アモン・ラーとイシスの剣   作:コシャリは食べに行った

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ルビフリミスとかあったら報告していただけるとありがたいです。
観光描写がこれでいいのか悩むな。
神殺しになる前の旅でイランのカナートの話書いてる人もいたし。
というか知識がインターネット由来なので本持って調べている人には負ける。誰か知識をください。



王家の谷

 「いい? ここから先は、昨日までの『生者の街』とは完全にルールが違う世界よ。引き締めていきなさい、平和ボケさん」

 

 三菱・パジェロのハンドルを荒々しく握りながら、ネフェルがサイドミラー越しに俺を鋭く睨みつけた。

 ルクソールの朝は早い。午前六時、まだ太陽が地平線から顔を出したばかりだというのに、フロントガラスの向こうには、すでに陽炎の揺らめきが白茶けた大地を歪ませ始めている。

 

 俺たちは今、ナイル川に架かる大きな橋を渡り、西岸へと向かっていた。

 昨日まで滞在していた東岸のルクソールシティは、豊かな緑と賑やかな市場、そして人々の生活の活気に満ちていた。しかし、ナイル川を越えた瞬間、まるで世界の境界線を跨いだかのように、景色から色彩が没収される。

 

 目に飛び込んでくるのは、一切の植物の生存を拒絶するような、赤茶けた、あるいは白砂の混ざった不毛の岩山。荒涼という言葉すら生ぬるい、徹底的な死の空間だ。

 

 「凄いな……本当に木の一本も生えてない」

 「当然よ。古代エジプトにおいて、ナイルの東岸は太陽が昇る『生者の土地』。そして西岸は太陽が沈む『死者の土地』すなわち、ファラオや貴族たちが黄泉の国へと旅立つための巨大な墓所だったんだから。今から私たちが向かう『王家の谷』は、その死者の街であるネクロポリスの最奥に位置する、最も神聖で、最も危険な場所よ」

 

 ネフェルは大きな麦わら帽子の位置を直しながら、まるで学校の厳しい先生のような口調で解説を始めた。昨夜、同じホテルのツインルームで気まずそうにしていた少女の面影はどこへやら、今はすっかりプロのガイドの顔だ。

 

 「ねえネフェル。じいさんの書斎にあった本には、エジプトの王様といえばみんなピラミッドを作っていたって書いてあったんだけど、どうしてルクソールの王様たちはこんな谷の中に墓を作ったの?」

 「ふん、良い質問ね。ギザにあるような巨大なピラミッドは、主に『古王国時代』のファラオたちが作ったものよ。でも、目立ちすぎるピラミッドは、後世の盗掘者たちにとって『ここに宝がありますよ』って宣伝しているようなものだったの。事実、古王国のピラミッドは、ことごとく財宝を盗まれて空っぽにされたわ」

 「あー……確かに、あれだけ大きければどこにあるか一発でわかるもんね」

 「そう。だから、時代が下って『新王国時代』になると、ファラオたちは方針を大転換したの。トトメス一世という王様が、最初に『誰にも見つからない秘密の墓』をこの不毛の谷に掘らせた。それが王家の谷の始まりよ。財宝を守るために、彼らは偉大さを誇示する『そびえる墓』を捨てて、大地に身を潜める『隠す墓』を選んだの。……皮肉な話だけどね」

 

 パジェロはガタガタと音を立てながら、徐々に岩山の間を縫うような一本道へと入っていく。両側を迫り来るような絶壁に挟まれ、空の青さが細く切り取られていく。

 

 やがて車は、近代的なコンクリート造りの建物。王家の谷のビジターセンターへと到着した。

 車外へ一歩足を踏み出した瞬間、俺は思わず息を詰まらせた。

 

 「……あ、暑い……。昨日より、さらに空気がじっとり重い気がする……」

 「気のせいじゃないわよ。ここは四方を遮熱性の高い砂岩の岩山に囲まれているの。風が一切通らないから、熱が底に溜まって巨大なオーブンみたいになるのよ。ほら、売店で買った冷たい水、一気に飲まないで少しずつ口に含みなさい」

 

