アリス・マーガトロイドは、その日、魔法の森の自宅で人形の修繕をしていた。
机の上には、片腕の取れた人形が一体。横には針、糸、細い金具、小さな靴、替えのリボン。窓の外では森の霧がゆっくりと流れ、室内には紅茶の香りと、木屑と古い布地の匂いが混じっていた。
静かな午後だった。
静かすぎて、かえって嫌な予感がした。こういう時に限って、面倒ごとはやってくる。
「……いるんでしょう」
アリスは針を置かずに言った。
返事はない。けれど、部屋の隅の空間がわずかに裂けた。まるで布の縫い目を指で押し広げるように、現実の境目がゆっくりと開く。その向こうから、扇を持った女が顔を出した。
八雲紫。
幻想郷の境界を操る妖怪は、悪びれもせずに微笑んでいた。
「相変わらず勘がいいのね」
「勘じゃないわ。あなたが来る前は、部屋が不自然に静かになるのよ」
「まあ。歓迎されているのかと思ったわ」
「そう聞こえたなら、少し休んだ方がいいんじゃない?」
紫はくすくす笑いながら、隙間から半身を出した。上がり込むつもりらしい。アリスはため息をつき、縫いかけの人形から針を抜いて、作業を止めた。
紫が現れる時は、細かい作業を続けるには向いていない。以前、そのまま作業を続けて縫い目を一つずらしたことがある。原因は紫ではなく自分の不注意だと分かっているが、気分としては紫のせいにしたかった。
「紅茶は?」
「いただくわ」
「遠慮がないのね」
「あなたが聞いたのでしょう?」
「聞いただけよ。即答されると、少し癪なの」
「あなたの紅茶を断る理由がないもの」
「そういうところよ」
文句を言いながらも、アリスは立ち上がった。来客に茶を出す程度の常識はある。相手が八雲紫でなければ、もう少し気持ちよく用意したかもしれない。
茶葉を量りながら、アリスは横目で紫を見た。紫は勝手に椅子へ腰かけ、机の上の人形を眺めている。
「触らないでね」
「分かっているわ」
「あなたの“分かっている”は、あまり信用していないの」
「ひどいわね」
「日頃の行いよ」
紫は楽しそうに笑った。
「綺麗に直すのね」
「自分で作ったものだもの。壊れたからって、簡単には捨てないわ」
「壊れたものを、壊れる前に戻す。あなたらしいわ」
「腕一本直すだけで、そんな大げさな話にしないで」
「大げさかしら?」
「その顔で言う時は、だいたい面倒な話に繋がるのよ」
紫は否定しなかった。
否定しないということは、つまりそういうことだ。
アリスは紅茶を注ぎ、カップを紫の前に置いた。紫は礼を言うでもなく、それを手に取る。言われなくても出てくると思っていた顔だった。
「外の世界で、妙な揺らぎがあるの」
「外の世界?」
アリスは眉をひそめた。
「それはあなたの領分でしょう。私に言うこと?」
「私の領分だから、あなたに頼みに来たのよ」
「理屈が逆ではないかしら」
紫は紅茶を一口飲み、満足そうに息を吐いた。
「外の世界から、幻想郷へ届くはずのないものが届いている」
アリスは椅子に座り直した。紫の声から、先ほどまでのからかいが少し薄れていた。
面倒な話は嫌いだ。
だが、紫がこういう声を出す時は、聞かないまま追い返す方がもっと面倒になる。
「外の世界では、神秘は薄れているんでしょう?」
「ええ。信仰も、畏れも、噂も、かつてほど強くはない。だからこそ、幻想となったものは幻想郷へ流れ着く。こちらは、そういう場所だもの」
「なら、外に残る揺らぎなんて珍しいわね」
「珍しいわ。だから妙なのよ」
紫は扇でカップの縁を軽く叩いた。
「外の世界の出来事は、普通なら外の世界の理に沈むわ。事件なら事件、事故なら事故、噂なら噂。名前を与えられ、説明され、神秘ではなくなる」
「それが、今回は違うの?」
「完全に違うわけではないわ。最後には、外の世界の言葉で処理されている。けれど、その前に一度だけ、こちら側まで届くほどの歪みになる」
「こちら側まで?」
「ええ。誰かの嘘、恐怖、隠し事、悪意。そういうものが重なって、現実から少し浮き上がる。でも、それは長く続かない」
アリスはカップに手を伸ばしかけ、止めた。
「消えるの?」
「消えるというより、ほどけるの」
紫はアリスを見た。
「まるで絡まった糸を、誰かが一本ずつ解いているみたいに」
「私に分かりやすいように言っているの?」
「ええ」
「そこは否定してほしかったわ」
アリスはため息をついたが、否定はしなかった。
糸が絡む。糸が張る。糸がほどける。
人形を扱う者として、その感覚は分かりすぎるほど分かる。見える糸だけではない。魔力の流れ、意識の向き、動かすものと動かされるものの関係。そういうものを、アリスはいつも感覚で捉えている。
ただ、それを人間の嘘や恐怖にまで広げて考えるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。
「それで?」
アリスはカップを持ち上げた。
「私に何をさせるつもり?」
「まだ何も言っていないわ」
「あなたがここまで話しておいて、ただの世間話で済むはずがないでしょう」
「鋭いわね」
「付き合いが長いだけよ」
紫が扇を軽く振ると、机の上の空間が細く裂けた。
隙間から、薄い紙が一枚落ちる。外の世界の地図だった。細かい道路、駅、川、公園、住宅街。そして、赤い丸で囲まれた地域。
紫はその紙を指先で押さえ、地図の上をゆっくりとなぞった。
「米花町」
アリスはその名を読み上げた。
「ずいぶん平和そうな名前ね」
「名前だけならね」
「嫌な言い方」
「事実を柔らかく言っただけよ」
「今ので柔らかいなら、硬く言うのはやめておいて」
紫は小さく笑った。
「そこに揺らぎが集まっている?」
「最近、特に濃くなっているわ」
「最近?」
紫は少しだけ目を伏せた。
「十七年前から、かすかな綻びはあったの。大きな死と、隠されたものの気配。けれど、それは遠くて薄かった。境界の端に、指先が触れるくらいのものだったわ」
「十七年前って、ずいぶん前じゃない」
「妖怪の感覚では、少し前よ」
「人間の感覚なら、子どもが高校生になるくらいの時間よ」
「だから外の世界は忙しないのね」
「そういう話ではないでしょう」
アリスは地図を見下ろした。
「詳しいことは?」
「分からない」
紫はあっさりと言った。
アリスは思わず顔を上げる。
「分からない?」
「ええ」
「今、かなり大事なところで分からないと言わなかった?」
「言ったわ」
「もう少し申し訳なさそうにしてもいいと思う」
「誰が死んだのか、何が隠されたのか、外の世界でどう処理されたのか。そこまでは見えない。ただ、綻びがあったことだけは分かる」
「そして最近、その綻びが米花町に繋がってきた」
「ええ。そこでは、外の世界の出来事が一度歪みとして膨らみ、すぐにほどける。何度も、何度も」
「誰かがほどいているの?」
「それを知りたいの」
紫の答えは短かった。
アリスは紅茶に視線を落とした。
茶面には、自分の顔がぼんやり映っている。面倒だと思っている顔だった。実際、面倒だと思っている。
けれど同時に、少しだけ気になっている顔でもあった。
絡まった糸が、何度もほどける町。
誰が、どうやって。
アリスは小さく息を吐いた。
「……聞くだけ聞いてあげるわ」
紫は、それを最初から分かっていたように微笑んだ。