東方米花異聞   作:秋刀魚食べたい

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雛人形回の後日談です。


第10話 人形が覚えているもの

 

アリス・マーガトロイド

 

写真というものは、どうにも落ち着かない。

 

人形工房マーガトロイドの作業机の端に、一枚の写真が置いてある。夕方の光を受けたエレベーターの前。少年探偵団と、観野さんと、なぜか自分。

 

歩美は中央で笑っている。元太は少し身を乗り出し、光彦は姿勢よく写り、コナンは子どもらしい顔をしている。灰原哀は端の方で、少しだけ呆れたような顔をしていた。そして自分は、どう見ても写真に慣れていない顔をしている。

 

「……不自然ね」

 

作業机の上で、上海が小さく首を傾げた。

 

「あなたじゃないわ。私よ」

 

上海は何も答えない。写真の中の歩美は、こちらの気も知らずに笑っている。

 

――アリスさんにもあげるね。友達だから。

 

友達。その言葉は、まだ作業机の上に置き場所を決められずにいる。引き出しにしまえばいいのか。壁に飾ればいいのか。店に置いておくには少し私的すぎるし、かといって見えないところへ片づけるのも、何か違う気がした。結局、写真は机の端に置いたままだった。

 

扉の鈴が鳴る。からん、という音に顔を上げると、歩美が両手で紙袋を抱えて立っていた。

 

後ろには、元太、光彦、コナン、灰原。

 

いつもの五人。

 

そう呼ぶにはまだ早い。けれど、五人そろって店に入ってくる姿を見ても、もう意外には思わなかった。

 

「アリスさん、持ってきたよ!」

 

「その袋が?」

 

「うん。お父さんに頼んで出してもらったの」

 

紙袋の中には、小さな箱が入っていた。菓子箱を再利用したものらしく、蓋には鉛筆で「ひな人形」と書かれている。字は大人のものだ。けれど、箱の角には小さなシールが貼られていて、どこか子どもの持ち物らしい。

 

「開けてもいい?」

 

「うん」

 

作業机の上を片づけ、柔らかい布を敷く。蓋を開けると、中には小さな女雛が入っていた。

 

大きなものではない。観野家の七段飾りとは比べようもない。けれど、顔立ちは整っている。衣も明るく、金の模様もまだよく残っていた。大切に飾られていた人形だ。

 

ただし、顔に傷がある。

 

白い肌の一部だけ、質が違っていた。上から塗り直した跡。けれど、その表面が剥がれ、下に残った赤黒い汚れが見えてしまっている。

 

「……なるほど」

 

歩美の指が、紙袋の持ち手を握り直す。

 

「やっぱり、ちゃんと直すの難しい?」

 

「難しくはあるわね」

 

歩美の顔が少し曇る。

 

「でも、直せないという意味ではないわ」

 

ぱっと顔が上がった。本当に、表情の動きが分かりやすい子だ。

 

「ほんと?」

 

「ええ。ただし、新品みたいにするわけではないわ。ちゃんと、この子の顔に戻すの」

 

歩美は、小さく息を吐いた。

 

「うん。それがいい」

 

元太が、気まずそうに目を逸らしていた。

 

「……俺が壊しちまったから」

 

「最初に壊したのは、そうかもしれないわね」

 

「うっ」

 

「でも、今この子が怖く見えているのは、あなたが壊したからだけではないわ」

 

元太が、そろそろと顔を上げる。

 

「違うのか?」

 

「壊れたことと、直した跡が怖く見えてしまったことは別よ」

 

光彦が女雛を覗き込む。

 

「直した跡、ですか」

 

「ええ。血の汚れを、上から塗って隠したのね」

 

「血……」

 

歩美の声が、少し小さくなる。言葉だけを聞くと、どうしても怖くなる。だから、できるだけ普通の作業の話として続けた。

 

「染み込んだ汚れは、無理に落とそうとすると人形の地まで傷めることがあるの。そういう時は、汚れを封じて、上から塗り直す方が自然なこともあるわ」

 

コナンが、少し目を細めた。

 

「じゃあ、前の修理が間違ってたわけじゃないんだな」

 

