アリス・マーガトロイド
夜の町の匂いが、少しずつ変わっていく。
商店街の油と埃、住宅街の植え込みの湿り気、車道に残った排気の熱。そのどれもが薄れ、代わりに潮と鉄錆の匂いが外套の裾へ絡み始めたころ、ジョディの車に残した上海の糸が、夜の奥でかすかに震えた。
幻想郷なら、夜の空気そのものが糸を受ける。木の枝にも、霧にも、月明かりの影にも、ほんの小さな結び目を置くことができる。
けれど、米花町の夜は違った。
空気はただの空気で、舗装された道は硬く、街灯の光は魔力を留めない。糸を通せるのは、人形と、触れたものと、あらかじめ結んでおいた細い道だけ。外へ出るほど糸は痩せ、強く引こうとすれば、切れるより先に感覚が白く抜けていく。
だから、ジョディの車に残した上海は、目でも耳でもなかった。
夜の底へ沈めた、小さな錨。
何かを縛るには足りない。ただ、そこにまだあると知るための糸だった。
さっきまで車体の裏から返ってきていた振動は、路面の継ぎ目やタイヤの跳ねに紛れて、ほとんど輪郭を失っていた。
けれど今、その揺れが消えている。沈みかけていた糸の先に残っているのは、走り続ける車の感覚ではなく、冷えた鉄の下に上海だけが取り残されたような静けさだった。
その場所がどこなのかまでは、まだ分からない。糸は切れていないが、遠すぎる。車内の声も、人の気配も拾えず、ただ小さな人形が夜の底に残されている。その事実だけが、糸の奥に沈んでいた。
一方で、蓬莱が追うタクシーはまだ近い。
後部座席にいる灰原哀は、ほとんど動かない。けれど、その糸は眠っていなかった。風邪の熱を帯びた細い線が、怯えを抱えたまま前へ伸びている。恐怖だけなら糸は縮こまるはずなのに、あの子の糸は震えながらも行き先を変えようとしない。
タクシーが進むにつれて、二本の糸の距離が少しずつ縮まっていく。
上海の沈んだ糸と、蓬莱が追う灰原の糸。別々に伸びていたはずの二本が、潮の匂いの濃くなる方へ寄っていく。偶然と言うには、近づき方がまっすぐすぎた。
行き先は、港。
そこまで分かれば、蓬莱にタクシーを追わせ続けるだけで足りる。灰原の糸はまだ掴めている。なら、今はこちらが上海の沈んだ方角へ寄るべきだった。
倉庫の庇へ足を移し、タクシーの進む道から外れる。夜気の冷たさが外套の裾にまとわりつき、積まれたコンテナの影が月明かりの下で黒く沈んでいた。下の道路を走るタクシーの気配を蓬莱に任せ、上海の糸が沈んだ方角へ身体を滑らせる。
近づくほど、感覚が戻ってくる。
最初は、鉄の冷たさだけだった。次に、車体の重み。地面に響く低い声の震え。さらに近づくと、硬い衝撃が返った。
ガラスが砕ける音が、少し遅れて港に散る。
細かな破片が跳ねる振動と、車内に溜まっていた空気が外へ抜ける震え。夜の底に沈んでいた上海の糸が、急に輪郭を取り戻した。
倉庫の庇、非常階段、積まれたコンテナを選びながら進むたび、港の広さが少しずつ見えてくる。光は少ない。けれど、満ちた月が海面を白く照らし、停められた車の輪郭だけはいやにはっきり浮かんでいた。
「動くなよ、ベルモット……」
聞こえた声を、間違えるはずがなかった。江戸川コナンの声だった。
灰原哀に見えていた少女の奥で、ずっと噛み合わなかった硬さが、ようやく形を持つ。あれは灰原ではない。バスの中で、子どもの顔をしたまま事件の芯へ手を伸ばしていた少年だった。
ベルモット。
その名が誰を指すのかまでは、まだ見えない。けれど、コナンがその名を向ける相手が、この港にいる。
積まれたコンテナの影へ身を沈め、港の底を見下ろす。
そこでようやく、車のそばにいる人影の輪郭が見えた。