 ネフェルは文句を言いながらも、俺の様子を気遣ってくれる。

 ビジターセンターの中には、王家の谷の立体的な模型が展示されていた。地下に向かって、アリの巣のように複雑に入り組んだ無数の穴、それがすべて、かつての王たちの墓なのだ。

 

 「ここからは、これに乗るわよ」

 

 ネフェルが指差したのは、窓のないオープンタイプのアトラクション用のような電気カートだった。現地では『タフタフ』と呼ばれているらしい。

 タフタフに乗り込むと、カートは静かなモーター音を響かせながら、いよいよ王墓が密集する谷の深部へと動き出した。

 時速十キロほどのゆっくりとしたスピードで進むにつれ、遮蔽物のない強烈な太陽光が、容赦なく俺たちの肌を焦がしていく。

 

 「耀、上を見上げてみなさい」

 

 ネフェルに言われて、俺はカートの屋根から身を乗り出すようにして、谷の頂点を見上げた。

 そこには、周囲の岩山の中でも一際高くそびえ立つ、三角形の美しい山頂があった。

 

 「あ……あの山、なんとなく形が……」

 「気づいた? そう、綺麗な四角錐、つまり、自然が作り出した『ピラミッド』よ。あの山の名前は『アル・クルン』。古代エジプトにおいて、あの山そのものが、ハトホル女神の聖なる化身であり、天然のピラミッドと見なされていたの。ファラオたちがこの谷を選んだもう一つの理由は、人工のピラミッドを作る代わりに、この神聖な大自然のピラミッドの懐に抱かれて眠りたかったからなのよ」

 

 アル・クルンの山頂は、照りつける太陽の光を浴びて、神々しいまでの白金色に輝いていた。数千年前の人間たちも、俺と同じようにこの山を見上げ、世界の理に思いを馳せていたのだろうか。そう思うと、ただの荒涼とした岩山が、途端に巨大な宗教的建造物のように見えてくるから不思議だ。

 

 

 タフタフが終点に到着すると、そこにはいくつかのプレハブ小屋と、地面や岩壁に不自然に開いた四角い穴が点在していた。それこそが、世界中の考古学者たちを熱狂させてきた王墓の入り口だ。

 

 「さあ、まずはここよ。世界で最も有名で、最も呪われた少年王の墓」

 

 ネフェルが掲げたチケットには、『KV62』と印字されていた。

 ツタンカーメン王墓。

 歴史に詳しくない俺でも、その名前くらいは知っている。黄金のマスクで有名な、若くして亡くなった悲劇のファラオだ。

 

 狭く、急な石造りの階段を、すれ違う観光客に気をつけながらゆっくりと下りていく。

 地下へと進むにつれ、地上の焼け付くような熱気とは異なる、ひんやりとした、けれどどこか密閉された有機物のような、独特の古い匂いが鼻腔を突いた。

 

 階段を下りきった先にある空間は、驚くほど狭かった。

 

 「……え? これだけ……?」

 「そう、狭いでしょ。これがツタンカーメン墓の第一の特徴よ」

 

 ネフェルは通路の脇に立ち、他の観光客の邪魔にならないよう声を潜めて解説を続ける。

 

 「他の、何十年も統治した偉大なファラオたちの墓はね、地下数百メートルにわたって何個もの部屋が続く、まるで地下宮殿のような規模なの。でも、ツタンカーメンはわずか九歳で即位し、十九歳という若さで急死してしまった。古代エジプトでは、ファラオが亡くなってからミイラが完成して埋葬されるまでの期間は『七十日間』って決まっていたの。つまり、彼の墓は、彼が死んでからのわずか七十日間で、急造で作らなきゃいけなかった。だから、本来は王族用ですらない、地方の貴族用だった小さな既存の穴を無理やり改装して使ったと言われているわ」

 「そうだったんだ……。じゃあ、なんでそんな小さな墓が、あんなに有名になったの?」

 「奇跡が重なったのよ。一つは、この墓が小さすぎて、後世のラムセス六世っていう王様がすぐ真上に巨大な墓を作ったとき、その掘り出された大量の土砂がツタンカーメンの墓の入り口を完全に埋め尽くして隠してしまったこと。もう一つは、彼が歴史から消された王だったこと」

