「迅に話をしてやってくれないか」
「嫌だよ」
「即答なんだな」
「嵐山から言えばいい」
「もう言った。ダメ押しで招木からも言って欲しいんだ」
「私は迅に来て欲しいとは思わない」
「高校の修学旅行なんて人生で一度きりなんだぞ」
「だからだよ」
そこまで言い合えば招木の意志が固いとわかり、嵐山もそれ以上頼むことはしなかった。
二人は話をしながら適度なテンポで走っている。嵐山家の愛犬・コロの散歩中なのだ。リードに繋がれたコロは二人の間をニコニコ走っている。
夕方はすっかり薄暗くなる季節に突入していて、二人分の軽快な足運びとチャカチャカした犬の足跡が、街頭に照らされた地面をたびたび揺らした。
「京都だよ、京都。すごく楽しみにしているんだ。迅がいると気分が下がる。私から誘うことはないかな」
釘を刺すように、短く息を吐く合間で招木が言った。
近々三門市立第一高等学校の修学旅行があり、高校二年生の彼らは京都に行くことが決定している。
学業とボーダーの二足の草鞋で忙しい彼らだが、上層部の粋な計らいによって数日間三門市を離れられるようになっていた。
嵐山隊は特に隊長の嵐山と隊員の柿崎がいるので、二人がいないとなれば隊としての活動をストップする。お土産買ってきてくださいねとの要望が佐鳥・時枝から来ているので、嵐山も柿崎もいっぱい買ってあげようと思う。
そんな彼らに上層部から相談が降りた。
曰く、迅は修学旅行に行かず三門市に残る予定なのだと。
『話を聞く限りその期間に要警戒レベルの襲撃はないそうなんだが、迅がどうしても、と』
『わかりました。俺から話してみます』
『お願いするよ。若人の青春を取り上げる真似はしたくないからな』
忍田本部長が苦労の見える目で言った。
未来の見える迅は計り知れないものを背負っている。その重圧を知ることはできないが、強制的に息抜きに連れていかねばパンクしてしまうだろう。
修学旅行なんてとびきりのビッグイベントなのだから、と嵐山も柿崎も迅と話した。
『いーよおれは。みんなで楽しんでおいで』
しかし迅はなかなか首を縦に振らない。三門市にいなければならない理由はないが、性分として離れ難いのだろう。それは理解できる。けれど心配だ。
そこで嵐山は招木に加勢をお願いしたが、予想通り断られたというわけだった。
「行けないのなら仕方がない。迅には事情があるんだろうね」
「100%行けないわけじゃないと思うんだよ」
「行けないんじゃなくて行きたくないだけなら、やっぱり私から言うことはないかな」
贅沢者だ、と招木は言った。
それに少し勘づくものがあって、嵐山はランニングのペースを若干落とした。賢いコロもそれに従い、招木だけが先を走る形になる。
「私、修学旅行に行ったことがないの」
「!」
「ずっと行きたかったけど行けなかった。迅が同じなら話をするよ。でもそうじゃないみたいだから、断る」
「……そうか。無理を言ってごめんな」
「うん」
嵐山は自分の鼓動がドクドク速く鳴るのを自覚した。走っているからではない。この先に踏み込みたいと思ったからだ。
招木の過去は、彼女から断片的にもたらされる情報をもとに考えるだけだった。安易に尋ねていい領域ではないし、禁忌に触れるような気持ちだったから。
けれど今回の彼女の言葉は、今までになく核心に近い。触れたいと強く思った。
恐れずぶつかり、知りたいと伝える大事さを、嵐山はもう知っている。
「招木は、どうして行けなかったんだ?」
ついに嵐山は踏み込んだ。すると招木が走る速度を落として並走する。答えはすぐに教えられた。
「村から出ることを禁止されていたから」
「……禁止?」
「そう。神の子だから。村の守り神だから、よその土地に出てはならないと。変な話だよね」
