アモン・ラーとイシスの剣 作:コシャリは食べに行った
社会人になると海外に行く余裕がないですね。
カンピオーネたちはもうなったあとだから、普通の状況じゃあ危機には陥らない。ならばカンピオーネに転生する前、人の身で神に挑むときこそ一番キチガイの本質が描けると思うんだ。
たとえばうちの主人公は度の過ぎたお人好し、なお本質はサバイバーズギルド、自覚してても治せないものだからなぁ
「いい? 絶対にそこから動かないでって言ったじゃない! この、大バカ者がッ!」
白茶けた砂岩の岩壁が、内側から激しく加熱されたようにピキピキと不気味な音を立てていた。
王家の谷、一般観光客の立ち入りを厳重に制限された未調査区域の横穴。その奥深くへと飛び込んだ俺、来井耀の全身を、地上の不快な熱気とは完全に質の異なる、肌を刺すような熱が包み込んでいた。
それはまるで、大気が電子レンジのマイクロ波のように超高速で微振動しているかのような、異様な圧迫感だった。息を吸い込むだけで喉の粘膜がチリチリと焼け、肺がここにいてはいけないと明確な拒絶反応を返してくる。
視界のすべてが陽炎のようにぐにゃぐにゃと歪み、数千年間も光を遮られてきたはずの砂岩の壁からは、静電気のスパークに似たパチパチという微音が絶え間なく響いていた。
「クゥン……、クゥ、クゥン……」
崩れた岩の隙間。暗がりの奥で、一匹の動物が身を縮めていた。
手足がシュッと細長く、胸元が美しく引き締まったサルーキの野良犬だ。古代エジプトの壁画で、ファラオの傍らに描かれている狩猟犬そのものの姿。だが、その犬の左後ろ脚の付け根からは、赤黒い液体が絶え間なく流れ落ち、周囲の白い砂を汚していた。
犬は俺の接近に対して牙を剥く元気すらなく、ただ怯えきった、悲痛な光を宿した瞳で俺をじっと見つめている。
「大丈夫だ、今助けてやるからな……」
俺は泥だらけの手を伸ばし、犬の細い身体を優しく、けれど確実に両腕で抱きかかえた。
その瞬間、俺の脳裏を、いつものそれが激しく駆け抜けた。
十年前の、あの最悪な夜。
実家を、そして俺の日常のすべてを包み込んだ、あの赤黒い炎の海。
崩れ落ちる天井。柱の下敷きになった両親の、かすれた悲鳴。子供だった俺は、ただ泣き叫ぶことしかできず、誰の命も救えなかった。何の価値もない俺だけが、奇跡という名の理不尽によって、ただ一人無傷で生き残ってしまった。
あの日から、俺は壊れている。
目の前で弱っている命があるなら、それが犬であろうと人間であろうと、自分の身体がズタズタに引き裂かれるリスクなど関係ない。ここで引き返すという選択肢は、俺の歪んだ心の中には最初から存在しないのだ。
他人のために、何かの命のためにこの肉体を投げ出して使い切らなければ、自分が今ここに生きている言い訳が立たない。この自己犠牲の呪縛こそが、俺を突き動かす唯一の原動力だった。
「耀ッ! 上を見なさい、今すぐそこから離れて!」
横穴の入り口から、ネフェルの悲鳴に似た叫びが響いた。
直後、ゴゴゴゴゴ……と地鳴りのような重低音が空気を震わせる。頭上の岩盤に、一瞬にして巨大な蜘蛛の巣状の亀裂が走り、数トンはあろうかという巨岩の塊が、重力に従って俺と犬の真上へと剥がれ落ちてきた。
(あ、これは間に合わない)
死を覚悟した、その刹那だった。
横穴の狭い通路を猛然と突進してきたネフェルが、手に持っていたタブレットを虚空へと掲げた。彼女の小さな唇から、短く、けれど鼓膜を鋭く穿つような、聞いたこともない言語の発声が放たれる。
「ヌトの夜天よ」
瞬間、世界の物理法則が捻じ曲がった。
落下してきた巨岩が、俺の頭上わずか数十センチのところで、まるで目に見えない巨大な空気のクッションに衝突したかのように、凄まじい衝撃音を立てて軌道を右側へと激しく弾け飛ばされたのだ。
ドガァァァン! という轟音とともに岩が粉砕され、凄まじい砂煙と風圧が狭い空間を狂ったように吹き荒れる。
俺は目を剥いた。しかし、その常識外れの超常現象に対して、恐怖や混乱はなかった。
なぜなら、幼い頃に考古学者だった祖父の書斎で、何度も言い聞かされていたからだ。