車体のそばでは、ジョディが地面に座り込み、背中を車に預けていた。糸は乱れているが、切れてはいない。痛みを押さえ込むように細く張られ、それでも視線だけは前を見ている。
その少し先には、長いブロンドの髪をたたえた女が立っていた。
位置から見て、コナンがベルモットと呼んだ相手は彼女なのだろう。
月明かりを受けた横顔を見た瞬間、新出という名前に残っていた噛み合わなさが、ようやく別の形を持つ。
探偵の仕事を奪う趣味はない。けれど、糸の通し方がまるで違う顔を、同じ顔だと言い張るのは、人形師には少し無理がある。
コナンはその女へ向けて、手首をわずかに上げていた。玩具に見える小さな仕掛け。けれど、そこから伸びる緊張は玩具のものではない。ジョディの呼吸も、ベルモットの視線も、その一点を外していなかった。
この場を押さえているのは、今はコナンだった。なら、まだ動く必要はない。
そう思った瞬間、蓬莱の糸が強く震えた。
埠頭へ続く道の端で、タクシーが止まった。
後部座席の扉が開き、月明かりの届かない端から、小さな影が地面へ降りる。茶色い髪。小さな身体。大きすぎる眼鏡。蓬莱が追っていた糸の正体は、もう見間違えようがなかった。
灰原哀だった。
その姿を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
止めるべきだった。
もっと手前で。まだこの港に辿り着く前に。ここで何が起きているのか分からなくても、あの子の糸が恐怖を抱えたまま進んでいると分かっていたなら、一度くらい立ち止まらせるべきだった。
けれど、もう遅い。
タクシーの扉が開いた時点で、場にいる者たちの視線はそちらへ向いていた。ここで蓬莱を出せば、灰原を止めるより先に、月明かりの中で人形の姿を晒すことになる。
灰原は、港の空気の中へ踏み込んだ。
そして、その一歩で場の均衡が崩れる。
コナンがベルモットへ向けて張っていた細い均衡が、灰原の方へ引かれて歪む。ジョディの視線も、ベルモットの気配も、わずかに揺れた。
「来るんじゃねぇ!」
コナンの声が飛んだ。
その声で、胸の冷えが輪郭を持った。
もう遅い。
灰原は月明かりの端で立ち尽くし、眼鏡の奥の目は開いているのに、目の前の光を見ていない。ベルモットへ向いた糸だけが、凍りついたように動かなくなっていた。
その一瞬で、ベルモットの糸がほどける。
いや、ほどけたのではない。外されたのだ。コナンが灰原へ意識を向けた、ほんの細い隙間へ指を入れ、結び目だけを抜き取るような動きだった。
ベルモットの手が跳ねる。コナンの手首にあった小さな仕掛けが、彼自身の方へ向きを変えた。
針の気配が、一瞬だけ走る。
コナンの身体が崩れた。
糸を切られた人形のように、ではない。あの少年は人形ではない。けれど、さっきまで場を押さえていた細い張力が、そこで一気に失われたことだけは分かった。
思わず蓬莱を前へ出しかける。
だが、ベルモットの銃口はまだコナンへ向いていない。倒れた子どもを確認するように一瞥しただけで、その視線はすぐに灰原へ戻った。
灰原は、そこからようやく息をした。
ベルモットの銃口は、まだ撃たない。
そのわずかな猶予に、蓬莱の位置をずらした。コンテナの影から低く、車体の陰へ。灰原の足元へ届くには、あと少し足りない。無理に引けば動かせるが、その瞬間に月明かりへ出る。
見られる。
それでも、撃たれるよりはいい。
「馬鹿な女。このボウヤのかわいい計画を台無しにして、わざわざ死にに来るなんて」
ベルモットの声が聞こえた時、蓬莱はまだ影の中にいた。
死にに来た。
その言葉に、灰原の糸が震える。
「ただ死にに来たんじゃないわ、全てを終わらせに来たのよ。たとえあなたが捕まっても、私が生きている限り、あなたたちの追跡は途絶えそうにないから」
蓬莱を止める。
