いわゆる二元ミステリー回ですが、今回はまだ「起」の部分です。
アリス・マーガトロイド
その日は、月が満ちる日だった。
そう分かっていても、朝の米花町は昨日と変わらなかった。商店街のシャッターが上がり、配達の自転車が通り、店先で誰かが水を撒いている。人間たちは、いつも通りの顔で一日を始めていた。
レミリアの言葉は、まだ言葉のままだった。
船と港。いくつもの嘘。別の顔をする人間たち。その中心にいる子ども。
どこを見ても、それらしい糸は見えない。
紫の見ていた歪みをほどいているのが江戸川コナンなら、今日も彼の近くで何かが起きるのかもしれない。けれど、その考えはすぐに行き止まりにぶつかった。
その江戸川コナンが、今どこにいるのかを知らない。名前も、顔も、あの声も知っているのに、そこから先へ糸を伸ばせない。
少年探偵団の子どもたちに聞く。商店街で見かけた人間に尋ねる。上海を飛ばして、町の上からそれらしい影を探す。
手段はいくつか思いついた。けれど、どれも糸ではなく網に近い。誰を探しているのか、なぜ探しているのかを説明できないまま、町をさらうことになる。
ただ見るというには乱暴すぎる。けれど、動くにはまだ何も起きていない。
そもそも、紫は言っていた。
自分は客席ではなく、舞台袖にいるのだと。
なら、こちらから無理に舞台を探しに行かなくても、幕が上がれば向こうから見える場所へ来るのかもしれない。
そう思うことで、どうにか自分を納得させた。半分は理屈で、半分はやけだった。
その結論を置いたところで、奥の鏡に波紋が立った。
「相変わらず、難しい顔をしているわね」
「朝からあなたの顔を見たからよ」
鏡の向こうで、八雲紫が扇を広げていた。悪びれた様子はない。けれど、いつもより出てくるのが早い。
「今日は、月が満ちる日でしょう」
「ええ。おかげで何も手につかないわ」
「それは困ったわね。人形店の店主が、仕事を放り出すわけにはいかないもの」
「誰のせいだと思っているの」
紫は答えず、鏡の隙間から薄い布を差し出した。
受け取って広げると、肩に掛ける外套の形をしていた。灰色とも紫ともつかない色をしている。光の当たり方で輪郭がわずかに揺れ、布の端だけが空気の中に溶けるように見えた。
「何これ」
「外の世界用の外套」
「見れば分かるわ」
「なら、聞かなくてもいいでしょう」
布は見た目よりずっと軽かった。魔力の気配は薄い。けれど、何もないわけではない。表面に、細い何かが何層も挟まれている。
「あなたが作ったの?」
「外側は河童に頼んだわ。光を曲げるのは、あの子たちの得意分野でしょう。私はそこに、少しだけ手を加えただけ」
「少しだけ、ね」
「見えなくなるわけではないわ。見えても、見たことにしにくくなる。鳥か、雲か、街灯の反射か。人間は、自分の日常に合わないものを案外うまく見落とすものよ」
紫はいつものように笑った。
「あなたが空を飛んで、米花町に新しい怪事件を増やしても困るでしょう?」
「用意がいいのね」
「この前、少し怒らせたようだから」
扇の向こうの目が、ほんの少しだけ逸れた。
「少し?」
「多めに見積もると、あなたがまた怒るでしょう」
「もう怒ってるわ」
「なら、持ってきた甲斐があったわね」
ありがたいとは思うが、それを素直に認めると、紫の思う壺のようで腹が立った。
「姿を消す道具ではないのね」
「ええ。近くで見られれば、ただの布よ。派手に動けば、なおさらね」
「十分じゃない」
「そう言うと思ったわ」
「舞台に上がれとは言わないわ。でも、舞台袖を歩くにも、黒子の衣装くらいは必要でしょう?」
その言い方が、やはり少しだけ腹立たしかった。
鏡の波紋が消え、奥の部屋には薄い外套と朝の静けさだけが残った。
*
その静けさを破ったのは、扉の鈴だった。
「こんにちは~!」
歩美の声が店の中に響く。続いて、元太と光彦がカウンターの前までやって来た。
ほら、来たと思った自分に、少しだけ呆れる。
紫が言っていたよりも先に、もう舞台に引っ張られているのかもしれない。
いつもの五人、と思いかけて、足りないことに気づく。江戸川コナンと、灰原哀がいない。
「いらっしゃい。できているわ。少し待っていて」
奥の作業机へ戻り、布を掛けておいた箱を両手で持ち上げる。
赤黒かった跡は、もう血の色には見えない。完全に消したわけではない。なかったことにしたわけでもない。ただ、この子の顔に戻るように整えた。