『耀、この世界にはな、一般の人間には決して明かされない魔術を扱う人間たちがいるんだ。科学とも違う、神話に刻まれた古い力を引き出す者たちだ。もしお前がいつか彼らの技を目撃することがあっても、驚くな。だが、決して深入りはするんじゃないぞ』
(ネフェルは魔術師だ。さっきも見せてもらっただろう。俺)
彼女が使ったのは、最新のテクノロジーなどではない。このエジプトという土地に眠る、目に見えない強大な力を引き出すための、超常的な古い技術。
「ゲホッ、ゴホッ! 突っ立ってんじゃないわよ、このバカ!」
ネフェルは砂煙に咽びながら、驚異的な反射速度で俺のTシャツの襟髪を掴んだ。そして、女の子のものとは思えない圧倒的な怪力で、俺と犬の身体を横穴の外へと一気に引きずり出す。
その直後だった。
ズズズズンッ! と激しい地崩れの音が響き、俺たちがさっきまでいた横穴は、完全に天井が崩落して大量の土砂と巨岩によって跡形もなく埋め尽くされた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
安全な岩陰の斜面に転がり込み、ネフェルは激しく肩で息をしていた。
全身、白い砂埃で真っ白になっている。彼女はゆっくりと立ち上がると、髪を振り乱し、怒りで琥珀色の瞳を恐ろしいほどにギラギラと輝かせながら、俺の胸ぐらを両手で掴んで激しく揺さぶった。
「バカじゃないの!? 本当に死にたいわけ!? あと一秒、私が魔術を使うのが遅れていたら、あなたもその犬も完全に肉片になって土の下に埋まってたのよ! 私の警告が、そのお粗末な耳には届かなかったわけ!?」
普段の、ツンツンしつつもどこか冷静だったツアーガイドの仮面は、完全にかなぐり捨てられていた。本気の激怒。そして、その奥にある、俺を死なせかけてしまったことへの強い恐怖の震えが、胸ぐらをつかむ彼女の手のひらから伝わってくる。
「……ごめん。でも、助かったから」
俺は真っ白な灰を被った頭を少し下げ、腕の中の犬をさらにぎゅっと抱きしめたまま、感情の起伏の薄い声で答えた。
俺の視線は、自分の死の恐怖に怯えるものでは全くなかった。ただ、腕の中の小さな命が温かいままであること、その安堵だけを見つめている。
ネフェルは、俺のその自分の命に対する異常なまでの無関心さを至近距離で察知し、ゾッとしたように目を見開いた。言葉にできない不気味さと、強烈な苛立ちが彼女の顔を歪める。
「あなた……本当に、どこか狂ってるわ……」
彼女はガシガシと自分の頭を掻きむしると、大きくため息をつき、掴んでいた俺の胸ぐらを放した。そして、腰のベルトにつけていたポーチから、一般の救急キットとは明らかに異なる護符を用意した。
「貸しなさい。その犬、このままじゃ出血多量で死ぬわ」
「あ、うん。お願い」
ネフェルが犬の左後ろ脚の裂傷に向けて魔術を使うとともに、薄緑色の微細な粒子が傷口を覆った。すると、どういう原理なのか、ドクドクと溢れていた赤黒い血が、見る見るうちにピタリと止まり、傷口の皮膚が急速に収縮していく。犬は痛がる素振りも見せず、むしろ気持ちよさそうに長い鼻先を鳴らし、安らかな息を吐き始めた。
「これ、すごいな。日本の病院でも見たことないよ」
「私たちの魔術よ。一般には出回ってないわ。ほら、ぐずぐずしてないでパジェロに戻るわよ。この犬はとりあえず裏座席に寝かせておきなさい。……私たちの調査は、まだ始まったばかりなんだから」
ネフェルは汚れを払うように麦わら帽子を強く叩くと、ツカツカとパジェロへ向かって歩き出した。俺は、眠ってしまったサルーキを慎重に抱きかかえ、彼女の後に続いた。
◇
王家の谷を後にした三菱・パジェロは、再び白茶けた荒野の悪路を走り、南東の方向へと進んでいた。
ネフェルはまだ相当に腹を立てているらしく、無言のまま荒々しくハンドルを握り、シフトレバーをがちゃがちゃと切り替えている。車内に流れる空気は、壊れたエアコンの生温い風も相まって気まずさの極みだった。
車の右側に広がるのは、テベス連山と呼ばれる荒々しい岩山の絶壁だ。