一拍だけ。
その言葉を聞いてしまったからだった。灰原は助けを待っているのではない。自分の命を使って、何かを終わらせようとしている。
だからといって、撃たせていい理由にはならない。
「そのかわり約束してくれる?私以外、誰にも手をかけないって絶対に、約束してくれる?」
灰原の声は震えている。けれど、崩れていない。
あの小さな身体で、取引をしている。
命を差し出す代わりに、他の糸を切らせないための取引を。
「いいわ。FBIのこの女以外なら、約束してあげる」
ジョディの糸が反応する。
痛みの奥で、細く揺れた。
「でも、まずはシェリー。あなたよ」
シェリー。
その名前に、灰原の糸が凍る。
「恨むのなら、こんな愚かな研究を始めたあなたの両親を恨むのね」
ベルモットの銃口が、灰原へ定まる。
猶予は終わった。
蓬莱を月明かりへ出す。そう決めた瞬間、車の後部で重い音が跳ねた。
閉じていたトランクが、内側から押し上げられる。
長い髪の少女が、夜の中へ飛び出した。
誰なのかを確かめるより先に、その動きが目に入った。車の後部から身を乗り出し、迷わず車体へ足を掛ける。銃口の向きも、ベルモットの意図も、そこにある危険も見えているはずなのに、速度を落とさない。
灰原のもとへ向かっている。
月明かりが横顔に触れたところで、ようやく名前が追いついた。
毛利蘭。
その瞬間、港の闇の奥から一本の線が伸びた。
声でも気配でもない。銃口が狙いを置いた時だけ生まれる、冷たく細い線。引き金が落ちるより先に、撃たれる場所を指し示すものだった。
その先にいたのは、車体の上を走る蘭の胸元。
今度は、迷わなかった。
この町で、銃弾を正面から受け止め続けられるほど太い糸は張れない。けれど、蘭が灰原に届くまでの数秒だけなら、まだ間に合う。
蓬莱を跳ばす。
小さな身体がコンテナの影から月明かりへ飛び出し、蘭と闇のあいだに滑り込んだ。
乾いた銃声が鳴る。
甲高い音が夜を裂いた。蓬莱の肩が跳ね、白い布が裂ける。弾丸は蘭の身体へ届かず、車体の端を叩いて散った。
蘭の髪が跳ねる。
けれど、足は止まらない。目の端に蓬莱を捉えたはずなのに、その視線はすぐに灰原へ戻っていた。驚くより先に、守る相手へ向かっている。
灰原の糸が凍りつく。ジョディの呼吸が乱れ、ベルモットの銃口がわずかに落ちた。闇の奥にある銃口の気配までもが、一度途切れる。
見られた。
そう理解した時には、蓬莱はもう月明かりの中にいた。弾丸の前へ割って入り、それを弾いた。その光景を、ここにいる者たちは確かに見た。
けれど、蘭はまだ倒れていない。
なら、それでいい。
蓬莱を戻す余裕はない。
蘭は車体の上を駆けていく。振り返ることも、足を緩めることもしない。だから、蓬莱をその背後へ張りつかせた。蘭の背中と闇のあいだ。次の銃口が追うなら、最初に線が触れる場所へ。
「カルバドス、撃たないで!」
ベルモットの声が港に裂けた。命令というより、悲鳴に近い。その声で、闇の奥に潜む狙撃手の名を知る。カルバドス。姿は見えない。けれど、蘭へ向けて銃口を置いているのが、その名で呼ばれた男なのだと分かった。
それでも、銃声は止まらなかった。
二発目。
車の屋根が弾け、蘭の足元に火花が散る。蓬莱を横から押し込む。弾丸を完全に受けたわけではない。それでも、軌道の芯にぶつけた反動が、胸の奥まで白く返った。
三発目。
窓枠に残っていた硝子が砕け、月明かりを細かく散らす。蓬莱の片腕が跳ねた。布の下で細い関節が軋み、糸の先が一瞬だけ霞む。
四発目。
蘭の背中へ伸びかけた線を、蓬莱が半歩だけ横から削る。止めたのではない。逸らしただけだった。それでも、蘭の髪の先が鋭く揺れるだけで済んだ。
蘭は止まらない。
