第十八階層、『迷宮の楽園(アンダー・リゾート)』の夜明け前。
天井の巨大水晶が放つ蒼白い輝きがもっとも弱まり、深い藍色の闇が森を支配する時間。ツクリ・瀬笈は、静かにシュラフを抜け出した。隣で眠る姉妹の規則正しい寝息を確認し、音を立てずにテントの外へ。夜の冷気が、濡烏色の髪を優しく撫でた。
彼女は周囲を一瞥(いちべつ)すると、キャンプ地から少し離れた森の奥、水晶の光が微かに差し込む円形の広場へと足を向けた。片時も離さなかった魔法帽を、傍らの岩にそっと置く。
帽子という檻から解放されたのは、毛先がわずかに白い、ピンと立った二つの黒い耳だった。
「……ふう」
溜息一つ。誰に見せるでもないその姿で、彼女は手にした《村正》の鞘を払った。
それは亡き故郷への鎮魂であり、あの日斃れた人々への祈り。彼女は、神・月影のホロメより授かった「神楽舞」を踊り始めた。
剣の軌跡が空気を切り裂く風切り音。足袋が腐葉土を踏み締める微かな打音。
軽く汗ばんだ肌に水晶の微光が反射し、彼女の周囲にだけ、この世ならざる幻想的な聖域が立ち上がる。
一方、テントの中でアイズ・ヴァレンシュタインは目を覚ました。微かな、けれど「正しく調律された」ような規則的な気配が、風に乗って届いたからだ。
(……ツクリ?)
アイズは音の主を探して森へと足を踏み出した。彼女の鋭敏な感覚は、森の奥で激しく、かつ静かに「共鳴」する魔力と剣の気配を捉えていた。
茂みを掻き分け、その場所に辿り着いた瞬間。アイズは、息をすることさえ忘れてその光景に見入った。
そこには、月明かりのような水晶光の下で、一振りの刀を手に舞い踊る少女の姿があった。
いつもの魔法帽はない。代わりに、激しい動きに合わせて揺れる獣の耳。
(……犬人(シアンスロープ)じゃない)
アイズの黄金色の瞳が、驚愕に揺れた。犬人にしては耳の形が鋭く、その毛並みには気高い品格がある。そして何より、その全身から溢れ出す魔力の密度は、すでに一個人の域を遥かに超えていた。
アイズは「狐人(ルナール)」という種族を、かつてリヴェリアから聞かされたお伽噺のように思い出していた。
ツクリの舞は、一糸乱れぬ精度で加速していく。
汗が真珠のように飛び散り、濡烏色の尻尾が流星のような残像を描く。その姿は、あまりにも美しく、そして――アイズの耳には、ひどく哀しい音色を奏でているように聞こえた。
アイズは声をかけることができなかった。今ここで姿を現せば、この完璧なまでに美しい「祈り」を壊してしまうような気がしたからだ。
不意に、舞が止まった。ツクリは大きく息を吐き、静かに刀を鞘に納める。
――パチン。
硬質な一音が、森の静寂に波紋を広げた。
「……そこに、いらっしゃるのでしょう? アイズさん」
ツクリは振り返らずに告げた。エメラルドの瞳が、暗闇の中でわずかに発光している。
アイズは覚悟を決め、木陰から姿を現した。
「……ごめんなさい。……綺麗、だったから」
アイズの視線は、ツクリの頭上でまだ微かに動いている黒い耳に注がれている。ツクリは一瞬だけ困ったように眉を下げたが、隠すことを諦めたように、ふわりと微笑んだ。
「見られてしまいましたね。……そうです、私は狐人(ルナール)。それも、私の故郷では『異端』と呼ばれた色の狐です」
「……ルナール。……初めて、見た」
アイズがこくりと頷きながら、吸い寄せられるように数歩歩み寄る。
「私の村は、赤毛の狐人ばかりが集まる村でした。だから、この濡烏色の髪と耳はひどく目立って……。その名残で、オラリオに来てからもなんとなく帽子で隠して、犬人の振りをしていたんです」
おどけて見せると、ツクリは魔法帽を手に取り、再び深く被り直した。黒い耳が帽子の影に消え、いつもの「ミステリアスな吟遊詩人」に戻る。
「アイズさん。今の姿と舞は、二人だけの秘密にしていただけますか? ティオナさんたちに説明するのは、もう少し時間が経ってからにしたいんです」
ツクリが人差し指を口元に当て、茶目っ気たっぷりに微笑む。
アイズは少しの間、ツクリの隠された姿を反芻するように沈黙した後、小さく、けれど確かに頷いた。
「……うん。秘密。……また、見せてくれる?」
「ふふ、気が向いたら。……さあ、戻りましょう。ティオナさんたちが起きる前に、美味しい朝食の準備をしなければ」
濡烏色の尻尾を一振りして、ツクリは軽やかな足取りでキャンプ地へと歩き出す。その後ろ姿を追いながら、アイズは自分の胸の奥で、まだ先ほどの舞の「音」が鳴り止まないのを感じていた。
キャンプ地への帰り道、小さな滝が湖へと注ぐ清流を見つけ、ツクリは足を止めた。
「アイズさん、少しだけ汗を流していいですか? さすがにこのままでは、彼女たちの鼻を誤魔化せそうにありませんから」
アイズの見張りを受けながら、ツクリは水晶の冷気を孕んだ清流で肌を清める。水晶の光を浴びて透き通る水飛沫が、神楽舞で高揚した心身を静かに落ち着かせていく。水から上がったツクリは、濡れた髪を魔法による微細な振動で乾かすと、再び魔法帽を深く被った。
「お待たせしました。……さあ、最高の『朝食』を奏でに戻りましょう」
テントに戻り、鍋のシチューを温め直していると、ちょうどティオナとティオネが目を擦りながら外に出てきたところだった。
「ふわぁ……ツクリちゃん、アイズ。おはよー。二人とも朝早いね。」
「ええ。少し空気が良かったので散歩に行っていたんです。」
ツクリはいつもの穏やかな微笑みで答え、手際よく黒パンを準備する。
今日の献立は、黒パンに煮詰めて濃くなったシチューを挟んだ、ホットサンドだ。
「……美味しい! これを食べると、今日も地上まで頑張れる気がするよ!」
ティオナが元気よく頬張る横で、アイズは黙々と、けれどいつもより少しだけツクリの近くに座って食事を進めていた。二人だけの秘密が、目に見えない柔らかな空気となって、彼女たちの間に流れていた。
「ツクリ。……手合わせして。……あなたの、あの舞みたいに」
食後の片付けをしている最中、アイズが真っ直ぐな瞳でツクリを見つめた。
「舞、ですか。……いいですよ。ですがアイズさん、あいにく私の愛槍は昨日の戦いで折れてしまいまして。今はまだ、まともな手合わせは難しいかもしれません」
「……あ。……そっか」
少しだけ残念そうに肩を落とすアイズに、ツクリは微笑んで付け加えた。
「訓練用の木槍でよければ、ホームに戻ったあとたっぷりとお相手しましょう」
「……うん。約束。……楽しみ」
一行は、名残惜しそうに第十八階層を後にし、地上への帰還路についた。
帰り道も、ツクリはハサウェイの短剣に音の刃を付与し、危なげなく魔物を処理していく。第十八階層の静謐な夜明けと、アイズと交わした秘密の旋律を胸に。
夕暮れのオラリオが見えてくる頃。
ツクリは、次に手にする「楽器」はどんな音がするのだろうかと思いを馳せながら、バベルの巨大な影を仰ぎ見ていた。