「……!」
神の子。そのワードは忘れたことがない。
第一次侵攻後に招木が転入してきた時の自己紹介だ。
やはり彼女はサイドエフェクトにより宗教的な虐待を受けていたのだ。
「今思えばかなり閉鎖的な村だったんだよ。ああ、いや。私がいたからそうなっていったのかな。とにかく余所者を受け付けない排他的な村に閉じ込められていて、とても息苦しかった」
嵐山が質問したのは「なぜ修学旅行に行けなかったのか?」だ。
しかし招木は彼が知りたかった奥底の過去話をしている。
そのズレが頭に引っかかった。けれど今は招木の話が気になって、嵐山は指摘を後回しにする。
「あるとき村は危機に陥って、神託を受けなければならなくなった。禁止事項を撤回するほどの非常事態だった。そして御地を私に選ばせた。それが三門市」
「……つまり、おまえが侵攻の被害を受けたのは、たまたまだったのか?」
慎重に言葉を選んだつもりだったが、招木は足を止めた。汗を拭って、息を整えて一言呟く。
「ううん。必然だったよ」
決定的だった。嵐山はごくりと唾を飲む。「少し歩こう」と招木が言うのでそれにならう。コロは相変わらず何も吠えずについてきた。
「そしてあの日近界民に家族を殺された。私がそうなって欲しいと願ったから」
「願った、って」
「このまま死んでしまえばいいのにって」
突然の告白に、鉛のような重みが胃の中にズンと落ちてくる。
「最後まであの人たちは私を神の子扱いした」
「……招木」
「名前を呼んでもらった記憶はない」
「招木、」
「本物の家族の温かい記憶とか思い出とか、そういうのには無縁だった」
「もういいから」
「だから死んで当然だと思った」
「わかったから!」
嵐山が突然大きな声を出したので、コロがビックリしてリードを引っ張った。嵐山は俯いている。ギリと歯噛みする音が聞こえてくるようだった。
彼の予想通りだった。招木は家族の死を願った。サイドエフェクトの関与は疑いようがない。過程がどうあれ、結果を導くのが彼女の力だ。
そうなると疑いは次の段階に進む。すなわち、嵐山が大事にしているものにとって、招木は災厄をもたらす存在か否か。
答えはとっくにわかっている。
「……俺は君を罰したいと思っていない」
招木の言葉は懺悔みたいだった。罪の告白をして赦しを求めるような、そんな感じがした。
嵐山にとって家族とは守るべき存在で帰る居場所だ。温かくて、愛情深くて、自分とは切り離せない尊いもの。
しかし招木にとっては自由を奪うものであり、どこまでも冷たくて他人行儀で恐怖の対象だったのだ。
だから殺して当然とは思わないし、かといって招木に殺人の罪を説こうとも思えない。
ただ張り裂けそうな胸の痛みが、彼女の受けた苦痛のわずか一部に過ぎないことを自覚するだけだった。
力なくその場にこぼれる声に、しかし招木は首を傾げる。
「私が敵か味方か判断したかったんじゃないの」
そう言われて頭の中が真っ白になった。ジワジワと首を絞められるような切迫感が嵐山を襲う。
バレていたことへの焦り、疑っていたことの罪悪感。それを直接的に突きつけられた動揺。すべてが彼を不安にさせる。
「私が君に謝りに行った時。つまり私たちが友達になった時、君は私を疑っていたね」
「! そ、れは」
「いいんだよ。その危機感は正しいものだと思う。当時の私は気づかなかったし、思い返せば様子がおかしかったなと思って聞いてみただけ」
当たりだったね、と淡々と言われて嵐山は冷静さに欠けた自分に気づく。
以前の招木では考えもしなかったことだ。しかし色んな人との交流をして人の顔色を窺うことを覚えた彼女は、過去のことも振り返るようになっていた。
今嵐山を追い詰めている原因は、彼らが招木に授けた対人能力だ。