 「消された?」

 「ツタンカーメンの前のファラオ、アメンホテプ四世こと、アクエンアテンは、それまでの多神教を全否定して、唯一神アテンを信仰するっていう過激な宗教改革を行ったの。エジプトは大混乱に陥った。ツタンカーメンはその混乱の尻拭いをさせられ、伝統的な多神教に宗教を戻したけれど、後世のファラオたちからはアマルナ時代の忌まわしい血筋として、歴史の記録である王名表から存在を抹消された。……でもね、歴史から消されたからこそ、後世の墓泥棒たちも彼の墓の存在を知らなかった。だから、1922年にハワード・カーターが発見するまで、三千年間一度も盗掘されずに、あの純金の棺も、黄金のマスクも、全ての財宝が無傷のまま残ったのよ。歴史の闇に葬られた少年が、三千年後に世界で最も有名な王として『復活』した。エジプト神話の死と再生を、これほど体現している話もないわよね」

 

ネフェルの熱の入った語り口に、俺はただただ圧倒されていた。

 通路の奥の小さな玄室へと進む。壁には、ツタンカーメンが冥界の神オシリスに迎え入れられる姿が、少し稚拙ながらも温かみのあるタッチで描かれていた。

 

  そして、その空間の中央に、それはあった。

 

透明なアクリルケースの中に、一体のミイラが横たわっている。

 全身をリネンの布で包まれ、露出しているのは、黒く干からびた頭部と、胸の前で交差された両手だけ。

 

 「……本物、なんだよね」

 「ええ。黄金のマスクや豪華な副葬品は、すべてカイロのエジプト考古学博物館に移されたけれど、彼のミイラだけは、ハワード・カーターの強い意志によって、今もこの自分が眠るべき本来の墓の中に残されているの」

 

 俺はガラス越しに、その小さなミイラをじっと見つめた。

 三千年前に、確かに生きて、呼吸をして、悩み、そして十九歳という若さで命を落とした一人の少年。

 その細い指先、きつく閉じられた瞼の輪郭を見ていると、胸の奥がキリキリと痛むような感覚を覚えた。

 

 (十九歳……。俺と、ほとんど変わらない年齢だ)

 

 彼は死後、神となって来世へと旅立ったとされている。

 

 翻って、自分はどうだろう。

 

 十年前のあの日、赤黒い炎の中で両親を失い、自分の魂の成長をあそこに置き去りにしてしまった俺は、今も生きていると言えるのだろうか。ただ他人のために身体を動かすことで、生きているフリをしているだけではないのか。

 

 「耀? また変な顔をして……本当に熱中症じゃないでしょうね」

 「あ、いや、大丈夫。ちょっと、色々と考えてしまって。……そういえばネフェル、『ファラオの呪い』って本当にあるの? 墓を開けた人が次々に謎の死を遂げたっていう……」

 

 俺が話題を変えるように尋ねると、ネフェルはふっと口元を冷たく歪めた。

 

 「オカルト雑誌の読みすぎよ、と言いたいところだけど……あながち全部が嘘とも言えないわ」

 「えっ、本当にあるの!?」

 「科学的には、数千年間密閉されていた墓の中の古代の黴や細菌を吸い込んだことによる急性肺炎、あるいは発見者のカーナルヴォン卿が元々大怪我で身体を壊していたことの偶然、とされているわ。でもねみんなあるって言う以上あるのよ」

 

 ネフェルはさらりと恐ろしいことを口にすると、じゃあ次に行くわよ、と俺の背中をポンと叩いた。彼女の手のひらの微かな温もりが、ミイラを見て凍りつきかけていた俺の心を、現実へと引き戻してくれた。

 

 

 次にネフェルが連れてきてくれたのは、『KV9』だった。

 先ほどのツタンカーメン墓とは比較にならないほど、入り口からして巨大な四角いトンネルのような通路が、岩山の斜面を貫いて地下深くへとまっすぐに伸びている。

 

 「うわあ……! 広い! それに、壁が真っ白で、絵がめちゃくちゃ綺麗だ!」

 「ラムセス四世は、新王国時代の末期、第20王朝のファラオね。ツタンカーメンの時代から何百年も後だから、墓の建築技術も、壁画の様式も完全に洗練されているわ。ほら、天井を見てみなさい」

