「彼氏のボタンめっちゃ狙われてるけどいーの」
「ああ、第二ボタンの話? 橘高に聞いた」
迅が教室の窓から覗く地上を指差しそう言ってくるので、招木は肩をすくめた。
「別にいいよ。弟に制服を譲る予定だから綺麗にしておかなきゃと言っていたし。誰にも渡さないと思う」
「そこは彼女がいるからそんなことしないとかじゃない?」
「准の理由の一番はそれだろうし」
「そうなのかなぁ」
三門市立第一高等学校のグラウンドは大変なことになっていた。今日は卒業式があり、それを終えた卒業生たちと在校生たち、保護者たちでごった返している。
嵐山はその渦中にいた。同級生や在校生、保護者に囲まれ、身動きが取れなくなっている。
招木と迅はその様子を教室から眺めていた。二人の胸元には卒業生の証である花飾りがついていた。彼らは今日、三年間通い続けた学び舎を卒業したのだ。
「彼氏に他の女の子たちが集まるの、嫌じゃないんだ。普通女の子は嫌がるもんだと思うけど」
「准のことを好きな人がたくさんいることは嬉しいよ。それにいちいち構えていたら、街も満足に歩けなくなる」
「ああ……」
三門の街を歩けば嵐山の話題がたまに聞こえてくるし、彼が写ったポスターの写真を撮る民間人の姿も見かける。それがずっと続いているので招木にとっては今更だった。
「じゃ、大学でも同じ感じになりそうだな」
迅が手持ち無沙汰に卒業証書の筒を手の中で転がしている。嵐山も招木も、そして同級生の柿崎らも三門市立大学に進学することが決まっていた。
しかし招木の目の前の男だけは違う。黒板の寄せ書きから視線を外して迅を見た。
「迅は進学しないんだってね。何をするの?」
「それはもちろん実力派エリート」
「正気? まともな思考回路とは思えないけど」
「ボーダー推薦ないと進学危うい人に言われたくないんですけどぉ」
芝居がかった声でふざけてくる迅は、てっきり言い返してくると思ったのに招木が黙り込んでしまうので「あれっ、間違えた」と思う。
ひとまず場を取り繕うべく話を続ける。
「太刀川さんが大学生やれてるんだから招木も大丈夫でしょ。あの人ほど成績酷くないんだし」
「それ慰めているの? 太刀川と成績を並べられる時点で不名誉だよ」
「おまえ本当に太刀川さんに遠慮ないね」
「迅が嫌なこと言うからだよ」
そこまで言ってから招木がまたもや微妙な顔で口を閉ざす。迅は「なんだかやりにくいな」とちょっと困ってしまう。
この先のことが見えてしまったからこそ、早く言っていいのになと思う。
さて、なぜ招木が時折沈黙するのか。そして迅がその様子に焦れているのか。
それは招木がついに迅に謝罪することが確定しているからだった。
招木は「もう学校を卒業してしまったら迅と会うのは難しくなる。卒業式までに謝罪しなければ」と考えていた。しかしタイミングがなかなか合わず、気づけば卒業式当日を迎えていた。
だからようやく迅を捕まえて教室まで連れてきたはいいものの、いつもの感じで嫌な態度をとってしまうので、肝心の謝罪を切り出せずにいるのだ。
「……いや、君はそんなに酷いことは言っていないね。太刀川が大丈夫なら私もきっと大学でやっていけると思う」
結局太刀川がもらい事故を受ける形で招木が訂正を試みた。
そして不自然に会話の間を空ける。謝るための間だ。さっきからこれの繰り返しだったので、迅はもどかしさに身じろぎをする。
とはいえ、ここで自分から話を振ってしまうのも違う気がした。
招木が自分で決めて、自分の口で言うべきことなのだろう。そう考えて待っているのに、彼女は一向に口を開かない。
「そういえばさぁ」
「……あの」
焦れて咄嗟に迅が言葉を発するのと、招木の声が綺麗に重なった。
あ、と二人が似たり寄ったりな顔をするが、招木に先を譲られてしまった迅が曖昧に笑って先行する。
「大学行った後はどうするとか考えてるの?」
「どうとは?」
「就職先だよ。ボーダーなのか、ボーダーを辞めて一般企業か」
