アモン・ラーとイシスの剣 作:コシャリは食べに行った
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いざエジプトへ
「お前さ、ホント人が良すぎるっていうか、ぶっちゃけ都合のいい奴扱いされてるぞ。いつか絶対、取り返しのつかない大損するって」
サークルの連中や、バイト先の店長、果ては道案内をした交番の警察官にまで、
そのたびに耀は、困ったように眉を下げて、へらりと曖昧に笑うだけだった。
「ごめん! ホントごめん耀! まさか他の奴らが全員バックれるとは思わなくてさぁ!」
「いいって。どうせ俺、今日の午後は暇だったし」
大学の薄暗いサークル棟の一室。ホコリまみれの段ボールを一人で抱え上げながら、耀は涙目で平謝りするサークル長に向かって笑いかけた。
本来なら、今日の学祭の片付けは部員全員の強制労働だったはずだ。だが、面倒な雑用だと察した他の連中は、一人、また一人と「急用が」「バイトが」と理由をつけて逃げ出した。結果として残されたのは、気の弱いサークル長と、頼まれもしないのに居残った耀の二人だけ。
「いやホント聖人かよ……。来井って文句ひとつ言わないで何でも引き受けてくれるからさ、みんな甘えちゃうんだよなぁ」
「聖人なんて大層なもんじゃないよ。気づいたら身体が動いてるんだから、しょうがないんだ」
そう、本当に『しょうがない』のだ。
耀には、周囲から思われているような高潔なボランティア精神なんてこれっぽっちもない。「良い人だと思われたい」という欲求もなければ、「他人に嫌われたくない」という臆病さからイエスマンを演じているわけでもない。
ただ、彼の精神の奥底には、狂気が根を張っている。耀の胸の奥には、十年前からずっと、消えない煤の匂いがこびりついていた。
あの大災害。突然街を襲った、すべてを焼き尽くす理不尽な劫火。目の前で赤黒い火の海に呑まれ、瓦礫の下で息絶えていった、大好きだった両親の姿。
あの時、幼かった耀だけが、何の価値もない自分だけが、奇跡のように無傷で生き残ってしまった。
どうして、お前だけが生きているんだ?
誰もそんなことは言わなかった。だけど、生き残ってしまったという強烈なサバイバーズ・ギルトは、少年の魂を凍りつかせるには十分すぎた。
自分は、死んでいった人たちの代わりに生きている。なら、困っている誰かがいれば、自分の命を盾にしてでも手を差し伸べなきゃいけない。そうして他人のために己を削り、使い果たしていかなければ、自分が今ここに生きている言い訳が立たない。
だから、耀の身体は勝手に動く。他人の危機を感知した瞬間、損得勘定を挟む余地なく、肉体が勝手に作動してしまう。
それは美徳なんかじゃない。過去の呪縛に囚われた少年の、壊れた生存本能だった。
◇
サークルの雑用を終え、夕方に帰宅した耀は、自宅の二階にある静かな書斎へと向かった。
両親を亡くした耀を、今日まで育ててくれたのは、考古学者だった祖父だ。その祖父も半年前、老衰で静かにこの世を去った。主を失った部屋を開けると、今でも古い紙とインク、そしてどことなく異国の砂を思わせる乾燥した匂いが漂ってくる。
「さてと、明日からの旅支度をしなきゃな……」
大学生になって初めての長期休み。耀が選んだ旅行先は、エジプトだった。
普通の学生ならリゾート地を選ぶところだが、耀にとってはここ以外の選択肢はなかった。かつてこの書斎で、祖父の膝の上に抱かれながら、飽きもせず何度も聞かされたのがエジプト神話のお伽話だったからだ。
引き出しを開け、パスポートや常備薬をバックパックに詰めていく。その時、奥の方にしまわれていた木箱の隙間から、ひときわ異彩を放つものが耀の目に留まった。
「……これ、じいさんの」
それは手のひらに収まるサイズの、古びたメダリオンだった。
中央には深い青色のラピスラズリが埋め込まれ、その周囲を、鳥の翼を模した精緻な金属細工が囲んでいる。どこか煤けたような鈍い輝きを放つそれは、ずっしりとした奇妙な重みを持っていた。
それを見つめた瞬間、耀の脳裏に、祖父のしわがれた優しい声が鮮烈に蘇る。
『耀、いいか。エジプトの神様ってのはな、人間と同じくらいよく嘘をつくんだ。太陽神だの最高神だのと偉そうに踏ん返り返っている奴らも、中身を剥ぎ取ればただの張り子の虎さ。……だけどな、女神イシスだけは特別だ。彼女は類いまれな知恵と魔術で、最高神の秘密を暴き、その特権をすべて奪い取ったんだからな』
