今回はコンビニ回・前編です。
アリスさん、夕食を買いに来ただけなのにまた事件に巻き込まれます。
## アリス・マーガトロイド
夕食を買いに行くだけ。言葉にすれば、それだけのことだった。
人形工房マーガトロイドの扉を閉め、商店街へ出る。夜の手前の米花町は、昼より輪郭が柔らかい。店先の明かりがつき始め、通りには買い物袋を下げた人間が増えていた。
少し歩けば、夜でも開いている店がある。弁当も、惣菜も、飲み物も、細々した日用品も揃う。外の世界では当たり前なのだろうが、幻想郷の感覚で見ると、ずいぶん都合のいい場所だった。
駅前のコンビニは、外から見ても明るかった。硝子越しに、棚が見えた。弁当、菓子、雑誌、電池、傘。違う種類のものが、同じ明るさの下に整然と並んでいる。人形を置く場所ではなく、人間の用事を並べる場所だった。
扉をくぐると、店員の声が飛んでくる。
「いらっしゃいませー」
夕食を選ぶだけなら、迷うほどのことではないはずだった。けれど、弁当の棚の前で足が止まる。
炭火香る焼鳥弁当。だし香る親子丼。濃厚デミグラスの洋食プレート。
どれも、名前が長い。外の世界の食事は、料理名というより証言に近かった。炭火で焼いた。だしが香る。味が濃厚。ずいぶん多くを語っている。
けれど、語りすぎるものほど、少し疑わしい。
……いけない。
夕食を選びに来ただけで、取り調べを始めるところだった。
そう思いながら、弁当をひとつ手に取った。その時、入り口の鈴がまた鳴る。
「センセー、本当に辞めちゃうの?」
明るい声だった。振り返ると、女子高生が二人と、金髪の女性が入ってきた。
その金髪に、見覚えがある。バスの中で見た女。恐怖を演じるのが上手い女。
彼女は一瞬こちらを見て、すぐに笑った。
「Oh! バスジャックの時の人でーすね?」
「……こんばんは」
「偶然デース。お買い物?」
「夕食を」
「私たちもパーティーのお買い物デース」
女子高生の一人が、不思議そうにこちらを見る。長い黒髪。まっすぐな目。もう一人は明るい茶髪で、こちらを見るなり首を傾げた。
「あれ、ジョディ先生の知り合い?」
「前に少し。江戸川コナンたちと同じバスに乗り合わせたの」
黒髪の少女が、はっとしたように顔を上げる。
「もしかして、あのバスジャックの時ですか?」
「ええ」
「じゃあ、アリスさん?」
今度はこちらが目を瞬かせた。
「私の名前まで聞いているの?」
「はい。コナン君から聞いてます。米花町で人形工房をやってらっしゃるんですよね?」
江戸川コナン。その名前が、弁当の棚の前で妙にはっきり聞こえた。
「……ええ。人形工房マーガトロイドよ」
「コナン君が、少し変わった人形屋さんだって」
「変わった?」
「あ、悪い意味じゃなくて」
黒髪の少女が慌てる。隣の茶髪の少女が、にやっと笑った。
「つまり、コナン君が気にしてる人ってことね」
「園子!」
鈴木園子。ジョディは楽しそうに笑っていた。
「こちら、毛利蘭さんと鈴木園子さん。私の大切な生徒でーす」
「生徒?」
「ジョディ先生、英語の先生なのよ」
園子が言った。
「今月で辞めちゃうんだけどね」
「辞める?」
「実家の都合デース」
ジョディは笑った。軽い声だった。けれど、軽すぎる。
「大切な宝物の地図、見つけましたから」
「だから何なのよ、それ」
園子が不満そうに言う。蘭も困ったように笑っていた。
「先生、最後まで教えてくれないんですよ」
ジョディは人差し指を唇の前に立てる。
「A secret makes a woman woman」
聞き慣れない英語だった。けれど、意味は何となく分かる。女は、秘密で女になる。
冗談めかした声なのに、そこだけ妙に本気に聞こえた。秘密を持つことに慣れている女の声だった。
月が満ちる夜、綺麗な顔ほど信じすぎないことね。
レミリアの声が、頭の奥で鳴る。ジョディは、こちらを見てにこりと笑った。
「あなたも、秘密ありそうデースね」
「人形店の店主に必要な程度には」
「Oh, cool」
楽しそうな声だった。けれど、その目は笑っているだけではない。この女は、こちらを覚えている。バスで見たことも、事件後にこちらがどう振る舞ったかも。