時計の針は午前九時を回ったところだが、太陽はすでに天高くに位置し、西岸の不毛の大地を容赦なく熱している。外の景色は、まるで超巨大なオーブンの内部を見ているかのように、全方位が熱気による陽炎でユラユラと揺らいでいた。
「……あの、ネフェルさん。さっきは本当にごめんなさい。でも、次の目的地について、良かったら解説を聞かせてもらえないかな?」
俺が恐る恐る話しかけると、ネフェルはバックミラー越しに俺をギロリと睨みつけたが、やがて「はぁ……」と深いため息をつき、職務としてのスイッチを切り替えた。
「……切り替えが早いのね、あなたは。まあいいわ、プロのガイドとして仕事は全うするから。次に向かうのは、王家の谷から岩山をちょうど一つ隔てた反対側にある、『デル・エル・バハリ』と呼ばれる場所よ」
「デル・エル・バハリ?」
「アラビア語で『北の修道院』っていう意味の地名ね。古代の遺構が、後世になってキリスト教の修道院として使われていた時期があるからそう呼ばれているの。でも、そこに建っている本当の建造物の名前は、『ハトシェプスト女王葬祭殿』。古代エジプトにおいて、最強にして最悪の異端とされた女性ファラオが建てた、巨大な記念碑よ」
「葬祭殿……。それって、さっきの王家の谷にあったようなお墓とは、何が違うの?」
俺の素朴な疑問に、ネフェルはパジェロの速度を少し落としながら答えた。
「全然違うわ。コンセプト自体が真逆と言ってもいい。王家の谷にある『王墓』はね、ファラオのミイラと財宝を誰にも見つからないように隠すための、『純粋な死者の家』、地下の隠れ家よ。対して『葬祭殿』は、地上の生者の世界に向けて堂々と建てられた、『お祭りのための神殿』。亡くなったファラオの霊に毎日のように生贄や祈りを捧げ、その王がいかに偉大であったかを永遠に称え続けるための記念建造物なの。だから、隠すための墓とは違って、信じられないくらいド派手で、巨大で、美しい場所に作られるのよ」
なるほど、と俺は頷いた。古代エジプトの王たちは、死後の魂の安全を守るための「秘密の地下室」と、自分の生前の栄光を誇示するための「地上の大宮殿」の二つを、別々の場所にセットで作っていたというわけだ。
パジェロがなだらかな坂道を登りきり、広大な舗装された駐車場へと滑り込んだ。
フロントガラスの向こう側、視界が開けた瞬間の光景に、俺は思わず息を呑んだ。
「うわ……何だこれ……!」
そこに広がっていたのは、これまでに見たどの古代エジプト遺跡とも異なる、異次元の光景だった。
背後には、天を突くように垂直に切り立った、高さ数百メートルはある巨大な赤茶色の断崖絶壁がそびえ立っている。そしてその圧倒的な大自然の壁に圧倒されるようにして、真下に、驚くほど幾何学的で、直線的で、白亜に輝く巨大な三層構造の建築が鎮座していた。
それは、数千年前の古代人が作ったというよりは、現代の超一流の建築家が設計したモダニズム建築か、あるいは海外の最高級グランドリゾートホテルのようにすら見えた。
「凄いでしょう。これが十九世紀に本格的に発掘されたとき、ヨーロッパの現代建築家たちもこぞって驚愕したわ」
ネフェルはパジェロのエンジンを止め、キーを抜いた。
「この葬祭殿を設計したのは、ハトシェプスト女王の絶大な信頼を受け、一説には彼女の恋人でもあったと噂される天才建築家センエンムトという人物よ。彼はね、後ろにある荒々しい大自然の断崖の垂直ラインと、人工的に計算し尽くされた建造物の水平ラインを完璧に調和させるという、信じられない高等テクニックを用いたの。エジプト建築史、いや、人類の建築史上における最高傑作の一つと言われているわ」
俺はパジェロの裏座席を振り返った。
怪我をしたサルーキの野良犬は、ネフェルの魔術の効能か、すでにかなり体力を回復しているようで、顔を上げて窓の外を静かに見つめていた。
「ネフェル、この子、車の中に置いていって大丈夫かな?」
「現地の知り合いの守衛に、少し多めにエジプシャン・ポンドを握らせておいたわ。観光客の入れない日陰の涼しい守衛室で、私たちが戻るまで見守ってもらうように手配したから大丈夫よ。それより、私たちの調査を終わらせるわよ。ほら、行くわよ」
