東方米花異聞   作:秋刀魚食べたい

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今回から、満月の夜の話に入ります。
いわゆる二元ミステリー回ですが、今回はまだ「起」の部分です。


第14話 満月の夜の二元ミステリー 起

アリス・マーガトロイド

 

その日は、月が満ちる日だった。

 

そう分かっていても、朝の米花町は昨日と変わらなかった。商店街のシャッターが上がり、配達の自転車が通り、店先で誰かが水を撒いている。人間たちは、いつも通りの顔で一日を始めていた。

 

レミリアの言葉は、まだ言葉のままだった。

 

船と港。いくつもの嘘。別の顔をする人間たち。その中心にいる子ども。

 

どこを見ても、それらしい糸は見えない。

 

紫の見ていた歪みをほどいているのが江戸川コナンなら、今日も彼の近くで何かが起きるのかもしれない。けれど、その考えはすぐに行き止まりにぶつかった。

 

その江戸川コナンが、今どこにいるのかを知らない。名前も、顔も、あの声も知っているのに、そこから先へ糸を伸ばせない。

 

少年探偵団の子どもたちに聞く。商店街で見かけた人間に尋ねる。上海を飛ばして、町の上からそれらしい影を探す。

 

手段はいくつか思いついた。けれど、どれも糸ではなく網に近い。誰を探しているのか、なぜ探しているのかを説明できないまま、町をさらうことになる。

 

ただ見るというには乱暴すぎる。けれど、動くにはまだ何も起きていない。

 

そもそも、紫は言っていた。

 

自分は客席ではなく、舞台袖にいるのだと。

 

なら、こちらから無理に舞台を探しに行かなくても、幕が上がれば向こうから見える場所へ来るのかもしれない。

 

そう思うことで、どうにか自分を納得させた。半分は理屈で、半分はやけだった。

 

その結論を置いたところで、奥の鏡に波紋が立った。

 

「相変わらず、難しい顔をしているわね」

 

「朝からあなたの顔を見たからよ」

 

鏡の向こうで、八雲紫が扇を広げていた。悪びれた様子はない。けれど、いつもより出てくるのが早い。

 

「今日は、月が満ちる日でしょう」

 

「ええ。おかげで何も手につかないわ」

 

「それは困ったわね。人形店の店主が、仕事を放り出すわけにはいかないもの」

 

「誰のせいだと思っているの」

 

紫は答えず、鏡の隙間から薄い布を差し出した。

 

受け取って広げると、肩に掛ける外套の形をしていた。灰色とも紫ともつかない色をしている。光の当たり方で輪郭がわずかに揺れ、布の端だけが空気の中に溶けるように見えた。

 

「何これ」

 

「外の世界用の外套」

 

「見れば分かるわ」

 

「なら、聞かなくてもいいでしょう」

 

布は見た目よりずっと軽かった。魔力の気配は薄い。けれど、何もないわけではない。表面に、細い何かが何層も挟まれている。

 

「あなたが作ったの?」

 

「外側は河童に頼んだわ。光を曲げるのは、あの子たちの得意分野でしょう。私はそこに、少しだけ手を加えただけ」

 

「少しだけ、ね」

 

「見えなくなるわけではないわ。見えても、見たことにしにくくなる。鳥か、雲か、街灯の反射か。人間は、自分の日常に合わないものを案外うまく見落とすものよ」

 

紫はいつものように笑った。

 

「あなたが空を飛んで、米花町に新しい怪事件を増やしても困るでしょう?」

 

「用意がいいのね」

 

「この前、少し怒らせたようだから」

 

扇の向こうの目が、ほんの少しだけ逸れた。

 

「少し?」

 

「多めに見積もると、あなたがまた怒るでしょう」

 

「もう怒ってるわ」

 

「なら、持ってきた甲斐があったわね」

 

ありがたいとは思うが、それを素直に認めると、紫の思う壺のようで腹が立った。

 

「姿を消す道具ではないのね」

 

「ええ。近くで見られれば、ただの布よ。派手に動けば、なおさらね」

 

「十分じゃない」

 

「そう言うと思ったわ」

 

「舞台に上がれとは言わないわ。でも、舞台袖を歩くにも、黒子の衣装くらいは必要でしょう?」

 

その言い方が、やはり少しだけ腹立たしかった。

 

鏡の波紋が消え、奥の部屋には薄い外套と朝の静けさだけが残った。

 

   *

 

その静けさを破ったのは、扉の鈴だった。

 

「こんにちは~!」

 

歩美の声が店の中に響く。続いて、元太と光彦がカウンターの前までやって来た。

 

ほら、来たと思った自分に、少しだけ呆れる。

 

紫が言っていたよりも先に、もう舞台に引っ張られているのかもしれない。

 

いつもの五人、と思いかけて、足りないことに気づく。江戸川コナンと、灰原哀がいない。

 

「いらっしゃい。できているわ。少し待っていて」

 

奥の作業机へ戻り、布を掛けておいた箱を両手で持ち上げる。

 