「だからもう君の目的は果たされたはずだよ」
ここにきて、嵐山はどうして招木が過去を話してくれたのか理解した。
つまり彼女は自分との関係を終わらせに来たのだ。
始まりが嵐山の疑念だったと確信を得て、その疑念が正しかったことを聞かれてもいないのに伝えた。その結果を彼に委ねている……。
いや、これは。
「違う」
力強い言葉に、招木がパッと顔を上げた。
「確かにあの時疑う気持ちがあったのも事実だ。でも、それだけじゃない。……それだけじゃ、ないんだよ」
『友達になる?』
招木にそう言われて握手を求められた時、嵐山は一瞬迷ってから、笑顔で受け入れた。あの笑顔は嘘ではなかったのだ。
「すまなかった。君の気持ちを軽んじていた。……今は、心の底から、友達だと思っている」
「……」
「もう一度俺にチャンスをくれないか?」
「チャンスなんかない」
「……悪かっ、」
「私は最初から君とは友達だと思っている。騙されていたわけじゃない。君が謝る必要はない。……ただ思っただけなの。ちゃんとした友達になりたいなんて」
「!」
招木は嵐山に結果を委ねたわけではなかった。彼女自身が選んだ答えは嵐山と一致していた。
疑惑や不安をとっぱらった、真の友情を築きたい。
招木の願いはとてもシンプルで青くて、くすぐったいほど純粋だった。その時嵐山は「招木に愛情を与えたい」と強く思った。どうしてかはわからないが、とにかく招木を愛で満たしたいと感じたのだ。
「俺もだよ。改めて、俺と友達になってくれるか?」
「うん」
「なんだか気恥ずかしいな」
「そう? 君はそう思わないと思っていたけど」
招木はまったく動揺していない。しかし嵐山は少しだけ面映いというか、道端の石ころを何の意味もなく蹴ってみたいというか、そういう気持ちにさせられていた。
自分のことを周りがどう評価しているかは知っている。爽やか好青年だとかまっすぐ純粋だとか、冗談と本気が入り混じった見立てに不満はない。
でも、招木を見ていると自分はかなり俗物なんじゃないかと思う時がある。
「線引きを超えたからだ」
ぽつりと言って嵐山は招木の目を見つめる。彼女もまっすぐに見つめ返したが、やがて困ったように眉を下げて目を逸らした。「見過ぎ」と小さく咎める声を漏らす。
その一連の言動が嵐山のツボを妙に刺激したらしい。にやける口元を隠すように手で覆って、もう片方の手を小さく上げた。
「なに?」
「すまない。急にハグをしたくなった」
「ハグ?」
「してもいいか?」
「? うん」
許可をもらったので嵐山は招木をハグした。さっぱりとした抱擁である。あ、これがハグかと招木は理解して、すぐに離れた体温をちょっぴり寂しく思った。
加古にしてもらった時の記憶が蘇る。二宮に蹂躙された模擬戦の後のことだ。
「もういいの? もっと長くするものだと思うけど」
「その知識はどこから?」
「前に加古にされたことがある」
「ああ、そういう。同性と男女だと意味合いが変わるだろ」
「友達なのに?」
「物足りないならコロを抱きしめてやってくれ」
「よしよし」
招木はコロを存分にハグした。コロも尻尾をブンブン振って彼女の顔を舐めている。随分懐いたものだ。どっちとも。
嵐山が微笑ましい気持ちになりながら友達と愛犬が戯れる光景を眺めていると、招木は犬の背中を撫でながら口を開いた。
「村の話は終わった話だから、気にしないでね」
「……ああ」
「どうして話してしまったんだろう。本当は言うつもりじゃなかったんだよ。君が私のことを信頼してくれているのは、とっくにわかっていたのに」
言わなければよかったと後悔しているらしい。しかしアレはだいぶぼかした言い方だったと嵐山は認識している。
