東方米花異聞   作:秋刀魚食べたい

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構成・文章整理の補助として生成AIを一部使用しています。内容は作者が加筆修正しています。


第1話 境界に届くもの

 

アリス・マーガトロイドは、その日、魔法の森の自宅で人形の修繕をしていた。

 

机の上には、片腕の取れた人形が一体。横には針、糸、細い金具、小さな靴、替えのリボン。窓の外では森の霧がゆっくりと流れ、室内には紅茶の香りと、木屑と古い布地の匂いが混じっていた。

 

静かな午後だった。

 

静かすぎて、かえって嫌な予感がした。こういう時に限って、面倒ごとはやってくる。

 

「……いるんでしょう」

 

アリスは針を置かずに言った。

 

返事はない。けれど、部屋の隅の空間がわずかに裂けた。まるで布の縫い目を指で押し広げるように、現実の境目がゆっくりと開く。その向こうから、扇を持った女が顔を出した。

 

八雲紫。

 

幻想郷の境界を操る妖怪は、悪びれもせずに微笑んでいた。

 

「相変わらず勘がいいのね」

 

「勘じゃないわ。あなたが来る前は、部屋が不自然に静かになるのよ」

 

「まあ。歓迎されているのかと思ったわ」

 

「そう聞こえたなら、少し休んだ方がいいんじゃない?」

 

紫はくすくす笑いながら、隙間から半身を出した。上がり込むつもりらしい。アリスはため息をつき、縫いかけの人形から針を抜いて、作業を止めた。

 

紫が現れる時は、細かい作業を続けるには向いていない。以前、そのまま作業を続けて縫い目を一つずらしたことがある。原因は紫ではなく自分の不注意だと分かっているが、気分としては紫のせいにしたかった。

 

「紅茶は?」

 

「いただくわ」

 

「遠慮がないのね」

 

「あなたが聞いたのでしょう?」

 

「聞いただけよ。即答されると、少し癪なの」

 

「あなたの紅茶を断る理由がないもの」

 

「そういうところよ」

 

文句を言いながらも、アリスは立ち上がった。来客に茶を出す程度の常識はある。相手が八雲紫でなければ、もう少し気持ちよく用意したかもしれない。

 

茶葉を量りながら、アリスは横目で紫を見た。紫は勝手に椅子へ腰かけ、机の上の人形を眺めている。

 

「触らないでね」

 

「分かっているわ」

 

「あなたの“分かっている”は、あまり信用していないの」

 

「ひどいわね」

 

「日頃の行いよ」

 

紫は楽しそうに笑った。

 

「綺麗に直すのね」

 

「自分で作ったものだもの。壊れたからって、簡単には捨てないわ」

 

「壊れたものを、壊れる前に戻す。あなたらしいわ」

 

「腕一本直すだけで、そんな大げさな話にしないで」

 

「大げさかしら?」

 

「その顔で言う時は、だいたい面倒な話に繋がるのよ」

 

紫は否定しなかった。

 

否定しないということは、つまりそういうことだ。

 

アリスは紅茶を注ぎ、カップを紫の前に置いた。紫は礼を言うでもなく、それを手に取る。言われなくても出てくると思っていた顔だった。

 

「外の世界で、妙な揺らぎがあるの」

 

「外の世界?」

 

アリスは眉をひそめた。

 

「それはあなたの領分でしょう。私に言うこと?」

 

「私の領分だから、あなたに頼みに来たのよ」

 

「理屈が逆ではないかしら」

 

紫は紅茶を一口飲み、満足そうに息を吐いた。

 

「外の世界から、幻想郷へ届くはずのないものが届いている」

 

アリスは椅子に座り直した。紫の声から、先ほどまでのからかいが少し薄れていた。

 

面倒な話は嫌いだ。

 

だが、紫がこういう声を出す時は、聞かないまま追い返す方がもっと面倒になる。

 

「外の世界では、神秘は薄れているんでしょう?」

 

「ええ。信仰も、畏れも、噂も、かつてほど強くはない。だからこそ、幻想となったものは幻想郷へ流れ着く。こちらは、そういう場所だもの」

 

「なら、外に残る揺らぎなんて珍しいわね」

 

「珍しいわ。だから妙なのよ」

 