「ボーダーのつもりだけど。ああ、でも、いつまで戦闘員で居られるかもわからないね」
招木は現在戦闘員だが、ボーダーでの就職となればオペレーターやエンジニア、一般職員などの道がある。
彼女の能力ならオペレーターはやれるだろうが、トリオン工学などはサッパリなので技術者としての進路はないだろう。
そしてトリオン能力にも限りがある。歳をとれば衰えていくので、ずっと戦闘員として戦うのも無理があった。衰えないよう鍛えている忍田本部長などの例外はいるが、通常は戦闘員を辞めていくものだ。
「諏訪隊も、いつまであるかわからないし」
招木がポツリと言った。
二個上の学年である諏訪は二年前にここを卒業した。「どうせ本部で会えんだからんな顔すんな」と卒業証書の筒で頭を軽く突かれた記憶がある。
そんな諏訪は四月から大学三年生になる。大学卒業に近づいていた。彼の一つ下である堤も大学二年生になる。
小佐野と笹森はまだ高校卒業は先だが、笹森については「いずれ隊長としてやっていけるように」と裏で指導方針が決められている。
諏訪隊は後進育成をする段階に入っていた。
つまりいつかは諏訪隊はなくなってしまう。
加古との関係に区切りをつけたように。高校を卒業して進学しない迅がいるように。
招木のボーダーでの居場所が、とても大切な居場所が、いつか消えてしまうことを彼女は自覚していた。
「え? 諏訪隊解散の話出てるの?」
「出てないよ。でも、ずっと続くものはないでしょ」
「……それもそうだね」
迅の声色が一段階下がる。
その時、招木は迅の瞳に嫌なものを見つけてしまった。それは紛れもない同情の色をしていた。
確定した不都合な未来に、抗えない何かに翻弄される姿を、不憫に思うような印象だった。
「何なの、その目」
招木が低く言って、心の中に不穏な感情がじくじくと広がっていく。
同情をされた。迅は何を思って招木に憐んだのだろう。
招木は迅の過去について知っている。いつまで不仲でいるのかと心配になった嵐山が教えてくれていた。
迅もまた母親を近界民に殺されたこと。四年前に師匠を失ったこと。
それでも玉狛支部派───近界民親交派として皆の未来のために暗躍していること。
だからどんなものも未来永劫続かないことに"共感"したのなら、それでよかった。
"同情"したのが招木の敏感な部分を刺激した。
「迅が私のどんな未来を見たのか知らないけど」
「!」
「私が選ぶことだから、君が気にすることはない」
だから招木は迅を突き放す。
この男は招木が幸せな道を歩めるようにずっと暗躍していた。加えて迅が動くのは招木が対象の時だけでなく、他の隊員のための時を含むのを知っている。それが招木には疑問だった。
未来が見えると誰彼構わず手を差し伸べなければ気が済まないのだろうか。そしていちいち落ち込んでダメージを受けなければならないのだろうか。
何か暗躍したらしいなと気づいた時、迅の表情に翳りが見えて、そこで招木は「あ、落ち込んでる」と思う。別に声をかけたりはしないけど。
迅は随分とお人好しで自己犠牲的だ。
ボーダーの顔となり大勢の市民の期待を背負う嵐山に対してまったく同じ気持ちを、招木は迅にも抱えていた。
なぜそこまでする。それをする義務も責任もないだろうに。
それでも背負ってしまうこの男を、自分が助けられたと自覚しているから、どうしても無視できないのである。
「君が何をしようとしなくとも、私の未来は変わらないよ」
「それは……」
招木がキッパリ言い張ると、迅が言い淀んだ。
彼の心は揺れ動いている。招木はそう言うけれど、違うんだよと叫びたかった。
未来は無数に分岐していて、最良の未来と最悪の未来が横並びになっていることもある。そして可能性の高い未来と低い未来があって、だいたいの人間は高い方を選ぶ。
しかし迅が観測する中で、時折どうしてと言いたくなるような、可能性の低い未来を選ぶことが招木にはあった。
なんでそっちを選ぶのと叫びたくなるようなそれを、招木は選んでしまう。そこには強制力があった。幸運体質があるからだ。
