東方米花異聞   作:秋刀魚食べたい

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第16話 満月の夜の二元ミステリー 転

アリス・マーガトロイド

 

夜の町の匂いが、少しずつ変わっていく。

 

商店街の油と埃、住宅街の植え込みの湿り気、車道に残った排気の熱。そのどれもが薄れ、代わりに潮と鉄錆の匂いが外套の裾へ絡み始めたころ、ジョディの車に残した上海の糸が、夜の奥でかすかに震えた。

 

幻想郷なら、夜の空気そのものが糸を受ける。木の枝にも、霧にも、月明かりの影にも、ほんの小さな結び目を置くことができる。

 

けれど、米花町の夜は違った。

 

空気はただの空気で、舗装された道は硬く、街灯の光は魔力を留めない。糸を通せるのは、人形と、触れたものと、あらかじめ結んでおいた細い道だけ。外へ出るほど糸は痩せ、強く引こうとすれば、切れるより先に感覚が白く抜けていく。

 

だから、ジョディの車に残した上海は、目でも耳でもなかった。

 

夜の底へ沈めた、小さな錨。

 

何かを縛るには足りない。ただ、そこにまだあると知るための糸だった。

 

さっきまで車体の裏から返ってきていた振動は、路面の継ぎ目やタイヤの跳ねに紛れて、ほとんど輪郭を失っていた。

 

けれど今、その揺れが消えている。沈みかけていた糸の先に残っているのは、走り続ける車の感覚ではなく、冷えた鉄の下に上海だけが取り残されたような静けさだった。

 

その場所がどこなのかまでは、まだ分からない。糸は切れていないが、遠すぎる。車内の声も、人の気配も拾えず、ただ小さな人形が夜の底に残されている。その事実だけが、糸の奥に沈んでいた。

 

一方で、蓬莱が追うタクシーはまだ近い。

 

後部座席にいる灰原哀は、ほとんど動かない。けれど、その糸は眠っていなかった。風邪の熱を帯びた細い線が、怯えを抱えたまま前へ伸びている。恐怖だけなら糸は縮こまるはずなのに、あの子の糸は震えながらも行き先を変えようとしない。

 

タクシーが進むにつれて、二本の糸の距離が少しずつ縮まっていく。

 

上海の沈んだ糸と、蓬莱が追う灰原の糸。別々に伸びていたはずの二本が、潮の匂いの濃くなる方へ寄っていく。偶然と言うには、近づき方がまっすぐすぎた。

 

行き先は、港。

 

そこまで分かれば、蓬莱にタクシーを追わせ続けるだけで足りる。灰原の糸はまだ掴めている。なら、今はこちらが上海の沈んだ方角へ寄るべきだった。

 

倉庫の庇へ足を移し、タクシーの進む道から外れる。夜気の冷たさが外套の裾にまとわりつき、積まれたコンテナの影が月明かりの下で黒く沈んでいた。下の道路を走るタクシーの気配を蓬莱に任せ、上海の糸が沈んだ方角へ身体を滑らせる。

 

近づくほど、感覚が戻ってくる。

 

最初は、鉄の冷たさだけだった。次に、車体の重み。地面に響く低い声の震え。さらに近づくと、硬い衝撃が返った。

 

ガラスが砕ける音が、少し遅れて港に散る。

 

細かな破片が跳ねる振動と、車内に溜まっていた空気が外へ抜ける震え。夜の底に沈んでいた上海の糸が、急に輪郭を取り戻した。

 

倉庫の庇、非常階段、積まれたコンテナを選びながら進むたび、港の広さが少しずつ見えてくる。光は少ない。けれど、満ちた月が海面を白く照らし、停められた車の輪郭だけはいやにはっきり浮かんでいた。

 

「動くなよ、ベルモット……」

 

聞こえた声を、間違えるはずがなかった。江戸川コナンの声だった。

 

灰原哀に見えていた少女の奥で、ずっと噛み合わなかった硬さが、ようやく形を持つ。あれは灰原ではない。バスの中で、子どもの顔をしたまま事件の芯へ手を伸ばしていた少年だった。

 

ベルモット。

 

その名が誰を指すのかまでは、まだ見えない。けれど、コナンがその名を向ける相手が、この港にいる。

 

積まれたコンテナの影へ身を沈め、港の底を見下ろす。

 

そこでようやく、車のそばにいる人影の輪郭が見えた。

 

