その美食屋、転生者につき 作:苦笑いの妖精
目を開けた瞬間、鼻腔を満たしたのは土と草の匂いだった。
寝起きのぼんやりした感覚は数秒で消えた。代わりに、身体の奥から得体の知れない実感が湧き上がる。ここは日本ではない。舗装された道路も、電柱も、コンビニの白い光もない。頭の中に残っている記憶ははっきりしているのに、目の前に広がる景色だけが常識から外れていた。
空は異様なほど青く、雲は巨大な綿菓子のように厚い。遠くの森では、樹木が不自然なほど太く育っている。葉の一枚が傘ほどの大きさで、幹の表面には果実のような瘤が無数についていた。地面には見慣れない草が生え、その一部は風もないのに揺れている。
現状を理解するまでに時間はかからなかった。
混乱よりも先に胸へ広がったのは、どうしようもない興奮だった。ここが美食の怪物たちが闊歩する世界なら、普通の人間が生き抜くには厳しすぎる。だが、ただの人間として投げ込まれたわけではない。意識の底には、三つの能力が鮮明な形で根付いていた。
一つ目は、ドラゴンクエストの呪文。
攻撃、回復、補助、移動、蘇生、探知。系統も効能も幅広い呪文群が、辞書のように頭の中へ収まっている。魔力の枯渇という概念は感じられない。試す前から、使えるという確信があった。
二つ目は、
二十一の部屋を持つ念空間。マーキングした地点から出入りできる安全領域。さらに、念そのものの扱いも身体へ馴染んでいた。気配を覆う感覚、肉体を守る感覚、相手へ圧を向ける感覚。別の誰かが鍛えた技術を、そのまま移植されたような奇妙な完成度だった。
三つ目は、
これが一番わかりやすく、一番恐ろしい。食材さえあれば、どれほど未知の素材でも完璧な料理へ仕上げられる。手順を知らなくてもいい。毒の有無、下処理、火加減、熟成、盛り付け。食べるために必要な工程がすべて自動で行われる。
この世界において、それは戦闘能力とは別種の支配力だった。
しばらく地面へ座ったまま、呼吸を整えた。身体は若い。二十代前半ほどの男の身体。手には硬いマメも傷もなく、筋肉は標準より少し上という程度。だが、内側に流れる念の存在が、ただの肉体ではないと訴えている。
まず必要なのは、能力の把握だった。
最初に試したのは念だった。身体全体を覆う気配を意識すると、薄い膜のような力が肌へ沿う。力を強めれば膜は厚くなり、弱めれば存在感が消える。周囲へ意識を伸ばすと、茂みの奥に潜む小動物の気配が拾えた。敵意や警戒までは読み取れないが、そこに生き物がいるという輪郭はわかる。
念の扱いに不安はない。むしろ、習熟済みの道具を取り出した時の感覚に近かった。
次に、四次元マンションを開いた。
目の前の空間に、白い扉が音もなく現れた。取っ手に触れると、薄い膜を抜けるような感覚と共に別空間へ移動する。そこには簡素な部屋があった。壁も床も天井も白く、広さは小さなワンルームほど。窓はないが、息苦しさはない。空気は清浄で、外界の音も届かない。
部屋を一つずつ確認すると、二十一室すべてが存在した。大きさは同じではなく、倉庫に向く広い部屋もあれば、寝床に向く小さな部屋もある。外へ出る扉の位置も調整できるらしい。入口として使う場所にマーキングを施せば、そこから自在に行き来できる。
この能力だけで、当面の生存性は跳ね上がった。
野宿を避けられる。食材を保管できる。危険から逃げ込める。移動拠点として運用できる。何より、外界から隔離された空間を持てる意味は大きい。
次に呪文を試した。
掌に意識を集め、最も単純な炎の呪文を発動させる。小さな火球が生まれ、近くの岩を焦がした。爆発系の呪文は、周囲への被害が大きすぎるため控えた。代わりに回復呪文で擦り傷を治し、解毒呪文の感覚を確かめ、転移系の呪文の発動条件を探った。