赤黒かった跡は、もう血の色には見えない。完全に消したわけではない。なかったことにしたわけでもない。ただ、この子の顔に戻るように整えた。

 

歩美が見ても怖いとは思わないはずだと考えながら、箱をカウンターへ置く。三人は待ちきれないように身を乗り出した。

 

「見てもいい?」

 

「そのために来たのでしょう」

 

指先で箱の縁を押さえ、ゆっくり蓋を開けた。

 

布の上に座る女雛は、黙っていた。歩美はしばらく息を止めたように見つめ、それから両手を胸の前で握った。

 

「すごい……ちゃんと、お雛様だ」

 

「新品にしたわけじゃないわ。この子の顔に戻しただけ」

 

「うん。それがいい」

 

その言い方に、少し救われる。

 

元太が箱の前へ身を乗り出し、口を開けた。

 

「いや、なんつーかよぉ……よかったぜ」

 

「うん。ほんとによかった」

 

その言葉が、女雛に向けられたものなのか、歩美に向けられたものなのかは分からなかった。けれど、どちらでもいい気がした。

 

箱を閉じる時、歩美は名残惜しそうに中を見た。

 

「アリスさん、本当にありがとう」

 

「どういたしまして」

 

その言葉は、前より少しだけ言いやすくなっていた。

 

「料金だけど」

 

箱と一緒に用意していた見積書を差し出すと、光彦が横から覗き込んだ。

 

「この前言っていた通りですね」

 

「ええ。買い直した方が安い、という金額にはならないはずだと言ったでしょう」

 

「本当にこれでいいんですか?」

 

「作業してみて、必要な分は分かったわ。それだけよ」

 

元太が数字を見て、少し安心したように息を吐いた。

 

「なんつーか、もっとすげえ値段になるかと思ってたぜ」

 

「新しい人形を売ったわけではないもの」

 

歩美が紙袋を抱え直す。

 

「また、このお雛様を飾れるの、うれしいな」

 

その声を聞いて、肩の力が抜けた。

 

「ええ。うまく直せてよかったわ」

 

人形は持ち主のもとへ帰る。そういうものだ。預かったものは、直して返す。返せるうちに。

 

紙袋を渡してから、足りない二人のことをもう一度思い出した。

 

「今日は、江戸川君と灰原さんは一緒じゃないのね」

 

何気なく聞いたつもりだった。

 

けれど、三人の顔がすぐに曇る。

 

「灰原さん、風邪引いちゃったんだって」

 

「博士の家で寝込んでるんです」

 

「コナン君も、今日はそっちにいるみたいです。看病してるって」

 

光彦の言葉で、朝から形を持たなかったものが、少し近づいた。

 

「博士の家?」

 

「あ、阿笠博士です。バスジャックの時にも一緒にいた、ふくよかな男の人」

 

「米花町二丁目の方に住んでるんだよ。大きな丸い屋根のお家!」

 

阿笠博士の家という言葉で、見えなかった糸が一本だけ形を持った。

 

バスの中で、子どもたちのそばにいた男性。江戸川コナンの声を、小さな機械越しに受け取っていた人物。

 

あの少年の動きに、当然のようについていける大人。

 

あの少年の周囲にあった、出来すぎた道具。そのすべてを彼と結びつけるのは早い。けれど、まったく無関係だと考えるには近すぎる。

 

その家に灰原哀がいて、江戸川コナンもまた、そこにいる。

 

「……そう。灰原さんに、お大事にと伝えて」

 

「うん!」

 

歩美は頷いた。元太が「早く元気になれって言っとくぜ」と胸を張り、光彦が「それは僕たちから伝えます」となぜか真面目に補足する。

 

三人が帰ると、扉の鈴の音だけが店に残った。

 

しばらく、カウンターの前に立ったままでいた。

 

灰原哀は、阿笠博士の家にいる。江戸川コナンも、そこにいる。

 

歩美たちの声はもう聞こえないのに、その言葉だけが店の中に残っている気がした。

 

別の顔をする人間たち。

 

その中心にいる子ども。

 

見えなかった糸は、まだ細い。けれど一度形を持ったものは、もう見なかったことにはできない。

 

店の奥へ戻ると、朝に渡された外套が椅子の背に掛かっていた。

 

ただの布に見える。けれど、光の当たり方によって輪郭がわずかに揺れ、こちらを急かしているようにも見えた。

 

舞台袖を歩くにも、黒子の衣装くらいは必要。

 

紫の言葉を思い出す。

 

本当に必要になるかは、まだ分からない。

 

けれど、必要になった時に手元になければ、きっと間に合わない。

 

アリスは外套を手に取り、指先で布の端を確かめた。

 

満ちた月が昇るまで、まだ少しだけ時間がある。

 

その少しの間に、人形の糸を結び直しておくことにした。




ここからしばらく、二元ミステリー編です。
当初は2話でまとめるつもりでしたが、思ったより長くなりそうだったので分割しました。
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