少年が残していった焦燥の残響を、ツクリの鋭敏な聴覚が捉えていた。彼はただ恐怖で逃げ帰ったのではない。その足音の響きには、血を吐くような悔しさと、狂おしいほどの情熱が混ざり合っている。
残響を辿り、ツクリはダンジョンの階層を急速に降りていった。
第四階層、第五階層……そして第六階層。
普通の新米冒険者が夜間に立ち入れば確実に命を落とす危険地帯だが、確かに少年の足跡(おと)はこちらへ続いている。
――キィン、ガァンッ!
不意に、通路の奥から激しい戦闘音が聞こえてきた。ツクリは気配を消し、通路の角から静かに様子を伺った。
視線の先、件の少年――ベル・クラネルが、影の怪物の変異種であるウォーシャドウと真っ向から、対等に渡り合っていた。その無駄の多い、けれど一歩も退かない命がけのステップを見た瞬間、ツクリの中で点と線が完全に繋がった。
(やはり……ダンジョン遠征の直前に、黄昏の館へやってきていたあの少年ですね)
死力を尽くす彼の戦いぶりを前に、ツクリはあえて薙刀を抜かなかった。これは、彼が雑魚ではないと世界に証明するための、彼自身の冒険(プレリュード)だ。ツクリは万が一の事態に備えて魔力を練りつつ、その若き泥臭い英雄譚を静かに見守ることにした。
しかし、そこからさらに一つ階層を重ねた第七階層。激戦の末に複数の魔物を退けたベルは、ついに体力の限界を迎え、ふらりとその場に倒れかけようとした。その背後から、新たな魔物の爪が迫る。
――ここまでだ。
「《高速交換(クイックチェンジ)》」
ツクリの手に瞬時に現れたのは、銀色に光る穂先を持った薙刀。流れるような旋回の一閃が、迫りくる魔物の群れをまとめて吹き飛ばし、硬い岩壁へと叩きつけた。崩れ落ちる魔物たちの断末魔を背に、ツクリは倒れ込むベルの身体を優しく受け止めた。
「残念ですが、今宵の君の冒険はここまでですよ。私がいなければ、体力の限界を見誤ってここで朽ちていましたね」
「……あ、なたは……」
ベルは意識が朦朧とする中で、エメラルドの瞳を持つ魔法帽の少女を見上げた。
「【ロキ・ファミリア】所属、ツクリ・瀬笈と申します。この度は、うちの駄犬がひどい不協和音を響かせてしまい、申し訳ありませんでした」
ツクリは穏やかに告げると、イルヴァの地でストックをため込んで以来ほぼ使用機会のなかった、軽傷治癒の魔法を少年の身体へと流し込んだ。温かな光がベルの全身を包み込み、傷口が急速に塞がっていく。
「……! 傷が……痛みが消えていく……」
「大体は治りましたね。聞くところによれば、私たちが帰還の途中で逃がしたミノタウロスにも遭遇されたとのこと。ファミリアを代表する立場ではありませんが、重ねて謝罪いたします。……お怪我がなくて、本当に良かった。宜しければ、君のお名前と、所属するファミリアを伺っても?」
ツクリの慈愛に満ちた問いかけに、ベルは赤くなった顔を隠すように一度俯き、それから力強く首を振った。
「いえ! 僕が、僕が弱いのがいけないんです……っ! ……傷の治療、本当にありがとうございました!」
少年はそう言って深々と一礼すると、自身の名前を告げることも忘れた様子で、バベルの地上へと向かって再び一目散に駆け上がっていった。
遠ざかる白い背中を見送りながら、ツクリは手元の薙刀を静かに消滅させた。
「名乗る必要はありませんよ、白兎さん。……君の真っ直ぐな旋律(おと)は、もう完全に覚えましたから」
帽子のつばを直し、不敵に、けれど少年の未来を祝福するように微笑むと、ツクリは主神たちの待つ賑やかなオラリオの夜へと、静かに足を向けるのだった。