 

 言われて頭上を仰ぎ見ると、そこには深い、夜の闇を思わせるような濃厚なラピスラズリの青で塗られた天井が広がっていた。その青い背景を埋め尽くすように、無数の黄色い星と、身体を大きく折り曲げて天を跨ぐように描かれた、裸体の巨大な女神の姿があった。

 

 「あの大きな女の人は神様?」

 「天空の女神『ヌト』よ。彼女の身体そのものが宇宙であり、天の川なの。古代エジプトの宇宙観ではね、太陽神ラーは夕方になると、このヌト女神の口から体内に飲み込まれるの。そして、彼女の身体の中である冥界を十二時間かけて旅して、翌朝、彼女の股の間から再び赤ん坊として生まれ変わる。それが一日というサイクルの真実だと信じられていたのよ」

 

 俺たちは、左右の壁に描かれた極彩色のレリーフを眺めながら、ゆっくりと通路を進んでいく。壁画には、鷹の頭を持った神や、ジャッカルの頭を持った神、そして奇怪な姿をした無数の怪物や蛇の姿が、今描かれたばかりであるかのような鮮やかさで残されていた。

 

「この壁に描かれている一連の絵とヒエログリフはね、『アムドゥアト(冥界の書)』呼ばれる、極めて重要な神聖魔術のテキストよ」

 

 ネフェルの声が、地下の巨大な石造りの空間に厳かに反響する。彼女の解説は、単なる歴史の紹介を超えて、まるで古代の儀式を執り行う司祭のような、不思議な迫力を帯び始めていた。

 

 「アムドゥアトとは、古代エジプト語で『冥界にあるもの』という意味。ここにはね、太陽神ラーが夜の十二時間、それぞれ一時間ごとにどのような領域を通り、どんな試練を乗り越えて再生するかという『冥界下りの旅』の全貌が記録されているの」

 「太陽神の、旅……」

 「そう。太陽神ラーは、夜になると『太陽の船』に乗って、死者の世界である冥界の川を進むの。冥界の第一時間から第十二時間までは、それぞれ門があって、強力な守護神たちが守っているわ。ラーがその門を通るためには、それぞれの神の『真実の名前』を正確に呼ばなきゃいけない。名前を知ることは、相手の魂を支配することだからね。……そして、旅の最大のクライマックスは、夜の第十時間から第十一時間にかけて訪れる」

 

 ネフェルは立ち止まり、壁画の一角を指差した。そこには、とてつもなく巨大な、とぐろを巻いた大蛇のレリーフが、不気味な存在感を放ちながら描かれていた。

 

 「これが、混沌と闇の象徴である大蛇『アポピス』。太陽神ラーの永遠の宿敵よ。アポピスは、太陽の船が進む冥界の川の水をすべて飲み干して、世界を永遠の闇と混沌(イズフェト)に突き落とそうと襲いかかってくるの。もしラーがアポピスに負ければ、翌朝、太陽は二度と昇らず、世界は完全に滅亡する。……だから、太陽神とその守護神たちは、毎夜毎夜、この大蛇アポピスと血みどろの死闘を繰り広げているのよ。魔術の女神イシスが放つ強力な結界と呪言でアポピスの動きを封じ、猫の姿に変身したラーが、大ナイフでアポピスの首を切り裂く。そうして混沌を打ち破り、第十二時間、ついにラーはスカラベの姿をした朝の太陽神『ケプリ』として、ヌト女神の身体から再びこの地上へと生まれ変わるの」

 

 ネフェルの琥珀色の瞳が、壁画のアポピスを映して、微かにゆらりと揺れた。

 

 「古代エジプト人にとって、毎朝太陽が昇るということは、決して当たり前の自然現象なんかじゃなかった。神々が命を懸けて混沌の化け物と戦い、それに勝利したという奇跡の証明だったのよ。だからこそ、ファラオたちは自分の墓の壁一面にこのアムドゥアトを書き記した。自分もまた、太陽神ラーと同じように、死という夜を乗り越え、アポピスという混沌の試練に打ち勝ち、来世で完璧な神として再生するためにね」