ネフェルに促され、俺はパジェロを降りた。
葬祭殿へと続く、かつてはスフィンクスの並木道だったという広大なアプローチには、世界中から集まった大勢の観光客や、色とりどりの日傘をさしたツアー団体が行き交っている。帽子を売りつけようとしてくる現地のアラブ人たちの元気な声が響き、一見すると、どこにでもある平和な世界遺産の風景そのものだった。
しかし、俺の隣を歩くネフェルの表情は、全く冴えなかった。
彼女は大きな麦わら帽子の庇を深く下げ、周囲の観光客の目を盗むようにして、ポケットの中のタブレットの画面を何度も凝視している。画面の端で、赤いランプが微かに点滅しているのが、俺の位置からも見えた。
「……ネフェル、やっぱりここでも、さっきの穴みたいな異常が?」
「ええ。見て、王家の谷の崩落ほどダイレクトじゃないけれど、このデル・エル・バハリの空間全体に、異常な熱量が蓄積されつつあるわ。大気がピリピリしてる」
俺もまた、自分の首元へと自然に手が伸びていた。
Tシャツの内側、祖父の形見であるラピスラズリのメダリオンが、さっきの横穴での崩落事故以来、ずっと微弱な熱を持ち続けている。
それはまるで、この白亜の葬祭殿の奥深く、あるいはこの巨大な岩山の内部に眠る目に見えない何かと反応し合っているかのようだった。
あるいは神の導きのように
(じいさん……俺にこのメダリオンを渡して、一体このエジプトで何をさせようとしたんだ?)
晴れ渡るルクソールの空の下、俺の胸の中には、底の知れない深い謎と、静かな戦慄が広がり始めていた。
俺たちは、葬祭殿の中央を貫く、なだらかで広大な大傾斜路をゆっくりと歩いて登っていった。
第一テラスから第二テラスへと上がると、そこには四角い石柱が美しく等間隔に並ぶ、壮麗な回廊が左右に広がっていた。壁面には、信じられないほど細密な浮き彫りがびっしりと彫られており、数千年の歳月を生き抜いてきた古代のインクの色が、今なお不気味なほどの鮮やかさで残っている。
「観光客の波が途切れたわね。ここで少し、ハトシェプストという女王の本質について、あなたに講義をしてあげるわ。よく聞きなさい、平和ボケ」
「まだ続くのその呼称」
「ええ!!あなたが反省しないかぎり!!いつまでもね!!」
ネフェルは太い角柱の影に俺を立たせると、壁面に描かれたレリーフの一つを指差しながら、深く、澱みのない声で語り始めた。
「ハトシェプストは、新王国時代第18王朝の偉大なファラオ、トトメス一世の正妻の娘として生まれたわ。つまり、王家の純血中の純血を受け継いだ、高貴な王女だったの。……でもね、当時の古代エジプトにおいて、女性が単独のファラオとして最高権力者の座に就くことは、伝統的にも宗教的にも、絶対に認められていなかった。なぜなら、ファラオとは地上の秩序を維持するために神から遣わされた男神ホルスの化身でなければならなかったからよ」
「じゃあ、彼女はどうやって王様になったんだ?」
「最初は王妃としてよ。彼女の父親であるトトメス一世が亡くなった後、王位を継いだのは、側室の息子である異母兄弟のトトメス二世だった。ハトシェプストは王家の血統を正統にするために、そのトトメス二世と結婚して王妃となり、身体の弱かった夫の代わりに政治の実権を事実上掌握していったわ。……でも、夫のトトメス二世もまた、わずか数年の治世で急死してしまったの。残されたのは、これまた別の側室が産んだ、まだヨレヨレの赤ん坊だった男児、のちのトトメス三世だけだった」
ネフェルは壁画の文字ヒエログリフの輪郭を指先でなぞるように動かす。
「まだ幼すぎて国政なんて執れるわけがない赤ん坊のファラオの『摂政』として、ハトシェプストはエジプトの全権を握った。普通なら、その男の子が大きくなるまで国を守って、時期が来たら王位を譲っておしまい、のはずだった。……でもね、彼女の野心と才覚は、そんな生ぬるい器には収まらなかったのよ。数年後、彼女はついに、自分自身が『ファラオ』であると宣言した。幼いトトメス三世を事実上の幽閉・共同統治者というお飾りの立場に追いやり、自らがエジプトの頂点、唯一無二の絶対君主として君臨したの。これが、歴史上最も成功し、そして最も異端とされた女性ファラオの誕生劇よ」
