ダンジョンにネフがいるのは間違っているだろうか   作:黒狐

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ツクリ・瀬笈の朝は、誰よりも早い。

まだ夜の帳(とばり)が降りている頃に目を覚まし、肌を刺すような冷水で顔を洗う。身を引き締めた彼女が向かうのは、静まり返った館の中庭だ。片手に《村正》を携え、彼女は静かに舞い始める。

それは神・月影のホロメから授かった「神楽舞」。亡き故郷への鎮魂と、あの日斃れた人々への祈り。ロキ・ファミリアに入って一ヶ月、朝露に濡れる石畳の上で舞うこの儀式を、まだ誰にも見られたことはない。彼女はこの静寂こそが、舞という旋律に最も相応しいことを本能で知っていた。

朝日が地平線をなぞり始める頃に舞い終えると、自室に戻って汗を流す。

本来、この派閥(ファミリア)は二人一室が基本だが、彼女には個室が与えられている。その希少な種族特性や、所持している強力な「遺産」の管理を考慮した上での、幹部たちの判断だ。一回り狭い部屋ではあるが、独りの時間を愛でる彼女にとっては、この上ない特等席だった。

さて、今日はリヴェリアの講義もなければ、ダンジョン探索の予定もない。上層十二階までは既に踏破済みであり、中層への日帰りアタックは時間的に厳しい。

 

「たまには、趣味に没頭するのも悪くありませんね」

 

彼女にとって、音楽は呼吸と同じライフワークだ。ならば趣味とは何か。それは――料理。

イルヴァの地で、生存と能力向上のために鍛え抜いた「食活」の技術。それはいつしか、彼女にとって最高の娯楽となっていた。思い立ったら即行動。腕が鈍っていないか確認するため、ツクリは朝食の準備に追われる厨房へと突撃した。

 

「一品、作らせてはいただけませんか?」

 

突然の申し出に、戦場のような厨房を預かる料理長は渋い顔を見せる。だが、ツクリは迷わずフライパンを握った。

手早く、けれど流れるような動作で卵を溶き、絶妙な火加減で形を整えていく。差し出されたのは、表面は絹のように滑らかで、中はとろりと黄金色に輝く究極のオムレツ。一口食べた料理長は、その完璧な「調律」に言葉を失い、そのまま彼女の手を固く握った。

 

「……任せた、お嬢ちゃん!」

 

こうして始まった「オムレツ生産ライン」。五百人前の卵を、一切の妥協なく、驚異的な手際の良さで仕上げていくツクリ。彼女の指先が刻むリズムは、楽器を奏でる運指よりも速く、正確だった。

すべてを作り終え、満足げな微笑みを残し、嵐のように去っていくツクリ。その日の朝、館の食堂には「今日のオムレツは、神の恩恵(ファルナ)を受けた味がする」という、奇妙な噂が広まった。

 

 

 

 

昼前。オラリオの陽光が降り注ぐ西のメインストリートを、ツクリは目的を持って歩いていた。

探し物は、自室で使うための調理用魔導具だ。かつていたイルヴァの地には電力を糧に動く便利な調理機が溢れていたが、あいにくこの街に電気設備はない。代わりに普及しているのは、魔石を燃料とする魔導具だ。

 

「……火の『響き』が安定しているものを選びたいですね」

 

予算は全財産の三分の一、五十万ヴァリス。一ヶ月間の探索で蓄えた資金だ。プロ用の大型コンロは置けないため、彼女が選んだのは、手のひらより一回り大きい程度の精密な魔石式コンロと、小型の保冷器。合わせて十万ヴァリス。彼女にとっては「心地よい生活のための必要経費」だ。

 

「あら? ツクリ、そんな大きな箱を抱えてどうしたの?」

「あ、ツクリちゃんだ! なになに、また音楽関係の秘密兵器?」

 

足を止めたのは、ティオネとティオナの姉妹だ。

 

「どうも、お二人とも。これは趣味で使うものですよ。音楽は私のライフワークですが、こちらは身も心も満たされる『美味しいもの』のための道具です」

 

含みを持たせた言葉に、ティオナが「美味しいもの」という単語に反応する。

 

「えっ、何それ気になる! 私も混ぜてよ!」

「ふふ、良ければお昼時にでも私の部屋へ来てください。ちょうど、新しい道具の試運転をするところですから」

 

自室に魔導具を設置し、彼女は再び街へ向かった。向かうは市場。新調した「楽器(コンロ)」で奏でるための、最高の「楽譜(食材)」を調達するために。

市場で手に入れたのは、デメテル・ファミリア産の弾けんばかりの野菜と、高品質なパスタ。

自室に戻った彼女は、早速コンロに火を灯した。シュンシュンと鳴り始めた蒸気の音が、心地よいリズムを刻み始める。

 

「……ここですね」

 