こちらも覚えている。そういう距離だった。
「絢、いるかな?」
蘭が店の奥へ声をかけようとした時だった。バックヤードの方から、怒鳴り声が聞こえた。
「いい加減にしろ! 正直に言わないなら、警察に来てもらうしかないんだぞ!」
店内の空気が変わる。ただの買い物の場所だったはずの棚の間に、怒りと疑いが混じった。追い詰められた者の息遣いが、白い明かりの下まで漏れてくる。
蘭と園子の表情が変わった。
「絢?」
二人は奥へ向かう。ジョディも続いた。こちらは弁当を持ったまま、その場に残る。
夕食を買いに来ただけ。そう言い聞かせるには、店の奥の声は大きすぎた。
仕方なく、棚の角から様子を見る。若い女性が、店長らしい男に詰め寄られていた。制服のエプロンをつけ、顔は強張っている。
七川絢。蘭がそう呼んだ。
「私、本当に盗ってません!」
「じゃあ、どうして君が閉めた日に限って商品が消えるんだ!」
店長の声は強い。強すぎる。怒りというより、すでに結論を決めてしまった者の声だった。
「売り上げと在庫が合わない。防犯カメラにも不審な客は映っていない。閉店後に出入りした人間もいない」
畳みかける声に、絢の肩が縮む。
「君しかいないだろう」
「そんな……」
蘭が一歩前へ出た。
「待ってください! 絢はそんなことする子じゃありません!」
「そうよ! 昔から真面目だったんだから!」
園子も続く。ジョディは二人の少し後ろで、店内を見ていた。店長、絢、防犯カメラ、奥の扉、トイレへ続く通路、床に積まれた箱。見る場所が、普通の教師とは少し違う。
それでも彼女は、明るい声を保っていた。
「マアマア。決めつけ、よくないデース」
「しかしですね」
店長は苛立っている。その奥に、疲れがあった。何度も繰り返された疑い。消えた商品。自分の店を守ろうとして、誰かを傷つけていることに気づけなくなった顔だった。
絢は、俯いたまま拳を握っている。嘘をついている者の手ではない。少なくとも、そう見える。
ただし、そう見えるだけだ。私は探偵ではない。そこは間違えない。
「怪しい人は?」
蘭が絢に尋ねた。
「よくトイレを借りに来るお客さんが三人いるの。ゲーム雑誌を読んでる男の人と、サラリーマンみたいな人と、節約に詳しいおばあさん」
「トイレ?」
通路の奥を見る。倉庫の近くにあるらしい。コンビニの店内を通り、バックヤードの近くを抜ける場所。売り場と裏側の境目。客と店員の境目。そこに、人がよく出入りする。
いかにも、何かが紛れそうな場所だった。
蘭はスマートフォンを取り出した。指が、画面の上で止まる。
「新一なら……」
新一。知らない名前だ。けれど、蘭の声だけで分かる。友人というより、もっと近い誰か。頼りたい相手。けれど、頼りきりにはなりたくない相手。
ジョディが軽く首を振る。
「No, Ran. すぐ人に頼る、よくないことでーす」
「でも……」
「まずは、あなたの目で見るデース」
明るい声。けれど、言葉の芯は明るくない。
蘭は唇を結んだ。友人を助けたい。けれど、何を見ればいいのか分からない。その迷いが、横顔に出ていた。
舞台に上がるのは、探偵だけではない。
ふと、そう思った。事件は起きる。誰かが疑われる。誰かが、それをほどかなければならない。たとえ、いつもの探偵がこの場にいなくても。
「ミス・アリス」
ジョディが声を落とした。
「あなたは、どう思いマース?」
「分からないわ」
即答すると、ジョディは楽しそうに目を細めた。
「早いデースね」
「分からないものを、分かったようには言えないもの」
店長が、不満そうにこちらを見る。蘭も、絢もこちらを見ていた。
事件のことは分からない。けれど、人形の不調なら、見る場所はある。
「昨日まで動いていたからくり人形が、今日だけ動かない。そういう時は、壊れた部品を疑う前に、昨日と今日で何が違うかを見るわ」
蘭が顔を上げた。
「昨日と今日で、違うこと……?」
「ええ。絢さんが盗んでいないのなら、絢さんがいる日にだけ、何かが変わっていることになる。彼女が何をしたかではなく、彼女がいることで何が変わるのか」
