ヘスティア・ファミリアの廃教会を後にしたツクリは、朝の光が完全に昇りきった迷宮都市を歩き、我が家である「黄昏の館」へと戻ってきていた。
館の広大なエントランスをくぐりながら、ツクリは昨日耳にしたアイズの足音の残響を思い出す。
(あの子……ベル・クラネルさんと、アポイントメントが取れました。アイズも昨日はあの少年のことを気にしていたようでしたし、一緒に会いに行くか問おうと思ったのですが……)
ツクリの目論見は、ベートからぶっきらぼうに告げられた一言によってあっけなく崩れ去ることとなった。アイズはすでにティオナたちに連れられて、賑やかな午前中の買い物へと出かけてしまっており、留守だったのだ。
(タイミングが悪かったですね。……まあ、あの子たちの足音は賑やかですから、今頃服屋は大騒ぎでしょう)
脳裏に浮かぶ元気なアマゾネス姉妹の旋律に苦笑を漏らしつつ、ツクリはチェロケースを背負い直すと、ファミリアの最高幹部たちが集う執務室へと足を進めた。
一先ず、主神ロキと、団長代理であるリヴェリアに、今朝あの廃教会で起こったこと――ベルへの稽古の申し出の件を報告するためだ。
「――ふむ。他派閥の、それも登録されたばかりの若者の面倒を見たい、か」
重厚なデスクの後ろで、翡翠色の髪を揺らしたハイエルフの王族――リヴェリア・リヨス・アールヴは、深く、深いため息とともに理解を示してくれた。
今ではファミリア内でも独自の立ち位置を確立しているツクリの奇妙なお節介焼きを、リヴェリアはよく知っている。お前がそこまで言うのなら、その少年にはよほどの歪み(危うさ)があるのだろう、と理知的なエルフは頭痛を堪えるように眉間を押さえた。
しかし、真の問題は、その隣でソファの上に寝転がっていた主神であった。
「待て待て待てぇーーいっ!! 却下や! 大却下や、そんなん絶対に認めんで!!」
ロキはソファから跳ね起きるなり、狐のような細い目を限界まで吊り上げて猛抗議してきた。
どうも彼女は、その少年の主神であるヘスティアと、反りが合わないらしく、ただでさえ犬猿の仲なのだ。
「なんでうちの極上の愛娘(ツクリ)が、あのチビ(ヘスティア)のところのド素人のケツを拭いてやらなあかんねん! 癪に障るわ! 却下却下、接触禁止や!!」
手足をバタバタとさせて子供のように反対してくる主神のノイズを、ツクリはエメラルドの瞳を一切揺らすことなく、冷徹なまでの眼差しで見つめ返した。ツクリにとって、主神のこの程度の駄駄っ子は、心地よい雑音にすら満たない。
ツクリは静かに一歩前に出ると、その美しい濡烏色の髪を揺らし、ロキに向かって淡々と、けれど有無を言わせぬ旋律(こえ)を響かせた。
「ロキ。今回私が指導するあの白髪の少年……ベル・クラネルさんは、本来であれば、我がロキ・ファミリアに入る可能性があった人材です」
「はぁ!? 何言うてんねん、あんな弱っちい――」
「深層探索(ダンジョンアタック)の数日前、彼が我が派閥の門を叩いた際、こちらの門番がその身なりだけを見て、非礼な態度で追い返した事実を。彼は行く当てを失い、路頭に迷った末にヘスティア様に拾われたのです」
ツクリの論理的で痛烈な一撃に、ロキの言葉が肉体ごとピきりと凍りついた。
オラリオ最大最強の派閥としての傲慢さが生んだ、新人の不当な門前払い。それはロキ・ファミリアの規律としても明確な『非』であり、迷惑をかけていることに他ならなかった。
「大派閥の不手際で未来ある冒険者の芽を摘み、不協和音を立てて壊してしまうのは、我がファミリアの誇り(プライド)に反します。……私は、私の信じる月影の理(ルール)に従い、彼の歪みを調律します。ロキ、あなたが何を言おうとも、この決定を撤回するつもりはありません」
ツクリの背中から放たれる、かつての神・ホロメの神威すらも想起させる圧倒的な意志の絶対和音。
何を言っても無駄だ、と悟ったロキは、ぐうの音も出ずに口をパクパクとさせた後、最後はがっくりと肩を落としてソファに突っ伏した。
「……うぅ、ツクリの頑固者ぉ……。もう知らん、勝手にせい……ううっ、アホチビめぇ……」
主神がついには折れたのを見届け、ツクリは「ご理解に感謝します」と、リヴェリアにだけ完璧な一礼を捧げた。
ロキ・ファミリアの「ママ」であるリヴェリアの苦笑を背に受けながら、ツクリは白髪の少年を真の強者へと調律するための次なる準備へと、理知的に歩みを進めるのだった。
翌朝。まだ薄暗いオラリオの街を歩くツクリの手籠にはやはり竹皮に包まれた暖かい朝食が詰められていた。
目的地である寂れた廃教会の地下室の扉を軽くノックし、そっと押し開ける。
ベル・クラネルは既に起床して冒険者の軽装を纏ったベルが、覚悟を決めたルベライトの瞳で待ち構えていた。
「――お願いします、ツクリさん! 私に、あなたの稽古を受けさせてください!」
