次の新入隊員を迎える季節が到来した。つまり諏訪隊に正式に笹森が加入し、那須隊もランク戦に参戦するシーズンになったというわけだ。
諏訪隊はずっと四人体制での連携の特訓をしており、フルメンバーでの初のランク戦であるが特に不安はない。どっしり構えているのは自信の表れ、というより基本的なスタンスがギャンブルチックだからである。
笹森にも確認したが、諏訪隊のランク戦の意識は他と比較してそれほど高くなく、やるべきことをやり、楽しみ、倒したい奴(主に風間)は絶対倒す、という方針だ。明確な目標設定もないのでエンジョイ勢に近い。
だから勝とうが負けようが一時的に喜んだり悔しがったりして、サクッと次に繋げるライトな感覚を備えていた。
「とはいえフルメンバーとなれば単純に人数有利になる。他の部隊はどう動くかな」
前期のランク戦の記録を確認する招木が独り言を呟いた。
彼女は弟子である那須に指導するのと並行して、那須隊にもランク戦の動きを教えている。初めての弟子が率いる部隊が、初めてのランク戦でB級中位にランクアップすることは那須が定めた目標だった。
招木は隊長ではないが、作戦を発案したり指揮したりすることには慣れている。元からその辺に躊躇がない上に、諏訪隊の中心にいるのが招木なので、経験値は相当あった。
だから那須隊に授けられるものはすべて授け、招木自身も周囲の隊長らに教えを請い、一緒に成長してきた。
諏訪隊が四人になり作戦の幅が増えたこと・那須隊を指導することで、単騎の戦闘力だけでなく部隊の指揮者としての実力もグングン伸ばしていた。
「招木さん。お邪魔します」
「こんにちは、草壁」
作業に没入していると草壁が入室した。ここに来る用件は聞いているので、招木は映像を流していたタブレットの画面を暗くして席を立った。
「諏訪は……ああいや、おサノはまだ戻ってきてないよ。あと少ししたら来ると思うけど」
「わかりました。それまでここで待っていても?」
「どうぞ」
お茶を出された草壁がソファに座り、手慣れた様子で鞄から文庫本を取り出す。以前までの戦闘員の装いではなくオペレーター用のスーツなので、今の格好で読書をする姿は何やら完成されていた。
向かい側のソファで本を読み始めた草壁から視線を外すと、招木はイヤホンをして記録確認を再開する。
こうして二人だけの時間を過ごすのは初めてでもないのでお互い自然体だ。
話したいことがあればどちらかが話しかけるし、話しかけないということは今は自分の時間を過ごすだけ。不快感のない絶妙な距離感は今日も変わらなかった。
『諏訪さんに教わっている草壁です。よろしくお願いします』
少し前までの草壁は銃手であった。
彼女は諏訪に面倒を見てもらっていたので諏訪隊の作戦室によく出入りしていた。トレーニングルームも彼女のために使用されることが多かった。
元々好きだったのか、あるいは諏訪から影響を受けたのか、諏訪隊の作戦室で隊長を待つ間、草壁が推理小説を読む姿を招木はよく見ていた。
『おっ、もう読んだか。なかなか凝ったトリックだったろ』
『そうですね。犯人も最後までわかりませんでした。とても面白かったです』
諏訪と草壁が推理小説を話題にして盛り上がっているのも見ていた。招木はその辺の才能がないらしく、聞き耳を立てながら大人しく笹森に借りた漫画を読むしかなかった。
二人の話に入れないのは寂しかったが、諏訪が自分以外の誰かと盛り上がる場面などいくらでも見てきていたので、招木の心は穏やかだった。
むしろ。
『草壁。諏訪を選んだのはとてもいいと思う。ああ見えて面倒見がいいし、仕切りとか得意だし、君のために尽くしてくれるから』
『はい?』
『うるせー知らねー』
そう言う招木に草壁は首を傾げ、諏訪が気怠げに手を振った。それでも招木は構わなかった。好きな人を好きな人がいるのは嬉しかったからだ。
目を細めて穏やかな声を出す。
『私も訓練生の頃は諏訪に一番お世話になった。諏訪がいたから今の私がある。ここまで強くなれたのも、成長できたのも、ボーダーを大好きだと思えるようになったのも、全部諏訪のおかげなんだ。だから、君もきっと同じだよ』
二人の態度をスルーして招木が伝えると、さっきまでシッシッと手を振っていた諏訪がぴくりと動きを止め、やがて目頭を押さえる仕草をした。
『諏訪? どうしたの』