言ってから、自分でも首を傾げる。
「……人形なら、そう見るというだけよ。事件に当てはまるかは分からないわ」
蘭の目が、売り場から奥の通路へ動いた。
「絢、このお店って、今ほかに店員さんはいる?」
「うん。奥に……」
「話、聞いてもいいかな」
絢は戸惑ったあと、頷いた。店長は不満そうだったが、止めはしなかった。
奥から出てきた店員は、事情を聞くと考えるように腕を組んだ。
「七川さんが閉めた次の日は、奥の通路がいつも片づいてるんですよ。段ボールが寄せてあって、通りやすいんです」
「通りやすい?」
「はい。ほかの日は、品出しの箱がそのままになってることもあるんですけど。七川さん、几帳面だから」
絢は気まずそうに笑った。
「次の日の人が困らないようにしてるだけだよ」
## 毛利蘭
奥の通路を見ながら、アリスの言葉を思い出していた。
昨日まで動いていたからくり人形が、今日だけ動かない。壊れた部品を疑う前に、昨日と今日で何が違うかを見る。
事件に当てはまるかは分からない、とアリスは言った。けれど、その言葉は妙に頭に残っている。
絢が盗んだんじゃない。そう信じたいだけなら、いくらでも言える。けれど、それだけでは絢を助けられない。
絢が入った日だけ、何が変わるのか。
もう一度、通路を見る。トイレへ続く通路。倉庫の前。段ボールが片づけられた、通りやすい道。
そこを、誰が通るのか。
閉店後に、誰も外から入っていないのなら。最初から中にいた人は、どうなるのか。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。分かった、とはまだ言えない。けれど、何かがそこにある気がした。
「さっき言ってた三人って、トイレを借りるだけ?」
絢は少し考えて、首を振った。
「ううん。何かしらは買っていくよ」
「何を買っていくか、覚えてる?」
「ゲーム雑誌を読んでいく人は、ガムとか。サラリーマン風の人は、電池とかタオルとか……。おばあさんは、安いものをよく見てる」
「電池……タオル……」
口に出しても、まだ形にはならなかった。頭の中で、通路とトイレと段ボールがばらばらに浮かんでいる。つながりそうで、つながらない。
けれど、ひとつだけ引っかかっていた。
閉店後に、誰も外から入っていない。それなら、外から入らなかった人はどうなるのか。
最初から、中にいた人は。
通路の奥を見る。絢が次の日の人のために空けておいた道。そこを、誰かが通ったのだとしたら。
でも、まだ言えなかった。
もし間違っていたら。
絢を助けるどころか、店長にも、ほかのお客さんにも迷惑をかける。トイレを借りに来ていただけの人を、疑うことになるかもしれない。
それに、天井裏に人がいるなんて。
そんなこと、本当にあるのだろうか。
園子が心配そうに顔を覗き込んだ。
「ねえ蘭、何か分かったの?」
「まだ……分からない」
そう答えながら、スマートフォンを握り直した。
分からない。けれど、何もないとは思えない。
絢はまだ俯いている。店長は腕を組んだまま、不機嫌そうにこちらを見ている。ジョディ先生は何も言わない。ただ、見ている。笑っているのに、待っているような目だった。
まずは、あなたの目で見るデース。
先生の声が、まだ耳に残っていた。
自分の目で見る。自分で考える。そう思っているのに、あと一歩が足りない。
その時、手の中でスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、息が止まる。
「新一?」
名前が、白い明かりの下に落ちた。
「うん……今、絢が疑われてて……」
早口で話し始める。
店の奥を見た。トイレへ続く通路。片づけられた段ボール。閉店後、誰も外から入っていない店。
まだ、確信はない。
けれど、電話の向こうの声を聞いた瞬間、言えなかった考えが、少しだけ輪郭を持った。
【後書き】
アリスさんはまだ弁当を買えていません。
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