チートがチートじゃない世界に転生したらしい 作:よしほ
その日、アーサーとスカーレットは珍しく二人とも留守だった。
今日は魔法訓練がなくてラッキー! とはしゃいだ私は、厨房でスティーブンと一緒に菓子を研究していた。いやほら。砂糖が出来ても色んな菓子が、となると転生前世界日本の常識では再現出来ないものもあるんだよね。
それに食事というか料理。醤油とか味噌とか鰹節とか昆布とかいりこ出汁とか、そういうのはないっぽいんだよ! やっぱ作るしかないかな。大豆から! でもまだ大豆とは出会えていない。ここはやはりメイプルを問い詰めるべきか。それともエミリアに訊くべきか。
私はそんなことを思いながら呑気にスティーブンと話していた。すると唐突に誰かが厨房に駆け込んできた。慌ただしさに驚いた私に駆け寄ってきたのは、いつもなら書庫にいるレベッカだった。
「お嬢様! お逃げ下さい!」
「え?」
どうしたんだろ。ていうか、急に厨房の中が静まり返った。スティーブンがコックに号令を飛ばすと、全員が鍋や調理器具を投げ出して走り出す。
「レベッカ! どこからだ!」
スティーブンがいつもの温和な仮面を脱ぎ捨てて声を張る。するとレベッカが即座に返事をした。
「空です!」
「やつらか! レベッカ、お嬢様を頼んだぞ!」
叫んだスティーブンがコックたちの後を追うように駆け出す。厨房に取り残された私は驚きに目を見開いているのが精一杯だった。何が起きてる? どういうこと? 急になに?
「お嬢様! こちらです!」
レベッカが私の手を引いてスティーブンたちとは違う方向へ走り出す。後ろにはメイプルがぴったりとついてくる。私は何が何だか判らないまま、でも必死で足を動かして走った。
よく判らないけど何か起きてる。緊急事態だ。それだけは私にも理解できた。転生前世界で言うなら災害が起きた時みたいな緊張感に満たされている。
「私がお嬢様をお連れします! メイプルは迎撃に加わって下さい!」
「判りました! さあ、お嬢様。レベッカと一緒に書庫に向かって下さい」
「待って! 迎撃って、何か来たの!? メイプルはどこ行くの!? 大変ならみんなで逃げればいいじゃない!」
私は混乱して叫んだ。すると何故かメイプルが微笑んで私の頭を大切そうにそっと撫でる。こんな風にメイプルが私の頭に触れるのは初めてだ。それだけで今がとても緊迫した状況なのだということがはっきりと判る。
「では、レベッカ。お願いします」
「はい。お嬢様、行きますよ」
メイプルが後ろを向いて駆け出す。その後ろに迫ったモンスターはレベッカが放った炎であっさりと消えた。
「どうしてみんなで逃げないの!?」
何かあったのは私でも判る。そしてみんなが私を守るために動いていることも。これまでの日常が急に遠くなって私はパニックになった。足が震えてしまう。でもそんな私を引きずるようにしてレベッカが走るように廊下を進む。
「待って、レベッカ! 何で私だけ逃げるの! メイプルは!? スティーブンは!? みんなどこに行くの!」
「お嬢様は書庫に行きましょう。あそこが一番安全なのです」
「だから! みんなで書庫に行けばいいだけじゃない!」
「わたくしたちの仕事はお嬢様をお守りすることです」
きっぱりと言ったレベッカに書庫に放り込まれる。その後、書庫の扉は外から閉められた。ちょっと待って! 何でレベッカは私をここに置き去りにするの!? みんなはどこに行ったの!?