「なるほど。すごいバイタリティだね……」
「ただのバイタリティじゃ済まないわよ。彼女は、国中を納得させるために、凄まじいプロパガンダを仕掛けたんだから。ほら、その隣の壁画を見てみなさい」
俺はネフェルが示す回廊の壁を見た。そこには、逞しい体つきをし、ファラオの伝統的な冠を被り、顎には立派な髭を蓄えた王の姿が、堂々と彫られていた。
「これ、どう見ても男の人の絵に見えるけど……これがハトシェプスト女王なの?」
「そうよ。彼女は公式の場に姿を現すとき、完全に男装していたの。男物のファラオの衣装をまとい、儀式用の人工の付け髭を顎につけ、碑文の中では自らを王の代名詞である『力強い雄牛』と呼ばせたわ。エジプトの伝統的な宗教観や、保守的なお役人、そして国民たちを黙らせるために、彼女は自らの肉体が持つ女性性を徹底的に隠蔽し、擬似的な男の王として振る舞う必要があったのね」
ネフェルはさらに俺の手を引っ張り、第二テラスの北側に位置する、一際美しい『神聖誕生の回廊』と呼ばれるエリアへと連れて行った。
「ハトシェプストが用いた究極のプロパガンダが、この壁画に描かれている神話よ。いい? 壁画の左側を見て。エジプトの最高神であり、太陽神と習合した最高権力神『アモン・ラー』が、ハトシェプストの母親であるイアフメス王妃の寝室に、夫であるトトメス一世の姿に化けて忍び込んでいるわ。神は王妃の鼻先に『
俺は、壁画に描かれたアモン神の姿を見上げた。人間の都合で太陽神ラーと合体させられた最高神。その神を、今度は一人の人間の女性が、自らの王権の正統性を証明するための道具として完璧に利用している。神と人間が、互いの都合で利用し合うドロドロとした権力の力学が、この美しい白亜の神殿の壁には刻まれているのだ。
「でもね、ハトシェプストの素晴らしいところは、それだけの強権を握りながら、他のファラオたちみたいに近隣諸国へ侵略戦争を仕掛けたりしなかったことよ」
ネフェルは今度は、第二テラスの南側にある、最も有名な『プント交易の回廊』へと俺を案内した。そこには、これまでのエジプト遺跡でよく見られた敵の首を戦車で踏み潰すファラオのような血生臭い絵は一枚もなく、代わりに巨大な木造の帆船や、大量の荷物を運ぶ人々、そして奇妙な形の木々が細細と描かれていた。
「ハトシェプストはね、戦争によって領土を広げる代わりに、商業と海外交易によって国を豊かにする『平和外交・経済重視』の政策を貫いたの。その最大の功績が、この壁画に描かれている、アフリカの彼方にあるとされた伝説の黄金郷『プント』への大規模な海上遠征よ。見て、エジプトの巨大な帆船が紅海を渡り、プントの国に到着する様子がコミカルに描かれているでしょう。プントの国にある高床式の珍しい家や、異様に太った体型をしたプントの女王様、そしてエジプト人たちがそれまで見たこともなかったような、熱帯の様々な魚やキリン、ヒョウといった動物たちの姿まで、当時の職人たちが面白がってスケッチしたレリーフが残されているわ」
「本当に……なんだか、楽しそうな遠征だね」
「楽しいだけじゃないわよ、大成功のビジネスだったんだから。彼女がプントから命懸けで持ち帰らせた最大の超高級お宝は、金銀財宝や奴隷じゃない。あそこに描かれている、『乳香』と『没薬』の生木よ」
「木……? 宝物じゃなくて、植物をわざわざ持って帰ってきたの?」
「そう。これらはね、神殿の儀式で神様に捧げるための、最も聖なる香料の原料なの。それまでは莫大な金を払って輸入するしかなかった最高級の香木の苗木を、彼女は根こそぎ鉢植えにして、船に乗せてテベスまで運ばせたのよ。このハトシェプスト葬祭殿の広大な前庭にはね、かつてプントから遥々運ばれてきた没薬の木が何本も植えられていて、年中、豊かな緑と芳醇な素晴らしい香りで満たされていたと言われているわ。宗教的な『至高の香』を自分の国で自給自足できるようにすること、それもまた、彼女が『神の娘』として、神への最高の至誠を示すための国家的一大プロジェクトだったのよ」