「全部が間違いとは言わないわ。ただ、この子の場合は、下地が弱い。汚れを封じる前に塗ったか、塗りを定着させきる前に戻してしまったのかもしれない。だから表面が剥がれて、下の赤黒さが出てしまった」

 

女雛の顔を、角度を変えて見る。怖くなったのではない。怖く見える形で、傷が出てしまっただけだ。

 

「じゃあ、また塗るんですか?」

 

「ええ。でもその前に、赤黒い色を少し落ち着かせる。完全に消すのではなく、上から整えた時に浮き上がらないようにするの」

 

「そんなことできんのかよ」

 

元太の声には、疑いより期待の方が多かった。

 

「普通は難しいわ」

 

コナンの視線が来る。しまった、と思った。この子の前で「普通は」などと言うと、必ず拾われる。

 

「普通は?」

 

「人形師の仕事よ」

 

「それで説明になってんのか?」

 

「細かい作業の話を聞きたいなら、三時間くらい座ってもらうことになるけれど」

 

「俺は別に――」

 

「コナンくん、遠慮しましょう」

 

光彦が横から止めた。

 

「そうだぞ。俺、三時間も人形の話聞くの無理だぞ」

 

「元太くんは最初の十分で寝そうですね」

 

「寝ねーよ!」

 

歩美がくすくす笑う。コナンはまだ何か言いたそうだったが、そこでいったん黙った。助かった。いや、助かったというほどではない。少し時間を稼いだだけだ。

 

「怖くなくなる?」

 

歩美の目が、また女雛へ戻る。

 

「ええ。怖くないようにはできると思うわ」

 

「この子、悪いお人形になっちゃったわけじゃないんだよね」

 

「なっていないわ」

 

そこは、迷わず答えられる。

 

「この子は、ただ傷が残っているだけ。傷そのものより、傷を隠した跡が怖く見えているの」

 

歩美は、布の上の女雛をじっと見つめた。

 

「そっか」

 

その横で、元太が小さくなっている。

 

「……悪かったな、歩美」

 

「もういいよ。元太くん、わざとじゃなかったし」

 

「でもよ……」

 

「今、謝る相手は歩美さんだけではないかもしれないわね」

 

元太が目を丸くした。

 

「え?」

 

女雛を見る。

 

「壊された人形にも、でしょう」

 

しばらくぽかんとして、それから元太は真面目な顔で女雛に向き直った。

 

「……悪かった」

 

大きな声ではない。けれど、ふざけてはいなかった。歩美の表情が、少しだけ柔らかくなる。光彦も、安心したように息を吐いた。

 

「元太くんが人形に謝る日が来るとは思いませんでした」

 

「うるせーよ」

 

「でも、ちゃんと謝れてえらいよ」

 

「歩美まで言うなよ!」

 

また少しだけ、店内が明るくなる。

 

女雛は何も言わない。人形は話さない。けれど、何も残さないわけではない。壊した手。謝った声。怖がった目。大切にしたいと思った気持ち。そういうものは、必ずどこかに残る。

 

「それで、修理代ってどれくらいかかるんですか?」

 

光彦の声に、手が止まった。

 

修理代。

 

そういえば、そういうものが必要だった。人形を直すこと自体は分かる。必要な材料も、手順も、どこを触れば傷むかも分かる。けれど、外の世界でそれにいくらの値をつけるのが自然なのかは、分からない。安すぎてもおかしい。高すぎてもおかしい。そもそも、雛人形の顔を一部直す相場など、知るはずがない。

 

「……少し作業してみないと、正確には言えないわ」

 

「買い直した方が安かったりするのか?」

 

元太が不安そうに箱を覗く。

 

「買い直した方が安い、という金額にはならないはずよ」

 

たぶん。

 

最後の一言は、もちろん口には出さない。

 

「ほんと?」

 

歩美の顔が明るくなる。

 

「ええ。少なくとも、私はこの子を買い直す話にはしたくないわ」

 

それなら嘘ではない。値段の話から、少しだけ人形の話へずらす。

 

「この子は、歩美さんの家のお雛様でしょう。別の人形を買えば同じ、というものではないもの」

 

歩美は、すぐに頷いた。

 

「うん!」

 

