あっ幸運体質だ、ラッキー!   作:睡眠人間

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三門市周辺の地図と来馬さんのご実家を捏造しています




卒業

 あと少し。あと少し。そう思ってから何度戦っただろう。

 緊張で心臓の鼓動が速まるのを感じる、耳の裏がうるさい。指先が少しだけ震えている。視線がゆらゆら揺れていて落ち着きを欠いているのを自覚する。

 ああ、そうだ。私はこの勝負に勝ちたくて気持ちが急いているんだ。であれば冷静でなければならない。焦っていいことは一つもない。

 目の前の情報を一片も余さず拾い上げろ。対戦相手の癖や思考を見透かせ。運は私を味方する。それなら運以外の要素もこちらに引き込まなければ。思考をフル回転させてキューブを散らし、弾を射出する。

 勝ちたい。勝ちたい。

 あと少しなんだ。あと少しで───

 

「勝った」

 

 招木がぽつりと言った瞬間、勝負は終わり、自動的に肉体が個室に転移する。呆然と壁を見ていた招木はすぐにハッとして手の甲をかざし、ポイントを確認した。

 ───8001。そこにはそう刻まれていた。

 8000点をオーバーしている。マスタークラス到達の紛れもない証拠だ。

 その事実を認識した瞬間、招木は個室からすぐさま抜け出していた。

 対戦ブースは今日も多くの訓練生たちで賑わっている。その中に目を惹く赤を見つけた。

 嵐山である。彼も招木に気づき挨拶するように笑顔で片手を上げた。

 

「!」

 

 その顔が少し驚きに変わる。招木は嵐山と目が合った瞬間、手すりに手をかけると3階の高さから飛び降りて、

 

「嵐山!」

 

 と彼の名前を大声で呼んだのだ。嵐山の記憶の中で、彼が招木に大声で呼ばれたのはこれが初めてのことである。というか招木が大きな声を出した記憶は思い出せないくらい珍しいことだった。

 大声のせいで注目を集める招木は、しかしそれらを無視して嵐山に向かってダッシュすると、勢いよく抱きついた。

 嵐山はこれに驚いたが、動きから予想はついたのでたたらを踏むことなく受け止めた。招木の背中に腕を回して質問する。

 

「招木、どうしたんだ? 珍しい、」

「8001!」

 

 招木は嵐山の声を遮って数字を言った。それだけで嵐山はピンときて、「ついにやったな!」と破顔して返した。

 2シーズンに渡って繰り広げられた招木の研鑽がようやく実を結んだのだ。

 師匠からの卒業、そして弟子を正式に迎え入れるためにマスタークラスの区切りが必要だった。そのために招木は防衛任務に一切出ず、ひたすら個人ランク戦に没入した。

 一度は自ら設けた期限を破り、色んな人に迷惑をかけた。それでも諦めずに戦い続けた招木はようやく目標ポイントを稼いだのである。

 しかもこれはただの数字ではない。8000ポイントとはボーダーでも上位の実力者と目されるラインなのだ。各攻撃用トリガーのスペシャリストとも言い換えられる。

 血の滲むような努力の果てに掴んだ栄光が、招木は誇らしかった。

 

「おめでとう。すごいじゃないか!」

「やった。やった……!」

 

 今までの努力はSEに奪われてばかりだった。攻撃や回避の技術を高めてもSEにより上書きされる。発想も発言も行動も幸運体質が選んでくる。そういう人生だった。

 しかし運がいいからと勝負に勝つことはなかった。マスタークラスに直結する幸運はやってこなかった。

 つまり招木はようやく、正真正銘、生まれて初めて自分の努力で大目標をクリアしたのである。

 だから今までで一番と言っていいくらいの達成感を前にして興奮し、体の制御を放棄して感情のままに動いた。親友を発見して飛びついた。

 

「すごく嬉しい……」

 