一番悍ましく彼女の過去に深く染みついた恐怖は微塵も漏れていなかった。招木の口調は揺らぎがなくて、一言一言が乾いているから。
嵐山が心を痛めるような結果にはならなかった。だから彼女が負担に感じるなら軽減してあげたいと思い。
「誰かに聞いて欲しかったんじゃないのか?」
そう言った。招木は少し目を丸くして、中途半端に撫でる手を完全に止める。
やや間を空けて顔をコロの方に向けた。
「そうだね。私は嵐山に聞いてほしかったんだ」
納得したように無意識に音を漏らす。最後に頭をワシワシ撫でると、招木が立ち上がって嵐山を横目に見た。
「自覚したら、もっと話したくなった」
「いくらでも聞くよ」
「本当?」
「うん」
「聞いてて気分がいいものではないよ」
「君の痛みを知りたいんだ」
嵐山が優しく笑えば、招木も表情を和らげる。やがて犬の散歩を再開した。帰り道を穏やかに辿っていく。
それからぽつりぽつりと昔話が語られた。やはり直接的な表現はなく、決定的な言葉を彼女は口にしなかった。
しかし嵐山は賢い男だったので、一人の女の子が歪んだ宗教観に巻き込まれ、陰惨で過激な村ぐるみの信仰対象にされていたのだと悟った。
近界民に侵攻されるより前から、ガリガリだった体つき。深い絶望を孕んだ眼差し。欠落した対人能力。生身では満足に走れなかった体。
その全てが繋がっていく。
「初めて防衛任務を終えた時、嵐山が気にしていた理由もわかっているよ。私がトリオン兵側に傾倒しないか心配だったんだよね」
「ああ。もうそんな必要はないとわかっているけどな」
「小南や木崎も不安にさせた。私は幸運体質を制御できないから、関心を向けるものに注意しないといけないね」
サラッと言ったが、看過できない重みがあった。
招木は自分が心寄せるものを分別する段階に突入している。善悪を勘定し、周囲の人間に悪影響が出ないか判断する必要があると考えるようになっていた。
つまり、彼女がボーダーでの居場所を大事に思っていることは疑いようもないので、自動的に嵐山たちにとって幸福な結果を導くようになる。
だけどそれは、招木の思考を支配していることに繋がるんじゃないかと思った。
「俺たちのことは気にしなくていい」
嵐山が咄嗟に言った。
このままいけば、招木は誰に言われずともボーダーの味方として幸運体質を発揮する。
しかしそれは、村で"神の子"として奉られていた過去と全く同じじゃないかと憂いたのだ。
村のために、家族のために、自分の意志がわからなくなるまで追い詰められた。その結果が『このまま死んでしまえばいいのに』だ。
「招木はもう自由なんだ。誰かに縛られることはない。そんな今の生活が大好きなんだろう?」
招木を心から信じているからこその発言だった。
今の彼女はまっすぐにボーダーの仲間を大切に思っているから、良心に委ねて良いのだと考えた。すぐに隣から「うん」と肯定する声が届く。
「私ね、今が最高に幸せなの。初めて食べた棒アイスもハンバーガーも焼肉もラーメンもまた食べたいと思うし、初めて行ったゲーセンもカラオケも何だって嬉しい。誰かと遊びに行くことができるなんて、思ってもみなかったから」
「うん」
「学校でも友達ができた。誰も私を特別扱いしないし腫れ物扱いしない。行きたかった修学旅行にも行けるし、課外活動もテストも運動も、誰にも咎められることなくやれる。思いっきり楽しめる」
「うん、」
「ボーダーでもやりたいことがたくさんある。もっと強くなりたいし、部隊にも所属したい。正隊員にはなれたけど足りないことばかりだから、もっと特訓して見返したい。お世話になった人に恩返しがしたい」
「そうだな……」
「嵐山、どうして泣きそうなの?」
「泣かないよ。泣かない……」
嘘である。全然泣きそうだった。
