東方米花異聞   作:秋刀魚食べたい

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第15話 満月の夜の二元ミステリー 承

第15話 満月の夜の二元ミステリー 承

 

アリス・マーガトロイド

 

夜の帳が降りるころ、店先の光は薄くなり、商店街の声も遠のいていた。いつもなら一日の終わりとして受け取る静けさが、今夜だけはレミリアの告げた満月へ近づいていく合図のように思えた。

 

昼のうちに結び直した魔力の道筋(いと)は、店の奥から指先へ細く通っていた。人形を動かし、離れた場所の気配を拾うための道筋。店の中なら濃く返るそれも、外へ出れば空気に紛れ、通りをひとつ越えるだけで輪郭を失っていく。

 

棚の奥で小さな気配が動き、それだけで、今夜こちらが何をさせようとしているのかを察したようだった。上海は棚の影から滑り出ると、作業机の端に腰を下ろすように止まった。

 

「米花町二丁目の、丸い屋根の家を見てきて。阿笠博士の家よ。見るだけ。中には入らないで、窓の外からでいいわ」

 

小さな顔が、わずかに傾く。

 

「それと、何かおかしいと思ったら、すぐに知らせて」

 

上海は頷いた。

 

「無理はしないこと。糸が細くなったら、追うより残る方を選んで」

 

今度は迷わず頷いた。

 

窓を少し開けると、上海が夜の青へ滑り出した。窓枠を越えた瞬間、指先に返る感覚が細くなる。

 

店の中で動かす時とは違う。壁を越え、屋根を越え、通りをひとつ隔てるたびに、糸は外の空気に紛れていく。見えるものは遅れ、聞こえるものは輪郭を失う。

 

屋根の影に入り、小さな結び目をひとつ残す。そこからまた先へ、電柱の裏、看板の陰、誰も見ない窓枠の隅へと糸を伸ばしていく。

 

まだ何かをしたわけではなく、ただ見る場所を少し変えただけだと思おうとして、指先に残る細い感覚を見下ろした。人形を外へ出した時点で、ただ待っているだけではなくなっている。

 

それでも、今は確かめるだけでいい。切れそうなものが本当にあるのか、それを見極めるための糸だった。

 

やがて夜の住宅街の中に丸い屋根が浮かび、広い庭と門柱、窓に映る薄い灯りが、歩美の話していた阿笠博士の家と重なった。上海を門柱の影へ寄せ、通りから玄関までを見渡せる位置に沈める。

 

しばらく大きな動きはなく、窓の向こうに人の気配だけが薄く残っていた。声は遠く、輪郭も曖昧だった。家の中で誰がどこにいるのかまでは分からない。上海は窓の外にいるだけだ。中まで覗き込ませれば、見る場所を変えただけ、という言い訳はもう使えなくなる。

 

中を覗き込ませるかどうか迷うより早く、一台の車が家の前へ停まった。

 

降りてきたジョディを見た瞬間、バスの中で震えていた女教師の顔と、コンビニでこちらの言葉を測っていた目が重なった。どちらが本当かはまだ分からない。けれど、少なくとも今夜、病人の見舞いだけで阿笠博士の家を訪ねてきたとは思えなかった。

 

ジョディ。

 

その名を胸の内で確かめながら、人形を門柱の影へさらに寄せる。

 

呼び鈴が鳴り、少し間を置いて、玄関の向こうで人の気配が動いた。扉はすぐには開かない。やがて、ドアチェーンの分だけ細く開いた隙間に、小さな影が見える。

 

扉の隙間に見えた小さな影は、灰原哀に見えた。

 

ジョディが何かを告げる。声は遠い。庭木が揺れ、通りを車が過ぎ、言葉の輪郭はすぐに崩れてしまう。

 

それでも、いくつかの音だけは糸を伝ってきた。

 

「新出先生」「車」「代わりに来た」。

 

途切れ途切れの言葉の中で、その名前だけが妙にはっきり残った。

 

バスの中で、江戸川コナンを庇った青年。必死さは本物に見えた。けれど、顔と糸の張り方が最後まで噛み合わなかった医者。バスの中から残っていた違和感が、その名前に引かれてもう一度浮かび上がってくる。

 

扉の隙間から、小さな声が返る。灰原哀の声に聞こえた。

 

けれど、指先に返ってきた感覚は、思っていたものと違った。弱った子どもが警戒している糸ではない。もっと硬い。息を潜め、声の高さまで選んでいるような張り方だった。

 

事件の場で、江戸川コナンが見せる硬さに似ている。

 

ドアチェーンが外れる音に続いて玄関の扉が開き、灰原哀に見える少女が姿を現した。茶色い髪。小さな身体。少し俯いた顔。歩美たちが心配していた少女。

 

顔は灰原哀に見えるのに、指先へ返る糸の張り方だけがどうしても噛み合わない。

 

正しい顔をしているほど、その違いが気持ち悪かった。

 

少女は車へ乗り込んだ。扉が閉まった直後、車は何のためらいもなく夜の通りへ滑り出す。

 

追わせる、と決めるより早く、指先が上海の糸を引いていた。

 

門柱の影から小さな影を走らせる。車はすぐに角を曲がり、看板の裏に残した結び目越しでも、次の通りへ出る頃には感覚が細くなっていく。

 

追えないわけではない。けれど、遠ざかる車を外から辿り続ければ、曲がり角ひとつ、街灯の反射ひとつで糸の精度は落ちる。車の揺れも、乗っている少女の気配も、夜の雑音に紛れていき、このままではどこかで見失う。