 招木の声は弾んでいる。頬は赤らみ、表情もかなり嬉しそうだ。

 念願が叶って飛び上がりたいくらい嬉しいし、今もつま先立ちみたいになって嵐山に抱きついている。

 なぜそうしたかと言えば、今まで散々嵐山や加古や色んな友達とハグをしてきた招木は、知らず知らずのうちに抱擁のハードルが下がり切っていたからだった。

 嬉しい時の感情表現=ハグとインプットしたみたいな感じだ。嵐山の顔を見た瞬間に「嬉しい」という感情が爆発して、散々慣らされてきたハグという手段を自ら行使した結果である。

 しかし招木が嵐山に自ら抱きつくのは初めてのことだった。

 

「あ」

 

 そこで招木は突然冷静になり、現状を理解した。周りには訓練生や正隊員が多くいて、かなり視線を集めていることを自覚したのだ。

 嵐山は新入隊員のオリエンテーションを担当するボーダーの顔であり、そんな男にいきなり飛びつく女に彼らは驚いている。

 

「ごめんね。君の顔を見たら喜びが抑えられなかった」

「ああ、いいぞ」

「ありがとう。一緒に喜んでくれて。……あの、もう落ち着いたから、離れるね」

「どうして?」

「え?」

「俺を見て感情が抑えられなくなったんだろう」

「うん、そうだけど」

「ずっと頑張っていたことが報われたんだ。今はその喜びに浸っても誰も咎めない。俺もおまえの努力が実ったことが嬉しいし、一緒に分かち合いたいと思うよ」

 

 嵐山が正しさでコーティングされた声で言えば、招木もそうかという気になってくる。確かに非常に嬉しい気持ちは継続中だし、相手がそう言うなら構わないのだろう。

 じゃあお言葉に甘えて、と招木は嵐山の胸板に顔をくっつけて胸中の喜びに浸った。すると何やら激しい鼓動が聞こえてくるようだったが、ぱちりとまばたきをするだけで特に言及はしなかった。

 

「俺も嬉しいよ。心からそう思う」

「わかってる。ありがとう」

 

 嵐山が重ねて言った。以前から招木の相談を受けていたし、目標をクリアしたことは本当に喜ばしいものだと認識している。

 ただそれ以上に、招木が嵐山を感情を爆発させる相手に選んだことが嬉しかった。それくらい気を許しているということだし、どれだけ手を繋いで抱きしめても冷静な招木が感情を昂らせているのを間近で見れるのは嬉しかった。

 嵐山の特別扱いが報われた瞬間でもあったのだ。これにより嵐山の意向はさらに加熱していくこととなる。

 彼はたまたま対戦ブースにいただけだ。招木のマスタークラス到達の瞬間に立ち会えたのは単なる偶然である。

 運が良かった、と嵐山は思った。ここにいるのが他の誰かでなくてよかった。

 

「お二人とも、注目されてますよ」

 

 そこへ木虎が小さな咳払いと共に冷静な指摘をする。彼女は今期に新たに入隊した訓練生であり、正隊員への昇格を間近に控えた期待の新人だ。

 招木と嵐山は同時にパッと手を離し、木虎に向き直る。その様子はあまりにさっぱりとした友人関係に見えて、さっきまでの様子は何だったの? と木虎は疑いたくなるくらいだった。

 しかし今は二人の関係などどうでもいい。それよりも注意すべき行動を招木はしていた。だから木虎は毅然とした態度で口を開く。

 

「それにあなた、個室を抜け出していきなり飛び降りたでしょう。危険です。誰かにぶつかったらどうするんですか」

「木虎。君の言う通りだな。招木、周りを見て安全を確認しないとだめだ」

「ごめんね。次から気をつけるよ」

 

 木虎の指摘はもっともなので招木は軽く頭を下げた。そして「マスタークラスになったって報告してくる」とスキップするみたいに軽やかな歩調で立ち去った。

 その後ろ姿を見送る木虎が嵐山に質問する。

 

「嵐山先輩。あの方は誰ですか?」

「ん? ああ、彼女は招木。諏訪隊所属のラッキーガール」

「ラッキーガール……?」

 

 今までは事足りた紹介文に木虎が首を傾げる。その様子に嵐山は「あ、そうか」と思い至った。

 招木はしばらく訓練生の運試しを断っている。防衛任務にも出ていない。だからここ半年ほどの間に入隊した隊員たちは招木のことをよく知らない。SEの幸運体質を知らない人間が増え、ラッキーガールの噂も低迷している。