瞬間移動は使える。ただし、見知らぬ場所へ無制限に飛べるわけではない。過去に訪れた場所や明確に認識した場所であれば、問題なく移動できる感覚があった。四次元マンションのマーキングと組み合わせれば逃走や帰還手段の確保は容易だろう。
ここまで確認した時点で、緊張の大半は消えた。
この世界は危険だ。しかし能力の組み合わせは生存に向いているものが揃っている。真正面から怪物と殴り合う必要はない。安全地帯を作り、観察し、退路を確保し、食材だけを得ればいい。美食の世界で生きるなら、最初に目指すべきは英雄ではなく、安定した食卓だった。
外へ戻ると、森の匂いが濃く感じられた。
腹が減っている。
その感覚が、ここでの第一目標を決めた。
食材の確保。安全な調理。継続的な生活基盤。
周囲を歩き、まずは植物を観察した。大きな葉の陰に、赤い果実が実っている。見た目はリンゴに近いが、表面にうっすらと光沢がある。毒の可能性はある。普通なら手を出すべきではない。だが、自動料理があるなら話は別だった。
果実を一つ採取し、四次元マンションへ持ち込む。
能力を発動した瞬間、果実は無から現れたまな板の上に置かれ、宙で固定された。次に現れた刃が皮を剥き、芯を取り、薄切りへ変えていく。毒や灰汁に該当する成分が淡い煙のように分離され、消えた。そして数秒後、どこからともなく現れた皿の上に果実のコンポートが完成していた。
口へ運ぶと、思わず笑いそうになった。
甘い。だが、ただ甘いだけではない。蜜の濃さと爽やかな酸味が同時に来る。噛むたびに香りが変わり、最後に舌の奥へ冷たい余韻が残る。日本で食べた高級果物とは方向性が違う。例えるなら食べられる宝石だろうか。
この世界で生きる価値を見せつけられたような気がした。
頭に渦巻いていた危険も不便は今の一口で吹き飛んだ。
じっくりと味わいたかったが、舌が、胃が、次を寄越せと言って聞かず、瞬く間に皿が空になった。
美食の余韻を感じながら、次に周辺の植物や小動物を少しずつ調べた。未知の草、硬い木の実、川辺にいた甲殻類のような生物。すべてを自動料理へかける。食用に適した物は料理となり、向かない物は廃棄される。毒性がある素材でも、処理できる範囲なら料理になる。どうあっても料理不可能なものは拒絶されるような感覚があった。
能力の限界が少し見えた。
自動料理は食材の品質を超えた奇跡を起こす訳ではない。粗悪な食材を最高級に変える力ではなく、素材がもつポテンシャルの最大値を引き出す力なのだろう。
自動料理を試したあと、四次元マンションの一番広い空間を食材庫とした。そして寝室、調理場として使う空間を決めた。
あとは森の入口、川辺、見晴らしのいい岩場の三か所にマーキングを施し、外界と繋ぐ。
これで一応拠点の形はできた。
次の課題は身分。
この世界には人間社会が存在する。美食屋、料理人、食材市場、食の流通。強い生物が多いからこそ、情報の価値も高い。何も知らない者がうろついていればいずれトラブルになることは必至。早いうちに文明圏に出て、金と情報を得る必要があるだろう。
呪文で身体を清潔に整え、森を抜ける準備をした。荷物はほとんど四次元マンションへ入れておけるため、外見は身軽な旅人で済む。武器は持たない。武装しているより、何も持っていない方が油断を誘える場合もある。実際には、呪文と念と避難空間があるため、素手でも問題は少ない。
森を進む間、気配を広く探った。小型の獣は避け、大型の気配からは距離を取る。何度か巨大な影が木々の向こうを横切った。地面が揺れ、枝が折れ、濃い獣臭が流れてくる。そのたびに足を止め、四次元マンションの扉をすぐ開ける位置へ意識を置いた。
