アリス・マーガトロイド
写真というものは、どうにも落ち着かない。
人形工房マーガトロイドの作業机の端に、一枚の写真が置いてある。夕方の光を受けたエレベーターの前。少年探偵団と、観野さんと、なぜか自分。
歩美は中央で笑っている。元太は少し身を乗り出し、光彦は姿勢よく写り、コナンは子どもらしい顔をしている。灰原哀は端の方で、少しだけ呆れたような顔をしていた。そして自分は、どう見ても写真に慣れていない顔をしている。
「……不自然ね」
作業机の上で、上海が小さく首を傾げた。
「あなたじゃないわ。私よ」
上海は何も答えない。写真の中の歩美は、こちらの気も知らずに笑っている。
――アリスさんにもあげるね。友達だから。
友達。その言葉は、まだ作業机の上に置き場所を決められずにいる。引き出しにしまえばいいのか。壁に飾ればいいのか。店に置いておくには少し私的すぎるし、かといって見えないところへ片づけるのも、何か違う気がした。結局、写真は机の端に置いたままだった。
扉の鈴が鳴る。からん、という音に顔を上げると、歩美が両手で紙袋を抱えて立っていた。
後ろには、元太、光彦、コナン、灰原。
いつもの五人。
そう呼ぶにはまだ早い。けれど、五人そろって店に入ってくる姿を見ても、もう意外には思わなかった。
「アリスさん、持ってきたよ!」
「その袋が?」
「うん。お父さんに頼んで出してもらったの」
紙袋の中には、小さな箱が入っていた。菓子箱を再利用したものらしく、蓋には鉛筆で「ひな人形」と書かれている。字は大人のものだ。けれど、箱の角には小さなシールが貼られていて、どこか子どもの持ち物らしい。
「開けてもいい?」
「うん」
作業机の上を片づけ、柔らかい布を敷く。蓋を開けると、中には小さな女雛が入っていた。
大きなものではない。観野家の七段飾りとは比べようもない。けれど、顔立ちは整っている。衣も明るく、金の模様もまだよく残っていた。大切に飾られていた人形だ。
ただし、顔に傷がある。
白い肌の一部だけ、質が違っていた。上から塗り直した跡。けれど、その表面が剥がれ、下に残った赤黒い汚れが見えてしまっている。
「……なるほど」
歩美の指が、紙袋の持ち手を握り直す。
「やっぱり、ちゃんと直すの難しい?」
「難しくはあるわね」
歩美の顔が少し曇る。
「でも、直せないという意味ではないわ」
ぱっと顔が上がった。本当に、表情の動きが分かりやすい子だ。
「ほんと?」
「ええ。ただし、新品みたいにするわけではないわ。ちゃんと、この子の顔に戻すの」
歩美は、小さく息を吐いた。
「うん。それがいい」
元太が、気まずそうに目を逸らしていた。
「……俺が壊しちまったから」
「最初に壊したのは、そうかもしれないわね」
「うっ」
「でも、今この子が怖く見えているのは、あなたが壊したからだけではないわ」
元太が、そろそろと顔を上げる。
「違うのか?」
「壊れたことと、直した跡が怖く見えてしまったことは別よ」
光彦が女雛を覗き込む。
「直した跡、ですか」
「ええ。血の汚れを、上から塗って隠したのね」
「血……」
歩美の声が、少し小さくなる。言葉だけを聞くと、どうしても怖くなる。だから、できるだけ普通の作業の話として続けた。
「染み込んだ汚れは、無理に落とそうとすると人形の地まで傷めることがあるの。そういう時は、汚れを封じて、上から塗り直す方が自然なこともあるわ」
コナンが、少し目を細めた。
「じゃあ、前の修理が間違ってたわけじゃないんだな」
「全部が間違いとは言わないわ。ただ、この子の場合は、下地が弱い。汚れを封じる前に塗ったか、塗りを定着させきる前に戻してしまったのかもしれない。だから表面が剥がれて、下の赤黒さが出てしまった」
女雛の顔を、角度を変えて見る。怖くなったのではない。怖く見える形で、傷が出てしまっただけだ。
「じゃあ、また塗るんですか?」
「ええ。でもその前に、赤黒い色を少し落ち着かせる。完全に消すのではなく、上から整えた時に浮き上がらないようにするの」
「そんなことできんのかよ」
元太の声には、疑いより期待の方が多かった。
「普通は難しいわ」
コナンの視線が来る。しまった、と思った。この子の前で「普通は」などと言うと、必ず拾われる。
「普通は?」
「人形師の仕事よ」
「それで説明になってんのか?」
「細かい作業の話を聞きたいなら、三時間くらい座ってもらうことになるけれど」
「俺は別に――」
「コナンくん、遠慮しましょう」
光彦が横から止めた。
「そうだぞ。俺、三時間も人形の話聞くの無理だぞ」
「元太くんは最初の十分で寝そうですね」
「寝ねーよ!」
歩美がくすくす笑う。コナンはまだ何か言いたそうだったが、そこでいったん黙った。助かった。いや、助かったというほどではない。少し時間を稼いだだけだ。
「怖くなくなる?」
歩美の目が、また女雛へ戻る。