灰原へ向かって手を伸ばす。目の前で何が起きているのか、どこまで見えているのかは分からない。ただ、灰原を守るという一点だけで、身体が前へ進んでいる。
この町の夜では、もう長くは持たない。肩は沈み、片腕は軋み、胸の奥に通した魔力の道筋が熱を持っている。それでも、蘭が灰原に届くまでの数秒だけなら、まだ残せる。
五発目。
足元の金属が弾け、蘭の踏み出した先で火花が散った。蘭の身体がほんのわずかに沈む。けれど、その沈み込みの分だけ、次の一歩が前へ出た。
六発目の線が伸びる。
今度は、蘭ひとりではない。
灰原を抱え込もうとする、その瞬間の二人をまとめて撃ち抜く位置だった。
蓬莱を前へ出す。
間に合うかどうかを考える余裕はなかった。蘭が灰原へ覆いかぶさる。小さな身体を抱え込む。その背中へ、冷たい線が落ちる。
そこへ蓬莱を叩き込んだ。
乾いた銃声と同時に、蓬莱の身体が跳ねた。
片腕があり得ない角度に折れる。胸元の布の下で何かが砕け、内側に通していた魔力の道筋が白く焼けた。弾丸は蘭の背を外れ、埠頭のコンクリートを削って跳ねる。
次の瞬間、糸の先が空白になった。
蓬莱との接続が、切れた。
手繰ろうとしても、何も返ってこない。さっきまでそこにあった重みも、関節の軋みも、熱を持った魔力の感触も、すべてが夜の向こうで途切れている。
蘭は灰原を抱えたまま、地面へ沈んだ。
そのすぐ脇で、蓬莱が埠頭に転がる。
小さな身体が月明かりを受けて一度だけ揺れた。けれど、もう起き上がらない。糸の切れた先に残ったのは、冷えたコンクリートの上に投げ出された輪郭だけだった。
ほとんど間を置かず、ベルモットの銃口が闇の奥へ跳ねる。
「やめてって言ってるでしょう!」
直後、別の銃声が鳴った。
カルバドスのいる方角、そのすぐそばを叩く弾だった。港の鉄骨が甲高く鳴り、闇に潜んでいた射線がそこでようやくほどける。
ベルモットは、蘭を守るために撃った。
そう理解した時には、蘭はもう灰原を離していなかった。
灰原の糸が、大きく震える。
先に届いたのは、人形ではなかった。けれど、届くまでの数秒だけは支えた。走る少女の背に伸びた死線を、最後の一本まで外した。
その代わり、こちらも失った。
ベルモットが、蓬莱を見ている。
ジョディも、灰原も、蘭も、そして闇の奥にいるカルバドスさえも、いま蓬莱が割って入ったことを認識している。何なのかまでは分からなくても、そこにいたことはもう消せない。
舞台袖は、もう遠かった。
ベルモットの糸が、はっきりと乱れている。灰原へ向けていた殺意は、まだ消えていない。けれど、蘭の身体がその前にあるだけで、引き金へ伸びる糸が絡まり、進めなくなっていた。
「Move it, Angel!!」
英語の響きが、港の空気を裂いた。
どきなさい、エンジェル。
その意味が遅れて胸に落ちる。
エンジェル。
ベルモットの糸が蘭へ向いた時だけ乱れる理由が、その一言でようやく形を持つ。灰原を撃ちたい女と、蘭だけは撃てない女。その二つが同じ身体の中で引き合い、どちらも切れずに絡まっている。
蘭は答えない。灰原を抱え込んだまま、頭を低くしている。肩も腕も震えているのに、その腕は少しも緩まない。
ベルモットの銃口が下がる。
撃つのかと思った。
ジョディの車の下に沈めた上海の糸を、反射的に引きかける。車体の影から出せば、蘭と銃口のあいだへ届くかもしれない。届かなくても、足元をかすめさせるくらいはできる。
けれど、その前に気づいた。
ベルモットの銃口から伸びる線は、蘭の身体に結ばれていない。灰原へ向けていたものとは違う。足元。腕の横。地面と服の隙間。殺すための線ではなく、どかすための線だった。
今見なければならないのは、撃たれた弾そのものではない。
