事件そのものは起きません。平和ですね。
閉店の札を下げた頃には、外はすっかり暗くなっていた。商店街の灯りはまだ残っている。けれど、店の前を通る人の数は昼よりずっと少ない。
窓の向こうには、月が出ていた。その白い光に目を留める。作業机へ戻ろうとした時だった。
「月を見ていたの?」
奥の鏡の表面に、波紋が広がっていた。水面のように揺れた向こう側に、八雲紫の姿が浮かぶ。相変わらず、店の中にいるわけでもないのに、そこにいるような顔をしていた。
「閉店後に来るなら、せめて普通に声をかけてほしいわ」
「声はかけたでしょう?」
「そういう意味ではないのよ」
悪びれもせずに笑っている。布の上の女雛へ目を落とす。向こうの視線も、自然とそこへ向いた。
「可愛らしいお客様ね」
「預かり物よ」
「あなたがそう言うと、少し重く聞こえるわ」
「実際、軽くはないもの」
それ以上、人形には触れなかった。代わりに、鏡の向こうで身を引く。
「こんばんは、アリス」
鏡の向こうの影が、楽しそうに揺れる。
「……レミリアまでいるのね」
「細かい仕事をしているのね」
「壊れたものをそのままにしておく趣味はないわ」
赤い目だけが、こちらの店内よりもはっきりしていた。
「あなたまで来るなんて、よほど暇なの?」
「暇なら、もっと楽しいことをしているわ」
「では、楽しくない用事?」
「少しだけ不愉快な用事ね」
鏡の向こうが、静かになった。
「次に月が満ちる夜、人間たちは別の顔をするわ」
窓の外の月が、急に近くなった気がした。
「仮装の話?」
「仮装だけなら、わざわざ言いに来ないわ」
「船と港。二つの場所で、いくつもの嘘が顔を持つ。分かったのは、それだけよ」
「それだけ?」
「いいえ。……その運命の中心に、子どもがいる」
「子ども?」
船と港、いくつもの嘘、そしてその中心にいる子ども。そう決めつけるには早い。けれど、思い浮かぶ顔はひとつしかなかった。
江戸川コナン。
「……やっぱり、あの子なのね」
「彼がどう関わるのかまでは知らないわ」
鏡の向こうで、扇子が開いた。
「けれど、あなたはもう知っているでしょう。あの子の周りでは、隠れたものが表に出る」
「探偵だから?」
「それだけではないわ」
「彼は舞台の上に立っている。本人が望んだかどうかは別としてね」
「舞台?」
「事件という舞台よ。登場人物がいて、役割があって、嘘があって、終わりがある。彼はその幕を下ろすために動く」
「ずいぶん芝居がかった言い方ね」
「この町は、そういう場所でしょう?」
否定はできなかった。バスの中。観野家の一室。人が隠したもの、言えなかったこと、ほどけかけたもの。コナンはいつも、そこに手を伸ばしていた。
「私は探偵ではないわ」
「ええ。だから、今までのあなたは舞台袖にいた」
「舞台袖?」
「客席でもなく、舞台の上でもない場所。見えるけれど、まだ役は持っていない場所」
つられて、作業机の端を見る。細い角材に差した写真。夕方の光の中で笑う子どもたちと、端で少しぎこちなく写っている自分。
「でも、写真を受け取った。人形を預かった。友達と呼ばれた」
ひとつずつ確かめるような声だった。
「そういうものは、縁になるわ」
縁。私には、それが糸に見えた。人形を動かすための糸。力を通す糸。距離を測る糸。強く引けば切れて、緩めすぎれば見失うもの。
この町に来てから、その感覚は人形だけに向かなくなっている。歩美が女雛を見る目。元太が人形に謝った声。灰原哀がバスの中で手放しかけたもの。コナンがそれを引き戻した声。
「……つまり、私が次に手を出せば、その舞台に上がることになると?」
「そして、舞台に上がった者は、簡単には帰れなくなるわ」
「帰れなくなる?」
眉をひそめる。
「あなたがいて?」
「ええ。私の力があれば、
「なら、帰れなくなるというのは変でしょう」
「帰り道の話ではないのよ」
声は柔らかかった。けれど、その言葉は、開いていたはずの隙間を静かに閉じていく。
「帰ることと、帰っていいことは別でしょう?」
女雛の袖に落ちていた視線が、動かなくなる。
「観客なら、途中で席を立ってもいい。舞台袖の者なら、幕が下りる前に姿を消しても、まだ許されるかもしれない」
扇子が、ゆっくり閉じられる。
「でも、役を持った者が途中で消えれば、舞台は乱れるわ」