無理はしない。
この方針だけは心に決める。
強力な能力があるからといって、未知の世界で全能ぶるほど愚かではない。トリコの世界には、理不尽な生物がいくらでもいる。攻撃呪文で倒せる相手も多いだろうが、倒せない相手も必ずいる。初期段階で必要なのは名声ではなく、危険度の低い食材と生活資金だった。
半日ほど移動した頃、森の外に道が見えた。
踏み固められた土の道。轍もある。人間の往来がある証拠だ。道沿いには、巨大な野菜を積んだ車両が通った跡も残っていた。方向を決めるために空へ意識を向け、鳥の動きと風の流れを観察する。人里が近い場所では鳥の種類が変わる。日本の知識がそのまま通じるとは限らないが、無視するよりはましだった。
しばらく進むと、遠くに町が見えた。
建物の形は現代風だが、看板には食材の絵が多い。道路脇には屋台が並び、空気には焼けた肉と香辛料の匂いが混ざっている。町全体が胃袋を刺激してくるようだった。
まずは情報収集から。
市場を歩き値段を見る。食材名、捕獲レベル、加工方法、人気の料理。露店の品揃えから周辺地域の安全度も少しわかる。低い捕獲レベルの食材が多い町は、初心者向けの狩場が近い。逆に高級食材ばかりが並ぶ場所は強者や金持ちが集まる。
この町は前者だった。
捕獲レベル1未満の食材が中心で、旅人や新人美食屋の姿も多い。食材を買い取ってくれる所もあり、森や平原で得た食材を現金化できるようだった。
一番の問題だった身分についてだが、当面は流れの美食屋見習いとして振る舞うことにした。
原作で出てきた、グルメIDを持っていない事を突っ込まれるかと思ったが、どうもIDを持っていない者も少なくないようだ。…思い返せば原作キャラのゾンゲも持っていないみたいな描写があった気がするしな。考えすぎだったらしい。
問題なく町へ入り、森で採取した果実と甲殻類をもって買い取り所へ向かう。思ったよりも暖まった懐に満足しつつ、次に外れの安宿に部屋を取った。四次元マンションがあるから必要ない、そう思うかもしれないがどこに目があるかわからない以上、異質な力は極力隠すべきだろう。
その夜、宿の一室を四次元マンションの入口に設定した。
これで町の中にも安全な出入口ができた。表向きの宿部屋にはほとんど荷物を置かず、本当の生活空間は念空間内に作る。食材庫にはまだまだ採取した果実と川辺の甲殻類が残っており。調理場には自動料理の副次効果によって作られた調理器具が並ぶ。寝室には買い揃えた寝具を置いた。
翌日から、狩場の選定を始めた。
町の掲示板には、採取依頼と簡単な捕獲依頼が並んでいた。毒キノコの群生地調査、跳ね大根の回収、小型鳥獣の捕獲、川魚の納品。どれも捕獲レベルは低い。普通なら体力と経験が必要だが、こちらには探知と収納と逃走手段がある。
最初に選んだのは跳ね大根の回収。
その名前の通り地面から抜くと暴れ逃げ回る野菜らしい。
生息地周辺には危険な獣が少なく初心者向けの食材として扱われているそうだ。
現地へ向かい気配を探る。地中に小さな生命反応が密集していた。近づくと、白い根菜が土から顔を出し、こちらの足音に反応して震えた。
捕獲そのものは簡単だった。
念で身体を強化し逃走経路を先回り、またはラリホーを浴びせて眠らせて確保していく。暴れる力は強いが、念のガードを貫通するほどではない。数本を拘束して食材庫で保管。味もみたいので一本を自動料理にかけると、大根は銀杏切りにされ、瞬く間に出汁の香りをまとった温かい煮物になった。
コンポートから調味料も現れるのはわかっていたが出汁まで付くとは思わなかった。どこまでサービスが良いんだろうか。
肝心の味は素朴。