「ええ。怖くないようにはできると思うわ」
「この子、悪いお人形になっちゃったわけじゃないんだよね」
「なっていないわ」
そこは、迷わず答えられる。
「この子は、ただ傷が残っているだけ。傷そのものより、傷を隠した跡が怖く見えているの」
歩美は、布の上の女雛をじっと見つめた。
「そっか」
その横で、元太が小さくなっている。
「……悪かったな、歩美」
「もういいよ。元太くん、わざとじゃなかったし」
「でもよ……」
「今、謝る相手は歩美さんだけではないかもしれないわね」
元太が目を丸くした。
「え?」
女雛を見る。
「壊された人形にも、でしょう」
しばらくぽかんとして、それから元太は真面目な顔で女雛に向き直った。
「……悪かった」
大きな声ではない。けれど、ふざけてはいなかった。歩美の表情が、少しだけ柔らかくなる。光彦も、安心したように息を吐いた。
「元太くんが人形に謝る日が来るとは思いませんでした」
「うるせーよ」
「でも、ちゃんと謝れてえらいよ」
「歩美まで言うなよ!」
また少しだけ、店内が明るくなる。
女雛は何も言わない。人形は話さない。けれど、何も残さないわけではない。壊した手。謝った声。怖がった目。大切にしたいと思った気持ち。そういうものは、必ずどこかに残る。
「それで、修理代ってどれくらいかかるんですか?」
光彦の声に、手が止まった。
修理代。
そういえば、そういうものが必要だった。人形を直すこと自体は分かる。必要な材料も、手順も、どこを触れば傷むかも分かる。けれど、外の世界でそれにいくらの値をつけるのが自然なのかは、分からない。安すぎてもおかしい。高すぎてもおかしい。そもそも、雛人形の顔を一部直す相場など、知るはずがない。
「……少し作業してみないと、正確には言えないわ」
「買い直した方が安かったりするのか?」
元太が不安そうに箱を覗く。
「買い直した方が安い、という金額にはならないはずよ」
たぶん。
最後の一言は、もちろん口には出さない。
「ほんと?」
歩美の顔が明るくなる。
「ええ。少なくとも、私はこの子を買い直す話にはしたくないわ」
それなら嘘ではない。値段の話から、少しだけ人形の話へずらす。
「この子は、歩美さんの家のお雛様でしょう。別の人形を買えば同じ、というものではないもの」
歩美は、すぐに頷いた。
「うん!」
よかった。納得してくれた。
横から、コナンの視線が来る。
「ふーん」
「何かしら」
「いや。今の、修理代の答えにはなってないなって」
本当に、この子は余計なところを拾う。
「見積もりは、少し中を見てから。お店として普通でしょう?」
「顔ならもう見てたけど」
「外から見える傷と、実際に触って分かる傷は違うのよ」
「……まあ、それはそうか」
納得した、というより、いったん保留にした顔だった。外の世界の店主は、人形を直すより難しい。
歩美が、女雛を見つめる。
「じゃあ……アリスさんにお願いしてもいい?」
「ええ」
「絶対、迎えに来るからね」
女雛に向かって、そう声をかける。その言い方が、妙に自然だった。人形が聞いていると、最初から信じているような声。
この子は、人形を物として見ていない。それは、悪くないと思った。
その時、歩美の目が作業机の端へ向いた。
「あ、写真!」
しまった、と思う前に、もう見つかっていた。歩美がぱっと笑う。
「置いてくれてる!」
「置いているだけよ」
「でも、ちゃんと見えるところにあるもん」
「まだ置き場所を決めていないだけ」
「ふーん」
横から、コナンが覗き込んでくる。
「しまわなかったんだ」
「しまう理由もなかったから」
「友達からもらった写真だしな」
「……あなた、そういうところを見つけるのが上手いわね」
「見えるところに置いてあったからな」
「そうね」
歩美は、そんなやり取りを気にせず写真を見ていた。
「今度はもっとちゃんと撮ろうね」
「ちゃんと?」
「うん。アリスさん、ちょっと固いもん」
元太が写真を覗く。
「ほんとだ。なんか緊張してんな」
「元太くん、失礼ですよ」
「でも本当だろ」
「……否定はしないわ」
歩美が笑う。
「次は自然に笑ってね」
「努力するわ」
「やった!」
なぜ今ので喜ぶのか、よく分からない。ただ、嫌ではなかった。
写真の中の自分は、まだ少しぎこちない顔をしている。けれど、そこにいることだけは、もう否定できない。
「じゃあ、アリスさん。よろしくお願いします!」
歩美が頭を下げる。つられて、元太と光彦も頭を下げた。
「お願いします!」
「よろしくお願いします」
コナンは軽く手を振り、灰原は小さく会釈する。
「ええ。預かるわ」
箱の蓋を、そっと閉じる。
預かる。
その言葉は、思っていたより重かった。
*
江戸川コナン
人形工房マーガトロイドを出てからも、さっきのやり取りが頭に残っていた。
