翌朝。
一晩中、徹夜(貫徹)で思考の整理と情報編纂に没頭していたツクリは、朝のルーティンである神楽舞を終えると、自室の狭い調理場で手早く軽い朝食を用意した。それを片手に、まだ朝靄の残る「黄昏の館」を静かに出発する。
目的地は、昨夜――いや、もう明朝と言っても差し支えない時間帯に耳にした、あの少年の足跡の残響だ。
オラリオの喧騒が目を覚まし始める中、ツクリは腰の《ハサウェイの短剣》がもたらす元素と魔力の感知能力、そして自身の優れた聴覚をフィルターにし、少年の純粋でどこか危うい「音」だけを正確に手繰り寄せていく。
(あの少年は、放っておけばすぐに不協和音を上げて壊れてしまう)
数々の喪失を経験し、冷徹な求道者でありながらも、内面に深い過保護さと母性を宿したツクリの直感が、どうしても彼を放っておいてはくれなかった。
足跡の残響を辿りながらたどり着いたのは、都市の北西、寂れた区画の片隅にポツンと佇む【廃教会】だった。
かつては神聖な祈りの場だったのだろう。だが今や壁は崩れかけ、蔦が這うその姿は、極東の滅びた神社や、イルヴァの荒野に打ち捨てられた廃墟を彷彿とさせた。
「失礼します……」
ツクリは入り口の古びた扉を軽くノックした。だが、中からの返事はない。
鍵がかかっていないことを確認し、そっと扉を押し開けると、埃っぽくも厳かな空気を孕んだボロボロのチャペルが目の前に現れた。
少年の足跡の残響は、さらにその奥――地下へと続く薄暗い階段の方へと伸びている。
ツクリは階段の手前で、ぴくりと耳を揺らし、その場に一歩踏みとどまった。
(これ以上先は、彼らにとってのプライベートな境界(聖域)。見ず知らずの私が踏み入るべき場所ではないですね)
しばらくここで待たせてもらおう。ツクリはチャペルの中を見渡し、比較的マシな、背もたれの壊れていない長椅子に腰掛けた。傍らにストラティバリウスのチェロケースを立てかけ、古いランタンの微かな温もりを感じながら静かに目を閉じる。
しかし、その穏やかな静寂は、唐突に鳴り響いた文字通りの「不協和音」によって一瞬で消し飛ばされた。
「うっわぁーー!」
地下の底から響き渡ったのは、割れんばかりの、地を這うような少年の絶叫。
(――ッ!?)
先ほどまでの静寂が、緊迫のノイズへと一瞬で塗り替わる。
(また……誰かを、目の前で喪うわけにはいかない……!)
徹夜の疲労など、その瞬間に完全に消滅していた。
ツクリはチェロケースを背負い直す時間すら惜しみ、神速の踏み込みを爆発させる。文字通り床を爆ぜんばかりの速度で、彼女の身体は地下への階段を一瞬で駆け下りていた。
階段の突き当たり。古びた地下室の扉の前に滑り込み、即座にドアノブに手をかけて回す。
ガチャン、と硬い金属音が響く。内側から鍵がかかっている。
「大丈夫ですか!!?」
ツクリは閉ざされた扉に両手を叩きつけるようにして、鋭く、けれどどこか取り乱したような心配の声を張り上げた。
しかし。
扉に耳を当てたツクリの超常的な聴覚が、その直後に捉えたのは――血の匂いでも、刃が肉を裂く音でも、邪悪な怪異の呪詛でもなかった。
「あ、あわわわわ、ご、ごめんなさい神様! 」
「もう遅いぞベル君! キミは昨日、僕と一緒に寝ようと言ったんだからな! ほら、もっとこっちに寄るんだー!」
「……え?」
扉の前で、薙刀の柄に手をかけ、いつでも戦闘態勢に入れるよう魔力を練り上げていたツクリは、完全に虚を突かれたようにエメラルドの瞳をパチくりと丸めた。
危機(シリアス)だと思って限界突破の速度で駆けつけたその場所(扉の向こう)に満ちていたのは、驚くほど純粋で、けれど呆れるほど下界に馴染みすぎている「神様の甘えた音色」と、パニックを起こして純朴にのたうち回る「少年の情けない叫びの旋律」という、あまりにも平和でドタバタな、日常の二重奏(デュエット)だった。
構えていた薙刀の柄から、そっと指を離す。
扉の向こうから漏れ聞こえるあまりに締まりのない痴話喧嘩(ノイズ)に、ツクリがエメラルドの瞳を丸めて立ち尽くしていると、内側からガチャリと、勢いよく鍵の開く音が響いた。
「だ、大丈夫です! 何でもありませんからっ……え?」