 つまり今の招木は外から見ればただの諏訪隊の射手であり、マスタークラスの実力者という評価になる。

 嵐山は招木が過剰で無責任な期待を嫌っていることを知っているので、ここに来て彼女が正当な実力で名が知られることを嬉しく思った。招木はそっちの方が嬉しいだろうから。

 なので嵐山は「ああ、いや。もっとわかりやすく紹介しよう」と前置きをした。

 

「数少ないバイパーのマスタークラスを今さっき達成した射手だ」

 

 そう自慢げに言うのである。

 

 

 

─────────

 

 

 

「招木、明日時間あるか」

「予定がある」

 

 マスタークラスの報告を受けてひとしきり褒めちぎった後、諏訪は招木のスケジュールを頭に浮かべながら聞いたら爆速で断られた。

 うまい飯屋にでも連れてってやろうと思っていたのに。おかしい。招木は暫く防衛任務のシフトは空のまま提出しているし、明日は休日だ。まあ知り合いが多い女なので前々から埋まっていても仕方がないか……と思っていたが。

 どっか行くのか? と質問すると、乱れた髪を手で整えながら、招木は事前にこう言いなさいと言われた通りのセリフを口にする。

 

「加古とデートなんだ」

「デ……、はっ?」

 

 そんなわけで、招木の久しぶりの休日は師匠とのデートで真っ先に埋まっていた。

 

「あら可愛い。オシャレして来てくれたの」

「おサノと一緒にコーデを考えた。加古も綺麗だよ」

「ふふ、ありがとう。じゃあ、行きましょうか」

「うん」

 

 招木は本部の宿舎に住んでいる。宿舎には駐車場が併設されていて、集合場所に行けば初心者マークが貼られた自家用車を背にキーを持った加古が待っていた。

 加古は免許を取得したばかりであり、今回は彼女の車で遠出する予定だった。二人で三門市を離れてドライブデートをするのである。

 助手席に座りシートベルトをする招木は、そういえば車に乗ること自体とても珍しいことだと思った。車特有の匂いが新鮮だったからだ。

 基本は学校と本部の往復だし、移動手段も徒歩か自転車だ。電車に乗って出かけることはあまりない。

 そのようなことを加古に話せば「諏訪さんの車に乗せてもらわないの?」と返される。

 

「まったくないわけじゃないけど、そもそも車に乗って遠出することがない」

「確かにそうね。正隊員の子たちは市内にいることがほとんどだし、夜間の防衛任務があったとしても、あなたは家まで送られることがないもの」

「だから少しワクワクする」

「ならもっとスリリングなデートにしてあげる」

 

 加古がにっこり笑ってアクセルを踏み、招木は自身の発言を後悔した。

 運転に慣れていない加古の運転は想像を絶する酷さだった。急加速・急発進により何度もシートベルトの存在をありがたく感じ、安心や平穏とは程遠い道中となったのだ。

 諏訪は運転がうまかったし危ない時は助手席に手を出して庇う仕草をする。それが刷り込まれていたので、シートベルトを握りしめた招木は身を固くした。

 

「加古、加古。もう少し速度を落とした方がいいんじゃないかな。私は運転のことはさっぱりわからないけど、危ないということはわかるよ」

「大丈夫よ。そんなに不安なら換装なさい」

「トリガーの私的利用は禁止されている」

「私はしているわよ」

「えっ?」

 

 思わず大きな声を出して招木は加古の顔をばっと見た。その横顔がプルプル震え出したので、からかわれているとすぐに理解する。

 招木は少しだけ膨れっ面になると真正面に顔の向きを戻した。

 

「もう、そんなわけないでしょ? 一瞬でも信じちゃうんだから」

「加古の言うことだから信じたのに」

「そんなにいじけないで。もうすぐ見えるわよ」

「もうすぐって……」

 

 すると窓から見える景色が一気に広がった。海だ。青い水面がどこまでも続き、その先で空と溶け合っている。太陽の光を反射してキラキラと光り、招木はあまりの眩しさに目を細めた。

 

「海だ……」

「窓を開けましょうか。海風が気持ちいいから」

 