血の染みを封じて、上から整える。理屈は分かる。人形を直す職人なら、そういう技術があってもおかしくない。
けれど、あの言い方だけは残っている。
――普通は難しいわ。
できることの範囲を知っていて、その理由だけを伏せたように聞こえた。
「やっぱり普通じゃねえよな……」
「彼女のこと?」
横から灰原の声がした。
「聞こえてたのかよ」
「聞こえたのよ」
「七段って、やっぱ多すぎだろ」
少し前を歩く元太の声が聞こえる。
「元太くんが覚えられなかっただけです」
「うるせーな」
「でも、綺麗だったよね」
歩美の声は、まだ少し弾んでいた。もう人形は店に預けたのに、まだ箱を抱えているみたいな顔をしている。
「怪しいと思うなら、調べれば?」
「調べてるよ」
「でしょうね」
灰原は、前を見たまま小さく息を吐いた。
「あの人、組織じゃないわ」
「それは前にも聞いた」
「でも、普通でもない」
「それもな」
住所も身分証も、店の存在も曖昧なままだ。バスジャックの時の落ち着き方や、時々出る妙な言い回しも引っかかる。
普通ではない。
それでも、歩美の人形を見る目だけは、嘘に見えなかった。できることと、できないことを分けていた。怖がる子どもを雑に励ましたんじゃない。本当に、あの人形を見ていた。
「アリスさんは悪い人じゃないと思うよ」
歩美が振り返った。
「何でだよ」
「だって、お雛様にも謝ってって言ってくれたもん」
少し照れたように笑う。
「人形にもちゃんと謝ってって言う人、悪い人じゃないと思う」
推理じゃない。証拠にもならない。でも、歩美にとってはそれで十分らしい。
「ま、油断はすんなよ」
「もう。コナンくんって、すぐそういうこと言う」
「大事なことだろ」
「アリスさんは友達だよ」
そう言い切られて、一瞬だけ返す言葉が見つからなかった。写真を見つけられた時のアリスの顔を思い出す。照れたような、逃げ場を探しているような顔。あれが演技なら、ずいぶん不器用な演技だ。
「……まあ、そうかもな」
「でしょ!」
歩美が笑う。
もう一度だけ振り返る。人形工房マーガトロイドの看板が、夕方の光の中にあった。
怪しい。普通ではない。けれど今のところ、敵ではない。
それだけは、たぶん間違っていなかった。
*
アリス・マーガトロイド
子どもたちが帰ったあと、店内は急に静かになった。
さっきまで歩美の声があった場所に、扉の鈴の余韻だけが残っている。
紙袋から箱を取り出し、もう一度蓋を開けた。小さな女雛は、柔らかい布の上で黙っている。
「さて」
筆と綿を用意する。上海が小さな筆を運び、蓬莱が布を押さえた。客がいなくなってからの二人は、少しだけ動きが軽い。
「あなたたちも、あの子の前では気をつけてね」
上海が首を傾げる。
「あの子よ。江戸川コナン」
蓬莱まで、ぴたりと止まった。
「そう。あの子は見つけるのが上手いの」
女雛の顔へ視線を戻す。赤黒い跡。上から塗った跡。そして、その塗りが剥がれた跡。傷を隠すために触れたものが、別の傷になってしまっている。
人形では、よくあることだ。傷そのものより、隠した跡の方が目立つことがある。
浮いた塗りを、少しずつ確かめる。無理に剥がせば、顔の地まで傷む。けれど、そのままにしておけば、どれだけ上から整えてもまた剥がれる。
全部をなかったことにはできない。なかったことにしようとすると、かえって顔が変わってしまう。
残すところは残す。弱めるところは弱める。怖く見える部分だけを、少しずつ遠ざける。
「あなたも、大変ね」
女雛に向かって、つい声が漏れた。もちろん、返事はない。けれど、話しかける相手としては十分だった。
作業机の端で、写真が目に入る。
夕方の光。少年探偵団。観野さん。そして、端で少しぎこちない顔をしている自分。
置き場所をまだ決めていない。そう言い訳して、ずっと机の端に置いたままだった。
写真立てはない。当然だ。写真を飾る習慣など、ここへ来るまでほとんどなかった。
代わりに、細い角材を一本取り出す。人形の台座に使うつもりで残していた端材だ。写真の下辺が入るくらいの溝を、浅く彫る。
額縁というほど立派なものではない。ただ、作業机の端に写真を立てておくには、それで十分だった。
「……これでいいでしょう」
上海が写真を見上げ、それからこちらを見る。
「何よ」
返事はない。でも、少しだけ笑われた気がした。
「あなたまで余計なことを覚えなくていいの」
筆を取り直す。
怖くなったのではない。怖く見える形で、傷が出てしまっただけ。なら、やることは決まっている。傷をなかったことにはしない。ただ、この子がもう一度、この子の顔に戻れるように整える。
その日、決められずにいた写真の置き場所は決まった。
事件そのものは解決しても、残った傷や思い出まではすぐに片づかない、という話です。
アリスにとっても、歩美たちとの距離が少しだけ変わった回になりました。