『大丈夫ですか?』
『だっ……だわ(大丈夫だわ)』
諏訪は全然何も言えていなかった。招木の成長に感動して言葉にならなかったのである。
まあともかくそのような感じで招木は草壁のことを「諏訪にお世話になる者同士」として認識しており、仲間意識のようなものを持っていた。昔の自分はこんなふうに見えていたのかなと想像していた。
けれど草壁にとって招木はただの「世話になっている人と同じ部隊の人」でしかないので、それ以上仲は発展しない。
猛烈に焦がれる相手がいたので、招木に割ける意識がなかったのも理由である。
『今日こそ黒星をつけてみせます』
草壁は同期入隊の木虎にライバル心を燃やしていた。木虎も銃手であり、同じポジション・同い年・同期入隊かつ一度も勝てない相手というのが、草壁のプライドに火をつけたのだ。
彼女は木虎に勝つことを目標にして諏訪に教わった。招木も何度か指導の手伝いをしたことがある。
しかし草壁が勝利することは一度もなかった。
木虎被害者の会の一員となったのだ。ちなみにこの会のメンバーには樫尾もいる。
『あの、諏訪。草壁のこと、見てなくていいの?』
『あ? 今はほっとけ。あいつは同情されたらキレるぜ』
『キレるって』
『時間が必要なんだろうよ。まあ、そのうちケロッとした顔で来るだろ』
招木が諏訪に聞けばそのような返事がくる。その対応には見覚えがあったのでそこで引き下がった。
そして数日経った後、諏訪の言う通り草壁が作戦室を訪れた。それも服装を大きく変えて。
『諏訪さん。今まで鍛えてくださったのに、期待に応えられず申し訳ありません。わたしはオペレーターに転向します』
オペレーター用のスーツに身を包んだ草壁がきちっと謝罪し頭を下げた。諏訪は『そーなんか』と普段と変わらない声を出す。
『んじゃ、おサノに色々教わったらいいんじゃね』
『え。ですが……』
『いーよん。一緒にがんばろ』
『……ありがとうございます』
小佐野がカラッと肯定し引き受けたので、草壁は転向後も諏訪隊の作戦室に顔を出し続けている。
ちなみにその場に招木もいたが『招木さん。次からは手渡ししてくださいね、差し入れ。バレてないとでも思ってたんですか?』とぺいっと冷たく言われてしまった。
そういうわけで今日も草壁は小佐野に指導されるために来ている。同じように片桐隊オペレーターの結束にもお世話になっているらしいと、招木は一条から聞いていた。
「……さん、招木さん」
「ん。あ、ごめんね。イヤホンしてて。何かな」
「いえ。いつもお忙しそうにしていたので。今日は予定ないんですか?」
「この後はランク戦に行くよ。情報収集がしたいからね。それまでランク戦の記録を見てたんだ」
「そうですか」
ランク戦の映像を見ていた招木は、草壁の声に反応して耳に装着したイヤホンを外した。草壁は読んでいた本に栞を挟み、パタンと閉じている。
ちらと時計を見ればそろそろ小佐野が戻ってくる時間だった。
「以前、招木さんは"運試し"をしていたと聞きました。もうしないんですか」
「どうだろう。私のSEを広めるためにやっていたけど、その必要はないと思って。それに最近は忙しくて訓練生を相手にすることはないかな」
「そもそも正隊員が訓練生と模擬戦を繰り返すこと自体おかしいでしょう。時間がもったいない」
「そうだったかもしれないね。けど、どうして急に聞いてきたの?」
そう招木が問うと、草壁は一度まばたきを挟んだ。
「今、声をかけている訓練生がいます。その子とあなたが戦ったらどうなるか、少し興味があるなと」
「へえ。君がスカウトする相手なら優秀な子なんだろうね。紹介してくれた宇野から体操を教わったりもしたし、私にも何か得るものがあるかもしれない」
「気になりますか」
「うん。とても」
草壁はその少年の名前を教えた。そして「探す必要はないですよ。対戦ブースで騒いでいるので、すぐにわかると思います」と付け加える。
一体どういうことかと考える招木だったが、実際にその光景を目にすると理由が一発でわかった。
「それでねっ、迅さんがオレのこと助けてくれたんだ! すごいでしょ!」
草壁がスカウトした少年、緑川が対戦ブースで大騒ぎしていた。招木は一瞬でここに来たことを後悔する。
緑川は手当たり次第に通行人を捕まえては「迅さんってすごいんだよ!」とアピールしている。相手が戸惑っていてもお構いなしだ。自慢したくて仕方がないらしい。
