ヒナがディーノと会うことに疑問をもたなくなったころ、ヒナは母親から「大事な話がある」と声をかけられた。
「大事な話……」
ヒナは母親の言葉を繰り返すように呟いた。嫌な予感しかしないのだ。
それもそのはず、ヒナはこの言葉に何度も振り回されている。イタリアに住むと3日前に知らされた時もこの言葉から始まった。今となっては驚きで声すらも出なかったのもいい思い出だ。
ただしこの言葉を聞いた今は笑い話に出来そうにないが。
「母さんね、仕事やめたの」
絶句。
ヒナの頭の中でグルグルといろんな疑問がまわる。それを察したのか、ヒナの母親はすぐに声をかけた。
「大丈夫。次の仕事は決まってるわよ」
ヒナはホッと息を吐く。そしてヒナは先にそれを言ってよと怒りたくなるほど心に余裕が生まれた。
しかしヒナの母親はそんな程度の爆弾発言では終わらない。
「でね、その仕事が世界中を飛び回るのよ。でもヒナは私についていくより学校に通ったほうがいいと思うの」
ヒナの母親はヒナにもわかりやすいように優しく声をかける。もっともその内容はヒナが簡単に頷けれるものではない。
「1人にするのは心配だから、治安のいい日本がいいと思うのよ」
ヒナは日本での生活を思い浮かべる。だが、ヒナの記憶では親戚と会ったことはなかった。
「……もしかして、隣のおばさん?」
そのためヒナが思い浮かんだのは日本で世話になった隣に住んでいたおばさんだった。ヒナは母親の帰りをおばさんの家で待たせてもらったり、料理を教えてもらったことがある。日本を離れる時に泣いてくれた隣のおばさんがヒナは大好きだった。
「違うわよ」
「え!?」
驚くしかなかった。ヒナの中では隣のおばさん以外に日本で頼る人がいない。唯一の家族と離れることになるのもあり、ヒナは不安でしかない。気を抜けば涙ぐむほどだ。
「あの……その……」
母親が言いよどむ声を聞き、ヒナは顔をあげる。ヒナの母親は1度決めたらすぐに実行するタイプで躊躇する方が珍しい。まして顔を真っ赤にして、どこか恥ずかしげな顔をする母親を見るのはヒナでも滅多になく、まじまじと見つめてしまう。
意を決したのか、ヒナの母親は顔を勢いよくあげて言った。
「母さん、お付き合いしている人がいるの……! その人が日本人でね……日本に家があって……」
幼いといってもヒナは母親が何を言いたいのか理解できた。新しい父親が出来るのかもしれない、と。
「新しい仕事はその人とね……」
あれ?とヒナは首を傾げた。新しく出来る父親と一緒に住んでほしいという話かと思っていたのだが、母親と一緒に世界を飛び回るらしい。
「それで……息子さんが日本に住んでるのよ」
まさか再婚同士だと思わずヒナは一瞬驚いたが、母親の言いたいことは理解できた。
「その息子さんと一緒に住んでほしいの?」
「そうなのよ!!」
うーん、とヒナは考える。知らない息子さんと一緒に住むのは大変だとわかっているし母親と離れるのは寂しいが、子ども同士で仲良くならなければ再婚できないだろう。ヒナは母親に幸せになってほしい。それにいくら放任主義の母親でも時々会いに来るはずだ。
「わかった!」
母さんの幸せのためにも頑張る!とヒナは決心した。だが、それでも不安なので母親から息子さんについて教えてもらうことにする。
「どんな人なの? 息子さんね!」
父親については聞くつもりはなかった。当分一緒に過ごすことはなく、母親が選んだ人なのだから大丈夫という根拠のない確信がヒナの中ではあるのだ。
「あの人が言うには……1人で何でも出来るみたい。今も1人で住んでるんだって。性格は変わってるって聞いたけど……ヒナも1人で出来るから同じ家に住むだけで顔合わせなくても別に問題ないって……」
最初はうんうんと頷いていたヒナだったが、不安になる気持ちを抑えることが出来なくなった。