 

そうなる前に糸を低く引き、道路脇の植え込みへ滑り込ませた。車がその前を通り過ぎる一瞬に合わせ、後輪の影から車体の裏側へ潜らせる。

 

落ち葉か、紙くずか、タイヤの影に紛れた小さな何か。夜の道を走る車の下にそんなものが一瞬入り込んだとしても、気に留める人間はいないはずだった。

 

指先に、硬い振動が返る。車体の揺れ、路面の細かな震え、金属の冷たさが、細い糸を通して伝わってきた。

 

車に直接触れたことで、外から追うよりはるかに確かな感覚が返ってくる。だが、それは安心ではなかった。車体の裏に残した上海は、もうこちらの目ではなく、夜の奥へ沈んでいく小さな錨に近かった。

 

車が遠ざかるにつれて、振動は少しずつ薄くなる。切れたわけではない。ただ、糸の先が夜の底へ沈み、手繰ろうとするたびに指先から細かな情報がこぼれていく。

 

車内の声はもう拾えず、灰原哀の顔をした少女の糸も、遠ざかる車体の揺れに紛れてほとんど分からなくなった。

 

「上海」

 

呼んでも、返るものはない。あの車に小さな人形が残っている。そのかすかな事実だけが、指先の奥に沈んでいた。

 

行き先も、車内で何が起きているのかも分からないまま、沈みかけた糸だけを追うしかないと思った時、阿笠博士の家に残してきた結び目の一つが、かすかに震えた。

 

車に乗ったはずの少女の気配が、あの家の近くにもある。

 

見間違いで片づけるには、指先に残る感覚がはっきりしすぎていた。同じ顔の奥に、別の張り方をした糸が残っている。

 

ジョディの車に残した上海の糸は、もう夜の奥へ沈みかけている。けれど、阿笠博士の家に残した結び目にも、無視できない震えがあった。

 

片方を手放せば、もう片方も見失うかもしれない。

 

「蓬莱」

 

棚の奥から、別の人形が顔を出す。

 

「米花町二丁目の、丸い屋根の家へ。上海が残した結び目を辿って。中には入らない。外から見張るだけでいいわ」

 

蓬莱は静かに頷き、上海が夜に残していった糸へ指先を添えた。

 

一度結んだ道なら、まだ辿れる。小さな影は窓から夜へ滑り出し、屋根の向こうへ音もなく消えていった。

 

ジョディの車には上海を残し、阿笠博士の家へは蓬莱を向かわせる。二本の糸が同時に細く張られ、夜の町が指先の上で二つに割れた。

 

姿が消えるわけではない。見た者が、見たと言い切れなくなるだけで、今はそれで十分だった。

 

外套を肩に掛け、窓枠に足をかける。

 

身体が夜の上へ出る。裾が風に揺れ、下を歩く人間が一人、ふと顔を上げた。目がこちらを捉える前に、街灯の揺らぎか、雲の影か、何か別の理由を見つけたように逸れていく。

 

紫が言っていた通り、消えているわけではない。

 

けれど、人間は自分の日常にないものを、驚くほど簡単に別の形へ押し込める。

 

屋根の上を滑るように進んでも、追うべき車はもう視界にない。それでも完全に失ったわけではなく、沈んでいく方角だけは指先の奥に残っていた。

 

車内の声も、少女の糸の張り方も、もう拾えない。ただ、あの車が向かった方向だけが、夜の奥へ細く続いている。

 

そこへ、阿笠博士の家に向かわせた蓬莱の糸が触れた。

 

残してきた視界の中で、玄関の扉が開いている。

 

茶色い髪も、小さな身体も、さっき車に乗ったはずの少女と同じ顔をしている。けれど、指先へ返る糸は、先ほどの少女とは違っていた。

 

こちらの糸は、細いが弱くはない。熱を帯びたまま、まっすぐ外へ伸びようとしている。風邪の気配は残っているのに、足取りには迷いがなかった。

 

しかも、灰原哀には少し大きい眼鏡をかけている。江戸川コナンがかけていたものと、よく似た形だった。

 

少女は通りへ出ると、眼鏡に触れた。何かを確かめるように顔を上げ、迷わず車道の方へ足を向ける。

 

守られて寝ているだけの子どもなら、こんなふうには歩かない。

 

ただ外へ出てきたにしては迷いがなさすぎる。あの子は、誰かの後を追おうとしている。それも、自分が止められるかもしれないものではなく、自分が行かなければならないと決めたものを。

 

通りに近づいてきた空車へ手を上げる動きにも、迷いはなかった。小さな身体が後部座席へ消え、車が夜の道へ滑り出しても、その糸はまっすぐ前だけを向いている。

 

上海が掴んだ車はもう遠く、方角だけは残っているが、それ以上は分からない。無理に追えば、沈みかけた糸を乱すだけかもしれない。

 

それでも、この少女が迷わず追おうとしているなら、こちらを見失わない方がいい。

 

屋根の上で身を翻し、タクシーの進む方へ糸を合わせた。

 

消えかけた車にしがみつくより、今は目の前で夜へ出ていく少女の糸に合わせるべきだった。ジョディの車に残した上海は、夜の奥で小さく沈んでいる。蓬莱が追う少女の糸は、熱を帯びたまま同じ方角へ伸びている。

 

二つはまだ繋がっていない。

 

けれど、満ちた月の下で別々に伸びる糸が同じ暗がりへ吸い込まれていくのを感じた時、舞台袖にいるつもりだった足が、もう幕の内側へかかっていることだけは分かった。

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