嵐山は村から解放されたばかりの頃の招木を知っている。誰も寄せ付けず人生に絶望しきった目つきを覚えている。強い拒絶も無関心も、嵐山自身に向けられていたから。
だから今、招木がこれだけ前を向いて生きていることに感激したのだ。
信じられる仲間に囲まれてすくすくと成長する彼女に「本当に良かったね」という気持ちになっていた。
「これからもいっぱい思い出作ろうな……」
「? うん。まずは修学旅行だね」
顔をシワシワにする嵐山に、招木は不思議そうな目を向けた。
───そんな時である。
コロがワンと吠えた。随分と攻撃的な吠え方だ。
「お、どうしたコロ」
嵐山が優しく声をかける。コロはよく躾られていて賢く穏やかな犬なので、人や他の犬に向かって吠えることは滅多にない。
だからどうしたんだろうと思って、嵐山は膝をついて愛犬の様子を確認した。
招木も立ち止まる。ひゅ、と息を呑んだのがわかって、彼女の異変に気づいた嵐山が顔を上げるより早く。
「あ、あ、あ、」
嗄れた声が耳に届いた。パッとそちらを見れば、街頭が照らす光から少し離れた場所に背中を丸めた老人が立っている。
夕闇に紛れる濁った目が、招木を見た瞬間にぎらりと光った。
「神の子様、」
老人が続けて言った。一瞬で全身の血の気が引くような、湿った執着を煮詰めた声色だった。
青白い蛍光灯の光に当てられる二人と一匹は固まっている。嵐山は頭で「村の人間だ、招木を取り返しに来たんだ」と理解したが、指一本動かせなかった。
招木の話を聞いていたから、あの醜悪な真似を平気でやれる人間が目の前にいることに動揺して、恐怖したのだ。
話の中だけにいた邪悪な登場人物が息をして立っている。その異常性に身体が硬直した。
「神の子様、神の子様」
「ッ!」
老人は招木しか目に入っていないようで、ふらふらと歩み寄ると徐に跪いた。汚れたアスファルトに額を擦り付けて、低くボソボソと「神の子様」と繰り返す。
異様な光景だった。生理的嫌悪を覚えるような、うっかり見てはいけないものを見てしまったような、手遅れだと自覚するような、そんな感覚を嵐山は感じた。
しかし。
「大丈夫だ」
勇気を振り絞った嵐山が招木を庇う姿勢をとった。
彼女の体を隠すように老人の方へと一歩踏み出す。こうすれば招木が視線に晒されることもない。
守らなければ、と真っ先に思った。
「あの、僕たちはボーダー隊員です。何か御用でしたら、彼女の代わりに僕が承ります」
すると当然老人の目が嵐山へと向く。彼の心臓がドッと跳ねた。今までに向けられたことのない、骨まで焼くような憎悪だった。
老人は勢いよく立ち上がると、ワッ、とガラスを割るような大声が嵐山の鼓膜を叩く。
「余所者がッ」
「っ、はい?」
そして理解に苦しむ言葉を投げつけられた。
「───! ──、───ッ、───!!」
とにかく落雷のような声量で怒鳴られ続けた。いや、怒声というより暴力だ。反射的に背筋がビクッとなって、逃げることも言い返すこともできない、思考を奪われるほどの威圧。
怒声に反応してコロが牙を剥いて低く唸り、けたたましく吠える。老人の怒号と犬の吠え声が合わさって、脳が揺さぶられるようだった。
嵐山が生まれて一度も聞いたことのない罵詈雑言を捲し立てられている。
本能を竦ませる勢いに呑まれ、言葉を失い立ち尽くしていた。
「!」
すると両耳を誰かに塞がれた。招木だ。招木がいつの間にか嵐山の前に立っていて、彼の両耳を手のひらで優しく包み込んでいる。
目を合わせるように顔を下に向けさせられた。彼女の瞳とかち合う。……凪いでいた。招木はいつもと変わらない表情だった。
嵐山はその事実に深く傷つく。
「なんで、」
弱々しい声が己の中にだけ響いた。
