に連れ立って帰っていく。彼女の周りにはまだ、信仰の篤い何人かが残っていた。
「カモン」
汗を布で拭いながら、エデッタはそう呼んだ。彼女の周りの男女がざわめいて彼女の視線を追う。遠巻きに眺めていたカモンは、無言のまま見つめ返していた。
「もう帰ったのか? 早かったな」
アトリの声には、乱れはなかった。淡々と尋ねる彼女に、カモンは言った。
「頼みがある。一対一で話させてくれ」
取り巻きたちは、アトリとカモンの間に入ろうとする。
「姫様。あいつは……」
「ちょうどいい。私も話したいことがある」
静かな声だった。彼女の顔は、ゆらめく炎に照らされていた。
───────
今この火の国は祭りの最中である。博打や菓子の出店が並ぶ。あちこちから明るい声が聞こえていた。
アトリの家、つまり長の邸に向かう彼らは、周囲からの好奇の目にさらされていた。
カモンは昨日の朝、ギルドナイトに連れ去られた一人だ。余所者であり、ハンターでもある彼は、この火の国にとって異物である。その彼が姫であるアトリとともにいる異常性に誰もが首を傾げていたが、アトリの放つ静かな迫力に圧され、声をかけることはできなかった。
邸の前にかかっていた紅蓮石の灯りを拾い、アトリは玄関の戸を開けた。
ジャカの邸には誰もいなかった。祭りに出払っているのだろう。
「頼みとはなんだ、カモン」
アトリの第一声はそれだった。カモンは、わずかに口を開いたまま、しばし沈黙していた。
「どうした」
「……ジャカのことは聞かないのか」
アトリの発言は意外だった。父親が連行された娘が聞くこととは思えない。
「私もギルドの受付嬢だ。密猟者がどうなるか、知らぬわけではない」
またカモンは沈黙した。祭りの喧騒が聞こえる。アトリは床に目を落とす。
「すまぬな。少し、意地が悪かった。密猟はずっと前から行われていたのだ。……お主はほとんど関わっていないだろう」
アトリは笑顔を作ってみせた。
「それで、頼みとは何だ」
息を吐く音がした。カモンだ。彼はアトリの顔を見つめる。
「エデッタも俺と一緒に帰ってきた。あいつを保護してやってくれ」
アトリは目を瞬かせ、カモンの顔を見つめる。カモンは、冗談など言わない男だ。彼女は椅子に座り、机の上で両手を組んで答える。
「それはできぬ」
「……ほう」
「父上がギルドに連れて行かれた後、何人か私の元を訪ねてきたのだ。……父上とエデッタの密猟に、手を貸したと。父上もエデッタも、私は許せぬ」
アトリの言葉に対して、カモンは無言だった。彼女は続ける。
「密猟のせいで、ギルドはこの国と縁を切る。何より、密猟……いや、そもそも火の山のモンスターを狩ること自体、火の国の戒律に反している」
「なら俺たちハンターもそうだ。戒律よりも住民の安全をとったんだろう」
事実だった。両手を組んだアトリの指が、手の甲でうごめく。
「……お前たちの狩猟は私が認めているのだ。巫女としても、ギルドの代理人としても。だが、父上たちは違う。戒律違反だ」
彼女はそう首を振った。
「その戒律に従って、エデッタの母親を殺した」
「生贄に捧げたのだ」
小さく息が漏れた。カモンが鼻で笑う声を、アトリは初めて聞いた。
「火の山の神にか」
嘲るような響きに耐えきれず、アトリは立ち上がる。
「存在するのだ、火の山の神は。私も叔母様も、その声を聞いている。お怒りならば、モンスターは荒れ狂う!」
「そのためなら人を殺していいと、本当にそう思うのか?」
「それは……」
「いいんだよ」
玄関の方からの声だ。二人は驚いて、その声の主に目をやる。