しかし、芯まで染みた旨味があった。噛むほど甘みと旨味が躍る。
保管した残りは納品する。
これを繰り返すだけで生活費は容易に稼ぐ事ができた。こんな簡単な事で稼げて良いのかとも思ったが、念や呪文が使えるから可能なだけで常人がやろうとすると普通に骨折、下手をすると撲殺されるらしい。…改めてチートに感謝を捧げておく。
◆
依頼を受け、納品する。それを繰り返す内に町での評判は小さく積み上がった。
納品する食材の状態が常に良い。傷が少なく、鮮度が高く、保存状態も優れている。さらに時折出す試作品の料理が異様にうまい。そんな評価が静かに広がった。
こちらにとって重要なのは便利な新人として認識されることだ。
強者として警戒されるより、腕のいい料理人寄りの美食屋見習いとして見られる方が動きやすい。美食屋として活動すれば食材の情報が入り易くなるし、料理人として評価されれば勝手に人脈が形成されていく。どちらにも寄せられる現在の立場は実に便利だった。
生活基盤の構築、その次の段階として小さな店を考えた。
店舗ではなく屋台。自動料理がある以上、調理技術で失敗することはない。問題は食材の安定供給と正体の秘匿だった。料理の手際を見られすぎると不審を招くため、下処理済みの食材を持ち込み、仕上げだけを人前で行う形が望ましい。
四次元マンション内で調理の9割9分は済ませ、衆目下では残りの1分だけを行う形にする。食材の出所は自分で採取したものと市場で買ったものを混ぜればいい。珍しすぎる料理は避け、最初は安価、見慣れた食材で旨い物を出す。
記念すべき初回に選んだ料理は跳ね大根の煮込みと、川辺の甲殻類を使ったスープ。
屋台を出した初日。
流石に客足は鈍い。見知らぬ新人の料理に手を出す者は少ない。しかし、一人が食べれば反応が変わる。湯気に乗る出汁の匂いが通りへ広がり、足を止める者が増えた。器を受け取った客は一口で表情を変え、次の客を呼ぶように身振りで周囲へ示した。
昼を過ぎる頃には、鍋は空になった。
売上は大きくない。しかし、生活基盤の構築には十分過ぎる一歩だった。
食材を得る手段、金を得る手段、町での立場。その三つが繋がったのだ。
その日の夜、四次元マンションの寝室で横になりながら、屋台営業中に得た情報を整理した。
町の外には初心者向けの食材地帯がある。少し遠出すれば捕獲レベル二桁に届く獣の存在。
食材商、料理人、美食屋、運搬業者が集まる場所。
無名の新人でも、食材と料理の質で信用は得られる。高級な、特殊調理食材を扱うには資格やそもそも入手に紹介の伝手が必要になるが、そこへ急ぐ必要はないだろう。
まずはこの町に根を張る。
四次元マンションを拠点にし、屋台で現金と評判を得る。低危険度の食材で自動料理の検証を進める。
そんな基本方針を決めた時、ようやく心の底から安心できた。
足場ができたという実感が大きい。
生き延びるだけの段階は越えた。次はこの世界を味わう段階だ。
翌朝、仕入れを行い、食材庫の一室には新しい棚が並んだ。
果実、根菜、甲殻類、香草、干し肉、調味料。まだ少ない。だが、それらはこの世界で築いた最初の財産だった。調理場には清潔な器具が整い、寝室には安全な眠りがある。外へ出れば、町がある。森も川も市場もある。
美食の世界で生きる準備は順調に整いつつある。
探し、捕り、調理し、売り、食べる。
その循環を大きくすれば、いずれ人も情報も食材も集まる。危険な世界だからこそ、安全な食の拠点には価値が生まれるのだ。
自分が美食を楽しむための、移動式の厨房であり、避難所であり、倉庫であり、店の核となる場所。
四次元マンションの白い部屋は、まだ何もない空間が大半。
いずれは空白の空間をグルメ食材で満たしてやる。