車体のそばでは、ジョディが地面に座り込み、背中を車に預けていた。糸は乱れているが、切れてはいない。痛みを押さえ込むように細く張られ、それでも視線だけは前を見ている。

 

その少し先には、長いブロンドの髪をたたえた女が立っていた。

 

位置から見て、コナンがベルモットと呼んだ相手は彼女なのだろう。

 

月明かりを受けた横顔を見た瞬間、新出という名前に残っていた噛み合わなさが、ようやく別の形を持つ。

 

探偵の仕事を奪う趣味はない。けれど、糸の通し方がまるで違う顔を、同じ顔だと言い張るのは、人形師には少し無理がある。

 

コナンはその女へ向けて、手首をわずかに上げていた。玩具に見える小さな仕掛け。けれど、そこから伸びる緊張は玩具のものではない。ジョディの呼吸も、ベルモットの視線も、その一点を外していなかった。

 

この場を押さえているのは、今はコナンだった。なら、まだ動く必要はない。

 

そう思った瞬間、蓬莱の糸が強く震えた。

 

埠頭へ続く道の端で、タクシーが止まった。

 

後部座席の扉が開き、月明かりの届かない端から、小さな影が地面へ降りる。茶色い髪。小さな身体。大きすぎる眼鏡。蓬莱が追っていた糸の正体は、もう見間違えようがなかった。

 

灰原哀だった。

 

その姿を見た瞬間、胸の奥が冷えた。

 

止めるべきだった。

 

もっと手前で。まだこの港に辿り着く前に。ここで何が起きているのか分からなくても、あの子の糸が恐怖を抱えたまま進んでいると分かっていたなら、一度くらい立ち止まらせるべきだった。

 

けれど、もう遅い。

 

タクシーの扉が開いた時点で、場にいる者たちの視線はそちらへ向いていた。ここで蓬莱を出せば、灰原を止めるより先に、月明かりの中で人形の姿を晒すことになる。

 

灰原は、港の空気の中へ踏み込んだ。

 

そして、その一歩で場の均衡が崩れる。

 

コナンがベルモットへ向けて張っていた細い均衡が、灰原の方へ引かれて歪む。ジョディの視線も、ベルモットの気配も、わずかに揺れた。

 

「来るんじゃねぇ!」

 

コナンの声が飛んだ。

 

その声で、胸の冷えが輪郭を持った。

 

もう遅い。

 

灰原は月明かりの端で立ち尽くし、眼鏡の奥の目は開いているのに、目の前の光を見ていない。ベルモットへ向いた糸だけが、凍りついたように動かなくなっていた。

 

その一瞬で、ベルモットの糸がほどける。

 

いや、ほどけたのではない。外されたのだ。コナンが灰原へ意識を向けた、ほんの細い隙間へ指を入れ、結び目だけを抜き取るような動きだった。

 

ベルモットの手が跳ねる。コナンの手首にあった小さな仕掛けが、彼自身の方へ向きを変えた。

 

針の気配が、一瞬だけ走る。

 

コナンの身体が崩れた。

 

糸を切られた人形のように、ではない。あの少年は人形ではない。けれど、さっきまで場を押さえていた細い張力が、そこで一気に失われたことだけは分かった。

 

思わず蓬莱を前へ出しかける。

 

だが、ベルモットの銃口はまだコナンへ向いていない。倒れた子どもを確認するように一瞥しただけで、その視線はすぐに灰原へ戻った。

 

灰原は、そこからようやく息をした。

 

ベルモットの銃口は、まだ撃たない。

 

そのわずかな猶予に、蓬莱の位置をずらした。コンテナの影から低く、車体の陰へ。灰原の足元へ届くには、あと少し足りない。無理に引けば動かせるが、その瞬間に月明かりへ出る。

 

見られる。

 

それでも、撃たれるよりはいい。

 

「馬鹿な女。このボウヤのかわいい計画を台無しにして、わざわざ死にに来るなんて」

 

ベルモットの声が聞こえた時、蓬莱はまだ影の中にいた。

 

死にに来た。

 

その言葉に、灰原の糸が震える。

 

「ただ死にに来たんじゃないわ、全てを終わらせに来たのよ。たとえあなたが捕まっても、私が生きている限り、あなたたちの追跡は途絶えそうにないから」

 

蓬莱を止める。

 

一拍だけ。

 