フラカンが、新しい煙管を手に二人を見つめていた。気だるそうに体重を壁に預け、余裕に満ちた笑みを浮かべている。
「叔母様……!?」
「元気だったかい? カモン」
フラカンはそう眉を上げる。カモンは、彼女を押しのけて部屋の外に飛び出した。開いたままの玄関の向こうに、信じたくないものが見えたからだ。
数人の男たち。そしてその中心の、縄に縛られたひっつめ髪の赤毛の女。
「エデッタ……! 貴様ら!」
カモンは、エデッタを囲む男たちを睨みつける。一際体格のいい男がにたにたと笑った。
「おーっと、近寄るなよ、カモン。こいつは生贄になるんだからな」
クレイだ。復讐心に燃える彼は、アトリを縛る縄の端を強く引いた。
その言葉に、アトリがフラカンの顔を見た。アトリが巫女になって以来、生贄は初めてのことだ。
「あんたもわかってるだろう? 火の山の神はお怒りなんだ。だから生贄が必要なんだよ」
「しかし、叔母様!」
「黙りな、アトリ。あんたには教えたろう? 炎戈竜がまた現れたって」
アトリは口を噤んだ。カモンが思わず振り向く。
「なんだと?」
「……本当だ。アグナコトルが、三頭。目撃情報がある」
苦々しげにアトリは答えた。フラカンがカモンを見下ろす。
「火の山の神はお怒りになってるってことだよ。どうだい? 信じる心が芽生えたかい?」
「それで生贄を差し出すっていうのか」
満足げにフラカンは頷く。勝ち誇ったような笑みだ。
「そうさ。もっとも今は、緘口令を敷いてるけどね」
「……本当だ。今は、民の混乱を招いてしまうだろう」
アトリがそう付け加える。彼女は、カモンと目を合わせることができていなかった。
クレイがエデッタの肩に腕を回した。
「カモンよぉ、お前がいるならエデッタも帰ってきてると思ったら大当たりだぜ。もうちょっと隠し場所には頭使えばよかったなぁ」
クレイの挑発は的確だった。カモンは奥歯を噛む。その彼に、エデッタは優しく語りかけた。
「大丈夫だよ、カモン」
彼は顔を上げ、エデッタを見る。彼女は口角を上げた。だがその唇は震え、視線はカモンを捉えてすらいない。
「……このままこの国は滅ぶんだ。へへっ、ざまあみろって……」
エデッタの声が止まる。その細い首が、いつもの首飾りの紐で締め上げられていた。
「やめろ!」
「うるせえ! 炎戈竜だって、てめえらが呼んだようなもんだろうが!」
クレイは片手でエデッタの首飾りを上に引き上げる。大柄な彼の手の位置は、すでにエデッタの頭の上だ。首を吊られ、彼女はもうつま先立ちの状態だ。
エデッタが体勢を崩し、膝をつく。首飾りの紐が切れたのだ。彼女は激しく咳き込んでいる。
「だいたいこいつは気に入らねえんだよ! こんなもん着けやがって!」
クレイはその首飾りを無造作に投げ捨てた。首飾りの青い石は転がって、土埃にまみれてしまった。
「おっ……おまえぇえっ!」
エデッタが怒りの形相で、クレイに襲いかかる。低い体勢からの体当たりが、彼の体をぐらつかせる。
「てめえっ!」
クレイは、体を丸める彼女の後ろ髪を掴むと、乱暴に引っ張って地面に転がした。そのまま、彼女の腹を強く踏みつける。
「がっ……」
「やめな、クレイ。大事な生贄なんだから」
「……はい」
フラカンの命令に従ってクレイが足の力を緩めると、エデッタは激しく咳き込んだ。
カモンの背後から足音が近づいてくる。フラカンだ。彼女はそのふっくらとした唇で、カモンの耳元に囁いた。
「この国は変わらない。何があろうと、生贄も、火祭りも辞めやしないさ。火の山の神がいる限りね」
地面に落とした視線を、カモンは上げられなかった。
──────────────────
