「おにいさん、隊員証作ろ!」
ある日の昼の真っ盛りのことだ。前回の探索からいつの間にか暫く時間が経ち、お互いがお互いに慣れ、おにいさんが我が物顔で秘密基地で寝転び始めた頃。ハルはぐでりと体を横にしたおにいさんを無理矢理起こして、腰に手をやり、張り切っているようにおにいさんへと提案(ぜったい)をした。
「……隊員証?」
「そ! ちなみに俺のはこれね」
その言葉に疑問を返したおにいさんに、ハルは黒のパーカーのポケットに手を突っ込み、自慢するかのようにおにいさんへ自身の隊員証を見せつけた。ダンボールを小さく長方形に切り取ったようで、その土台の左側には自身の似顔絵か、隣には拙い字で「ハル」と片仮名で書かれている。周りには星や丸などの色とりどりな装飾も貼られていて、手作り感は満載だがちょっとした自己紹介ができるぐらいには上出来だ。
「上手だな。……これを私も作ればいいのか?」
「うむ、これペンとのりね。切り取りだけしたから好きに書いて!」
ハルの突発的行動は今に始まったことじゃないため、おにいさんは揺らぐことなく素直に従った。ダンボールには何から書こうか……と、ハルの隊員証を見本にしようとおにいさんは横目で眺めながら考える。絵を描くことは苦手だし、自身は名前を持っているほどの立場ではない。
「……名前」
「そういえばおにいさんの名前知らないや、なんていうの?」
ハルは地面に切り取られたダンボールを寝かせて、思考するおにいさんの肩に顎を乗っけた。
少ない時間とはいえ一緒に探検をした仲というのに、知らなかったのが不思議である。
「ああ、私にそんな特権はないんだ」
「とっけんん? なにそれ、名前に特権なんてないでしょうに」
ハルにおにいさんの表情は見えない。ただ、ペンを握る片手がぴくりと動いた様子が頭にこびりついた。特権はないと言ったこの世界を生きていたら自身を象徴するものは、前提として親に貰うものだ。どこかで捨てられた新聞を読み、印象に残った『生きる者たち』というタイトル。誰かに面倒を見てもらわなければ、すぐ脆くなって息絶えてしまう時期で親と離れ離れになってしまう人間はどこにだって居るらしい。その道を辿れば、生きるか、死ぬか――そんな運良く生き残ることが出来た人間の中に、名前を持たない人らが居る。
おにいさんも、そういう部類なのだろうか? とハルは思う。
正直、名前なんかなくても自身を証明することは出来るというのがハルの持論なのだが。
「つまり名前ないってこと?」
「そうだ」
「じゃ、おにいさんでいいじゃん」
おにいさんの返事も聞かず、ハルは近くに転がっているクレヨンを手に取り、おにいさんの隊員証へと書き込んだ。――「おにいさん」、今までと何ら変わりはないが、いせかい秘密探検隊の1メンバーとして刻まれた名であった。
***
おにいさんの隊員証が出来たことで、ハルのテンションはブチアゲ状態である。約束を果たすために「いせかい」という未知を追求する日々、探検隊を作ったのは一種の憧れだったからだ。
そんなこんなで次やることと言えば、ずばり。
「これ、なんでしょう!」
ハルは、とある禍々しい分厚い本を見せびらかすようにおにいさんへ突きつけた。
「……? 変な本だな」
「ね、俺もまだ中身見てないんだ」
分厚い本の正体は、何でも屋さんで店主に頂いた多分オカルト的な内容が書かれた本である。おにいさんはその本をじろりと睨むように見ていた。黄金で描かれた目が何とも独特で、惹き込まれそうなほどよく出来ている。
「とーいうことで、開封!」
開かない。
「……うん?」
もう一度開こうと、ぐぐぐと指に力を入れた。
「えっ、開かないんだけど。そんなことある?」
そんなことがあるらしい。禍々しい本は、まるで接着剤で塗り潰されたかのように1ミリたりとも動いたりはしない。本は読むためにあるものなのに、そんなことがあっても良いのだろうか。
「これが現象のひとつなのか」
「やだーーーそんな現象地味ーーーー!」
これがいせかいや、そういう非現実的に満ちた「現象」ならば、あまりにも地味で役に立つものとは思えない。不服です、と言わんばかりに口をへの字に歪めたハルを見て、何を思ったのかおにいさんは口を開く。
「少し、貸してもらえるか」
