東方米花異聞   作:秋刀魚食べたい

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【前書き】

コンビニ回・後編です。

前回の続きから。
疑われた絢を助けるために、蘭が動きます。


第13話 コンビニの落とし穴・後編

「うん……今、絢が疑われてて……」

 

蘭の声が、さっきより少し速くなる。

 

電話の向こうの声は、こちらまでは聞こえない。けれど、蘭の目が何度も奥の通路へ向くのは分かった。トイレへ続く通路。片づけられた段ボール。閉店後、外から入った人間はいない店。

 

蘭の目が、通路とレジと店長の間を行き来する。考えが形になりかけている時の目だった。

 

けれど、表情は晴れなかった。

 

「でも新一、もし推理が間違ってたら……絢が……」

 

新一。蘭の口から落ちた名前が、妙に耳に残った。

 

電話の向こうで、何か短く返されたらしい。蘭は唇を結び、それから小さく頷いた。

 

「……うん。分かった。やってみる」

 

園子が、待ちきれないように身を乗り出す。

 

「新一君、何だって?」

「新一君?」

 

思わず聞き返すと、園子がこちらを見る。

 

「ああ、工藤新一。蘭の幼なじみ」

 

工藤新一。その名前に、バスの中で聞いた灰原哀の声が重なった。

 

同じ姓。ただ、それだけだ。

 

似た糸を、同じ糸だと決めつけるのは早い。

 

蘭の手元で、通話中の画面がまだ光っていた。彼女はスマートフォンを握ったまま、トイレへ続く通路へ向かう。

 

「蘭?」

 

園子が後を追った。

 

店長は眉をひそめ、絢は不安そうに顔を上げた。ジョディは何も言わない。ただ、蘭の背中を見ている。教師が生徒を見守る目に見える。けれど、それだけにしては、少し静かすぎた。

 

蘭はトイレの扉の前で、一度だけ足を止めた。肩が小さく上下する。それから、扉を開けて中へ入った。

 

狭い個室の扉が閉まる。

 

店内に、妙な静けさが落ちた。菓子の棚。雑誌の棚。白い床。明るすぎる照明。どれもさっきと同じなのに、空気だけが違う。何かが起きる前の沈黙。あるいは、誰かが動き出す前の沈黙。

 

扉の向こうから、蘭の声が響いた。

 

「火事です!」

 

店内の空気が跳ねた。

 

園子が目を見開く。

 

「ちょ、蘭!?」

 

店長も慌てて周囲を見る。

 

「火事? どこが――」

 

火の匂いはしない。煙もない。棚の商品は静かに並んでいる。けれど、その言葉に反応する者がいるとしたら、売り場にいる私たちではない。

 

蘭の声が、もう一度響く。

 

「火事です! 早く逃げてください!」

 

一瞬、何も起きなかった。

 

店長の困惑が、怒りに変わりかける。

 

「君、何を――」

 

その言葉を遮るように、天井の奥で音がした。

 

小さく、何かがこすれる音。

 

段ボールを動かす音ではない。棚の商品が落ちる音でもない。もっと上。人間が、狭い場所で身をよじる音だった。

 

絢が息を呑む。

 

扉の向こうで、硬い板がずれる音がした。次いで、何か重いものが落ちる音。トイレの扉が内側から乱暴に開き、サラリーマン風の男が床へ転がり出た。肩には白い粉がつき、上を見上げると、天井板が一枚ずれている。

 

園子の悲鳴が店内に響く。

 

「な、何なのよこれ!」

 

その後ろから、蘭が出てきた。手には、まだスマートフォンを握っている。

 

顔は青い。当てたことを喜ぶ顔ではなかった。本当にそこに人がいたことを、まだ受け止めきれていないように見えた。

 

「蘭!」

 

園子が駆け寄る。

 

蘭は小さく頷いた。それからスマートフォンを耳に戻す。

 

「うん……いた。うん、大丈夫」

 

電話の向こうの相手に、そう告げているらしい。

 

男は床に膝をついたまま、動けずにいた。逃げようとする気配はない。逃げる場所が、もうないのだろう。

 

店長は口を開けたまま、何も言えずにいた。絢もすぐには動かなかった。疑いが晴れた安堵より先に、天井裏から人が落ちてきたという事実の方が大きかったのだろう。

 

「……すみません」

 

男が、小さく言った。その声で、張りつめていたものが切れた。

 

店内は、一度に動き出した。

 