その夜、カモンはなかなか寝付けなかった。明け方近く、ふと彼は目を覚ます。家の外に、気配を感じたからだ。
布団を抜け出すと、足音を殺してアイテムボックスの前に辿り着く。その蓋の上に置かれた双剣を一振り、音もなく持ち上げた。
部屋の中から窓の外を窺う。空は真っ暗で、火の国の中心地のわずかな光が朧げに見えた。
玄関の戸の横に、一人の女がかがみ込んでいた。身長はカモンと同じ程度。質素な服だが、彼はその女に見覚えがあった。
剣を背に隠し、戸を小さく開ける。
「アトリか」
「すまぬ、突然押しかけて」
「いい。……いつからそうしていたんだ?」
「なに、ついさっきだ」
カモンは、彼女がしゃがんでいたあたりの地面に目を凝らす。わずかな星明かりでもカモンには十分だ。たくさんの足跡が残っていたが、どれもアトリのサンダルのものだった。
「とにかく上がれ」
カモンは戸を開け、アトリを招き入れる。アイテムボックスに向かうと、その上に剣を戻した。
アトリにはほとんど何も見えなかったが、カモンが何か金属の大きな物を持っていたことだけはわかった。
「要らぬ用心をさせてしまったようだな」
「別に……。ただの癖だ」
カモンらしくない気遣いだ。アトリは所在なさげに部屋の隅に縮こまる。アイテムボックスの前のカモンの背中に目を凝らす。
かちん、かちん。何度か甲高い音がした。火が火口箱の中で小さく点った。附木についた火が暗闇の中でゆらめき、ほどなくして、蝋燭の上で赤い炎が燃え始める。
「それで、何だ」
振り返ったカモンの顔は、逆光でほとんど見えなかった。アトリは、俯きながら言った。
「……すまぬ。弱音を、吐きに来たのだ」
「弱音を?」
「国を束ねるものとして恥ずべきことだが……聞いてくれぬか」
「……ああ」
黒目がちな目で見つめられ、カモンは頷いた。机の前の椅子を引き、座るようアトリに示した。
アトリはその椅子を借りた。彼女の正面で、カモンは壁に体重を預ける。
「ありがとう。アグナコトルのことは聞いただろう。……今この国は、窮地に立たされておる。そして……叔母様は、生贄を捧げれば良いと」
蝋燭の火がゆらめいた。
「私は……それでは足りぬと思うのだ。今までも生贄を捧げたことはあったが、その時も、火の山の神の怒りの声は収まっていない」
「生贄は無駄だと?」
「私は、そう思う。それに……エデッタのことだ」
彼女は、懐から青い石を取り出して、蝋燭の光を当てた。青い石には紐が通されている。
「エデッタの首飾りか」
「ああ。……これは、エデッタの母親の形見なのだ」
アトリは、その石を親指でそっと撫でた。よく磨かれた、滑らかな表面だった。その青い石を通して、遠い過去を思い返す。
「両親を失ってから、エデッタは私たちの家でしばらく暮らしていたのだ。私にとっては、それこそ、姉妹のような存在だ。だからあやつがハンターになったと聞いた時、私は嬉しかった」
その声は震えていた。彼女は冷静な女だ。感情的になっている姿は、カモンにとっては珍しい。
「だが、エデッタは……父上までも……っ!」
アトリは、もう限界だった。額に手を当て、うずくまるように体を丸める。肩が震え、時折り抑えきれない嗚咽が漏れた。
机の上で、蝋燭の火が燃えている。壁には彼女の影が歪んで映った。
カモンは何も言わず、彼女の肩にそっと手を置いた。額に当てた彼女の手の陰から、彼女の頬が濡れているのが見えた。
この女は、俺と同じだ。信じていたものに裏切られ、寄るべなく漂っている。
師に敗れた記憶が、カモンの中に蘇る。そして、その時の言葉も。
『ギルドは火の国と手を切る。その意味をよく考えろ』。