その言葉を聞いてしまったからだった。灰原は助けを待っているのではない。自分の命を使って、何かを終わらせようとしている。

 

だからといって、撃たせていい理由にはならない。

 

「そのかわり約束してくれる?私以外、誰にも手をかけないって絶対に、約束してくれる?」

 

灰原の声は震えている。けれど、崩れていない。

 

あの小さな身体で、取引をしている。

 

命を差し出す代わりに、他の糸を切らせないための取引を。

 

「いいわ。FBIのこの女以外なら、約束してあげる」

 

ジョディの糸が反応する。

 

痛みの奥で、細く揺れた。

 

「でも、まずはシェリー。あなたよ」

 

シェリー。

 

その名前に、灰原の糸が凍る。

 

「恨むのなら、こんな愚かな研究を始めたあなたの両親を恨むのね」

 

ベルモットの銃口が、灰原へ定まる。

 

猶予は終わった。

 

蓬莱を月明かりへ出す。そう決めた瞬間、車の後部で重い音が跳ねた。

 

閉じていたトランクが、内側から押し上げられる。

 

長い髪の少女が、夜の中へ飛び出した。

 

誰なのかを確かめるより先に、その動きが目に入った。車の後部から身を乗り出し、迷わず車体へ足を掛ける。銃口の向きも、ベルモットの意図も、そこにある危険も見えているはずなのに、速度を落とさない。

 

灰原のもとへ向かっている。

 

月明かりが横顔に触れたところで、ようやく名前が追いついた。

 

毛利蘭。

 

その瞬間、港の闇の奥から一本の線が伸びた。

 

声でも気配でもない。銃口が狙いを置いた時だけ生まれる、冷たく細い線。引き金が落ちるより先に、撃たれる場所を指し示すものだった。

 

その先にいたのは、車体の上を走る蘭の胸元。

 

今度は、迷わなかった。

 

この町で、銃弾を正面から受け止め続けられるほど太い糸は張れない。けれど、蘭が灰原に届くまでの数秒だけなら、まだ間に合う。

 

蓬莱を跳ばす。

 

小さな身体がコンテナの影から月明かりへ飛び出し、蘭と闇のあいだに滑り込んだ。

 

乾いた銃声が鳴る。

 

甲高い音が夜を裂いた。蓬莱の肩が跳ね、白い布が裂ける。弾丸は蘭の身体へ届かず、車体の端を叩いて散った。

 

蘭の髪が跳ねる。

 

けれど、足は止まらない。目の端に蓬莱を捉えたはずなのに、その視線はすぐに灰原へ戻っていた。驚くより先に、守る相手へ向かっている。

 

灰原の糸が凍りつく。ジョディの呼吸が乱れ、ベルモットの銃口がわずかに落ちた。闇の奥にある銃口の気配までもが、一度途切れる。

 

見られた。

 

そう理解した時には、蓬莱はもう月明かりの中にいた。弾丸の前へ割って入り、それを弾いた。その光景を、ここにいる者たちは確かに見た。

 

けれど、蘭はまだ倒れていない。

 

なら、それでいい。

 

蓬莱を戻す余裕はない。

 

蘭は車体の上を駆けていく。振り返ることも、足を緩めることもしない。だから、蓬莱をその背後へ張りつかせた。蘭の背中と闇のあいだ。次の銃口が追うなら、最初に線が触れる場所へ。

 

「カルバドス、撃たないで!」

 

ベルモットの声が港に裂けた。命令というより、悲鳴に近い。その声で、闇の奥に潜む狙撃手の名を知る。カルバドス。姿は見えない。けれど、蘭へ向けて銃口を置いているのが、その名で呼ばれた男なのだと分かった。

 

それでも、銃声は止まらなかった。

 

二発目。

 

車の屋根が弾け、蘭の足元に火花が散る。蓬莱を横から押し込む。弾丸を完全に受けたわけではない。それでも、軌道の芯にぶつけた反動が、胸の奥まで白く返った。

 

三発目。

 

窓枠に残っていた硝子が砕け、月明かりを細かく散らす。蓬莱の片腕が跳ねた。布の下で細い関節が軋み、糸の先が一瞬だけ霞む。

 

四発目。

 

蘭の背中へ伸びかけた線を、蓬莱が半歩だけ横から削る。止めたのではない。逸らしただけだった。それでも、蘭の髪の先が鋭く揺れるだけで済んだ。

 