店長は震える手で電話を取り、ジョディは客の前に回る。園子は蘭のそばにいて、絢はレジ横の壁にもたれていた。私は棚のそばに身を引く。

 

男の声は、途切れ途切れに耳へ入ってきた。

 

仕事を失っていたこと。帰る場所がなく、この店に何度も来ていたこと。トイレを借りるふりをして天井裏に隠れ、閉店後に降りて商品を持ち出していたこと。

 

拾える言葉を繋げると、そういう話だった。

 

電池は、暗い場所で明かりを使うため。タオルは、天井裏で過ごすため。

 

そして、絢が閉めた日を選んだ理由。

 

彼女が、奥の通路を片づけるからだ。

 

段ボールが寄せられ、トイレから売り場へ出やすくなる。次の日の人が困らないように、という気遣いが、男にとっては都合のいい道になっていた。

 

絢の顔が、そこで初めて歪んだ。

 

奥の通路を片づけていたこと。次の日の人が困らないようにしていたこと。その気遣いが、男には都合のいい道になっていた。

 

絢も、そこに気づいたのだと思う。

 

善意が、誰かの逃げ道に使われる。

 

そういうこともあるのだ。

 

「七川君」

 

店長が、ようやく絢に向き直った。

 

絢の肩が、びくりと動く。さっきまであれほど強かった店長の声は、出てくるまでに時間がかかった。

 

「すまなかった」

 

短い言葉だった。

 

けれど、さっきまでの決めつけた声とは違っていた。さっきまで絢を責めていた声とは違う。自分の言葉がどこへ届いたのか、ようやく見えたような声だった。

 

絢は俯いた。

 

「……分かってもらえたなら、いいです」

 

そう答えた声は、少しだけ掠れていた。

 

いいです、という言葉で、本当に全部がよくなるわけではない。疑われた時間は戻らない。怖かった気持ちも、消えない。

 

それでも、その一言で、店内に張りつめていた糸が少しずつ緩んでいく。

 

疑いが行き場を失い、怒りが声を失う。

 

事件の糸がほどける瞬間というのは、思ったより静かなものだった。

 

蘭は、スマートフォンを握ったまま立っていた。

 

電話の向こうに、道筋を示した声はあったのだろう。

 

けれど、私の耳に残っているのは、扉の向こうで響いた蘭の声だった。

 

火事です、と叫んだ声。間違っているかもしれないと知りながら、それでも踏み込んだ声。

 

探偵ではない。

 

答えを持っていたわけでもない。

 

それでも彼女は、友人に向けられた疑いをそのままにはしなかった。

 

事件を解く者は、いつも探偵の顔をしているとは限らない。

 

私は、そのことを覚えておこうと思った。

 

「アリスさん」

 

蘭がこちらを見る。

 

「何かしら」

「さっきのからくり人形の話、ありがとうございました」

「礼を言われることではないわ。私は、人形ならそう見ると言っただけよ」

「でも、それで考えられたので」

 

まっすぐ言われると、返事に困る。

 

人形の糸は、こちらが引けば動く。人間はそうではない。こちらが少し言葉を置いただけで、勝手に考え、迷い、選ぶ。

 

厄介で、強い。

 

「友達を助けたのね」

 

そう言うと、蘭は目を丸くした。それから、少し照れたように笑う。

 

「助けられてたら、いいんですけど」

 

絢はレジのそばで、園子に何か言われていた。園子の慰め方は少し騒がしい。けれど、絢の表情はさっきより柔らかかった。

 

ジョディは、その様子を少し離れた場所から見ていた。

 

明るい教師の顔。しかし、目は違う。

 

蘭を試していたのか。見守っていたのか。

 

そこまでは分からない。

 

ただ、さっきの目だけは引っかかっていた。別れを惜しむ教師の目にしては、少しだけ静かすぎた。

 

「ミス・アリス」

 

ジョディがこちらへ歩いてきた。

 

「あなた、面白いこと言いマースね。人形の話」

「私に分かるのは、それくらいだもの」

「でも、Ranには届きました」

「彼女が拾っただけよ」

 

ジョディは楽しそうに笑った。

 

「拾えるのも、才能デース」

 

そう言って、蘭たちの方へ戻っていく。

 

その背中を見ながら、少しだけ考える。英語教師。明るく、人懐こく、冗談をよく言う女。けれど、さっき蘭を見ていた目は、ただ別れを惜しむ教師のものとは少し違っていた。

 