彼の声は大きいので招木が遠巻きに見ているだけでも情報が入ってくる。
「近界民に食べられそうなところを迅に助けられて、ボーダーに入隊したんだ」
つまり緑川は熱心な迅のファンだったのだ。今は憧れの迅と同じ組織に入隊できたことが嬉しくて理性に歯止めが効かないようで、ひたすら尊敬する人の素晴らしさを説いている。
うわ、という引き気味の顔の招木はパネルを操作し、緑川のポイントを調べた。この短期間で正隊員入り目前まで来ていることに納得する。草壁が目を光らせるわけだ。
そういえば堤が「対近界民戦闘訓練で木虎の9秒を超えるのが出てきましたよ。しかも4秒です、半分を切ってる」と諏訪と盛り上がっていたのを思い出した。
それだけ優秀な隊員が、あろうことか迅に傾倒しているだなんて。
「もっと他に尊敬できる人はいるのに……」
明らかに落胆した声で招木が呟いた。
招木の中の迅は複雑な立ち位置にいるのだが、極端な言い方をすれば尻を触ってくる相手なので、基本的には嫌っている。
嫌われるように仕向けてきたことに今の招木は気づいており、しかし実際何度もセクハラされているので、そんな男を尊敬すると豪語する少年が哀れだった。
しかも何が嫌って、緑川の境遇と招木は重なるからだ。招木も第一次近界民侵攻にて迅に救われている。同じ体験をした者同士だからこそ、この隔たりが際立っていた。
「あっ!」
その時、緑川と招木の目がバッチリ合った。緑川が声を上げる。わ、と招木が身構える間に緑川がズンズンこちらに迫ってきた。
「ねー、あんたも迅さんに興味あるの?」
「はっ? 迅に? 興味? 私が?」
「そうそう。オレ近界民に食われそうなとこを迅さんに助けられたんだ! もうスッゲーかっこよかった! あ、迅さんて知ってる? ボーダーに二人しかいないS級なんだよ! すごいでしょ!」
「知ってる。いや、かっこいいとかは知らないけど。というかカッコいいと思っているの? あの迅だよ?」
「そうだよ?」
「え?」
「なに?」
マシンガントークに持っていかれそうになるが、招木は強い意識で「迅がかっこいい」に反発した。
以前熊谷も似たようなことを言っていたが、何があったか彼女もスンとした目で「幻想でした。招木さんの言う通りでしたね」と発言している。ここで既に多数決で決まっていた。女性票を二票獲得した迅はかっこよくないのだ。
しかし緑川の目は輝きに満ちており、自分の意見が正しいと思い込んでいる。招木はそれを否定したくてたまらなかった。
どうしても迅のことをストレートに認めることができなかった。この時にはもう草壁と話していた手合わせの話が頭から抜け落ちていた。
「確かに私も君と同じように、近界民に襲われそうになったところを迅に助けられている。だけど、」
まずは自分も同じ立場だと伝えることにする。そうすることで否定のターンに入りやすくなるだろう。
招木はそう大真面目に考えた。高校三年生の女子高校生が、中学一年の男子中学生相手に、そんなことを思ったのである。
しかし。
「え!! あんたもそうなの!」
「うん、それで、」
「へー! じゃオレたち迅さんのファン同盟じゃん!!」
緑川が話をぶったぎって大はしゃぎした。自分と同じように迅に助けられた仲間を見つけて嬉しくなったようだった。
招木がムッと眉間にシワを寄せる。自身がそうだと言い切られ、二の腕に鳥肌が立っている。
「ファン同盟? その不名誉な同盟は今すぐ解消してほしいな。私は迅のファンじゃない。絶対に、ファンではないよ」
「なんで? というかあんた、さっきから迅さんのことけなしてるよね」
「迅がかっこいいという意見を否定している」
「かっこいいの! ……あんた誰。迅さんの何」
「招木。迅の同級生だよ。同じ学校に通っている」
「フーン」
だんだん緑川のテンションが下がっていき、ついには冷めた目つきになった。
緑川はピカピカの訓練生であり招木のことを知らない。一方的に自分の尊敬する人を否定してくる変な女と認識し、舐めた態度になったのだ。
せっかく自分と同じ迅さんファンが見つかったと思ったのに。話を聞いてくれると思ったのに。
近界民から助けてくれたのにファンにならないとか正気? かっこいいじゃん。あのかっこよさがわからないとかマジで言ってんの?