夜、大災害の悪夢に怯えて泣く耀を寝かしつける時、祖父はいつもその話を語ってくれた。世界の理不尽である神様に、人間がいかに知恵で抗ったかという物語。それは幼い耀にとって、唯一の救いだった。
『このメダリオンはな、そのイシスの慈悲が込められたお守りだ。耀、お前がいつか、理不尽な運命に押し潰されそうになって、本当に困ったとき……こいつがお前を助けてくれる。だから、持っていきなさい』
生前の祖父から手渡された言葉を思い出し、耀は静かに微笑んだ。
「お守り、か。ありがとね、じいさん」
耀はメダリオンを首にかけ、服の内側へとしまい込んだ。冷たい金属の感触が、不思議と彼の歪んだ心を落ち着かせてくれるような気がした。
◇
日本から飛行機を乗り継ぎ、ついに辿り着いた目的地。
タラップを降り、空港の自動ドアを一歩抜けた瞬間、耀は思わず息を詰まらせた。
「……うわ、すごいなこれ」
じりじりと肌を焦がすような、暴力的な日差し。
吸い込むだけで肺の奥が干からび、爆ぜてしまいそうなほど、圧倒的に乾燥した砂の匂い。
ここはエジプトの古都ルクソール。かつてテーベと呼ばれ、数々のファラオたちが眠る歴史の街だ。
エジプトの暑さは、日本のジメジメとした不快な暑さとは根本的に違う。オーブンの熱風を直接浴びているかのような、絶対的な乾燥だ。汗をかいた瞬間に水分が蒸発していくため、肌はベタつかない代わりに、白い塩の結晶が浮き上がってくる。油断すれば一瞬で喉が焼け、意識を持っていかれるような過酷な環境だった。
空港の到着ロビーは、世界中から集まった観光客と、怪しげな日本語や英語で声をかけてくる客引きたちでごった返している。
「トモダチ! タクシー乗らないか?」「安いホテルあるよ!」という怒号のような声をやり過ごしながら、耀は事前に手配していた個人ツアーの待ち合わせ場所へと向かった。
祖父の遺産から出した格安の旅行プラン。現地で耀の専属ガイドをしてくれるのは、現地の観光仲介組織に所属しているという、若いガイドのはずだった。
ロビーの柱の影。人混みの中で、一枚のスケッチブックを掲げている人物がいた。
そこには、たどたどしいマジックの文字で『YO KURUI』と書かれている。
「あ、あの人かな」
耀が人混みをかき分けて近づいていく。
そこに立っていたのは、耀の予想を大きく裏切る人物だった。
大きな帽子の下から覗く、夜の闇のように艶やかな黒髪。
異国情緒を強く感じさせる、美しい褐色の肌。
そして、その奥でギラギラと不機嫌そうに輝く、宝石のような琥珀色の瞳。
彼女は、現地特有の白いリネンの衣服に身を包んだ、耀とそう年齢の変わらない。いや、もしかしたら少し年下かもしれないほどの、息を呑むような美少女だった。
ただし、その表情は、お世辞にも観光客を歓迎するそれではない。むしろ「なんで私がこんな面倒な仕事を引き受けなきゃいけないのよ」と全身で語っているかのように、盛大に眉根を寄せている。
「あの……すみません。来井耀、です。あなたがガイドの……?」
耀がおずおずと声をかけると、少女は掲げていたスケッチブックをパサリと下ろした。
そして、品定めをするように耀を頭のてっぺんからつま先までジロジロと見つめ、大きくため息をついた。
「……はぁ。本当に来たのね、絵に描いたような平和ボケした日本人観光客が」
少し高めの、けれど鈴の鳴るような小気味いい少女の声。
彼女は腰に手を当て、ふんす、と効果音がつきそうな勢いで鼻を鳴らすと、ツンと顎を尖らせて名乗った。
「私はネフェル。今回のあなたのガイドよ。言っておくけど、私はせっかちだし、我が儘な観光客の我が儘に付き合う気は一切ないから。……いい、死にたくなかったら、私の言うことには絶対に従いなさい」
最悪のファーストコンタクト。
しかし耀は、そのトゲだらけの言葉にも嫌な顔ひとつせず、「よろしく、ネフェル」といつも通りのんびりと微笑んだ。
お人好しの少年と不機嫌な少女。
二人の出会いが、やがて世界の理不尽をも巻き込む大騒動の幕開けになるとは、この時の耀はまだ、知る由もなかった。
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