「私はどうしても一つの未来を選んでしまう。でも他の人も同じだと思うんだ。みんな一つの現実を生きていて、もしもの選択肢なんて存在しないと」
「太刀川さんにも嵐山にも似たようなことを言われたな。今を生きてるんだって。未来のことばっかり見るなって」
「私も同意見だよ。もしかしたらの世界は、ないのと同じだと思う。なら選んだ未来のことを考えたいな」
迅は未来視があり、良い未来に進むよう暗躍する性分があるから、周りが抱かない・抱けるはずもない不安を一人で抱えなければならないことを、招木は確信していた。
それはとても可哀想だと同情さえしていた。彼の同情は不快なのに、同じ気持ちを招木も感じてしまう。
過去の自分であれば、迅ならいくらでも良い未来を描けるじゃないかと八つ当たりした。傷つけたくて"未来の奴隷"呼ばわりした。
だが時が経ち、招木の考え方に変化が起きた。
良い未来を描けるということは、それだけ悪い未来を見ているということ。
最良の未来が見えているのに、そうはならない歯痒さを一人で抱えなければならないこと。
迅がどこまでも孤独であること。
それらを考えられるようになっていた。
「君は可哀想だね」
「……、」
「未来視が、じゃないよ。迅が余計に傷ついているのが、そのことを誰にも知られずにいるのが、可哀想だと思ったんだ」
招木は自分の傷を嵐山や鳩原に見せた。悍ましい過去を嵐山に話し、家族への拒絶感を鳩原に教えた。
けれど迅はそうしない。いや、招木が知らないだけで、玉狛支部の誰かや友人に共有しているのかもしれない。けれど確信は持てなかった。
招木への暗躍がいい例だ。なぜ本人に知らせないのだろう。随分と自分勝手だと腹が立つ。
その相手に嫌われることを許していることも、言い返さないことにも、苛々する。
裏で動いているだなんて、長い間知らなかった。
教えて欲しかったのに。
「余計に? ……どうして」
「抱えなくていい不安をわざわざ背負っているから」
まるでその人の選択すら自分のせいだと思い込んでいるみたいだ。
関わるすべての人の生き方を背負う男に、招木は言葉を重ねていく。
「そんなことないと思うけど」
迅がへらりと力なく笑った。招木がムッと眉間にシワを寄せる。
「あるよ。だって、私のためにずっとあれだけ暗躍し続けてたじゃない」
「……、気づいてたんだ」
「遅いくらいだった。おかげで知らない間に迅に返せないくらいの大恩ができたよ。なんで教えてくれなかったの」
招木はあくまで面倒そうな態度を全面に出す。
迅が積み重ねてきた暗躍のおかげで招木は今の幸せな生活を送れている。それにはとても感謝している。ありがとうと声に出したかった。
しかし、緑川に招木を助けたのか問われた時、迅は明確にはぐらかした。
だからお礼を言われたくないのかもしれない。肯定されたくないのかもしれない。
よって招木は否定する。自分の人生を変えた男に真っ向から反発した。それが迅のためになると信じて。
「よくもまあ嫌ってくる相手のために、面倒なことをやっていたね。お人好しが過ぎる」
「お人好しって」
迅が思わず笑ってしまう感じで言った。目尻を下げて穏やかな表情を浮かべ、緩やかに自己否定する。
「違うよ。おれは……もっといい未来にも導けない男だから。いい奴じゃないよ」
『おれのこと嫌っていいよ』
招木はそれに懐かしい響きを感じた。嫌っていいと言った時にとても似ていると感じたのだ。
あれは招木が酷い態度をとったから、迅が彼女と距離をとりたがったのだと認識している。当時は招木が悪かった。けれど今はそうはならない。
迅の思い通りに嫌ってなんかあげない。
今度は招木が小さく笑う番だった。珍しい招木の表情にびっくりした迅が目を開く。
そして続く台詞に心臓がドクンと跳ねた。
「じゃあ責任とって」
「え、」
「私が今までやってきたこと、これからやること、全部責任とって。私が何か大変なことをやらかしたら、それは君のせいにする」