これまで感じたことのない恐怖がこみ上げ、私は震える身体を腕で抱いた。モンスターと初めて遭遇した時とは違う。あの時はびっくりして怖かっただけだ。スカーレットのスパルタ訓練の時とか、叱られる時とかの怖さとも違う。
唐突に激しい振動が来る。揺れがきたイコール地震だと思った私は、咄嗟に書庫の別室に飛び込んだ。本棚が倒れたらヤバい、と思ったのだ。地震なら机の下に入れば上から物が落ちてきても多少は防げる。
そう思って机に駆け寄った時、私の視界を何かが横切った。その直後、窓が真っ赤に染まる。赤いものが窓を伝って滴るのを見た私は息を詰めた。あれは血だ。どうして、誰が……こんな状況で牛をカットして血が出たなどとは思えない。それに窓に飛び散った血はすぐに消えた。どうやら大量の水が窓を洗い流したらしい。
どうなってるの? 私は震えながら窓に近づいた。見たら駄目だという恐怖がこみ上げる。でもみんな外にいるんじゃないの? 私の頭の中を疑問が駆け回る。それと同時に恐怖も。血が流れるようなことが起きているのだ。これは災害ではない。それだけは本能的に理解できた。私は自分の身体を必死で抱きしめ、机の下で震えているしかなかった。
「お嬢様!」
不意に後ろから声をかけられて慌てて振り返る。別室の入り口に服が裂け、血だらけになったメイプルが立っていた。私は慌てて机の下から這い出た。
「メイプル! どうして!? 何で!? 酷い怪我を」
「こちらにいらしてください、お嬢様!」
緊迫した様子のメイプルは、さっき頭を優しく撫でてくれたメイプルとは別人にも見える。私は慌てて駆け出し、差し伸べられた手を取った。手を握ると同時に強く腕を引かれ、メイプルが私を抱えて走って書庫に戻る。本棚の間を駆け抜けるメイプルは顔や腕、首や肩から出血している。息が苦しくなるような血の匂いに、思わず目を逸らしそうになった。
でもこれは緊急事態で、メイプルは理由があって私を抱えて走っているのだ。私は抱えられるくらいのサイズでちょうど良かったと思う。
メイプルが足を止めたのは、本棚の奥にある扉の前だった。金属製の人が一人通れるかどうかの大きさの扉だ。
書庫にこんな扉があったんだ……。
私の橫で膝をついたメイプルが頭を下げる。
「お嬢様、お願いがあります。この扉の向こうのものを吸引できますか?」
「えっ!? この、向こう?」
「はい」
頭を上げたメイプルの顔は真剣そのものだ。それに今はごたごた言ってる場合じゃないだろう。私は指差された扉に手で触れた。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。何だろう。何も見えないし、感じない。周囲には闇が広がっている。意識を集中すると闇の奥に何かが蠢いているような気がする。
「お嬢様、可能でしたらお願いします」
急にメイプルの声が聞こえてくる。つまり私はまだメイプルのところにいて、この感覚は多分だけど一時的なものだろう。蠢くものが何か判らないけど、私は出来る限りその場にあるものを吸引した。
目の前から一気に闇が消えて、私の感覚は戻った。傍にメイプルがいるのも判る。でも私はひどい痛みと息苦しさに襲われた。苦痛の声が出るのを必死で我慢する。
「できま、した」
掠れ声で切れ切れに言うのがやっとだった。橫から伸びてきたメイプルの腕がまた私を抱え、今度は書庫の外に駆け出す。きっちりと閉まっていた扉をメイプルが乱暴に開けて進む。私はそれを苦しさを堪えて見ていることしか出来なかった。
メイプルが屋敷の玄関に向かって走る。床を見るとメイプルの血が点々と落ちていくのが判った。酷い怪我をしているのに、メイプルは痛みを一切訴えない。むしろこれが当然というような顔をしている。
玄関を抜けてしばらく走ったところでメイプルが叫ぶ。
「お嬢様をお連れしました!」
「よし、メイプル! 前線に戻れ!」
聞こえてきたスティーブンの声に驚き、私は顔を上げた。その時にはもう、メイプルは私をスティーブンに預けて駆け出していた。反射的にメイプルの背中に手を伸ばしたけど、その手をスティーブンが押さえる。
「お嬢様、我々では阻止出来ず、申し訳ありません」
「あやま、るのは、あとで、いい、です。わたし、は、なにを、すれば」
苦しいのを我慢して私は言った。まだ私は激しい痛みと苦しさに襲われ続けている。
が!
経産婦なめんな! こちとら二人も産んでんだ!
陣痛と出産に比べればこんなもん、大したことないわ!