「私は役者になった覚えはないわ」
「ええ。まだね」
小さな笑い声がした。
「でも、あなたは預かってしまったのでしょう?」
視線が、布の上の女雛へ落ちる。
「その人形を」
そこへ、別の声が重なる。
「そして、あの写真も」
作業机の端の写真は、ただそこに立っている。ついさっきまで、置き場所を決められずにいたもの。今はもう、そこにある。
「……最初から、そのつもりだったの?」
「何のことかしら」
「私をここに置いたことよ」
笑っている。けれど、その笑みは答えを避けるためのものではなかった。むしろ、こちらがそこへ辿り着くのを待っていたように見えた。
「人間に紛れて調べるなら、私が向いている。そういう話だったわね」
「ええ」
「でも、観測するだけなら、私である必要はなかったでしょう」
「そうね」
あっさり認めた。
「観測するだけなら、こいしでいいもの」
古明地こいし。地底にいる覚り妖怪の妹。無意識を操る程度の能力を持つ妖怪。
「なら、どうして私だったの」
「見るだけで済まないかもしれないと思ったからよ」
扇子の先が、布の上の女雛を示す。
「この町の歪みは、人の嘘と恐怖の中にある。私はそう言ったでしょう?」
誰かの嘘。恐怖。隠し事。悪意。それらが重なって、現実から少し浮き上がる。けれど、最後にはほどける。まるで絡まった糸を、誰かが一本ずつ解いているみたいに。
「人の嘘と恐怖を調べるなら、そこに立てる者が要る。店を開き、客を迎え、名前を呼ばれ、預かり物を受け取れる者がね」
「それで人形店?」
「あなたが一番自然に立てる場所でしょう?」
「ずいぶん勝手に決めてくれたものね」
「ええ」
あまり悪びれた様子もない。寝過ごして遅刻した朝に、まず天気の話でも始めそうな顔をしている。
その顔を見て、胸の奥で細い糸が一本、ぴんと張った。
「紫」
自分でも分かるくらい、声が冷えた。
「そういうことは、最初に言うべきでしょう」
鏡の向こうで、笑みがほんの少しだけ薄くなる。
「言えば、あなたは来なかった?」
「来たかもしれないわ」
言ってから、女雛を見る。
「でも、選ぶのは私だった」
店の中が、少し静かになった。上海も蓬莱も、動かない。
「観測役だと言われたから、私はここにいる。介入は基本的にしない。そういう約束だったはずよ」
「ええ」
「それなのに、最初から私が手を伸ばすかもしれないと分かっていて、この場所に置いたのね」
「可能性の話よ」
「言葉を選べば軽くなると思っているの?」
答えは返ってこなかった。鏡の向こうの影だけが、面白そうに揺れる。
「あなた、怒ると静かなのね」
「黙っていて。今はあなたに怒っているわけではないから」
「それは残念」
しばらくして、扇子が伏せられた。
「騙したつもりはないわ」
「黙っていたなら、似たようなものよ」
「私は幻想郷を守りたいの」
あっさりとした声だった。言い訳の色はない。
「外の世界を救いたいわけではない。人間を守るためだけに動いているわけでもない。けれど、幻想郷の境に触れる歪みなら、見ないふりはできない」
「だから、私を置いた?」
「ええ。見るだけで済むなら、それでよかった。でも、済まないかもしれないと思った」
「それを、私には言わなかった」
「言えば、あなたは自分の役を先に決めてしまうでしょう?」
「またそうやって」
「ええ。私はそういう妖怪よ」
開き直ったようにも聞こえる。けれど、完全に笑っているわけでもなかった。
「だから、介入は基本的にしないと言ったの?」
「外の世界の出来事は、外の世界の者が向き合うべきものよ。あなたが魔法で何でもほどいてしまえば、何が起きているのか分からなくなる」
「でも、絶対に手を出すなとは言わなかった」
「あなたが何を見て、何を思うかまでは、私が決めることではないもの」
「便利な言い方ね」
「便利にしておいたのよ」
「まだ怒っているわよ」
「知っているわ」
そこでようやく、目が伏せられた。
「でも、あなたでなければ届かない場所があると思った。それも本当よ」
布の上へ視線が落ちる。
「壊れかけたものを、見過ごすような性分じゃないでしょう?」
静かな声だった。
「目の前に、傷ついた人形があったら、つい直し方を考えてしまう。そういう人よ、あなたは」
「……人形の話?」
「あなたも分かっているでしょう。人形だけではないわよ」