ネフェルは誇らしげに胸を張り、まるで自分がハトシェプスト女王の側近であるかのように熱っぽく語った。
大自然の荒々しい断崖の下、かつては緑の香木が茂り、神聖な香りが漂っていたという白亜の宮殿。そのあまりにもロマン溢れる歴史の解説に、俺は完全に心を奪われていた。
俺たちはさらに、葬祭殿の最上層へと続く、最後の急な階段を登っていった。
そこは第三テラスと呼ばれる、この葬祭殿の中で最も神聖で、かつては限られた高位の司祭とファラオ本人しか立ち入ることが許されなかったアメン神の至至聖所があるエリアだ。
階段を登りきり、最上層の開けた空間に足を踏み入れた瞬間、俺の身体に奇妙な違和感が走った。
「……え? 何だこれ……」
そこに並んでいたのは、ハトシェプスト女王の姿を模したとされる、オシリス神の形をした巨大な石像の数々だった。しかし、その石像のすべてが、顔の部分を鋭いノミのようなもので激しく叩き割られ、無残に破壊されていた。
それだけではない。背後の壁面に目を向けると、第二テラスまであんなに美しく残されていたレリーフの数々が、ある特定の人物が描かれていたであろう部分だけ、徹底的に、執拗に、削り取られ、抉られているのだ。
カルトゥーシュと呼ばれる、王の名前を囲む楕円形のフレームの中身は木っ端微塵に粉砕され、女王の身体の輪郭だけが、剥き出しになった砂岩のザラザラとした肌を晒して、無残な空白として残されていた。
「めちゃくちゃに壊されてる……。ネフェル、これ、後世の異教徒か誰かが、宝探しのために壊したの?」
「いいえ、違うわ」
ネフェルの声から、さっきまでの熱っぽいロマンの響きが完全に消え去り、冷たい、刃物のようなトーンへと変わっていた。
「これが、歴史上有名な、『
「トトメス三世……さっきの、共同統治者だったっていう、男の子?」
「そう。彼はね、のちに現代の歴史学者から『エジプトのナポレオン』と呼ばれるほどの、凄まじい軍事的天才のファラオに成長したわ。アジアやヌビアへと何度も自ら遠征軍を率いて出兵し、古代エジプトの歴史上、最も広大な最大帝国を築き上げた偉大な王よ。……彼は、女性がファラオとしてこの国の頂点に君臨したという前例のない王統の歪みを、公式の歴史記録から完全に消し去りたかったの。あるいは、若い頃に長年彼女の陰に隠され、不遇な摂政時代を過ごさせられたことへの、個人的な凄まじい怨恨があったのかもしれない。彼女のミイラもね、王族の正規の墓から引きずり出され、王家の谷の片隅にある、身元の分からない端役の女性用の小さな墓に、まるで打ち捨てられるようにして放置されていたのよ。2007年にDNA鑑定で本人のものだと証明されるまで、三千年間、誰も彼女がどこにいるか分からなかったんだから」
ネフェルは、執拗に削り取られた砂岩の壁の空白に、そっと自らの右手のひらを触れさせた。彼女の美しい褐色の横顔には、深い憂いと、そして背筋を凍らせるような、本物の恐怖の光が混ざり合っていた。
「耀。古代エジプトの宗教、そして神話においてね、人間の魂はいくつかの要素に分かれて構成されていると信じられていたわ。肉体を離れてあの世を旅する精神の『バー』、生命力の源である『カー』、そしてその人間の名前そのものである『レン』よ。エジプト人にとって、自分の名前がこの世の神殿や墓に刻まれ残り、後世の人間たちに呼ばれ続けることこそが、冥界で永遠の命を得るための『絶対条件』だったの。だから、名前を削り、姿を跡形もなく消し去るということは、単なる歴史の改ざんや政治的な嫌がらせじゃない。『あの世にいる、その人間の魂の存在そのものを、二度と復活できないように徹底的に抹殺する』という、古代エジプトにおいて最も残酷で、最も恐ろしい刑罰だったのよ」
「魂の……抹殺……」
「そうよ。トトメス三世は、彼女をこの世からも、あの世からも完全に消し去ろうとした。……でもね、それほどの強い怨念を伴って執行された呪いが、数千年の時を経て、今この土地にどういう影響を及ぼしているか……」
ネフェルがそこまで言った、まさにその瞬間だった。
キィィィィィィィィン!!