電流に打たれたように、カモンは体を強張らせた。師の言葉の意味が、ようやくわかったのだ。
程なくして、アトリの声は収まっていく。最後に小さく鼻を啜った音を残して、彼女は椅子から立ち上がった。
「すまなかったな。この国の民にも叔母様にも、このようなことは言えぬのだ」
アトリはそう自嘲する。カモンからの返事はない。
「失礼した……それでは」
玄関に向かうアトリ。彼女の背中へ、カモンが声をかけた。
「エデッタは、この国を滅ぼそうとしていたんだ。十年前の復讐としてな」
アトリの足が止まった。彼女は俯く。
「……あやつの母親のことか」
「そうだ。だからジャカは、エデッタを庇った。『脅して密猟をさせた』と、ギルドの連中にそう証言したらしい」
カモンの言葉にも、アトリは振り返らない。足元を見つめたまま、拳を握りしめている。
「ジャカは、お前の父親は、エデッタも火の国も救おうとしたんだ。戒律を破ってでも」
「それがなんだというのだ!」
初めて、アトリは声を荒げた。振り返った彼女は、眉間に皺を寄せてカモンを睨んでいた。
「火の国はもう保たぬ。どうしようもないのだ。父上もいない。エデッタもいない。ギルドからも見捨てられた。民はいまだ、生贄などに縋っている」
カモンはじっとアトリを見つめ返している。その視線が同情でも軽蔑でもないことに、彼女は気づいた。
「……策があると言うのか?」
アトリはそう問いかけた。カモンは一歩進み出て、声を潜めて答える。
「この国を救う方法はある。密猟だ」
「な……! お主、本気か?」
「ああ。ギルドは火の国とは手を切るだろう。だったらここで何を狩ろうが、ギルドの顔色を窺う必要はない」
「しかし、戒律は」
「俺には無関係だ。それに、戒律のことを気にしていたら、エデッタは救えない」
その言葉に、アトリの表情がまた厳しくなる。
「エデッタをどうするつもりだ」
「俺一人じゃ、アグナコトル三頭は手に余る」
今度は、カモンがアトリの答えを待つ番だった。お互いに目は逸らさない。これは、自分と相手の覚悟を試す場でもあった。沈黙が続く。
眉を寄せたまま、アトリは口を開いた。
「……エデッタは、ギルドの責めを負わずに済んだ。だが、密猟が戒律違反であり、あやつが生贄となったことに変わりはない」
ぎしりと椅子が鳴った。カモンが椅子に座ったのだ。彼は机に片腕を預け、幾分か低い声で聞いた。
「戒律は絶対、か」
「そうだ。だから、もう一つ頼みがある」
座ったまま、カモンはアトリを見上げる。彼女は、先ほどと同じ、真剣な目だ。
「火の山の神の正体を暴いてくれぬか」
カモンは机に預けた腕を下ろし、膝の間で両腕を組んだ。アトリは言葉を続けながら、窓へ近づく。
「以前から不思議に思っていた。モンスターが暴れる時、決まって火の山の神の声が聞こえる。……これは仮説だが」
「火の山の神が、モンスターを操っている……」
彼女は窓を開けた。その向こうには、溶岩の光を白い煙に映す火の山が見えた。
「その通りだ。エデッタを追い詰めてしまったのは、生贄という制度そのものだ。父上が密猟をしたのも、この火の国をモンスターから守るため。……全ての原因は、火の山の神にあるやもしれん」
アトリは火の山を見据えた。幼き頃から聞こえてきた、火の山の神の声。それを疑うまでに至った理由は、やはり、父とエデッタだった。
カモンの方へ、彼女は振り返る。
「この仮説が当たっていれば、エデッタが生贄になる必要もない。それに、戒律違反の罪も問われなくなるかもしれん」
ギルドナイトと受付嬢が、揃って密猟を企てる。その奇妙な状況に、カモンは皮肉なものを感じていた。