蘭は止まらない。

 

灰原へ向かって手を伸ばす。目の前で何が起きているのか、どこまで見えているのかは分からない。ただ、灰原を守るという一点だけで、身体が前へ進んでいる。

 

この町の夜では、もう長くは持たない。肩は沈み、片腕は軋み、胸の奥に通した魔力の道筋が熱を持っている。それでも、蘭が灰原に届くまでの数秒だけなら、まだ残せる。

 

五発目。

 

足元の金属が弾け、蘭の踏み出した先で火花が散った。蘭の身体がほんのわずかに沈む。けれど、その沈み込みの分だけ、次の一歩が前へ出た。

 

六発目の線が伸びる。

 

今度は、蘭ひとりではない。

 

灰原を抱え込もうとする、その瞬間の二人をまとめて撃ち抜く位置だった。

 

蓬莱を前へ出す。

 

間に合うかどうかを考える余裕はなかった。蘭が灰原へ覆いかぶさる。小さな身体を抱え込む。その背中へ、冷たい線が落ちる。

 

そこへ蓬莱を叩き込んだ。

 

乾いた銃声と同時に、蓬莱の身体が跳ねた。

 

片腕があり得ない角度に折れる。胸元の布の下で何かが砕け、内側に通していた魔力の道筋が白く焼けた。弾丸は蘭の背を外れ、埠頭のコンクリートを削って跳ねる。

 

次の瞬間、糸の先が空白になった。

 

蓬莱との接続が、切れた。

 

手繰ろうとしても、何も返ってこない。さっきまでそこにあった重みも、関節の軋みも、熱を持った魔力の感触も、すべてが夜の向こうで途切れている。

 

蘭は灰原を抱えたまま、地面へ沈んだ。

 

そのすぐ脇で、蓬莱が埠頭に転がる。

 

小さな身体が月明かりを受けて一度だけ揺れた。けれど、もう起き上がらない。糸の切れた先に残ったのは、冷えたコンクリートの上に投げ出された輪郭だけだった。

 

ほとんど間を置かず、ベルモットの銃口が闇の奥へ跳ねる。

 

「やめてって言ってるでしょう!」

 

直後、別の銃声が鳴った。

 

カルバドスのいる方角、そのすぐそばを叩く弾だった。港の鉄骨が甲高く鳴り、闇に潜んでいた射線がそこでようやくほどける。

 

ベルモットは、蘭を守るために撃った。

 

そう理解した時には、蘭はもう灰原を離していなかった。

 

灰原の糸が、大きく震える。

 

先に届いたのは、人形ではなかった。けれど、届くまでの数秒だけは支えた。走る少女の背に伸びた死線を、最後の一本まで外した。

 

その代わり、こちらも失った。

 

ベルモットが、蓬莱を見ている。

 

ジョディも、灰原も、蘭も、そして闇の奥にいるカルバドスさえも、いま蓬莱が割って入ったことを認識している。何なのかまでは分からなくても、そこにいたことはもう消せない。

 

舞台袖は、もう遠かった。

 

ベルモットの糸が、はっきりと乱れている。灰原へ向けていた殺意は、まだ消えていない。けれど、蘭の身体がその前にあるだけで、引き金へ伸びる糸が絡まり、進めなくなっていた。

 

「Move it, Angel!!」

 

英語の響きが、港の空気を裂いた。

 

どきなさい、エンジェル。

 

その意味が遅れて胸に落ちる。

 

エンジェル。

 

ベルモットの糸が蘭へ向いた時だけ乱れる理由が、その一言でようやく形を持つ。灰原を撃ちたい女と、蘭だけは撃てない女。その二つが同じ身体の中で引き合い、どちらも切れずに絡まっている。

 

蘭は答えない。灰原を抱え込んだまま、頭を低くしている。肩も腕も震えているのに、その腕は少しも緩まない。

 

ベルモットの銃口が下がる。

 

撃つのかと思った。

 

ジョディの車の下に沈めた上海の糸を、反射的に引きかける。車体の影から出せば、蘭と銃口のあいだへ届くかもしれない。届かなくても、足元をかすめさせるくらいはできる。

 

けれど、その前に気づいた。

 

ベルモットの銃口から伸びる線は、蘭の身体に結ばれていない。灰原へ向けていたものとは違う。足元。腕の横。地面と服の隙間。殺すための線ではなく、どかすための線だった。