突如として、彼女のポケットの中から、鼓膜を鋭く突き刺すような不快な高音が放たれた。ネフェルが慌てて取り出したタブレットの液晶画面は、警告音を鳴らす暇もなく全体が真っ赤なエラー表示で埋め尽くされ、次の瞬間、パチンと音を立てて完全にブラックアウトした。
「キャパシティオーバー!? 嘘、予備まで一瞬で焼き切られたっていうの!?」
ゴワァァァァァァァン……!
地鳴りではない。けれど、この第三テラスの至聖所の奥、ハトシェプスト女王の姿が削り取られた、あの無数の「空白の壁面」の奥底から、目に見えない強烈な『熱の津波』が、ドッと俺たちの頭上へと押し寄せてくるのが分かった。
周囲の一般の観光客たちは、「うわ、急に風が変わったな」「なんだか、急に猛烈に暑くなってこないか?」と、互いに顔を見合わせて日傘の位置を直す程度だ。彼らには、この熱の本質が見えていない。
しかし、俺とネフェルには明確に分かった。
削り取られた、名前を消された者たちの、数千年間行き場をなくして封じ込められていた強大なエネルギー、それが一斉にこの西岸の土地で目覚めようとしているのだ。
「っ、が、あぁっ!」
突然、俺の左胸の奥に、焼けつくような激痛が走った。
痛みの光源は、服の内側にある祖父の形見のメダリオンだ。ラピスラズリの青い石が、周囲の強烈な太陽光の反射などでは絶対に説明のつかない、禍々しいほどの鮮やかな青い光をバチバチと撒き散らしながら、俺の皮膚を焼き焦がさんばかりに熱くなっていた。
それと同時に、俺の脳内に、直接、文字でも言葉でもない。誰かの、凄まじい怒りと、底知れない悲しみの感情の塊が、濁流のようにドクドクと流れ込んできた。
視界が真っ赤に染まる。息ができない。俺は思わず胸を押さえ、その場に激しく膝をついた。
「祭祀の資質!!」
「なんだよ、それ!!」
「耀!? しっかりしなさい! やっぱり、あなたのそのメダリオンが完全にリンクを始めてる……!」
ネフェルが慌てて俺の肩を抱きかかえ、その驚異的な腕力で強引に俺を立ち上がらせた。彼女の琥珀色の瞳は、完全に緊迫しきっている。
「まずいわ、何者かが意図的に、この土地の古代の遺跡を破壊して、かつて封印されたまつろわぬ神の封印を解こうとしているのよ! ここにいたら巻き込まれる、観光客の列に紛れて、今すぐここを脱出するわよ!」
「あ、ああっ……分かった……」
俺はネフェルに半分身体を支えられるようにして、よろめく足取りで第三テラスの階段を駆け下りた。
中央の大傾斜路を急ぎ足で下りていく間も、俺は背後に、あの垂直に切り立った巨大なデル・エル・バハリの断崖絶壁が、今にも意志を持って動き出し、俺たちの身体を跡形もなく押しつぶそうと迫ってくるような、圧倒的な巨大な意志の存在を、その背中に生々しく感じ続けていた。
ハトシェプスト女王葬祭殿の広大な駐車場へと戻ってきた頃には、俺の呼吸はなんとか正常に戻り、メダリオンの異常な熱も落ち着きを取り戻していた。
パジェロの前に到着すると、そこには、ネフェルから多額のチップを受け取って犬の見張りを引き受けていたはずの現地の守衛のおじさんが、真っ青な顔をしてガタガタと震えながら立っていた。
「あ、おい! ガイドの嬢ちゃん、やっと戻ったか! 頼むからあの車の中の化け物を早くどうにかしてくれ! 俺はもう御免だ!」
「どうしたの? 犬に何かあったの?」
ネフェルが鋭く問いかけると、守衛のおじさんは「急に、あの犬が狂ったように吠え始めて……」と言い残し、ネフェルが追加で差し出した紙幣をひったくるように受け取ると、脱兎の如き勢いで守衛室へと逃げ帰ってしまった。
「耀、行くわよ!」
俺とネフェルは急いでパジェロの裏座席のドアを開けた。
そこにいたサルーキの野良犬は、さっきまでの瀕死の弱々しさが嘘のように、四本の細い脚でしっかりとシートの上に立ち上がっていた。ネフェルの魔術によって完全に塞がった左後ろ脚を踏ん張り、窓ガラスに長い鼻先を激しく押し付けながら、外のある特定の方向をじっと見つめていた。