パスタを束ね、軽く捻りながら湯の中へ放り込む。扇状に広がるパスタが湯を泳ぎ、気泡とぶつかり合う音を、ツクリは楽器を調律するように聞き分ける。アルデンテを告げる瞬間を逃さず、彼女はパスタを引き上げ、保冷器の水で一気に締め上げた。

ニンジンとアスパラを短冊切りにし、オリーブオイルで和え、レタスを敷いた皿へと盛り付ける。涼やかな「パスタサラダ」の完成だ。

 

「お邪魔しまー……わぁっ! すっごいいい匂い!」

 

飛び込んできたティオナと、後ろから続くティオネ。

 

「どうぞ、召し上がれ。味付けはオリーブオイルと少しの塩だけですが……」

「いっただっきまーす!」

 

ティオナがパスタとアスパラを口に運び、咀嚼した瞬間、その動きが止まった。

 

「なにこれ! 野菜がバリッて鳴るくらい元気! それにパスタ、冷たいのにモチモチしてて、噛むたびに小麦の音が聞こえてきそう!」

「ふふ、デメテルの野菜が素晴らしい『ソロ』を奏でてくれていますから。私はそれを調和させただけですよ」

「そっか! この『冷たさ』、保冷器のおかげなんだね!」

「良い音を出すには良い弦が必要なように、良い食感には良い温度が必要です。……趣味とはいえ、妥協はしたくありませんし」

「趣味、ねぇ……。あんた、これが趣味なら、私たちの普段の食事は何だって言うのよ」

 

ティオネが溜息をつき、ティオナがなぜ部屋で作るのかと尋ねる。

 

「あちらは『戦場』ですから。五百人分の胃袋を満たすのは大合奏(オーケストラ)。たまにはこうして、親しい友人のために小規模な室内楽(室内食)を楽しみたかったのです」

 

「友人」という言葉に、姉妹は嬉しそうに顔を綻ばせた。

 

 

 

 

 

夜も更け、大広間に響いていたチェロの余韻が消えていった頃。

自室に戻ったツクリは、ふと、夕食に欠けていた二人を思い出す。まだ帰還していないアイズと、公務で席を外していたリヴェリアだ。

 

「……少し、夜風が冷えすぎているかもしれませんね」

 

彼女は再びコンロに火を灯した。調理するのは、極上の馬鈴薯。バターと牛乳に一筋の魔力を加え、冷えた身体を包み込むような『じゃがいものポタージュ』を綴り始める。

リヴェリアの執務室の前まで来ると、扉の向こうから鋭い不協和音が漏れていた。

 

「……アイズ。君の実力を考えれば、深層での時間の失念など、あってはならないミスだ」

「……ごめんなさい、でも……」

 

ツクリはそっと扉をノックした。

 

「夜分に失礼します。……少し、温かい差し入れを持ってきました」

「ツクリか。……入りなさい」

 

許可を得て入室すると、そこには眉間に皺を寄せたリヴェリアと、俯くアイズの姿があった。

ツクリは何も言わず、二人の前にボウルを置く。

 

「じゃがいものポタージュです。リヴェリアさん、夕食を抜かれたと伺いましたので。……アイズさんも、冷えた身体にはこれが必要でしょう?」

 

バターとジャガイモの濃厚な香りに、アイズの鼻先がぴくりと反応した。

 

「……いい匂い。じゃが丸くん……じゃない、もっと、優しい匂い」

「ふふ、デメテル産のポテトを丹念に裏ごししましたから。……さあ、お二人とも、温かいうちがおすすめですよ。」

 

リヴェリアは溜息をつき、手にしたペンを置いた。

 

「……っ」

「…………素晴らしいな」

 

アイズは頬を緩ませ、リヴェリアはその精密な味付けに感嘆する。ツクリの魔力制御の正確さが、そのまま味へと翻訳されたような一皿だった。

 

「保冷器の水も置いておきますね。濃厚な味の後の『休符』にどうぞ」

「……至れり尽くせりだな。感謝する、ツクリ」

 

リヴェリアは水を一口含み、ようやく安らぎを取り戻した瞳で一枚の羊皮紙を取り出した。

 

「……ツクリ。君がこの派閥に入って一ヶ月。そろそろ『後輩』ができるかもしれないぞ。ヴィーシェの森にある学区から、一人のエルフがこちらへ来たいと言ってきている。」

 

アイズが手を止め、こちらを見る。

 

「レフィーヤ、という名前だ。……ツクリ、その娘が来たら、力になってやってはくれないか?」

「……私にできることなら。温かいスープくらいは、いつでも用意しておきますよ、リヴェリア先生」

 

最後だけ、少し悪戯っぽく呼び方を変えたツクリ。リヴェリアは「……その呼び方はよせ」と苦笑し、部屋の緊張は完全に消え去った。

新しい出会いの予感。

アイズが最後にボウルの底を惜しそうに掬う音を聴きながら、ツクリは今夜二度目の、満ち足りた微笑みを浮かべるのだった。

 

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