 

今見なければならないのは、撃たれた弾そのものではない。

 

ベルモットが、その線をどこまで蘭から外し続けるのかだった。

 

乾いた音が鳴る。

 

蘭のすぐそばで、コンクリートが弾けた。灰原の糸がまた大きく震える。それでも蘭は動かない。むしろ、銃声に押されるように抱きしめる腕を強くした。

 

「どきなさい!」

 

二発目。蘭の肩口をかすめるぎりぎりの位置へ冷たい線が伸びる。弾は当てるためのものではない。ベルモット自身が、蘭を外している。

 

それでも、一歩間違えれば当たる。威嚇というには近すぎる。

 

その近さが、逆にベルモットの余裕のなさを見せていた。

 

その隙を、横から細い火が拾った。

 

乾いた銃声が響く。

 

ベルモットの腕が跳ねた。月明かりの中で血が散り、拳銃を持つ手が大きく揺れる。撃ったのはカルバドスではない。さっきまで車にもたれていたはずのジョディが、痛みを押し殺しながら銃口を上げていた。

 

「ライフルの死角は取ったわ……銃を捨てなさい!」

 

声は荒い。けれど、崩れてはいない。

 

ベルモットの視線がジョディへ向く。蘭と灰原の前から銃口が外れた、そのわずかな間に、背後で硬い音がした。

 

金属を引く音。

 

ショットガンの音だった。

 

ベルモットから返る緊張が、一瞬だけ緩む。

 

「OK、カルバドス……挟み打ちよ!」

 

安堵に近い響きが混じっていた。前にはジョディ。背後にはカルバドス。そう思ったのだろう。逃げ道を塞がれたのは自分ではなく、相手の方だと。

 

けれど、ジョディから返ってきたものは安堵ではなかった。

 

銃口はベルモットへ向けたままなのに、意識だけが背後へ引かれている。痛みで乱れていた糸が、さらに細く張り詰める。振り向けばベルモットを外す。振り向かなければ、背後の銃口を見失う。その板挟みが、呼吸の浅さになって返ってきた。

 

次の瞬間、港の闇から黒い影が現れる。

 

黒いニット帽。細い目。肩に構えたショットガン。月明かりに輪郭を削られながらも、その男の気配だけはやけに鮮明だった。

 

「ほう……あの男、カルバドスというのか」

 

低い声が、港の底を撫でる。

 

「てっきり、どこかの武器商人かと思ったが」

 

ベルモットの糸が、そこで完全に強張る。

 

さっきまで絡まっていた迷いとは違う。蘭を撃てないための乱れでも、灰原へ向けた殺意でもない。もっと鋭く、冷たい警戒。

 

あの男を、ベルモットは知っている。

 

そして、恐れている。

 

ジョディから返る震えも、少しだけ変わっていた。

 

背後から現れた銃口に、さらに追い詰められると思った。けれど、返ってきたものは違う。張り詰めていた線から、ほんのわずかに余計な力が抜けていく。

 

名前も、関係も分からない。

 

それでも、ジョディはあの男を敵として見ていない。

 

それだけは分かった。

 

ショットガンの銃口が、ベルモットへ向いている。

 

港の空気が、一段低く沈んだ。

 

ジョディ、コナン、灰原、蘭。そこへ現れた黒いニット帽の男。車の下には、まだ上海が残っている。けれど、蓬莱はもう動かない。蘭と灰原のすぐ脇、埠頭の冷たいコンクリートの上で、壊れた身体を投げ出したまま転がっている。

 

上海からの細い感覚は、まだ残っている。

 

けれど、蓬莱へ通していた道筋だけは戻らなかった。手繰っても、呼んでも、そこから返るものはない。

 

それでも、港に張り詰めたものは消えていない。

 

ベルモットの名を持つ女の警戒も、ジョディの痛みも、灰原の震えも、蘭の腕の強さも、倒れたコナンの静けさも、黒いニット帽の男の銃口も、どれも簡単にはほどけそうになかった。

 

そして、月明かりの中で弾丸を受けた蓬莱の姿も。

 

夜の港に絡んだものは、もう人形師の手元だけで整えられるものではない。

 

それでも、一本だけは外した。

 

蘭へ伸びていた死線。

 

その線はもう届いていない。けれど、弾いた瞬間の冷たさだけは、まだ糸の奥に残っていた。

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