 風が車内に滑り込んで二人の髪がふわっと膨れる。招木が鼻をぴくと動かした。

 

「これが海の匂い?」

「そうね。初めて?」

「うん。海を生で見るのも初めてだ」

「じゃあ帰りに少し寄りましょ。入ることはできないけど」

 

 興味津々といった様子で助手席から海を眺める様子に微笑み、加古は目的地へと車を走らせた。

 今日の目的地は水族館だった。深い理由はない。招木が行ったことがないと言うし、三門市からのルートに海が見えるスポットがあり、ドライブに最適だと判断したからそこになった。

 水族館に到着し、入場チケットを買って館内に入る。休日なので来場者が多く、賑わっていた。

 

「人が多いし暗いから迷子になりそうね。招木ちゃん、手を出して」

 

 言われた通りに手を差し出せば、加古がするりと指を絡めて繋いだ。このくらいの接触はよくあることなので招木は抵抗することなく、加古に促されるままぴたりと寄り添うように歩いていく。

 館内はひんやりした空気が漂っていて、時折触れる二の腕と絡めたままの指の温度がかえって熱く感じられた。

 二人はとても静かだった。騒がしい周りに紛れるような会話をポツリポツリと挟むだけだった。

 加古が「見て、きれいね」と言えば招木が「そうだね」と返し、招木が「これって食べられるのかな」と聞くので加古が「ムードが台無しよ」と呆れる。

 そんな穏やかな時間に浸っていた。

 

「初めての水族館はどう?」

「楽しいよ。加古はここに来たことがあるんだ」

「ええ。小学生の頃、校外学習で。三年前の災害の時期に被っていない三門市出身の子たちはほとんど来たことがあるんじゃないかしら」

「そうなの」

「ここ、来馬くんのご実家がスポンサーになってるそうよ。彼のことご存知?」

「来馬? さあ。知らないな。顔は見たことがあるかもしれないけど。新人?」

「一期前に入隊したの。いつか話すといいわ。彼も運がいいから」

「へえ。来馬ね。下の名前は?」

 

 運がいいと言われると気になってくる。加古の話し方からして招木の幸運体質のようなSEはないのだろうが、そういった能力がなくとも幸運な人間はいるし、招木は会ってみたかった。

 来馬辰也。覚えた。名前をインプットすると、再び館内を散策する。やがて辿り着いた一面に広がる大きな水槽を見上げ、招木は静かに言った。

 

「なんだかすごく……平和だね。おかしなことが、まるでないみたい」

 

 そこは人気スポットとなっていて、家族連れやカップルがこぞってガラスの手前に集まっていた。割り込むような隙間もないので、二人は通路を挟んだ壁側に立って全体を視界に入れるように見ていた。

 招木が平和と言ったのは、来場者がとても楽しそうに水槽の前に集まる姿を見ているからだろう。おかしなことというのは、近界民だ。

 ここには危険が存在しない。近界民もトリオンも何もかもが存在しない世界のようだ。

 そして彼らに混じり危険を知っている二人だけが異質だった。招木はギュ、と指先に少しだけ力を込める。

 加古が囁く。

 

「あっちにいたい?」

「ううん。自分の居場所じゃないと思っただけだよ。私はずっと、こちら側だ」

 

 暗がりの中、揺れるライトに照らされる顔は何を考えているか正確に読み取ることができない。加古の視線に気づいた招木は「行こうか」と手を引いた。

 のんびりと館内を満喫した後、帰りに渋滞に巻き込まれたため、二人が海辺についたのは夕方の頃だった。

 

「ちょっと暗くなっちゃった」

「風が強いね」

 

 加古が靴を脱いで素足になるので招木が「どうしたの?」と質問すると、「こっちの方が楽しいわよ」と言われるので、従ってみる。靴下ごと脱いだ靴を手に取り、砂浜をザッザッと歩いた。

 足の指の間に砂が入り込む感触に招木が変な顔をするので、加古はおかしそうに笑う。繋いだ手が不規則に揺れた。

 聞こえてくるのは、寄せては返す波の音とビュウウと容赦なく吹く風の音。昼間に見た景色とは打って変わって、夕陽に溶ける水面はもの寂しい感じがした。

 チラホラと人影はあるが随分遠くだし、1日の終わりの気配で満ちている。

 招木は磯の香りを肺いっぱいに取り込むように大きく息を吸った。

 