究極の他責である。招木は堂々と「すべて迅の責任にする」と宣った。
迅が未来視で見た不確定の未来を背負うのなら、存分に背負わせてやると告げたのだ。
予想外の切り返しに迅が「へえ?」と愉快そうに眉を上げる。
「おれのせいになんの」
「そう。迅がいつまでも未来の不安を抱える気なら、もういい。全部背負ってもらう」
「すごいこと言い出すな」
「私だけじゃないよ。迅が関わった人、見てきた未来、全部。抱えてもらう」
招木は不快感でいっぱいの胸の中を少しでも軽くするために息を吐いた。
囁くように言う。
「君は神様じゃないよ」
「!」
迅が手に力を込めたのが見えた。瞳が揺らぐ。その目をまっすぐに見据えて招木は話を続けた。
「君はただの人間だよ。一人で抱えられるものには限度がある。それでも背負うのなら、私が一緒に背負う」
「……招木」
「迅が誰かの未来までも抱えるのなら、そういうことだよ」
過去の自分に言ってあげるように、招木は願い事を音に乗せた。
神の子と崇められ、檻の中に閉じ込められていた自分は、人間であることを許されなかった。
SEがもたらす超人的な結果に振り回されていた。
しかし招木はそれを乗り越えた。自分は神の子でもなんでもないただの人間であり、幸運体質を自分の能力として受け入れている。
それは周りの協力があったからだ。みんなが招木を支えてくれたからだ。
だから迅にも同じことをするだけだった。彼の周りにもたくさんの友人がいて、手を差し伸べているが、そこに自分も加わりたいと強く思った。
迅にはずっと暗躍されて助けられてばかりだった。感謝の言葉がいらないのなら、行動で示すだけである。
「だからまあ、この先ちょっぴり悪いことが起きたとして、それが迅のせいになるのなら、私のせいにもなるね」
「招木のせいで悪いことが起きたら、おれのせい?」
「それは違う。私のせいは私のせい」
「なんだそれ」
「責任はその人にあると言っている。それでも君が背負うなら一緒に背負う。そういう話だよ。話聞いてた?」
「相変わらず辛辣だな。……わかったよ。わかった! 降参する」
迅は両手をあげて降参のポーズをとった。招木の無茶苦茶で自分勝手な言い回しに負けたことを認めたのだ。
その顔には苦笑いが浮かんでいる。
「ほんと、可能性の低い未来ばっかり選ぶよね」
迅は招木と友達になるのをずっと拒んできた。酷い呼ばれ方をされたし、SEに苦手意識があったし、未来のために当時の招木の幸せを勝手に変えたからだ。
彼の思惑通り、招木は迅とは直接的に関わる機会が少ないまま成長した。人間として大きく育っていった。
当時の迅が考えたように「おれがいなくてもよかったんだな」と思える結果を出した。
しかし、そんな彼女が今この瞬間、迅を助けようと言葉を重ねている。
いなくてよかった存在を繋ぎ止めようとしてくる。
「君が導いた未来だよ」
招木が首を傾げて言った。
「私が幸せになれるように動いていたでしょ。その結果が今だ」
迅が自分のいない未来を選んだ結果、招木は迅を選びにきた。
その事実に胸が震えた。込み上げるものを堪えるように、迅は窓の外を見るふりをして顔を隠した。自分が今どんな顔をしているかわからなかったし、見られたくなかった。
招木に背中を向ける。遠くから人々の喧騒が聞こえてくるのに、二人の空間はやけに静かだった。
自分の呼吸さえ意識してしまうような静寂の中、迅の息遣いがかすかに震えている。
「あ。それと」
「……うん?」
「未来の奴隷って言ったこと、ごめんね。あとずっと嫌な態度をとってごめんなさい」
「……ん」
「今日はずっとそれが言いたかったの」
「わかってたよ」
ふ、と笑い声を漏らした迅は懐をガサゴソと漁った。そこから目当てのものを取り出すと、振り向いて意識して明るい声で話しかける。
「ぼんち揚食う?」
「いただくね」
食べることが好きな招木が食いついた。いとも簡単に好感度があがる未来が確定する。ああ、こうなることがわかってたからあげないようにしてたのに。