ツクリの姿を見るなり、深々と頭を下げた。強くなりたいと願う少年の純粋な旋律(こえ)に、ツクリの耳がぴくりと優しく跳ねる。
「はい。その真っ直ぐな和音(お返事)、しかと受け取りました」
場所を変えましょう。とツクリはベルを伴って教会から出発し、迷宮都市を取り囲む巨大な【城壁】の上へと向かった。見上げるほどに高く、オラリオを一望できるその場所は、心地よい夜風の残響が吹き抜ける、特訓にはこれ以上ない最適な聖域だった。ツクリは城壁の見張り用に置かれた長椅子を見つけると、そこに手籠を置いて少年に告げた。
「まずは冷めないうちにこちらをお召し上がりください」
「えっ? 朝ごはん、ですか?」
広場の長椅子に腰かけ、包みを広げると現れたのはふっくらと結ばれた塩むすびと水筒に詰められた温かい味噌汁だ。
「そうです。戦闘(うごき)を学ぶ前に、まずは『食』の重要性を知るべきです。身体は食べたものから作られています。どれほど正しい刃の振り方を学んでも、それを支える自分の身体が不調だと正しく力を振るえません。内側から肉体を満たし、調律することこそが、強さへの最初の第一歩です。どれだけ消耗していても一日三食、より良いものを身体に取り入れてください。成長期でしょうし、伸びる身長にも関わってきますよ。」
「……!はい!」
ツクリの論理的でいて、どこかお母さんのように温かい言葉に、ベルは胸を打たれたように何度も頷き、おにぎりを頬張り始めた。優しい味が、少年の肉体を芯から満たしていく。
「食べながらで構いません、少しヒアリングを。ベルさん、あなたの現在の使用武器と、発現している魔法について教えていただけますか?」
「武器は、このショートソード一本です。……魔法は、その、まだ何も覚えていなくて……」
頭を掻きながら恐縮するベルの音色を聴き、ツクリは内心で小さく頷いた。
(やはり、魔法は未発現。武器も基礎的な短剣のみ。これなら余計なノイズを気にせず、純粋な『器(基礎)』の調律に専念できますね)
食事が終わるとツクリは短剣を構えるよう告げ、腰元から★《ハサウェイの短剣》を静かに引き抜いた。魔銀(ミスリル)の刃が朝日を反射して鈍く光る。
「刃を交えるのはまだ先です。まずは『シャドウ(型)』から始めましょう。ベルさん、短刀を構えて、私の動きをじっくりと、ゆっくりと真似してください」
「はい!」
ツクリは短剣を構え、ゆっくりとした足運びで移動し、袈裟懸けに素振りしてみせた。その淀みない、流れる川のような美しい動きに、ベルは思わず生唾をのみこむ。
「……まずはこのように動いてみてください。」
「……!ごめんなさい!」
あまりの美しさに見とれてボケっとしてしまったベルは、慌てて気を取り直すと、どこかぎくしゃくとした動きで短剣を袈裟懸けに振るった。案の定、ベルの短剣の振り方やステップは、あまりにも基礎がガタガタだった。独学ゆえの悪い癖が不協和音(ノイズ)となって、彼の身体の動きを阻害している。ツクリはその歪みを、一歩一歩、丁寧に擦り潰していく。
そもそも、短剣の握り方からして、ただ力任せに握りしめるように握っていた。それを見たツクリは、後ろから抱き着くようにベルの手の上から優しく手を重ね、短剣の正しい力加減を教えこむ。
ツクリ自身はあくまで理知的な指導のつもりだったが、突然背後から柔らかな温もりに包まれたベルの顔は、一瞬で熟したトマトみたいに真っ赤になっていた。
バタバタと無駄の多かった足運びを矯正し、それだけの基礎を徹底しているうちに、朝の時間はまたたく間に過ぎ去り、気づけば昼前になっていた。
「今日は基礎の基礎を教えました。これからダンジョンに向かうそうですが、心構えとしてまずは動き方、攻撃の動作を、無意識でも完璧に再現できるようになるまで、焦らずじっくり、ゆっくりと行うようにしてください。急な成長(ジャンプ)は、時として肉体を壊します」
「無意識でも……わかりました、ツクリさん!」
ダンジョンへ向かうベルを見送り、ツクリは「黄昏の館」へと戻ってきた。
エントランスホールへ入ると、初めて見る衣装に身を包んだアイズ・ヴァレンシュタインの姿がそこにあった。
「あ、ツクリ……。おかえり」
ツクリはアイズの元へと歩み寄ると、その美しい濡烏色の髪を揺らし、理知的でいて少しだけ悪戯っぽく微笑みかけた。
「ただいまです、アイズ。とてもかわいい衣装ですね。似合っていますよ。」
「ありがと。」
「……先日、あなたが気にしていたあの白髪の少年――ベル・クラネルさんのことですが。実は今朝から、私が少し、稽古をつけることになりました」
「え……?」
アイズが驚いたように小さな唇を開く。
ツクリは、この純粋でどこか危うい身内(アイズ)と、あのひたむきな少年を、明日の朝、同じ城壁の上の旋律へと巻き込むための、小さくも決定的な伏線(コード)を静かに紡ぎ落とすのだった。