「三門市を離れたの、随分久しぶりだ」

「たまにはいいでしょ」

「うん。とっても。今日は海が見れたし、初めて水族館に行ったし、楽しかったな……」

「そう言ってくれると連れ出した甲斐があったわ」

「ありがとう、加古」

「ええ」

 

 今日だけのことじゃなくて、と招木は言葉を紡ぐ。

 

「ずっと一緒に居てくれて、ありがとう。ここまで連れて来てくれて、ありがとう」

 

 招木は卒業の目安としていたマスタークラスに到達した。だから加古との師弟関係は一区切りがついたことになる。

 これからは以前のようにマンツーマンで指導を受けることもないし、定期的に会う約束もしなくなる。

 お互いに背負うものがあるからだ。招木は那須という新たな弟子を正式に迎え彼女への指導で忙しくなる。加古も加古の時間を生きていく。

 今まで当然のように過ごしていた時間が遠のいていく。当たり前のことなのに。ずっと前からわかっていたのに。

 いざその瞬間が来ると、堪えきれない感情が迫り上がってくる。

 

「また、どこかに連れて行ってくれる?」

 

 その声は少しだけ震えていた。招木のことをよく知らない相手なら何とも思わないくらいの自然さがあった。

 しかし加古は今のを不自然だと見抜けるくらい、彼女の声をたくさん耳にしてきた。それだけ一緒の時間を過ごしてきた。

 髪を梳くと喜ぶように目を細めるところも、手をかざせば頭を撫でやすいように傾ける仕草も、抱きしめたら安心してこちらに身を預ける重みも、全部知っている。

 それらが今まさに過去に移り変わろうとしていた。

 

「招木ちゃんはもうどこにだって行けるわ」

 

 だからそう返した。同時に招木の手を離す。風で乱れる髪を耳にかけ、加古は一歩、二歩と先へ進む。

 振り返ると、招木は繋がりを失った手をほんの少しだけ揺らした後、握り拳を作って背中に隠した。

 

「そうだよね」

 

 加古は招木に伝えるべきことをすべて伝えた。

 卒業しても招木が弟子であることに変わりはないし、射手として教えるべきことは叩き込んだ。戦術も立ち回りも技術もその身に残っている。

 そして招木が自ら立てた目標であるマスタークラスを達成した時、加古は目一杯彼女を抱きしめて褒め倒した。とても偉いわと蕩ける声で言った。

 何もかもをやり切った後なのだ。今日はその余韻に浸るための日だった。

 だから招木はそれ以上、何も言わなかった。握りしめた拳の中にさっきまで触れていた加古の手の温度がまだ残っていた。

 それでも、もう手を伸ばすことはしなかった。

 

「さあ、帰りましょう。私たちの故郷に」

「うん」

 

 帰りはとても静かだった。歩き疲れた招木は助手席で眠ってしまい、小さな寝息が横から聞こえてくる。

 行きはあれだけ危険だの何だの騒いでいたのに、慣れと疲労であっという間に陥落したらしい。

 無防備な寝顔が揺れている。

 

「ねえ招木ちゃん。本当はね、このまま連れ去ってしまいたいくらいよ」

 

 そう呟き、ハンドルを握る指に力を入れる。

 

「でもダメね。私が独り占めするにはもったいないくらい素敵な子だもの」

 

 ボーダー本部の駐車場に辿り着くと、加古は招木を起こそうと肩に手を置いて揺さぶろうとし……ふと考えて、招木の額にちゅ、とキスをした。

 それから何事もなかったように無事に宿舎まで送り届けると、車の中に戻った。さっきまで助手席に座っていた存在が居なくなったことに違和感を感じ、自嘲めいた笑みを浮かべる。

 家に帰宅し車から降りる際、助手席のシートに手を伸ばすと、それはすっかり冷めきっていた。

 その冷たさを指先で撫でた加古はしばらく手を置いていたが、やがて離すと、車のドアを静かに閉めた。

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