でもまあ、いいか。迅はボリボリお菓子を食べる招木を見て思った。「ずっと気になってたんだよね」とボリボリする合間に言っており、その辺で買えばいいのに買わずにいたことにも、理由を勘繰ってしまう。
たった一袋のお菓子であっという間に距離が縮まっていくのを感じながら、二人はグラウンドへと向かう。
約束の時間はすぐそこだ。遅れないように、と迅が階段を降りていると、先に進んでいた招木が思い出したように「あ。そうだ」と口にする。
「どうした?」
「もうお尻触らないでね。彼氏がいるからやめてね」
「二度と触らないから! 今までごめんなさい!」
サッと尻を庇う仕草をする招木に迅が叫んだ。それからフッと表情を引っ込めて、ちょっぴり真面目な顔をして尋ねる。
「じゃ、これからおれたちって友達?」
「いいえ」
「えっ、違うの」
「迅が一人で抱え込もうとしたら、君のお尻を蹴る関係かな」
「結局ここでも尻かよ」
そんなことを話しながら集合場所に辿り着くと、そこにはボーダー隊員の同級生たちが揃っていた。
六頴館組や星輪女学院の月見も、式が終わった後に駆けつけてくれている。
約束していたのだ。卒業式の後、みんなで揃って写真を撮ると。
「待っていたぞ、二人とも。その顔は色々話せたようだな」
嵐山が二人を迎え入れ、全員で並んでカメラに写る。
皆が思い思いに表情を綻ばせていた。肩を寄せ合い、腕を回して、笑い声に釣られて新たな笑顔の輪が生まれる。
その中に招木もいた。友人たちに囲まれて、穏やかな顔をして小さく笑っている。
そんなかけがえのない記憶を切り取るように、シャッターが切られた。
─────────
「とても素敵な写真ですね」
「ありがとう」
招木に携帯の画像を見せられた鳩原が、顔を綻ばせて言った。
その間から卒業式の写真を見ていた絵馬が「まあそうだね」と小さい声で付け足す。
今日は"鳩原遠征試験がんばれの会"の日だった。
今期のランク戦が無事終了し、鳩原の所属する二宮隊は遠征選抜試験を受けることになっていた。
これに合格すれば念願叶って遠征に行くことができる。鳩原の弟探しの第一歩を踏み出せる。
だから招木と絵馬が発起して会を開いた。遠征試験がんばれ! と背中を押すためである。
なお言い出しっぺは絵馬だった。「あんたも応援するでしょ?」と言われた招木が、じゃあ会を開こうとこの場を作った。
「卒業旅行は行かれたんですか?」
「ううん。その代わりにGWに女子組で東京に行くのが決まってる。お土産買ってくるね」
「いいですね、ありがとうございます」
「ああ、でも」
「?」
「渡せるのは先になってしまうかな。遠征に行っちゃうから」
招木が二宮隊が試験に合格する前提で話すので、鳩原は曖昧に笑った。
それは合格するのを信じきれていない表情である。
二宮隊が、ではない。
鳩原は自分が遠征選抜試験を突破できると思えていないことを、招木は知っていた。それでも招木は合格を疑わない口ぶりで話した。
『遠征について知りたいって?』
『そう。教えて欲しい』
招木は鳩原に手助けすることが決まってから、自分で集められるだけの情報を集めていた。
とはいえB級の彼女にはまったく縁がない話である。だから太刀川隊や当真、加古、風間隊に玉狛支部の面子など、遠征経験者に話を聞くのが限界だった。
彼らは口を揃えて「招木は遠征に興味があるのか」と問うてきた。招木は素知らぬ顔で「そうだよ」と嘘をついた。
ともかくそのようにして試験や遠征についての情報を得たわけだが、招木自身も鳩原が試験に合格できるとは思えなかった。
『遠征メンバーの選出条件は、黒トリガーに対抗できると判断された部隊だけ。自分の身は自分で守れるようにならなきゃならねー。つまり、鳩原の性分丸ごと変わらなきゃ無理だ』
どれほど素晴らしい技術を持っていようが、結局人を撃つ覚悟のない人間は、遠征艇に乗ることができない。
そして鳩原はどうやってもそのラインを踏み越えることができなかった。