「後は……仲良くしようと思わなくていい。いえ、違うわ。仲良く出来ないと思うから気にしなくていいって言ってたわね」
仲良く出来ないと言われ、ヒナは思った。果たして一緒に住む意味はあるのか、と。
「大丈夫よ! 息子さんへの手紙を渡せばわかってくれるらしいから! だからこれ無くさないでね」
ヒナは受け取りながら首を傾げる。国際電話というものがある時代に、手紙が必要な時点でおかしい。
「息子さんに話してないの……?」
「ケイタイ番号変わったみたいでねー。繋がらないって言ってたわ」
ちょっと困ったように話す母親はどれだけ能天気なのだろうか。
「あの、母さん……」
わかったと返事をしたものの、何とかして中止することは出来ないかとヒナは考える。
が、そんな時間は残されてなかった。
「ここに明日の飛行機のチケット置いてるわよ。じゃ、仕事に行くわ。見送り出来なくてごめんね。ヒナ、元気で過ごすのよ!」
がっしりと抱擁され、「大事な話がある」という言葉の恐ろしさをヒナは再認識する。
治安を気にするならなぜ見送りに来ないのだろう。そしてなぜチケットの日付は明日なんだろう。いろいろ言いたいことがあったが、ヒナはがっしりと抱擁され諦めるしかなかった。
次の日、何とか荷物をまとめたヒナは空港に居た。母親の姿はなかったが、1人ではない。ディーノが部下の人と一緒に空港まで送ってくれたのだ。
「ありがとう。ディーノ兄さん」
「これぐらい問題ねーよ。それより、本当に行くのか?」
車の中で急遽日本に帰ることになった理由を聞いたディーノは心配だった。あまりにも放任過ぎる。
本人でさえ思っているので、ヒナにもディーノの言いたいことがわかる。だから笑って返事をした。
「大丈夫だよ。母さんは私のことをちゃんと考えてるから」
連れて行けるなら連れて行っている。
1番間近でヒナは母親のことをずっと見てきた。傍から見れば子どもより男性または仕事を選んだと思うかもしれないが、ヒナは違うと断言できる。
「今いないのも、母さんは随分前に私の前では泣かないって決めたからだと思うの」
「……そうか」
女手1つで育ててるには苦労も多いだろう。ディーノはそのことについては何も言わないことにした。だが、これだけは伝えてる。
「気をつけろよ? 日本に住んでるのは男なんだろ?」
「それも大丈夫だよ。母さんが決めたから」
絶対の自信がヒナにはあった。ヒナが懐いていた隣のおばさんに頼む選択だってあったはずなのだ。いくら家族になるかもしれない人物に理由もなくヒナの母親はヒナを預けたりしない。
「それにどうしてもダメだったら、母さんに相談するよ」
「……わかった。だけどその時はオレにも頼ってくれよな? ヒナぐらいオレには問題ないんだ」
ディーノの心配性に思わずヒナは笑みがこぼれる。母親に関しては絶対の自信はあるが、不安がないわけではない。
「ありがとう! すっごく気が楽になったよ!」
「オレは本気だぜ?」
ヒナは頷く。ディーノが冗談を言わないと短いの付き合いの中だが知っている。それでも笑い話になりそうな内容だが、海外で過ごしていたヒナにはホームスティという制度をつかって学校に通う人をこの目で見たことがある。ディーノの家から学校へ通うという行為に違和感はない。
「まっ近いうちにオレも日本に行くけどな」
「え!?」
「ちょうどオレの師匠も日本にいるんだ。向こうが落ち着いたぐらいに会いに行くつもりだったんだ。だからいつでも言ってくれ」
「……ディーノ兄さん」
ヒナはディーノの優しさに感動した。あの時、声をかけて良かったと心から思えた。
「ありがとう、ディーノ兄さん! ヒナ、行ってくる!」
「ああ。またな!」
「うん!!」
ディーノが見えなくなるまでヒナは何度も振り返り手を振り、別れを惜しみながら日本へ向かったのだった。