アモン・ラーとイシスの剣 作:コシャリは食べに行った
ルクソールの西岸、王家の谷を背にして南下を続けるパジェロの窓から見える景色は、時間の奔流から切り離されたかのような荒涼とした大地だった。ナイル川の潤いから遠ざかるほどに、空気は乾燥し、肌を刺すような強い日差しが降り注ぐ。だが、俺、来井耀の胸中で、ラピスラズリのメダリオンが刻む鼓動だけは、周囲の熱気とは裏腹に、氷のように冷たく、そして激しく鼓動を打っていた。
それは心臓の鼓動ではない。もっと巨大なものが、地底の深淵で寝返りを打ったかのような予兆だ。バックミラーに映る裏座席のサルーキは、すでに獲物を追う狩猟犬の表情ではない。何か圧倒的な捕食者に面した者の本能的な恐怖に支配され、低い唸り声を止めていた。
「着いたわよ、耀」
ネフェルが短く告げ、車を止めた。
視界の先に現れたのは、観光地というよりも、まるで荒野に突き刺さった巨大な城砦だった。高さ十数メートルの泥レンガで築かれた重厚な二重城壁。その中央に聳え立つのは、古代の要塞を思わせる威容『メディネト・ハブ』。新王国時代第20王朝のファラオ、ラムセス三世が築いた、現存する神殿の中で最も壮大な葬祭殿だ。
「……ここ、本当に葬祭殿なのか? まるでお城か、軍の駐屯地みたいだ」
俺の問いに、ネフェルはエンジンを切り、車外へ出た。強い陽光が降り注いでいるはずなのに、神殿の影に入った瞬間、温度が数度下がったかのような錯覚に襲われる。周囲を見渡すが、観光客の姿は皆無だ。チケット売り場の窓口で座っているはずの監視員も、まるで糸が切れた人形のように机に突っ伏し、深い眠りについている。風の音すらしない。この神殿は降臨した神によって物理的な時間が切り離されているのだ。
「鋭いわね、耀。この神殿の最も特異な点はそこなのよ。他の神殿と違って、ここは戦うための神殿なの」
ネフェルはミグドルの門を指さした。そこには、異国の衣装をまとった屈強な兵士たちと、それを蹴散らすエジプト軍の姿が鮮烈なレリーフとして彫り込まれている。
「ラムセス三世が治めた時代はね、古代エジプトがかつてないほどの存亡の危機に瀕していた時期なの。地中海全域を支配していた青銅器文明の強国たちが、ある日突然、謎の集団に滅ぼされた。通称『海の民』よ」
彼女の指先が、レリーフの中の戦場をなぞる。
「ヒッタイトを滅ぼし、レバントの都市を焼き払い、最後のエジプトにまで怒涛のように押し寄せてきた海洋民族の連合体。ラムセス三世は、国を挙げての防衛戦を行い、辛うじてエジプトを守り抜いたわ。だから、この神殿は神に祈りを捧げる場所でありながら、同時に戦いのための『要塞』として設計されたの。耀、この二重の城壁は、物理的な防御壁だったのよ。もっとも災厄には封印という手段しか取れなかったみたいだけど」
「災厄……?」
俺の問いかけに、ネフェルは少しだけ表情を曇らせた。彼女が持っている真鍮製の方位磁針は、針が円を描いて回転し続け、方位を喪失している。神が、正常な物理法則を書き換えてしまっている証拠だ。
ミグドルを通り抜け、第一中庭へと足を踏み入れる。そこには、かつての戦勝を誇るラムセス三世の姿が、巨大な柱に刻まれていた。しかし、俺の目にはそのレリーフが、歓喜の凱旋ではなく、どこか狂気を孕んだ記録のように見えた。
「……なぁ、ネフェル。この壁画、やけに生々しくないか?」
俺が指差した先には、打ち取られた敵の数を数える書記官たちが描かれていた。彼らは、敵兵の切断された手首や、ある特定の部位を山のように積み上げ、それを冷酷にカウントしている。数千年の時を超えて、そこから血の匂いが立ち上ってくるような錯覚があった。
「それは『海の民』への報復と戦果の証明よ。でもね、耀。この神殿の美しさの裏には、エジプト王宮史上、最もドロドロとした血の歴史が流れているわ」
ネフェルは第二中庭へと歩を進めながら、声を潜めて語り始めた。
「ラムセス三世は、外部からの侵略には打ち勝ったわ。でも、さっき話したように内側からの腐敗には勝てなかった。彼の晩年、王宮の奥深くであるハーレムで、恐ろしい陰謀が起きたの。『ハーレム陰謀事件』よ。側室の一人、ティイは、自分の息子である王子ペンタウアーを王位に就けるため、王宮の医師や呪術師、護衛官たちを抱き込み、国王暗殺を企てたのよ」
俺たちは、今は崩れ落ちて天井のない大列柱室を抜けた。かつては荘厳な空間だったろう場所が、今は無数の巨大な柱の残骸が並ぶ墓場のように見えた。
「最近のCTスキャン調査でね、ラムセス三世のミイラの喉には、幅7センチにも及ぶ巨大な切り傷が発見されたわ。骨に達するほどの深さ。彼は、寝室で背後から不意を突かれ、喉を完全に掻き切られて即死した。犯人たちは捕らえられ、厳重な裁判にかけられたけれど、その結末はあまりに悲惨だった。捕らえられた王子ペンタウアーは、毒を飲んで自害を命じられた。そして彼の遺体は……」