よかった。納得してくれた。

 

横から、コナンの視線が来る。

 

「ふーん」

 

「何かしら」

 

「いや。今の、修理代の答えにはなってないなって」

 

本当に、この子は余計なところを拾う。

 

「見積もりは、少し中を見てから。お店として普通でしょう?」

 

「顔ならもう見てたけど」

 

「外から見える傷と、実際に触って分かる傷は違うのよ」

 

「……まあ、それはそうか」

 

納得した、というより、いったん保留にした顔だった。外の世界の店主は、人形を直すより難しい。

 

歩美が、女雛を見つめる。

 

「じゃあ……アリスさんにお願いしてもいい?」

 

「ええ」

 

「絶対、迎えに来るからね」

 

女雛に向かって、そう声をかける。その言い方が、妙に自然だった。人形が聞いていると、最初から信じているような声。

 

この子は、人形を物として見ていない。それは、悪くないと思った。

 

その時、歩美の目が作業机の端へ向いた。

 

「あ、写真!」

 

しまった、と思う前に、もう見つかっていた。歩美がぱっと笑う。

 

「置いてくれてる!」

 

「置いているだけよ」

 

「でも、ちゃんと見えるところにあるもん」

 

「まだ置き場所を決めていないだけ」

 

「ふーん」

 

横から、コナンが覗き込んでくる。

 

「しまわなかったんだ」

 

「しまう理由もなかったから」

 

「友達からもらった写真だしな」

 

「……あなた、そういうところを見つけるのが上手いわね」

 

「見えるところに置いてあったからな」

 

「そうね」

 

歩美は、そんなやり取りを気にせず写真を見ていた。

 

「今度はもっとちゃんと撮ろうね」

 

「ちゃんと?」

 

「うん。アリスさん、ちょっと固いもん」

 

元太が写真を覗く。

 

「ほんとだ。なんか緊張してんな」

 

「元太くん、失礼ですよ」

 

「でも本当だろ」

 

「……否定はしないわ」

 

歩美が笑う。

 

「次は自然に笑ってね」

 

「努力するわ」

 

「やった!」

 

なぜ今ので喜ぶのか、よく分からない。ただ、嫌ではなかった。

 

写真の中の自分は、まだ少しぎこちない顔をしている。けれど、そこにいることだけは、もう否定できない。

 

「じゃあ、アリスさん。よろしくお願いします!」

 

歩美が頭を下げる。つられて、元太と光彦も頭を下げた。

 

「お願いします!」

 

「よろしくお願いします」

 

コナンは軽く手を振り、灰原は小さく会釈する。

 

「ええ。預かるわ」

 

箱の蓋を、そっと閉じる。

 

預かる。

 

その言葉は、思っていたより重かった。

 

   *

 

江戸川コナン

 

人形工房マーガトロイドを出てからも、さっきのやり取りが頭に残っていた。

 

血の染みを封じて、上から整える。理屈は分かる。人形を直す職人なら、そういう技術があってもおかしくない。

 

けれど、あの言い方だけは残っている。

 

――普通は難しいわ。

 

できることの範囲を知っていて、その理由だけを伏せたように聞こえた。

 

「やっぱり普通じゃねえよな……」

 

「彼女のこと?」

 

横から灰原の声がした。

 

「聞こえてたのかよ」

 

「聞こえたのよ」

 

「七段って、やっぱ多すぎだろ」

 

少し前を歩く元太の声が聞こえる。

 

「元太くんが覚えられなかっただけです」

 

「うるせーな」

 

「でも、綺麗だったよね」

 

歩美の声は、まだ少し弾んでいた。もう人形は店に預けたのに、まだ箱を抱えているみたいな顔をしている。

 

「怪しいと思うなら、調べれば?」

 

「調べてるよ」

 

「でしょうね」

 

灰原は、前を見たまま小さく息を吐いた。

 

「あの人、組織じゃないわ」

 

「それは前にも聞いた」

 

「でも、普通でもない」

 

「それもな」

 

住所も身分証も、店の存在も曖昧なままだ。バスジャックの時の落ち着き方や、時々出る妙な言い回しも引っかかる。

 

普通ではない。

 