ベルモットが、その線をどこまで蘭から外し続けるのかだった。
乾いた音が鳴る。
蘭のすぐそばで、コンクリートが弾けた。灰原の糸がまた大きく震える。それでも蘭は動かない。むしろ、銃声に押されるように抱きしめる腕を強くした。
「どきなさい!」
二発目。蘭の肩口をかすめるぎりぎりの位置へ冷たい線が伸びる。弾は当てるためのものではない。ベルモット自身が、蘭を外している。
それでも、一歩間違えれば当たる。威嚇というには近すぎる。
その近さが、逆にベルモットの余裕のなさを見せていた。
その隙を、横から細い火が拾った。
乾いた銃声が響く。
ベルモットの腕が跳ねた。月明かりの中で血が散り、拳銃を持つ手が大きく揺れる。撃ったのはカルバドスではない。さっきまで車にもたれていたはずのジョディが、痛みを押し殺しながら銃口を上げていた。
「ライフルの死角は取ったわ……銃を捨てなさい!」
声は荒い。けれど、崩れてはいない。
ベルモットの視線がジョディへ向く。蘭と灰原の前から銃口が外れた、そのわずかな間に、背後で硬い音がした。
金属を引く音。
ショットガンの音だった。
ベルモットから返る緊張が、一瞬だけ緩む。
「OK、カルバドス……挟み打ちよ!」
安堵に近い響きが混じっていた。前にはジョディ。背後にはカルバドス。そう思ったのだろう。逃げ道を塞がれたのは自分ではなく、相手の方だと。
けれど、ジョディから返ってきたものは安堵ではなかった。
銃口はベルモットへ向けたままなのに、意識だけが背後へ引かれている。痛みで乱れていた糸が、さらに細く張り詰める。振り向けばベルモットを外す。振り向かなければ、背後の銃口を見失う。その板挟みが、呼吸の浅さになって返ってきた。
次の瞬間、港の闇から黒い影が現れる。
黒いニット帽。細い目。肩に構えたショットガン。月明かりに輪郭を削られながらも、その男の気配だけはやけに鮮明だった。
「ほう……あの男、カルバドスというのか」
低い声が、港の底を撫でる。
「てっきり、どこかの武器商人かと思ったが」
ベルモットの糸が、そこで完全に強張る。
さっきまで絡まっていた迷いとは違う。蘭を撃てないための乱れでも、灰原へ向けた殺意でもない。もっと鋭く、冷たい警戒。
あの男を、ベルモットは知っている。
そして、恐れている。
ジョディから返る震えも、少しだけ変わっていた。
背後から現れた銃口に、さらに追い詰められると思った。けれど、返ってきたものは違う。張り詰めていた線から、ほんのわずかに余計な力が抜けていく。
名前も、関係も分からない。
それでも、ジョディはあの男を敵として見ていない。
それだけは分かった。
ショットガンの銃口が、ベルモットへ向いている。
港の空気が、一段低く沈んだ。
ジョディ、コナン、灰原、蘭。そこへ現れた黒いニット帽の男。車の下には、まだ上海が残っている。けれど、蓬莱はもう動かない。蘭と灰原のすぐ脇、埠頭の冷たいコンクリートの上で、壊れた身体を投げ出したまま転がっている。
上海からの細い感覚は、まだ残っている。
けれど、蓬莱へ通していた道筋だけは戻らなかった。手繰っても、呼んでも、そこから返るものはない。
それでも、港に張り詰めたものは消えていない。
ベルモットの名を持つ女の警戒も、ジョディの痛みも、灰原の震えも、蘭の腕の強さも、倒れたコナンの静けさも、黒いニット帽の男の銃口も、どれも簡単にはほどけそうになかった。
そして、月明かりの中で弾丸を受けた蓬莱の姿も。
夜の港に絡んだものは、もう人形師の手元だけで整えられるものではない。
それでも、一本だけは外した。
蘭へ伸びていた死線。
その線はもう届いていない。けれど、弾いた瞬間の冷たさだけは、まだ糸の奥に残っていた。