 

 「死と、再生……。毎日、神様が命懸けで世界を救っているから、俺たちは明日を迎えることができる、か」

 

 俺はネフェルの言葉を噛みしめるように呟いた。

 じいさんの書斎で読んだ神話は、どこか遠い国のおとぎ話のように思えた。けれど、この数千年間、一切の光を拒絶してきた地下の玄室で、色褪せない壁画に囲まれて聴く神話は、まるで今も世界の裏側で機能し続けている。冷酷な現実のように、妙なリアリティを持って俺の胸に突き刺さってくる。

 

 カチリ。

 

 「っ!?」

 

 その時、俺の胸元で、本当に小さな、けれど明確な硬質な音が響いた。

 驚いて服の上から手を当てると、祖父の形見のラピスラズリのメダリオンが、ほんの少しだけ、生き物の体温のような熱を帯びているのが分かった。

 

 (いまの音は……何だ?)

 

 脳裏に、かつておじいちゃんが語ってくれた言葉が、走馬灯のようにリフレインする。

 

 『耀、エジプトの神話の中で、女神イシスだけは特別なんだ。彼女は知恵と魔術の女王。最高神ラーの真実の名前を暴き、その圧倒的な特権をすべて奪い取って、自分のものにしたんだよ』

 

 

 「ちょっと、耀? ぼーっとして、私の渾身の神話解説、ちゃんと聞いてたの?」

 「あ、いや、聞いてたよ! すごく面白かった。太陽神も、毎晩そんな大変な戦いをしてるんだなって」

 「ふん、分かればよろしい。さあ、一般公開されている王墓の観光はこれで満足したかしら?」

 

 ネフェルはそう言うと、持っていたパンフレットをバッグにしまい、どこか、これまでとは明らかに質の違う冷徹な空気を全身から漂わせ始めた。

 彼女は周囲を見回し、他の観光客たちの姿が十分に遠いことを確認すると、俺の腕をぐっと掴んだ。

 

「ここからは、私の本来の仕事に付き合ってもらうわよ」

 

 

 ラムセス四世墓を出た俺たちは、観光客が行き交う主要なルートから大きく外れ、岩山のさらに奥へと歩を進めていた。

 道を遮るように立てられた『KEEP OUT(立ち入り禁止)』の看板とロープ。ネフェルはそのロープを器用に潜り抜け、一切の躊躇なく、崩落の危険がある未調査区域の岩壁の割れ目へと入っていく。

 

 「ネフェル、本当に大丈夫なの? ここ、立ち入り禁止って書いてあるけど……」

 「私にとっては『立ち入り許可区域』よ。昨日の夜に言ったでしょ、私は現地の然るべき組織の意向を受けて動いているって。最近ね、この王家の谷の未調査エリアで、局所的な『魔力の上昇』が観測されているの」

 「じいさんが言ってた魔術師って輩か」

 「そうよ。万が一神様が現れたら困るでしょう?」

 

 ネフェルは歩きながら、昨日も使っていた例のタブレットを取り出した。画面には激しく数字が乱高下しているのが見える。

 

 「エジプトの古代遺跡は、それ自体が危険物よ。数千年間、人間の信仰と努力によって封じ込められてきた力が、何らかの原因で漏れ出そうとしている。……私の任務は、その異常の源泉を特定し、必要なら再封印を行うこと」

 「そんな危険な仕事、なんで俺を連れて行くのさ。危ないなら、俺はビジターセンターで待ってた方が……」

 「ダメよ」

 

 ネフェルはきっぱりと言い放ち、足を止めて振り返った。

 麦わら帽子の影から覗く琥珀色の瞳が、俺の首元のメダリオンへと注がれる。

 

 「あなたのそのメダリオン、さっきのラムセス墓の中で、一瞬だけ反応したわ。私のタブレットがそれを捉えてる。……やっぱり、それはただのお守りじゃない。古代の魔道具よ。もし私の手に負えないレベルのことがあった場合、あなたのおじいさんの遺品が、道を切り開く役に立つかもしれない。だから、私の側にいなさい」

 「じいさんのメダリオンが、鍵……?」

 