自然と、視線が作業机の端へ向いた。
「私は探偵でも、正義の味方でもないわ」
「知っているわ」
「なら、私に何を見ろと言うの」
扇子が、ゆっくり閉じられる。
「解くのは探偵の仕事。境界を見るのは私の仕事。運命を覗くのはレミリアの仕事」
「そして?」
「切れそうな縁を見つけるのは、あなたの仕事」
店の外を、夜の風が細く抜けていく。今すぐ何かが起きるわけではない。それでも、舞台という言葉だけが、店の中に残っていた。
「……分かったわ」
「頼もしいわね」
「引き受けたとは言っていない」
「でも、見ないとは言わないのね」
本当に、嫌なところを突く。
「預かり物を途中で投げ出す趣味はないだけよ」
「そういうことにしておくわ」
レミリアが満足そうに笑った。鏡の表面が、また水面のように揺れる。向こう側の二人の姿が、少しずつ薄くなっていく。
「アリス」
消える直前、レミリアが言った。
「月が満ちる夜、綺麗な顔ほど信じすぎないことね」
「覚えておくわ」
「ええ。忘れないで」
鏡の波紋が静まる。店内には、また静けさが戻った。
上海と蓬莱は、こちらを窺うように顔を上げている。
「……そんな顔をしなくてもいいわ」
声が硬かった。胸の奥で張った糸は、まだ緩まない。
選ぶのは私だった。
そう言った自分の声が、店のどこかに残っている気がした。
「忙しくなりそうね」
上海が、同意するように頷いた気がした。蓬莱は、布の上の女雛を見ている。作業机の端では、写真が静かに立っている。
腹立たしい。それでも、糸を切ってしまえば楽になるとは思えなかった。
筆を取る。まずは、この子の顔を整える。舞台に上がるかどうかは、それから考えればいい。
*
翌日も、米花町は何事もなかったような顔をしていた。商店街にはいつも通りの声があり、店先には値札が並んでいる。その平然とした明るさが、少しだけ癪だった。
「……あなたたちは寝なくていいから羨ましいわね」
作業机の上で、上海が首を傾げる。
布の上には、歩美から預かった女雛が横たわっていた。顔の赤黒い跡は、昨日より落ち着いている。
急げば、また別の傷になる。焦らないこと。それは人形相手なら分かっている。人間相手となると、まだ分からない。
昨日の声が、ふと頭に戻る。
――切れそうな縁を見つけるのは、あなたの仕事。
「勝手なことを言うわね」
呟いたところで、鏡は黙ったままだった。
その日は、ほとんど女雛の顔を見て過ごした。浮いた塗りを確かめ、残すところと落とすところを分ける。普通の方法では難しい。
「……少しだけ、手を借りるわ」
上海と蓬莱が、作業机の上に降りた。窓の外が夕方の色に変わり始める。店の表にはまだ札を出しているが、客の気配はない。
細い絹糸を一本、女雛の頬へ垂らす。触れるか触れないかのところで止め、そこに魔力を通した。
赤黒い染みが、糸の先へ少しずつ移っていく。上海が糸を押さえる。蓬莱が、小さな布を差し出す。糸の先に集まった色を、布へ移す。
また糸を垂らす。移す。布を替える。
赤黒さが、ただの古い影に見えるまで繰り返した。
「このくらいね」
糸を離す。赤黒かった跡は、まだかすかに残っている。けれど、もう血の色ではない。ただ、古い人形に残る影のひとつに見える。
これなら、怖い顔にはならない。あとは、乾かしてから整えればいい。
筆を置いたところで、ようやく空腹に気づいた。朝からろくに食べていない。怒っていても、考え込んでいても、腹は減るらしい。
この町には、夕方でも夜でも開いている店がある。菓子も飲み物も、弁当も惣菜も、文房具も電池も売っている。便利というより、少し節操がない。けれど、使えるものは使うべきだ。
「少し出るわ。留守をお願い」
上海と蓬莱が、小さく頷いた。店先の灯りをひとつ落とし、扉の札を裏返す。
夕食を買いに行くだけ。
言葉にすれば、それだけのことだった。
この町では、その「だけ」がどこまで信用できるのか分からないけれど。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
前回で歩美から預かったひな人形と、少年探偵団から受け取った写真。
それらをきっかけに、アリスが少しずつ米花町との縁を持ち始める回でした。
次回はコンビニの話です。
夕食を買いに行くだけのはずですが、米花町なので何も起きないわけがありません。