『招木さん』
『絵馬? 鳩原がどうかしたの』
あるとき、絵馬が緊張感に満ちた顔で招木に話しかけた。絵馬が招木に話しかけるのは決まって鳩原が関係する時なので、それを見越して返事をすると同時に携帯が鳴った。
招木が懐から携帯を取り出す。
『……鳩原先輩が、人を、撃った』
『……そうみたいだね』
着信画面には鳩原の名前が映し出されている。緊急事態が発生した。
鳩原がついに人を狙撃した。
それは本来なら喜ばしいことのはずだった。しかし絵馬の今にも泣き出しそうな不安げな表情と、鳩原からかかってきた電話が、事態はそう単純ではないのだと告げていた。
絵馬に断って電話に出る。
『鳩原。どうしたの』
『……、ぁ、あの、……』
『うん。まずは深呼吸をしよう。深く息を吸って』
『あ……、………はい』
か細く雑踏に消えてしまいそうな声だった。電話口の向こうから招木の言われた通りに深呼吸をする息遣いが聞こえてくる。
それを何度か繰り返すように指示を出し、「続けながら耳だけ貸してね」と招木が言う。
『話しづらいならメールでもいいよ。どんな形でもいい。私に伝えたいことがあるなら、君が一番楽な手段をとるんだ。今は自分のことだけ考えてね』
ゆっくりと優しくそう言えば、沈黙していた鳩原が焦れるほどの間を空けて。
『あ。……会いたいです』
とだけ言った。
そういうわけで招木は絵馬と解散して鳩原を迎えに行った。絵馬は最後まで何か言いたげだったが「鳩原先輩がそう言うのなら」と身を引いた。
さて、鳩原に指定されたのは医務室だった。しかし招木は黒い集団を見つけて身を固くする。
向こうも招木に気づいて警戒態勢をとった。
二宮隊だ。
『なぜここに』
『用事がある』
『誰に? まさか鳩原じゃないだろうな』
眦を決する二宮に、招木は平然と首を振った。
『救急箱を借りにきただけだよ。でも中に鳩原がいるのなら私は近づけないね。代わりにとってきてもらえるかな』
『それなら私が』
氷見がさっと医務室に入り、回収した救急箱を招木に渡す。お礼を言った招木は疑いの眼差しを無視して、用無しの箱を手に抱えたまま移動する。
そして途方に暮れた。
困った。二宮隊がいるなら鳩原に近づくことができない。
そのくらい普段の鳩原なら気づくだろうに呼び出したということは、それほど余裕がないことの表れである。
一刻も早く会いに行かなければならないのに、招木にはどうすることもできない。
ひとまず招木は鳩原にメールした。二宮隊が医務室の前にいるから入れないと。
『まさかこっちに来るなんてね』
すると鳩原は招木の方に行くと返信した。よって招木は彼女を自分の部屋に案内することになった。
本部内の宿舎、女性専用フロアの一室が招木の家だ。インターホンが鳴りすぐに出ると、口を開きかけた鳩原をすばやく部屋の中に入れる。
『ご、ごめんなさい。招木さん。あたし、すごい迷惑……』
『いらっしゃい。何もないところだけど、ゆっくりしていって』
招木は鳩原の言葉にかぶせて言った。所在なさげな来訪者をリビングに招く。適当なクッションを座布団代わりに置いた。そこに座るように指示をして、飲み物を運ぶ。
鳩原はずっと身を縮こませていた。その顔は土色である。今にも倒れてしまいそうだった。
『それで、私を呼んだ理由は何かな』
落ち着いた頃を見計らって本題を切り出すと、鳩原がコップを両手でぎゅっと握りしめた。
机に視線を落として恐る恐る言葉を紡ぐ。
『あ。……あ、あたし。人を、撃ちました』
『うん』
『知っ、てるんですね』
『絵馬からだいたいのことは聞いたよ』
ランク戦で鳩原が歌川を誤射してしまったこと。その後、鳩原の様子が急変したこと。そして医務室に運ばれたこと。
絵馬が招木を探して報告してくれていた。そこまで招木が伝えると、鳩原が眉を下げる。
『……そうなんです。……あたし、それで、ぅ』
続く言葉は喉の奥に引っ込められた。鳩原が咄嗟に口元を手で押さえる。吐き気を堪えるように唇を固く結んでいた。