紫は扇でカップの縁を軽く叩いた。

 

「外の世界の出来事は、普通なら外の世界の理に沈むわ。事件なら事件、事故なら事故、噂なら噂。名前を与えられ、説明され、神秘ではなくなる」

 

「それが、今回は違うの?」

 

「完全に違うわけではないわ。最後には、外の世界の言葉で処理されている。けれど、その前に一度だけ、こちら側まで届くほどの歪みになる」

 

「こちら側まで?」

 

「ええ。誰かの嘘、恐怖、隠し事、悪意。そういうものが重なって、現実から少し浮き上がる。でも、それは長く続かない」

 

アリスはカップに手を伸ばしかけ、止めた。

 

「消えるの?」

 

「消えるというより、ほどけるの」

 

紫はアリスを見た。

 

「まるで絡まった糸を、誰かが一本ずつ解いているみたいに」

 

「私に分かりやすいように言っているの?」

 

「ええ」

 

「そこは否定してほしかったわ」

 

アリスはため息をついたが、否定はしなかった。

 

糸が絡む。糸が張る。糸がほどける。

 

人形を扱う者として、その感覚は分かりすぎるほど分かる。見える糸だけではない。魔力の流れ、意識の向き、動かすものと動かされるものの関係。そういうものを、アリスはいつも感覚で捉えている。

 

ただ、それを人間の嘘や恐怖にまで広げて考えるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。

 

「それで?」

 

アリスはカップを持ち上げた。

 

「私に何をさせるつもり?」

 

「まだ何も言っていないわ」

 

「あなたがここまで話しておいて、ただの世間話で済むはずがないでしょう」

 

「鋭いわね」

 

「付き合いが長いだけよ」

 

紫が扇を軽く振ると、机の上の空間が細く裂けた。

 

隙間から、薄い紙が一枚落ちる。外の世界の地図だった。細かい道路、駅、川、公園、住宅街。そして、赤い丸で囲まれた地域。

 

紫はその紙を指先で押さえ、地図の上をゆっくりとなぞった。

 

「米花町」

 

アリスはその名を読み上げた。

 

「ずいぶん平和そうな名前ね」

 

「名前だけならね」

 

「嫌な言い方」

 

「事実を柔らかく言っただけよ」

 

「今ので柔らかいなら、硬く言うのはやめておいて」

 

紫は小さく笑った。

 

「そこに揺らぎが集まっている?」

 

「最近、特に濃くなっているわ」

 

「最近?」

 

紫は少しだけ目を伏せた。

 

「十七年前から、かすかな綻びはあったの。大きな死と、隠されたものの気配。けれど、それは遠くて薄かった。境界の端に、指先が触れるくらいのものだったわ」

 

「十七年前って、ずいぶん前じゃない」

 

「妖怪の感覚では、少し前よ」

 

「人間の感覚なら、子どもが高校生になるくらいの時間よ」

 

「だから外の世界は忙しないのね」

 

「そういう話ではないでしょう」

 

アリスは地図を見下ろした。

 

「詳しいことは?」

 

「分からない」

 

紫はあっさりと言った。

 

アリスは思わず顔を上げる。

 

「分からない?」

 

「ええ」

 

「今、かなり大事なところで分からないと言わなかった?」

 

「言ったわ」

 

「もう少し申し訳なさそうにしてもいいと思う」

 

「誰が死んだのか、何が隠されたのか、外の世界でどう処理されたのか。そこまでは見えない。ただ、綻びがあったことだけは分かる」

 

「そして最近、その綻びが米花町に繋がってきた」

 

「ええ。そこでは、外の世界の出来事が一度歪みとして膨らみ、すぐにほどける。何度も、何度も」

 

「誰かがほどいているの?」

 

「それを知りたいの」

 

紫の答えは短かった。

 

アリスは紅茶に視線を落とした。

 

茶面には、自分の顔がぼんやり映っている。面倒だと思っている顔だった。実際、面倒だと思っている。

 

けれど同時に、少しだけ気になっている顔でもあった。

 

絡まった糸が、何度もほどける町。

 

誰が、どうやって。

 

アリスは小さく息を吐いた。

 

「……聞くだけ聞いてあげるわ」

 

紫は、それを最初から分かっていたように微笑んだ。

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