試していたのか。見守っていたのか。

 

どちらにせよ、彼女は蘭が動くのを待っていたように見えた。

 

ジョディ先生。

 

蘭たちは、そう呼んでいた。帳面には、ひとまずそう書いておく。

 

しばらくして、店内は少しずつ普段の顔を取り戻した。

 

店長は警察に事情を説明し、男は抵抗しなかった。絢はまだ泣きそうだったが、蘭と園子に挟まれて、少しずつ笑えるようになっていた。

 

そこでようやく、自分の手元を見る。

 

弁当。

 

完全に忘れていた。

 

「……私は夕食を買いに来たのだったわ」

 

蘭が、はっとしたようにこちらを見る。

 

「す、すみません。私たちが巻き込んじゃって……まだ買えてなかったんですね」

「あなたたちが起こした事件ではないでしょう」

「でも、アリスさん、帰れたはずなのに」

 

たしかに、途中で店を出ることもできた。弁当を棚に戻して、何も見なかったことにして、人形工房へ帰ることも。

 

けれど、それをしなかったのは私だ。

 

「気にしなくていいわ。私が勝手に残っただけよ」

 

蘭はそれでも、少し申し訳なさそうに眉を下げていた。

 

その顔を見て、少しだけ考えを改める。この町の人間は、事件を雨に降られたくらいのこととして受け入れているのかと思っていた。

 

けれど、そうではないらしい。

 

巻き込まれれば困る。誰かを巻き込めば気にする。疑われれば傷つき、疑いが晴れれば息を吐く。ただ、それでも次の用事へ戻っていくのが早いだけだ。

 

園子が菓子の棚を指した。

 

「蘭、ジョディ先生のパーティー用のお菓子、さっさと選ばないと」

「あ、そうだった」

 

ジョディは楽しそうに手を叩いた。

 

「Yes! お菓子、大事デース」

 

三人は、さっきまで事件があった店内で、菓子を選び始めた。

 

大変ではなかったわけではない。ただ、いつまでもその場に立ち止まってはいられない。この町の人間は、たぶんそうやって次へ進む。

 

絢がレジに戻る。

 

「温めますか?」

 

普通の声に戻ろうとしている声だった。

 

弁当を差し出す。

 

「お願いするわ」

 

電子レンジの音が鳴る。白い明かりの下で、弁当が回る。

 

人間の用事を並べる場所。

 

そこには夕食も、秘密も、疑いも、涙も、何食わぬ顔で並んでいた。

 

店を出る頃には、夜は少し深くなっていた。

 

温めてもらった弁当の熱は、歩いているうちに少しずつ落ち着いていく。けれど、もう一度店へ戻る気にはならなかった。戻ればまた、何かに巻き込まれそうな気がしたからだ。

 

人形工房マーガトロイドへ帰ると、店内は静かだった。

 

作業机の上では、女雛が乾いている。赤黒かった跡は、もう血の色ではない。古い影に見える。

 

「ただいま」

 

上海と蓬莱が、棚の上からこちらを見た。

 

「留守番は問題なかった?」

 

二体は黙っている。問題なかった、ということにしておく。

 

弁当を机の端に置き、帳面を開いた。今日見たことを書いておく。

 

毛利蘭。

鈴木園子。

ジョディ先生。

七川絢。

駅前のコンビニ。

トイレの天井裏。

工藤新一。

 

最後の名前で、筆が止まる。

 

その名前に、灰原哀の声が重なった。同じ糸なのか、別の糸なのかは、まだ分からない。

 

私は名前の横に小さく丸をつけ、帳面を閉じた。

 

弁当の蓋を開ける。

 

湯気は、まだ少し残っていた。

 

「……温かいうちに帰れただけ、ましと思うべきかしら」

 

上海が、小さく首を傾げた。

 

「できると思っていない顔をしないで」

 

もちろん、返事はない。

 

窓の外には、何もなかったような顔をした米花町があった。

 

今日もまた、ひとつの嘘がほどけた。

 

そして別の秘密が、少しだけ近くなった。




【後書き】

コンビニ回後編でした。

今回は、探偵ではない蘭が、それでも友達のために一歩踏み出す回でした。

答えを持っているから動くのではなく、間違っているかもしれないと思いながら、それでも動く。
そこをアリスが見たことで、米花町の人間への理解も少し進んだかなと思います。

そしてアリスさんは、無事に弁当を温かいうちに食べられました。
無事……?

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