目で訴えてくるので招木がトイレを指差す。鳩原が慌ただしい動きでそちらに向かった。
『ぅ、おえ、』
便器に縋り付くようにして、彼女は何度もえずいた。腹部が痙攣するたびに体を折り曲げ、息も絶え絶えに吸う。目尻に涙が滲む。
生理的な息苦しさと心理的な辛さが積み重なって、吐く間に何度も謝罪の言葉を口にした。
『ご。ごめんなさい、ごめんなさい……』
胃が空になっても吐き気は収まらなかった。誤射の記憶がフラッシュバックするのを止められなくて、あの時の映像が鮮明に頭の中に思い浮かんで、その度に鳩原は肩を震わせながら吐いた。
招木はその背中を黙ってさすっている。
やがて疲れ果てた鳩原が、荒い呼吸を繰り返しながら顔を伏せた。涙と鼻水と吐瀉物でぐちゃぐちゃになった顔面を隠すようにして、小さく呟く。
『あたしはダメなやつなんだ……』
ここまで拒絶反応が出るのなら、自分はもう人を撃つことができない。
それを確信した。遠征選抜試験をクリアすることなどできないとわかってしまった。
真っ先に思ったのは、二宮隊への申し訳なさだった。あたしが人を撃てていたら、もっと上に行けるチームなのに。
自分が足を引っ張っている事実に頭が酷く痛む。
そして遠征に行けないのならば、行方不明となった弟を探しに行くことすらできない。
疎開した実家とは疎遠であり、唯一残った鳩原の心の支えだった弟のための遠征は、手が届かないと実感した。
すべてが崩れていく感覚に、鳩原は全身から力が抜けてぐったりしている。
『鳩原。今日はうちに泊まっていって』
『……?』
意識も曖昧な鳩原を、招木は泊まらせることにした。
汚れた衣服を脱がし、風呂に入れ、全身を洗ってやる。着替えの心配はなかった。招木の部屋にたまにお泊まりに来る女子たちがいるので、彼女らが忘れていったものでいくらでも代用できる。
ここまでくると鳩原はされるがままだった。大人しく服を着せられ、髪を丁寧に乾かされ、客用の布団を敷くより先に招木のベッドに寝かされる。
『あ。電話……』
ぼーっとする鳩原がふと呟くように、彼女の携帯に着信が入った。招木が確認すると二宮から電話がかかっている。
招木は電源を落とした。そして遠くの方に置く。
『私の方だったみたい。今日はこのまま寝ちゃおうか』
そして部屋の電気を暗くして鳩原を寝かせた。今の彼女とは何を話しても悪い方向に受け取るだろうし、たくさん吐いて体力を失っている。
本当は胃に優しいものでも食べさせてやりたかったがその暇もなく、真っ暗な部屋で鳩原はすこんと眠りに落ちた。
翌日の鳩原は恐縮しきっていたが、招木が無理を押し通して数日泊まらせた。かなりのショックを受けていたので強く反発することもなく、鳩原は招木の部屋で数日寝込んだ。
『どうしてここまでしてくれるんですか』
『前も言ったでしょ。抗う君を尊敬しているからだよ』
そう返すと、鳩原は元気のない様子で小さく笑った。
このことは二人だけの秘密だった。招木は二宮に言われた接触禁止令を破った上に、絵馬との"二人きりにならない"約束さえ守ることはできなかった。
それでも招木は鳩原を優先した。ショックを受けて疲弊した彼女を見て、言いつけのために放置する選択肢を選ばなかった。
鳩原も、その数日間は「一人で寝込んでいました」と二宮隊に嘘をついた。
この出来事を、招木と鳩原以外は誰も知らない。
「鳩原先輩、試験頑張ってね。何するのか知らないけど」
「うん。応援してるよ」
「ありがとう、ユズル。ありがとうございます、招木さん」
鳩原が穏やかに笑う。
遠征選抜試験がまもなくやってくる。決断をする日は必ずやってくる。
人を撃つことができない狙撃手が何を成し遂げるのか、招木にはまだわからない。
彼女の行く末を案じることしかできない自分が、もどかしかった。どうか、彼女の選ぶ道が少しでも幸福なものでありますように。
そう願うばかりだった。
Xデーは迫っている。
ということで、次回Xデーです。
物語が大きく動き出します。