「――また、失敗してしまいました……」
ロキ・ファミリアに入団して三日。学区(ヴィーシェ)では「才女」ともてはやされた私の自信は、今や木っ端微塵に砕け散っていました。
憧れのリヴェリア様の視線を受けるたび、私の心臓は緊張でバクバクと脈打ち、紡ぐはずの詠唱は熱を帯びて暴走する。爆発の煤で汚れた自分の手を見つめながら、私は情けなくて涙が出そうでした。
「レフィーヤ。君の魔力そのものは申し分ない。だが、制御が……いや、『心』が揺れすぎているな」
リヴェリア様の静かな、けれど厳格な声。私は「申し訳ありません」と消え入るような声で繰り返すことしかできません。
「……今日は少し、趣向を変えよう。制御に関しては私よりも適した者が、この館にはいる」
連れられて向かったのは、個室が並ぶ廊下の突き当たり。そこは、私のような新人が一部屋を与えられるはずのない、特別な場所でした。
扉が開くと、ふわりと、朝の光に溶け込むような不思議な香りが漂ってきました。
「おはようございます、リヴェリアさん。……そちらが、例の彼女ですか?」
そこにいたのは、つばの広い魔法帽を深く被った、濡烏色の髪の少女でした。
ツクリ・瀬笈(セオイ)さん。
入団一ヶ月にして、第一級冒険者の幹部たちが一目置いているという、謎の多い吟遊詩人。夕食終わりに奏でられるチェロは、今まで聞いたことのない素晴らしい音色でした。そのエメラルドのような瞳が私を真っ直ぐに捉え、私は思わず背筋を伸ばしました。
「ツクリ、君の探索前にすまないな。……このレフィーヤに、魔力制御の基礎を教えてやってほしい」
リヴェリア様の頼みに、ツクリさんは小さく頷きました。
「私にできることなら、喜んで」
すぐに私たちは中庭へと移動しました。
朝日が差し込む訓練場。私はリヴェリア様が見守る中で杖を構えますが、その視線を意識するだけで、指先が震えてしまいます。
「……っ。――【来たれ、炎の精霊(サラマンダー)……】!」
詠唱の途中、魔力が急速に膨れ上がり、制御を失うのが分かりました。
「危ない……!」
叫ぼうとした瞬間、隣にいたツクリさんが、私の手首をそっと包み込みました。
その瞬間、私の内側で荒れ狂っていた魔力の奔風が、まるで冷たい水を打たれたように、一瞬で静まり返ったのです。
……魔力干渉による強制鎮静。それも、これほど優しく。
「レフィーヤさん、少し緊張しすぎです。音が震えていますよ」
ツクリさんは穏やかに微笑むと、リヴェリア様の元へ歩み寄りました。そして、私に聞こえないような小声で何かを囁きます。リヴェリア様は一瞬驚いたような顔をしましたが、すぐに深く頷き、背を向けました。
「レフィーヤ。私は執務室へ戻る。後はツクリに任せた。……あまり、彼女を困らせるなよ」
「えっ!? あ、あの、リヴェリア様……っ!」
見捨てられたような、置いていかれたような絶望感。私は泣きそうになりながら、遠ざかる憧れの背中を見つめました。
「……まだ、あそこにいらっしゃいますよ」
隣でツクリさんが、ぽつりと呟きました。
「執務室の窓から、こっそり見ていらっしゃいます。リヴェリアさんは、あなたのことが心配で仕方ないみたいですから」
驚いて執務室の窓を見上げましたが、カーテンが揺れているだけで姿は見えません。でも、ツクリさんの確信に満ちた声に、私の心臓の鼓動が少しだけ落ち着くのを感じました。
「落ち着きましたか?……では、少しだけお話しましょう。自己紹介もまだですしね」
慌てて姿勢を正し、私は杖を握り直して深々と頭を下げました。
「も、申し訳ありません! 学区(ヴィーシェ)から参りました、レフィーヤ・ウィリディスです! 魔導士として……その、お役に立てるよう頑張ります!」
声が裏返ってしまった自分にまた落ち込みそうになりますが、ツクリさんは温かく笑いました。
「私はツクリ・瀬笈。一ヶ月ほど前に入団しました。職業は吟遊詩人、それと一応、あなたと同じ冒険者です」
「吟遊詩人……。夜会でのツクリさんの演奏、すごく身体の芯まで染み通るような音で……」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいですね」
微笑むツクリさんの背後で、夜を溶かしたような濡烏色の立派な尻尾がゆらりと揺れました。大きな魔法帽で耳が見えないせいでしょうか。彼女からは、犬人特有の荒々しさよりも、どこか神秘的な静謐さを感じます。