勢いよく開け放たれた扉の隙間から顔を出したのは、やはり昨夜の白髪の少年――ベル・クラネルだった。
ベルは赤面したまま額に汗を浮かべ、必死に弁明しようとしたものの、目の前に佇む人物を見て完全に言葉を失った。
そこにいたのは、艶やかな濡烏色の長髪をなびかせ、二股の薙刀を手に持った、息を呑むほどに神秘的な少女。パニックに陥った少年の頭脳が処理しきれないのも無理はなかった。
「……ベル君、誰だい? 僕たちの愛の巣に朝っぱらから押し入ってくる不届き者は――」
ベルの背後からひょこりと顔を出した、黒髪ツインテールのちっちゃな女神――ヘスティアが問いかける。
一瞬の、奇妙な静寂。
ツクリはすぐに理知的な思考を取り戻すと、己の早合点への気恥ずかしさをおくびにも出さず、極東の最も美しい礼法で滑らかに頭(こうべ)を垂れた。
「突然の無礼、失礼いたしました。ヘスティア様、そして……ベル・クラネルさん。私はロキ・ファミリア所属のツクリ・瀬笈と申します。地下から凄絶な悲鳴が聞こえましたので、不躾ながら、命の危機かと判断し踏み込ませていただきました」
「あ、いや、その……悲鳴は、あの、ちょっとベッドの中で神様がっ、うわああ違うんです!」
ますます墓穴を掘って頭を抱える白髪の少年の音色(こえ)を聴きながら、ツクリは無意識に目を細めた。
間近で聴くベルの旋律は、やはりひどく歪んでいた。
実力に見合わない無理な戦闘の反動、そして何より、基礎が全く整っていない独学の歪み。放っておけば、遠からず手遅れな不協和音を上げて、この少年は再起不能に壊れてしまう。
(……やっぱり、放っておけませんね)
ツクリの奥底にある過保護な母性が、静かに、けれど決定的に駆動した。
彼女はすっと薙刀の刃先を後ろへ引き、そのエメラルドの瞳を和らげて二人に微笑みかける。
「状況は概ね理解いたしました。……お騒がせしたお詫びと言っては何ですが、上の礼拝堂の長椅子に、私が今朝作った軽い朝食を置き忘れてきてしまいまして。よろしければ、お二人で召し上がっていただけませんか?」
「え……朝御飯、ですか?」
きょとんとするベルをその場に残し、ツクリは「少々お待ちください」と言い残すや否や、音もなく地下の階段を駆け上がった。神速の身のこなしは、ベルたちの目には一瞬の濡烏色の残像にしか見えなかっただろう。
瞬く間に戻ってきた彼女の両手には、まだ湯気を立てている竹皮の包みと、オークの古木で作られたチェロケースがしっかりと抱えられていた。
「冷めないうちに、召し上がれ」
ツクリに促されるまま、呆然とした主従は地下室に戻り、食卓を囲んだ。
ツクリが手際よく竹皮の包みを開くと、お米のふっくらとした甘い香りと、丁寧に仕込まれた極東の出汁の香りが、廃教会の埃っぽい空気を一瞬で極上の和音(コード)へと調律していった。食べる者の心身を芯から癒やす「優しい母親の味」だ。
「おいしそう……! っていうかキミ、もしかして……たまに中央広場とかで、もの凄く綺麗なチェロを弾いてる子じゃないかい?」
ヘスティアがその黒髪の容姿と、傍らに立てかけられたストラティバリウスに目を留め、手をポンと叩いた。たまに街で見かけるゲリラ演奏会の、あの神秘的な獣人の少女。そう合点がいった主神の言葉に、ベルも「あ、あの有名な……!」と目を輝かせる。
「お目に留まっていたなら光栄です、ヘスティア様。さあ、どうぞ」
ツクリが差し出したおにぎりと温かい汁物を、おそるおそる口に運んだ主従は、次の瞬間には、言葉を失って貪るように食事を進めていた。
「な、何これ……! 美味い、美味すぎるよベル君!」
「はい……! なんだか、体中の疲れがみるみる溶けていくみたいです……!」
二人が見せる純朴な笑顔を、ツクリはチェロケースに寄り添いながら、まるで我が子の成長を見守る母親のように、慈愛に満ちた瞳で見つめていた。
そして、ベルが最後の一口を飲み込み、ふぅ、と満足げな息を吐き出した、その瞬間。
ツクリはトーンを落とし、理知的で、けれど確固たる意志を秘めた旋律で、少年に真っ直ぐに向き直った。
「ベル・クラネルさん。もしよろしければ――私に、あなたの稽古をつけさせていただけませんか?」