「? はい」
おにいさんはハルから本を受け取った。そうして、プロ野球選手並みの綺麗なピッチングフォームを作った途端。
「フンッ!!」
「はあッ!? なにしちゃってんのおにいさん!?」
本は風のようにコンクリートの壁に衝突し、とてつもない音を立てて地面に落下した。
「ほら、本には傷1つ付いていない。むしろ、地面の方が怪我しているぞ」
本の下は、1センチほど抉れている。ここ周辺の建築物や道は全てコンクリートが主で、上から掛かる力に強いと言われているはずなのだが。
「そういう問題じゃなくてさぁ……。まあいいや、かなり強いみたいね、コレ。でもダンベル並に重いわけじゃあないし、皮で出来た表紙でもそんな強いかぁ?」
むむむ……と悩み、ふと思い至る。
「……条件を満たせば開く?」
何処かの学校の七不思議や、何処かに広がる都市伝説でも、必ず「条件」を満たさなければ遭遇できないものだ。それが簡単だったり難しかったりなんかは関係ない。
そう仮定するのなら、この本の条件はどういうものなのか、2人は様々な方法で試すことにした。
最初に水に沈めた。
近くに井戸などないし、飲料水は貴重なため、2人は暫く歩き、その先にある壊れた排水管から流れる水を使った。開かなかったが、濡れない特性を持っていることを知れたため、僅かながらも進展を得た。
次に、火で炙った。
火を灯す道具については、秘密基地の物置エリアの奥に転がり落ちていたライターで全て解決した。これも水と似たように、燃えない特性を持っている。
その次に、適当な魔法陣を描いたのち、中心に本を置いて縁に沿って回りながら踊ってみた。何も効果は無く、おにいさんは終始虚無が顔にへばりついていた。
太陽の下で照らす、自然を感じさせてみる、表紙に「開け馬鹿」と書いてみる、二礼二拍手一礼してみる──など、言いきれないほど色々なものを試してみたが一向に開く気配はない。
「んーー……そうなると、時間とか場所が条件なのか、もっと複雑なやり方が必要とかもありそうだね」
「何通りもあるんじゃないか、それって」
「ウン……だから全部試そうと思うと大変なんだよね」
それでも、ハルは輝いて見えた。
空はもう朱色が降りてきた頃だ。赤く帯びた雲がゆったりと流れていく様子を、2人は座り込んで眺めていた。今までハルだけだった頃の停滞具合と比べてしまえば、こんなにも難航中の時間が可愛く思えてくる。
「えーー……本、本かぁ。時間が条件なら、夕方から深夜までが多いかな。場所も有り得る、か? ……範囲が広い……よし、丁度いいしおにいさん! 探検しよう!」
「子供が夜に出歩くのは不用心じゃないか?」
おにいさんは微かに心配の色を滲ませた。
確かに、子供が夜に路地裏をほっつき歩くだなんて危険の塊であるが――
「まあそうなんだけど、おにいさんも探検隊としてここら辺を覚えてもらわないと! だから何かあったらお兄さんが守って〜」
そんなのは今更だ。
「あ、でも一応俺が作った地図もあるから明日書き写しておくね」と付け足して、ハルは虫取り網をおにいさんの手に持たせ、トートバッグを肩掛けた。
「地図があっても無くしちゃったら大変だからね、ちゃんと目と足で覚えて!」
「ああ、分かった。……ちなみに、この虫取り網は何のために必要なんだ?」
「不審者捕獲用」
「何を言っているんだ」
***
ハルは懐中電灯で周りを灯し、おにいさんの1歩前を歩いていた。此処には光がない。
都市は便利だ。便利で、明るくて、速い。だからこそ、その速度についていけなかったものたちは、細い路地へ追いやられる。そこは文明の裏側であり、忘れられたものたちの溜まり場だった。そんな場所に光は必要とされていないのだ。人が通らず、監視カメラも向かず、店も存在しない場所を、都市はわざわざ明るくしない。
「ここはねー、朝とか昼ならちょいマシだけど、基本ずっと暗いから懐中電灯は携帯しといた方が楽だよ」
「成程、覚えておく」
だが、そんな場所をハルは気に入っているのだ。暗いからこそ、秘密基地に飾られたイルミネーションはよく映えるし、夜に上を向けば、複雑に絡み合ったパイプの群れの隙間から見える小さな星々が綺麗なのだ。
淡々と足を進める中、おにいさんが口を開く。