そう考え始めたのだ。
「じゃ、かっこよくないっていう根拠教えてよ。そこまで言うなら何かあるんでしょ」
「もちろんあるよ」
そう言われた招木が意気揚々と口を開き、しかし一つも音にならない。少し時間が経って緑川が「さっさと言えば」も催促してもダメだった。
「えっと」
招木は言葉を詰まらせた。何故なら招木が迅を否定する第一の理由であるセクハラについて語ることができないからだった。
これはSEに強制されているわけではなく、招木は自分の意識で発言をストップした。出会ったばかりの少年に話す内容ではなかったからだ。
通りすがりの人に語りたくて仕方がないほど尊敬する人のセクハラ事情を知った時、緑川はどう思うのだろう。
というか中学一年生の子にセクハラは事細かく話すことではない。
どうしよう。
「……、……」
「ほら。理由なんてないでしょ。だって迅さんだもん」
「う」
「その代わりかっこいいところはオレがいくらでも言えるよ! 近界民がぐわって口開けて怖かったのに、迅さんが一瞬で倒しちゃって! 大丈夫? って声かけて、助けてくれたんだ」
「……」
「だからオレは迅さんが好き! 未来視のサイドエフェクトめっちゃすごいし、戦ったらチョー強いし!」
「……それは」
「それは?」
「そうかもしれないけど」
「かもしれないじゃなくて、そーなの!」
「そう、なの」
緑川の勢いに押されて招木がついに頷いてしまう。途端に緑川のボルテージがグワっと高まった。
「でしょ!? じゃ、次はあんたの番!」
「私の?」
「当たり前じゃん。オレたち迅さんに助けられてんだよ? ほらほら、迅さんのいいところ言って。同級生なんでしょ? 同じ学校にいるんでしょ? いっぱいいいところ見てるでしょ」
「見てないよ」
「あーもう、だからさぁ」
「迅は学校をよく休むから、知らないんだ」
ここまで迅を褒める人間に出会ったことのない招木は、緑川のペースに乗せられ、少し迅への抵抗感をなくした。
もともと彼のことが嫌いではあったが、ちょこちょこ「酷いことを言ったことを謝らないと」「冷たい態度をとって申し訳ない」と心が揺らぐのも事実だった。
緑川の発言に影響されて強迫観念が和らいだのだ。すると素直な心が顔を出す。本心が溢れ出す。
「一方的に、してもらってばかりで」
これまでの日々で、招木は迅の行いに気づいていた。
『大丈夫か?』
地獄から救われたあの日、近界民を殺して招木を助けたのは迅だった。彼がどんな未来を見たのか知らないが、あの時の迅はとても苦しそうな表情だった。
すべてはそこから生まれた縁だった。
『お、ラッキーガールじゃん』
『諏訪さん。それ誰のことですか?』
『ほらアイツ』
迅がラッキーガールの噂を流して太刀川や諏訪、堤が接触する機会をくれた。
『ここが分岐点だからな』
二宮との模擬戦では、招木が幸福になれる分岐点を歩むよう観戦していたと聞かされている。
『実力派エリートだからな。どうってことない』
招木の初めての防衛任務では、彼女が近界民に傾倒しないように迅が独りで多くのトリオン兵と戦っていた。
『招木』
『何』
『楽しみだな』
旧太刀川隊vsサイドエフェクト組の突発混合部隊戦では、ランク戦の楽しさを教えてくれた。
『代わりに行ってきたよ、京都』
頼んだ修学旅行の写真を一枚一枚解説して見せてくれて、『招木のおかげで行けた』なんてお礼を言ってきた。
『招木とクラス別れちゃうかなぁ。寂しい?』
高校二年生の時は迅が同じクラスとして目を配っていたのを、招木は知っている。
「私は何もしてなくて」
諏訪や嵐山、加古のように、色んな人が招木を支えてくれた。だが、その一番のきっかけを生み出したのは迅だった。
迅がいなければ招木はボーダーに所属することはなかったし、今の生活を送ることもなかった。彼が始まりだった。
あまり関わってこないくせに、いつも本人には見えないところで招木を救っている。
迅のそういうところが、
「私に何も知らせないで、暗躍するのが、好きじゃない」
時間をかけてようやく招木が言った。
裏返しのアイラブユーだった。
考えなしの発言に気づいた招木がハッとして緑川を見る。緑川はキョトンとしていた。招木の言い方がわかりづらくて意味が理解できなかったのだ。
「つまりどういうこと? 迅さんのこと好きなの? 嫌いなの?」