こんな、こんなにも酷い罵声を浴びて、何とも思わないくらい慣れてしまったのか。おまえが何をしたというんだ。サイドエフェクトを持ってこの世に生まれただけなのに。
じわ、と片目に涙が浮かぶ。招木がそれに気づいて耳を塞いだまま親指で優しく拭った。
目尻から雫が溢れる前だった。泣いてはいない。けれど嵐山の涙を招木は確かに指先で払った。彼はそう感じた。
「───、」
招木が嵐山から顔を背ける。恐らく老人に向かって何かを言っている。数回のやりとりを挟んだ後、やっと叫び声は止んだ。コロも唸り声をだんだん小さくしていく。
両耳を解放された嵐山だったが、さっきまでの怒鳴り声が頭にガンガン響いている。背筋が強張り、呼吸が浅くなっていた。
「……山、嵐山」
「! ぁ、招木、無事か、」
「嵐山。私は大丈夫。さっきは庇ってくれてありがとう。嬉しかった」
がく、と膝を折る嵐山の目線に合わせ、招木もしゃがみ込んだ。二人の間にコロが割って入って、不安そうな主人らを心配している。「コロもありがとう、落ち着いて、大丈夫大丈夫」と招木がなだめていた。
嵐山も反射的にコロを宥めすかしながら、混乱した頭で必死に考える。しかし空転してばかりで形にならなかった。
「伝言をお願いしてもいい?」
「えっ? あぁ、うん、わかった、」
「よかった。じゃあ迅に」
「じ、迅に?」
「うん。修学旅行、私の代わりに行っておいてって。写真でも撮って、後で見せてねって内容」
コロを撫でる嵐山の手の上に指を重ねて「お願いね」と招木が言った。
伝言を頼んだ彼女は老人の方へと歩いていく。止めなければと思うのに嵐山の体は動かない。
「あ、あともう一つ」
招木が不意に立ち止まって振り返った。
「君、案外普通の男の子だったんだね」
「っ、」
招木に他意はない。その言葉は額面通り「嵐山という人間は普通である」という意味だ。
入隊時のインタビューでは大人もたじろぐ発言を自然と言えたのに、敵意とは違う、人間の濁った激情を受け流すことはできなかった。あんなに悪意に満ちた人に攻撃されたのは初めてみたいだから、仕方がないと招木は考えている。
そう思ったから、そう言っただけだった。
よせばいいのに、招木はコントロールができなかった。口をついて出た言葉だったから、取り消すことは不可能である。
「……」
嵐山は招木の発言を別の意味で受け取った。はっきりとショックを受けた自分に驚いて、全身の力が抜けてしまう。
二人が立ち去り、しばらくして気づけば愛犬が自分の頬を舐めていた。我に返って人懐っこい瞳を見ると、大喜びして尻尾を振り回す。
「あ、まずい。追いかけて、いや、先に連絡を、」
酷く動揺して思考がまとまらない。震えの止まらない手で真っ先に招木に電話をかけた。彼女は携帯を持っているはずだから。
祈るような気持ちだった。しかし嵐山の願いも虚しく、その日招木が電話に出ることはなかった。
─────────
それから上層部に掛け合ったりと嵐山は自分にできることを全てやった。
しかし招木が学校やボーダーに現れることはなく、結局修学旅行の日はやってきた。
移動のための大型観光バスに乗り込む直前、嵐山は周囲に視線を巡らす。
自分と柿崎は予定通り出席している。
招木はいない。あの日から欠席続きだ。
そしてあれだけ拒否していた迅は、招木の帰省と言伝を知らされるとピタッと大人しくなり、沈んだ顔で待機列に紛れていた。
招木が迅の暗躍によって「ボーダーを大切に思う方面での幸運体質ルート」に進まされている一方で、嵐山は「自分の意志で大切にしたいと思う方面での幸運体質ルート」を提言しています。
結果は同じですが過程が全然違いますね。幸運体質と一緒です。
ここからどんどん嵐山が人間離れ(内面)していく予定。がんばれ嵐山負けるな嵐山!