歩美が見ても怖いとは思わないはずだと考えながら、箱をカウンターへ置く。三人は待ちきれないように身を乗り出した。
「見てもいい?」
「そのために来たのでしょう」
指先で箱の縁を押さえ、ゆっくり蓋を開けた。
布の上に座る女雛は、黙っていた。歩美はしばらく息を止めたように見つめ、それから両手を胸の前で握った。
「すごい……ちゃんと、お雛様だ」
「新品にしたわけじゃないわ。この子の顔に戻しただけ」
「うん。それがいい」
その言い方に、少し救われる。
元太が箱の前へ身を乗り出し、口を開けた。
「いや、なんつーかよぉ……よかったぜ」
「うん。ほんとによかった」
その言葉が、女雛に向けられたものなのか、歩美に向けられたものなのかは分からなかった。けれど、どちらでもいい気がした。
箱を閉じる時、歩美は名残惜しそうに中を見た。
「アリスさん、本当にありがとう」
「どういたしまして」
その言葉は、前より少しだけ言いやすくなっていた。
「料金だけど」
箱と一緒に用意していた見積書を差し出すと、光彦が横から覗き込んだ。
「この前言っていた通りですね」
「ええ。買い直した方が安い、という金額にはならないはずだと言ったでしょう」
「本当にこれでいいんですか?」
「作業してみて、必要な分は分かったわ。それだけよ」
元太が数字を見て、少し安心したように息を吐いた。
「なんつーか、もっとすげえ値段になるかと思ってたぜ」
「新しい人形を売ったわけではないもの」
歩美が紙袋を抱え直す。
「また、このお雛様を飾れるの、うれしいな」
その声を聞いて、肩の力が抜けた。
「ええ。うまく直せてよかったわ」
人形は持ち主のもとへ帰る。そういうものだ。預かったものは、直して返す。返せるうちに。
紙袋を渡してから、足りない二人のことをもう一度思い出した。
「今日は、江戸川君と灰原さんは一緒じゃないのね」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、三人の顔がすぐに曇る。
「灰原さん、風邪引いちゃったんだって」
「博士の家で寝込んでるんです」
「コナン君も、今日はそっちにいるみたいです。看病してるって」
光彦の言葉で、朝から形を持たなかったものが、少し近づいた。
「博士の家?」
「あ、阿笠博士です。バスジャックの時にも一緒にいた、ふくよかな男の人」
「米花町二丁目の方に住んでるんだよ。大きな丸い屋根のお家!」
阿笠博士の家という言葉で、見えなかった糸が一本だけ形を持った。
バスの中で、子どもたちのそばにいた男性。江戸川コナンの声を、小さな機械越しに受け取っていた人物。
あの少年の動きに、当然のようについていける大人。
あの少年の周囲にあった、出来すぎた道具。そのすべてを彼と結びつけるのは早い。けれど、まったく無関係だと考えるには近すぎる。
その家に灰原哀がいて、江戸川コナンもまた、そこにいる。
「……そう。灰原さんに、お大事にと伝えて」
「うん!」
歩美は頷いた。元太が「早く元気になれって言っとくぜ」と胸を張り、光彦が「それは僕たちから伝えます」となぜか真面目に補足する。
三人が帰ると、扉の鈴の音だけが店に残った。
しばらく、カウンターの前に立ったままでいた。
灰原哀は、阿笠博士の家にいる。江戸川コナンも、そこにいる。
歩美たちの声はもう聞こえないのに、その言葉だけが店の中に残っている気がした。
別の顔をする人間たち。
その中心にいる子ども。
見えなかった糸は、まだ細い。けれど一度形を持ったものは、もう見なかったことにはできない。
店の奥へ戻ると、朝に渡された外套が椅子の背に掛かっていた。
ただの布に見える。けれど、光の当たり方によって輪郭がわずかに揺れ、こちらを急かしているようにも見えた。
舞台袖を歩くにも、黒子の衣装くらいは必要。
紫の言葉を思い出す。
本当に必要になるかは、まだ分からない。
けれど、必要になった時に手元になければ、きっと間に合わない。
アリスは外套を手に取り、指先で布の端を確かめた。
満ちた月が昇るまで、まだ少しだけ時間がある。
その少しの間に、人形の糸を結び直しておくことにした。
ここからしばらく、二元ミステリー編です。
当初は2話でまとめるつもりでしたが、思ったより長くなりそうだったので分割しました。