「こういう路地は、あまり良いイメージが湧かないな」
「俺は好きなんだけどなあ、でも実際俺みたいに住んでる人も「ここは薄汚くて、社会のはぐれ者が……」とかなんちゃら言ってた気がする」
とっくに忘れかけていておぼろげだった記憶が、突然輪郭を保ち始めた。ある夏の季節、髭を生やした赤いニット帽を被る季節外れなおじさんを、ハルは思い出した。声はもう覚えていないけれど、その言葉は印象に残っていたのだ。随分と前のことだから、今はどうしているのかは分からないが。
「他にも在住者が居るのか?」
「……まあ、いるっちゃいるかな。あんま外に出てこないだけでね」
「ふむ……」
路地を拠点にして動くような人間自体は、あちこちにいると思える。むしろ、毎日暗闇を知らなさそうな顔をして走り回る子供の方が珍しいと断言できる。……世間が想像するような「普通」で言えば、こんな薄暗い場所に住み込む人間は何か後ろめたいことがあって、人から身を隠して生きることが「普通」なのだ──もちろん、それは世間にとってだ。例外は、必ずある。
道端にありふれているような小石がハルの足元に近づいた。それに目掛けて、少し勢いをつけて蹴飛ばす。小石が飛んだ先には、宙に浮かんだ光る鋭い目玉のようなものが2つ。
「あ、ねこだ!! 珍しッ!!」
「珍しいのか」
「超珍しいね、あとここら辺にいる動物からは逃げた方がいいよ! 引っ掻かれそうになるから。感染症にでもかかっちゃったら大変」
置かれた状況によって、簡単に染まってしまう人と同じように、こんな場所にいる野良猫が凶暴なわけがないのだ。
その言葉を聞いた途端、おにいさんさんがハルを持ち上げ、脇に抱えて走り出した。
「っわ、……! は、早ッ」
「早く言えッ! なんでそんな呑気なんだ!」
「だって可愛いしっ」
「言ってる場合か!」
ハルは、必死に足を動かすおにいさんの顔を見つめていた。確かに、間違えて引っ掻かれでもしてしまって、病にでも罹ったら、身分も何をしているかも分からない人物に治療をしてくれるような施設はない。
猫が追ってきているのか分からないまま、2人は随分と遠いところまで来てしまった。
「結構走ったね、大丈夫?」
まだ抱えられたハルは、呑気そうにおにいさんへと心配の声をかけた。その様子に、おにいさんは大丈夫じゃないが?とでも言うような視線を向ける。
「……ハァ、君なぁ……」
「ごめんね。走らせちゃって」
おにいさんはため息をついて、ゆっくり首を振る。おにいさんの心の内にある感情は些細なものだろうが、ハルは、その姿に自分は悪いことをしたのだろう、と思った。
表面上では軽い物言いだったが、それには確かに申し訳ないのだろうとおにいさんは理解はできた。
が、そうではないのだ。
「いや、……そうじゃないんだがな」
「なにが?」
おにいさんが言いたいことは、そうではない。
「いいや、……何でもない。けど、ああいう行動をするのはこれからは辞めた方がいい。命が削られるぞ。ただえさえ、こんな薄暗い場所にいるんだ、自分を大切にしろ。……ハァ、もとより怒ってはいない。だから、そんな不安な顔をしなくてもいい」
「……? そうだね? 俺も、しにたくはないかな。気をつけるね」
本当に分かってくれたのだろうか、と思うところはあるが、まあいい。
おにいさんは、おもむろにハルへ手を伸ばし、頭へ乗せる。そうして優しくこすった。
「……な、なに。どしたの……?」
「何でもない。……それより、ここはどこら辺だ?」
「モヤつくなぁ……。えっと、場所は多分……この辺の道かな。俺の記憶だと、近くに自販機があるはずなんだけど……っと、あれ」
ハルは手書きの地図をポケットから取り出し、現在地を調べようと目を通す。そして今いる所を指で示そうと思ったところで、その指は空中で止まった。
「ん、どうした」
「いや、なんか鞄が……うわなにこれ」
「……禍々しさが増していないか?」
「明らかに増してるね、……?」
トートバッグの中から顔を出す本は、何か様子がおかしかった。
光ってはない。だが、光っている。
何かを纏っている、でも、それは見えない。
分からない。だが、あの本の周りだけ空気が、空間が歪んでいるようで。
誘われたかのように、緩やかな動作でハルは本を開いた。
「……え?」