「え……っ? 稽古、ですか?」
おにぎりの米粒を頬につけたまま、ベルが呆然と声を漏らした。
「はい。あなたの足跡の残響……昨日負った無理な戦いのノイズが、未だにあなたの身体を酷く蝕んでいます。その実力に見合わない歪んだ歩き方のままダンジョンへ潜り続ければ、次は本当に、先ほどの悲鳴のような最期を迎えることになります。……私の目の前で、ひたむきな誰かが不協和音を上げて壊れてしまうのを、見過ごしたくはないのです」
ツクリの言葉には、冷徹な論理と、無償の愛が同居していた。
唐突な上級冒険者からの申し出に、ベルとヘスティアは、ただただ圧倒されたようにその美しい濡烏色の巫女を見つめ返すことしかできなかった。
そんな主従の様子を見て、ツクリはハッと我に返ったように、小さく息を吐き出した。
自身の内にある過保護な性格が先行し、少々性急に言葉を重ねすぎてしまったと、理知的な頭脳が即座に軌道修正をかける。
「……いえ、急にこのような話をされても困惑してしまいますね。私とあなたとでは所属するファミリアも異なります。ダンジョンでの立ち回りや手の内を明かすような修行ともなれば、派閥間での規約や相談も必要になるでしょう」
ツクリは長椅子から静かに立ち上がると、傍らのチェロケースのハンドルを細い指先で握り直した。
「今日のところは、まずはお二人でじっくりとお話し合いください。……それと、ヘスティア様」
ツクリはトーンを一段落とし、エメラルドの瞳に深い真剣みを宿して、ちっちゃな女神を真っ直ぐに見つめた。
「差し出がましいようですが、ベルさんの背中の『ファルナ』……早急に、神の血による隠蔽(ロック)を施されることを強く推奨いたします」
「え……っ?」
ヘスティアが短く息を呑んだ。
先ほど地下室の扉が開いた瞬間。目覚めたばかりで上裸だったベルは、慌てて上着を羽織ったものの、ヘスティアがのしかかっていた背中は大きくはだけていた。
ツクリの視覚は、ベルの背中に刻まれた生の神聖文字(ヒエログリフ)――ロックすらされていない、あり得ない速度で跳ね上がっている成長の軌跡を、一瞬のうちにすべて読み取ってしまっていたのだ。
「キミ、まさか……ベル君のステイタスを見たのかい?」
ヘスティアの旋律が、明確な警戒のノイズを帯びて強張る。主神として、我が子の異常な成長(リアリス・フレーゼ)が他者に知られる危険性を、彼女もまた瞬時に理解したのだ。だが、ツクリは敵意など微塵も見せず、ただ先輩の冒険者として、そして放っておけない年長者として、静かに首を振った。
「他意はありません。ただ、ステイタスの隠蔽(ロック)を行わないのは状況次第で困ったことになります。知らなかったでは済まされないことなので、毎回しっかりと行ってくださいね。」
ツクリの極めて現実的で、けれどどこか諭すような温かさを孕んだ指摘に、ヘスティアは言葉を失い、ただごくりと唾を飲み込んだ。ツクリがここまで強く念を押したのは、ベルの背中のファルナが、世界の調和を揺るがすほどのあまりに純粋で、それゆえに酷く危うい旋律に聴こえたからだった。
「私の所属を理由に警戒されるのは当然です。このことは、主神ロキにも、ファミリアの誰にも口にすることはありません。誓って、月影の神の御名にかけて」
ツクリは極東の美しい一礼を捧げ、背中の薙刀とチェロケースを微かに鳴らした。
「朝食のおにぎり、お口に合ったようで何よりでした。……それではベルさん、また来ますね。良い音のままで、どうかご安全に」
そう言い残すと、ツクリは翻り、朝靄の晴れた廃教会から音もなく立ち去っていった。
残された寂れたチャペルには、竹皮の包みから漂うお米の優しい残香と、嵐のように現れて去っていった神秘的なルナールの少女が遺した、峻厳でいて温かい警告の余韻だけが、静かに漂っていた。
「……ベル君、あの子、ただのロキ・ファミリアの構成員じゃないぞ。底が、全く見えなかった……」
「はい……。でも、なんだか凄く、温かい人でした……」
おにぎりの米粒をつけたまま、ベルは少女が去っていった扉の向こうを、どこか魂を奪われたようにいつまでも、いつまでも、見つめ続けるのだった。