ネフェルは至聖所の暗闇を見つめた。
「エジプトにおいて、死者はミイラとして保存され、来世での復活を信じられる。でもペンタウアーには、それが許されなかった。内臓を摘出されることもなく、防腐処理もされず、エジプトで『最も不浄な動物』とされたヤギの皮に全身を厳重に包まれて埋葬されたの。そして、彼の名前はすべての公的記録から削り取られ、『名無しの男E』という番号で呼ばれることになった」
そのミイラは発見されたとき、口を大きく開けて絶叫しているかのような形相をしていたという。名前を奪われ、復活の道を閉ざされ、三千年もの間、暗闇の中で叫び続けた王子の怨念。それがこの神殿の、石の一つ一つに染み付いているのだ。
俺たちは、列柱室の奥、かつて最高神アモン・ラーが祀られていた至聖所の入り口に辿り着いた。
入り口に立った瞬間、俺は息を呑んだ。空気の密度が明らかに違う。まるで灼熱の砂漠にいるかのように、重圧が全身にのしかかる。漆黒の淀みが空間を塗りつぶしていた。
「耀、よく聞きなさい。ここには、かつてエジプトに降臨し、すべてを焼き尽くそうとした『神』が封印されている。……名前を奪われ、記憶を抹消されることで封印された『まつろわぬ神』よ」
ネフェルが懐から銀色のタブレットを取り出した瞬間、至聖所の奥から轟音が響いた。屋根が吹き飛んだわけではない。空間そのものが反転し、物理的な太陽の位置とは無関係に、真昼の太陽が狂ったようにどす黒く変色し、その中心から闇が溢れ出した。
これが、裏の歴史に名を刻まれた。まつろわぬ神の理不尽だ。
「本来、アモン・ラーはエジプトの守護神であり、王権の源であるはずだった。でもね、神話というものは人間が語ることで維持されるの。語り継がれ、祈られ、定義されることで、神は『神』でいられる。でも、この神は違う。古代の王たちが神としての『名前』を剥奪して封印したのよ」
ネフェルの声が震えている。タブレットが、物理的にあり得ない数値を叩き出し、火花を散らしてショートした。
「歴史から名前を奪われた神は、信仰の対象ではなく、零落した神霊になる。三千年間、誰も祈らず、誰も名前を呼ばず、ただ封印され続けた神、それが今、このメディネト・ハブで、封印から顕現しようとしている……!」
その時、至聖所の暗闇が揺らぎ始めた。
石造りの壁面から、数千年前の戦場の幻影が溶け出してくる。焼け焦げた砂の匂い。海の民の亡霊兵士たちが、暗闇の中から次々と現れ、俺たちを取り囲む。
神の気配。
それは、慈愛などではない。ただ、すべてを等しく焼き尽くす、太陽の直下のような絶対的な熱量。
神殿の奥から、その存在が姿を現した。
巨大なハヤブサの頭を持つ、人型の光の塊。だが、その輝きは生命を育む日光ではない。触れるものすべてをプラズマへと還元する、絶対的な破壊そのものだ。
アモン・ラー。
神が咆哮を上げた瞬間、石造りの神殿が戦場へと変貌する。
俺は思わず後ずさった。サルーキが恐怖のあまり震えもせず、ただただその場に伏せ、微かな呻き声を上げている。
神の眼が、俺を見下ろした。
その瞳に宿っていたのは、慈悲でもなければ、王としての威厳でもない。ただ、三千年の屈辱と、名前を奪われたことへの、底知れぬ狂気。そして今この瞬間狂った神として再顕現したことによる憎悪。
「お前か」
声ではない。脳内に直接響く言葉そのもののような思念。
「王の血を引く者よ、あるいは名もなき死者の末裔か。三千年の時を超えて、我を呼び覚ますのは誰か」
俺の胸元のメダリオンが、熱を帯びる。かつてじいさんが遺した神具が敵の存在を認識し、呼応しているのだ。
敵対者を討ち果たせと。
アモン・ラーは、かつての人間を愛し、守護した王ではない。歴史の闇に封じ込められ、封印されたことで、その精神は完全に反転し、すべてを焼き払う災害そのものへと変貌していたのだ。
神の腕が、ゆっくりと動く。その指先から零れ落ちる火の粉が、石畳を溶かし、巨大な穴を開ける。戦闘などではない。彼がそこに立っているだけで、この空間の理が、物理的に破壊されていく。
ネフェルが血を吐きながら防護壁を維持しようと踏ん張るが、彼女の身体はすでに限界を超えて悲鳴を上げている。
「耀……逃げて!」
ネフェルの叫びが、遠くで聞こえる。
だが、逃げられない。神の瞳は、俺を捉えて離さない。
俺は、立ちすくむことしかできなかった。
これが、歴史の深淵に眠る神の姿だ。俺たちは、三千年の歴史が紡いできた最大の禁忌に、今、正面から邂逅してしまったのだ。
アモン・ラーが再び咆哮を上げる。
至聖所の空気が弾け飛び、俺の意識が白い光の中に飲み込まれていく。
戦いの序曲が、今、このメディネト・ハブで鳴り響こうとしていた。
海外行ったことある?
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