 俺は自分の胸元を見る。じいさんは、一体どこでこれを手に入れ、俺に何を託そうとしたのだろうか。十年前の大災害、両親の死、そしてこのエジプトの地へと導かれた偶然。すべての点と点が、不気味な一本の線となって繋がり始めていくような、強烈な予感が背筋を駆け抜ける。

 

 歩くほどに、地上の観光客たちの賑やかな声は完全に消え去り、耳が痛くなるほどの静寂が周囲を支配し始めた。

 

 そして、おかしかった。

 

 まだ午前中だというのに、周囲の気温が、明らかに異常な速度で急上昇している。

 風は一切ない。なのに、まるで目の前で巨大な焚き火でも焚かれているかのような、ねっとりとした、肌をチクチクと刺すような強烈な熱気が、岩壁の向こう側から絶え間なく押し寄せてくるのだ。

 

 「……おかしいわね。熱量の数値が、さっきの倍以上に跳ね上がってる。まるですぐ近くに、太陽の破片でも落ちているみたいに……」

 

 ネフェルの顔から、余裕の表情が消えていく。彼女はタブレットを強く握りしめ、冷や汗を流しながら、慎重に一歩一歩を進める。

 

 周囲の茶色い岩壁が、その異常な熱のせいで、蜃気楼のようにぐにゃぐにゃと歪んで見える。大気がパチパチと、まるで見えない火花でも散らしているかのように不気味に鳴動していた。

 

 その時だった。

 

 『クゥン……、クゥ、クゥン……』

 

 静寂と、沸騰しつつある大気の狭間から、か細い生き物の鳴き声が響いてきた。

 

 「え……?」

 

 声のした方に目を向けると、崩落しかかった古い横穴の隙間、崩れた砂岩の影に、一匹の動物の姿があった。

 手足がシュッと細長い、まるで古代の壁画から抜け出してきたかのような、美しいサルーキの野良犬だ。しかし、その左の後ろ脚の付け根あたりが赤黒く染まっており、大きな怪我をして動けなくなっているようだった。

 

 『クゥォン……』

 

 犬は怯えたような、けれど助けを求めるような目で、じっとこちらを見つめていた。

 

 「犬……? こんな未調査の危険なエリアに迷い込んじゃったんだな。脚を怪我してるみたいだ」

 「ちょっと、耀! 立ち止まらないで、放っておきなさい!」

 

 俺が一歩を踏み出そうとした瞬間、ネフェルが鋭い声で俺の腕を掴んだ。

 その琥珀色の瞳には、かつてないほどの真剣な、そして恐怖すら孕んだ警告の色が浮かんでいる。

 

 「この先は、私たちの想像を超えているわ。いつこのエリア全体が熱波で崩落してもおかしくないのよ! あんな穴に近づくのは自殺行為よ! 早くここを離れるわよ!」

 

 ネフェルの言うことは、一から十まで、完全に正しかった。

 見ず知らずの、言葉も通じない野良犬のために、崩落寸前の危険な未知の横穴に飛び込む理由なんて、どこにもない。普通の人間なら、ここで足を止める。それが正解だ。

 

 けれど。俺の心はその選択を選ばせてはくれなかった。

 

 ――目の前で、弱っている命がある。

 ――なら、自分が身代わりに傷ついてでも、助けなきゃいけない。

 ――そうしなければ、あの火の海で、自分だけが生き残ってしまった理由が、なくなってしまう。

 

 ドクン、と胸の奥の呪縛が跳ねる。

 それと同時に、胸元のメダリオンが、まるで俺に呼応するかのように、ドクドクと熱い鼓動を返し始めた。

 

 「危ないから、ネフェルはそこで待ってて。すぐ連れてくるから」

 「なっ、ちょっと、バカ!? 私の話を聞きなさいってば!」

 

 ネフェルの悲鳴のような制止の声を背中で聞きながら、俺の身体は、すでにその不気味な横穴の奥へと、勝手に滑り込んでいた。

 

 頭上からは、パラパラと不気味な小石の雨が降り始める。地上の大気が、ピキリ、と硝子が割れるような音を立てて歪んだ。

 

 日常の終わりを告げる鐘の音が、すぐそこまで迫っていた




また明日

海外行ったことある?

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