「さて、レフィーヤさん。リヴェリアさんが窓から見守っていらっしゃる今のうちに、あなたの『音』を整えてしまいましょう。……あ、いえ、魔力制御、でしたね」
ツクリさんは私の杖を指差し、穏やかに言葉を続けました。
「あなたの魔力量は素晴らしい。けれど、今のあなたは魔法を力任せに鳴らそうとしている状態です。神の恩恵(ファルナ)を受けた分、得た魔力量が大きすぎて、自分でも制御できなくなっている」
「力任せ……。でも、魔法は強く念じないと……」
「今までは強く念じて、ようやく『丁度いい』魔力量になっていたのでしょうね。でも、今のあなたなら『流す』イメージで十分です。楽器を鳴らすとき、弦を千切れるほど強く擦り付ける必要はありません。弓を滑らせるだけで、音は自然に生まれます」
ツクリさんは私の目を見つめ、諭すように言いました。
「魔法で熱を生み出すのではなく、魔力の流れの『通り道』を作るだけ。身体の中にある魔力の塊を、詠唱しながら指先まで滑らせてみてください」
私はゆっくりと目を閉じました。
すぐ傍でゆらりと揺れる尻尾が立てる、微かな風の音。
遠く、執務室の窓の向こうから感じる、リヴェリア様の静かな気配。
(強く念じない。ただ、流す……)
身体の奥で暴れる熱を一本の細い川にして、指先へと導いていくイメージ。
「……いいですよ。今です」
ツクリさんの声に応え、私は杖の先に、ほんのわずかな意識を向けました。
「――来れ、炎の精霊(サラマンダー)。弓引く狩人。放たれるは火矢。野を焼き、全てを灰燼に帰せ。矢の雨、降り注げ。――ヒュズレイド・ファラリカ!」
いつもなら爆発的な熱量が噴き出す瞬間。
けれど今度は、杖の先から生まれた火矢が、まるで生き物のようにしなやかに空を舞いました。
暴走も、衝撃もない。ただ、私の意図した通りの、静かで美しい炎の軌跡。
「……できた……っ」
「ほら、綺麗な音になりました」
顔を上げると、ツクリさんが魔法帽の影でエメラルドの瞳を優しく細めていました。その背後で、尻尾が満足げに大きく揺れます。
私は自分の手を見つめ、驚きに震えました。
あんなに苦労していた制御が、イメージ一つでこれほどまでに変わるなんて。……このツクリという人は、一体何者なのでしょうか。
「今の感覚を忘れないうちに、もう一度やってみましょうか。……リヴェリアさんも、窓越しに少しだけ身を乗り出して見ていらっしゃいますよ」
「えっ!? あ、本当……っ、いえ、もう一度お願いします、ツクリさん!」
私は赤くなった顔を隠すように、再び杖を構えました。
ツクリさんの奏でる静かなリズムに乗せて、私は自分の「音」を、一歩ずつ、丁寧に紡ぎ始めました。
数度、火矢の雨を降らせ、その軌道が目に見えて安定してきた頃でした。
視界がわずかに揺れ、奥歯がガタガタと震え始める感覚。学区(ヴィーシェ)で何度も経験した、精神力(マインド)の枯渇による初期症状――『魔力酔い』です。
「そこまでにしましょう。レフィーヤさん、一度休憩です」
ツクリさんは私の様子を瞬時に察したのか、穏やかな、けれど拒絶を許さないトーンで制止しました。
中庭のベンチに座り、ツクリさんが渡してくれた冷えたマジックポーションを一口。喉を通る清涼感が、熱を持った脳を鎮めてくれるようでした。
落ち着いてくると、一つの好奇心が私の胸を支配しました。
リヴェリア様が「自分よりも適任」とまで言った、この人の魔法。
「あの……ツクリさんの魔法も、見てみたいです!」
「私の魔法ですか?」
ツクリさんは意外そうに少しだけ小首を傾げました。魔法帽のつばが揺れ、エメラルドの瞳がいたずらっぽく細められます。
「見えるような物ではないのですが……。ええ、構いませんよ」
ツクリさんはすっと立ち上がり、十数メートル先にある木製の標的へと向き合いました。
杖も構えず、ただ自然体で。まるで今から歌でも口ずさむかのような、あまりにも無防備な構え。
「響け(レゾナンス)――矢(アロー)」
空気が、震えた。
そう感じた瞬間には、標的の中央が「内側から弾け飛んで」いました。
炎も、氷も、光の筋さえも見えなかった。
ただ、ツクリさんの周囲に一瞬だけ現れた陽炎のような空気の歪みが、目にも止まらぬ速さで標的を貫いたのです。
「超短文詠唱(速攻魔法)……っ!?」
私は立ち上がるのも忘れ、呆然と呟きました。
オラリオにおいて、この短さで発動できる魔法は極めて稀です。私が知る限りでも、あの『剣姫』アイズ・ヴァレンシュタインさんの付与魔法(エンチャント)ぐらい。まさか二人目がこんなに近くにいるなんて!