それでも、歩美の人形を見る目だけは、嘘に見えなかった。できることと、できないことを分けていた。怖がる子どもを雑に励ましたんじゃない。本当に、あの人形を見ていた。

 

「アリスさんは悪い人じゃないと思うよ」

 

歩美が振り返った。

 

「何でだよ」

 

「だって、お雛様にも謝ってって言ってくれたもん」

 

少し照れたように笑う。

 

「人形にもちゃんと謝ってって言う人、悪い人じゃないと思う」

 

推理じゃない。証拠にもならない。でも、歩美にとってはそれで十分らしい。

 

「ま、油断はすんなよ」

 

「もう。コナンくんって、すぐそういうこと言う」

 

「大事なことだろ」

 

「アリスさんは友達だよ」

 

そう言い切られて、一瞬だけ返す言葉が見つからなかった。写真を見つけられた時のアリスの顔を思い出す。照れたような、逃げ場を探しているような顔。あれが演技なら、ずいぶん不器用な演技だ。

 

「……まあ、そうかもな」

 

「でしょ!」

 

歩美が笑う。

 

もう一度だけ振り返る。人形工房マーガトロイドの看板が、夕方の光の中にあった。

 

怪しい。普通ではない。けれど今のところ、敵ではない。

 

それだけは、たぶん間違っていなかった。

 

   *

 

アリス・マーガトロイド

 

子どもたちが帰ったあと、店内は急に静かになった。

 

さっきまで歩美の声があった場所に、扉の鈴の余韻だけが残っている。

 

紙袋から箱を取り出し、もう一度蓋を開けた。小さな女雛は、柔らかい布の上で黙っている。

 

「さて」

 

筆と綿を用意する。上海が小さな筆を運び、蓬莱が布を押さえた。客がいなくなってからの二人は、少しだけ動きが軽い。

 

「あなたたちも、あの子の前では気をつけてね」

 

上海が首を傾げる。

 

「あの子よ。江戸川コナン」

 

蓬莱まで、ぴたりと止まった。

 

「そう。あの子は見つけるのが上手いの」

 

女雛の顔へ視線を戻す。赤黒い跡。上から塗った跡。そして、その塗りが剥がれた跡。傷を隠すために触れたものが、別の傷になってしまっている。

 

人形では、よくあることだ。傷そのものより、隠した跡の方が目立つことがある。

 

浮いた塗りを、少しずつ確かめる。無理に剥がせば、顔の地まで傷む。けれど、そのままにしておけば、どれだけ上から整えてもまた剥がれる。

 

全部をなかったことにはできない。なかったことにしようとすると、かえって顔が変わってしまう。

 

残すところは残す。弱めるところは弱める。怖く見える部分だけを、少しずつ遠ざける。

 

「あなたも、大変ね」

 

女雛に向かって、つい声が漏れた。もちろん、返事はない。けれど、話しかける相手としては十分だった。

 

作業机の端で、写真が目に入る。

 

夕方の光。少年探偵団。観野さん。そして、端で少しぎこちない顔をしている自分。

 

置き場所をまだ決めていない。そう言い訳して、ずっと机の端に置いたままだった。

 

写真立てはない。当然だ。写真を飾る習慣など、ここへ来るまでほとんどなかった。

 

代わりに、細い角材を一本取り出す。人形の台座に使うつもりで残していた端材だ。写真の下辺が入るくらいの溝を、浅く彫る。

 

額縁というほど立派なものではない。ただ、作業机の端に写真を立てておくには、それで十分だった。

 

「……これでいいでしょう」

 

上海が写真を見上げ、それからこちらを見る。

 

「何よ」

 

返事はない。でも、少しだけ笑われた気がした。

 

「あなたまで余計なことを覚えなくていいの」

 

筆を取り直す。

 

怖くなったのではない。怖く見える形で、傷が出てしまっただけ。なら、やることは決まっている。傷をなかったことにはしない。ただ、この子がもう一度、この子の顔に戻れるように整える。

 

その日、決められずにいた写真の置き場所は決まった。




事件そのものは解決しても、残った傷や思い出まではすぐに片づかない、という話です。
アリスにとっても、歩美たちとの距離が少しだけ変わった回になりました。
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