「グルルルルルルルル……!」
犬の喉の奥から、地響きのような低く、禍々しい威嚇の唸り声が漏れ出している。
その細い耳はピンと後ろに伏せられ、全身の毛を逆立てて、まるで目の前に見えない最悪の敵でも存在しているかのように、一点を凝視して吠え続けているのだ。
「ワンッ! バウッ! グルゥゥゥ……!」
「落ち着け、どうしたんだ……?」
俺が裏座席に乗り込み、犬の細い頭を優しく撫でると、犬は一瞬だけ俺の手のひらに甘えるように身を寄せた。けれど、すぐにまた窓の外を睨みつけ、激しい咆哮を再開した。その目が向いているのは、このハトシェプスト葬祭殿のさらに南の方向だった。
「犬がこれほどまでに警戒を解かない方向……。そして、さっきの第三テラスで発生した、熱量の余波が流れていった先……」
ネフェルは、すでに画面の焼き切れてしまったメインのタブレットを諦め、バッグの奥底から、アンティークな真鍮製の方位磁針のような、別の道具を取り出した。
彼女がその道具の文字盤に指先で触れると、本来なら磁北を指すはずのコンパスの針が、狂ったように回転を始め、やがて犬が吠え続けているのと同じ、正確な真南の方向をピタリと指して、激しく小刻みに震え出した。
「やっぱりね……繋がったわ。ハトシェプスト葬祭殿のさらに南。あそこには、古代エジプト新王国時代、第20王朝の最後の偉大な戦士ファラオが建てた、巨大な城郭神殿がある」
ネフェルはコンパスを強く握りしめ、琥珀色の瞳に不敵な、けれど最高に緊迫した光を宿して、その神殿の名を口にした。
「『メディネト・ハブ』よ」
「ラムセス三世……。さっきの、ハトシェプストの記憶を消したトトメス三世とは、また違う王様?」
「ええ。時代がさらに何百年も下ったあとの王様よ。でもね、彼の治世もまた、エジプトの歴史上、最も凄まじい理不尽な危機の連続だったの。海の民と呼ばれる謎の巨大侵略者集団との血みどろの防衛戦争、そして歴史上最初のファラオ暗殺陰謀事件。ラムセス三世はね、自分の寵愛していた側室と、その息子を王位に就けようとした宮廷の役人たちによって、夜中に寝室で喉を掻き切られて暗殺されたのよ。そして、その暗殺を実行した犯人たちの名前もまた……歴史の記録から徹底的に削られ、抹消されたわ。さっきのハトシェプストと同じものの核心が、あのメディネト・ハブには眠っているのよ。皮肉なものね。私たちのご先祖様が抹消したものが三千年も経ってまつろわぬ神の降臨という形で牙を剥くなんて」
「今なんて言った」
「なんでもないわ、気にしないで」
ネフェルはパジェロの運転席へと飛び乗り、イグニッションキーを激しく回した。
老朽化した三菱のパジェロが、爆発的なエンジン音を響かせて駆動を始める。
「耀! あなたのそのお人好しが、あの横穴で犬の命を救った。そしてその犬が、今、この土地の異常の核心へと私たちを案内しようとしているわ。……これが単なる偶然だと思う?」
「……思わない。じいさんが言っていた通り、俺は最初から導かれたんだと思う」
俺は助手席に深く腰掛け、シートベルトをきつく締めた。
服の内側で、ラピスラズリのメダリオンが、未だにドクドクと静かな鼓動を返し続けている。恐怖はない。ただ、この異常事態の渦中へと進み、すべての謎を解き明かさなければ、俺の止まったままの時間は二度と動き出さない。その確信だけが、俺の心を静かに満たしていた。
「行くわよ、耀! 命が惜しかったら、私の背中にしっかり掴まっておきなさい!」
ネフェルがアクセルペダルを床まで踏み込む。
パジェロは猛烈な砂煙を上げながら、ファラオたちの怨念と祈りが蠢く、死者の街のさらなる深部、メディネト・ハブへと向かって、狂ったように発進した。
バーとかカーとかは遊戯王で学びましたね。
ではまた
海外行ったことある?
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ある
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ない