「……衝撃波、ですか? 今の」
「ええ。音を一点に収束させて、質量を持たせただけです。」
ツクリさんはそう言って、濡烏色の尻尾を小さく振りました。
標的の残骸から漂う、熱さえ持たない破壊の跡。
魔法の威力そのものよりも、その「制御の極致」に、私は背筋が寒くなるような戦慄と、それ以上の憧れを抱かずにはいられませんでした。
「……リヴェリア様が仰っていた意味が、ようやく分かりました」
この人は、魔法使い(メイジ)という枠組みさえ超えて、世界の『音』そのものを扱っている。
「さて、マインドも少し落ち着きましたか? 次は魔法ではなく、あなたの内側に流れる魔力の『リズム』を意識する練習をしましょう」
「は、はい……っ! お願いします!」
執務室の窓辺、揺れるカーテンの隙間から中庭を見下ろしながら、リヴェリア・リヨス・アールヴは静かに溜息をついた。
手に持ったままの羊皮紙には、先ほどまでの「惨状」が記録されている。才能は間違いなく一級品。だが、彼女は私という重圧に晒されるたび、制御を失い、暴発する。
「……私の影が、あの子には濃すぎたか」
自嘲気味に呟いたその時、眼下で「変化」が起きた。
ツクリがレフィーヤの手首にそっと触れる。ただそれだけの動作で、暴発寸前だった魔力の奔流が、凪いだ湖面のように一瞬で静まり返ったのだ。
「……やはりな」
リヴェリアの脳裏に、入団初日に見たツクリのステイタスが過る。
全項目『S 999』。
ランクアップによる補正がないため、出力こそLv.1の範疇だが、その『密度』と『技術』は、すでに自分と同じ高みにまで到達しているのではないか。
始まった「講習」を、リヴェリアは窓の影から見守った。
ツクリの教え方は、リヴェリアのそれとは根本的に異なっていた。
リヴェリアが「高みへの到達」を説くなら、ツクリは「世界との共鳴」を説く。魔力をねじ伏せるのではなく、適切な『通り道』へと誘う。
「――ヒュズレイド・ファラリカ!」
レフィーヤの口から放たれた魔法が、しなやかな曲線を描き、正確に空を射抜いた。
あの子が、これほどの短時間で自分を律してみせるとは。
そして直後、リヴェリアの瞳はさらに大きく見開かれることとなった。
「響け(レゾナンス)――矢(アロー)」
超短文詠唱。
魔法陣こそ展開されたが、属性の輝きはない。ただ、物理的な『振動』が一点に収束し、目に見えぬ衝撃となって標的を粉砕した。
「……属性を介さない、純粋な魔力震動の指向性放射か」
魔導の深淵を知る者として、リヴェリアはその魔法の「異常さ」を瞬時に理解した。
炎や氷を作るよりも、ただの空気を「弾丸」に変える方が遥かに高度な制御を必要とする。魔力のロスが一切ない、究極の効率化。
「……ふっ、完敗だな」
リヴェリアの口元に、晴れやかな笑みが浮かんだ。
私がどれほど言葉を尽くしても解けなかったレフィーヤの呪縛を、あの少女はたった一度の「合図」で解いてみせたのだ。
窓越しに見えるレフィーヤの横顔。憧れに目を輝かせ、ツクリの一挙手一投足に集中するその姿は、入団以来一度も見ることができなかった、真に前を向く冒険者の顔をしていた。
「レフィーヤを頼むぞ、ツクリ。……あの子が自分自身を掴むまで」
リヴェリアはカーテンを引き、執務机へと戻った。
心なしか、積み上がった公務の山が、先ほどよりも少しだけ軽く感じられた。