「……嫌いではないよ」
「じゃあ好きってこと?」
「もういいよ、それで」
疲れて投げやりになった招木が肯定すると、途端に体が硬直する。
「へー。おれのことそんなふうに思ってたんだ」
「あっ迅さん!! やっと会えた! 今日は本部にいるの!? 対戦しよ、対戦!!」
「元気だなー、駿は」
招木の背後からぬっと迅が現れたからだ。憧れの人の登場に有頂天になる緑川が迅に対戦を迫る。しかし招木はとても冷静ではいられなかった。
本人がいないと思ったからこそあんなに素直に話したのに。普段は迅について「嫌い」というポーズを貫いたからこそ、突然崩壊したことに動揺している。
「あ、そうだ。この人も迅さんに助けられたってホント?」
狼狽する間に緑川がぶっ込んできた。我に返った招木が迅の顔を見上げる。
「んー? どうだったかな」
しかし迅は言葉を濁した。心底眠たそうな、心のこもっていない声色だった。
それが招木は無性に腹が立って、迅の尻を蹴る。「いたっ」と迅が痛がるフリをした。換装体だし、そこまで勢いはつけていないので軽くたたらを踏む程度だった。
「あー!! 今迅さんを蹴った!」
だが緑川が当然怒りの声を上げる。まあまあ、と迅がなだめてもあまり効果がない。
招木は何も言えなかった。すべてのきっかけを生み出したあの日を、招木を地獄から救ったことを、迅がなかったことにしたのが許せなかったからだ。
覚えてるくせに! と胸ぐらを掴んでやりたい衝動に駆られ、拳を握る。
招木がここまでの動揺や怒りを抱くのは珍しいことだった。
「おれが招木に嫌われるようなことをしちゃったんだ。だからこれは当然の報復なの」
「えー? 好きでいいって認めてたのに」
「認めてない。嫌いではないと答えただけ」
「嘘だ! 迅さんも聞いてたよね?」
「いやー」
迅も招木もゴニョゴニョ口ごもってしまい、怪しい、と目を鋭くした緑川の視線が招木を射抜いた。
「そういえば、あんた迅さんにありがとうって言ったの?」
「えっ?」
「駿?」
「最初の態度も嫌そうな感じだったしさ。迅さんのことあんま知らないって言ってたし。さすがに助けられたことにはお礼言ったよね?」
「言っ……、は?」
「言ってないんだ」
「いや、それは」
「なんで言わないの? 命の恩人だよ? 普通感謝するでしょ?」
「すごい。駿が招木をやり込めてる」
動揺に畳み掛けるように緑川に言われてしまえば、招木に後はなかった。
……そうだ、何度も謝ろうとしてきたじゃないか。迅を呼び出すたびに尻を触られてきたから実行できなかったけど、そのチャンスがようやく巡ってきたんだ。
そういう意味では、招木は緑川に感謝しなければならない。平行線の二人の関係は、第三者がいないと進まない。
いつの間にか生まれていた人だかりの中心で山ほどの視線を向けられる中、
「……。……、……助けてくれて、アリガトウ」
カタコトな感じでお礼を言った。すると迅は。
「ドウイタシマシテ」
と招木の言い方を真似た。むかついた招木がわかりやすく唇をムッと引き結ぶ。何かを言おうとするが、それより早く緑川が噛みついた。
「足りない!」
「えっ?」
「誠意が足りない! もっと感謝して!!」
「駿ってば、もういい、いいから。おれと対戦したいんだろ? もう時間ないよ」
「ぃやったー! 戦ってくれるの? 早く行こうよ!」
ようやく迅と対戦できると大喜びの緑川が迅を連れて離れていく。その流れで人だかりが割れた。
「……」
人の群れが次第にばらけていく間、招木は結局ちゃんと謝ることができていないことに気づいてしまった。
未来の奴隷と言ったことを、これまで散々嫌な態度をとったことを、やはり招木は謝らなければならなかった。
それを迅が望んでいなくとも、許してくれなくても、謝罪ができなければ前に進むことはできない。
しかしなんだかドッと疲れてしまって、今度にすることにした。
今日の迅の態度を見るに、その機会があるかわからないけれど。
ごめんなさい、前話のあとがきメンバーに宇野を忘れていました。
宇野ともバッドコミュニケーションした可能性は十分ありますが、なんやかんやで体操を教わっているようです。多分宇野が無言だからです。
招木は既に木崎の筋肉指導を受けており、これからは柔軟性も身につけ、さらなる回避術を高めることでしょう。