アリスは、しばらく地図を見下ろしていた。
米花町。線と文字だけで描かれた外の世界の町。その地図からは、紫の言う歪みも、嘘も、恐怖も見えない。ただ、道路があり、駅があり、公園があり、人が住んでいることだけが分かる。
「あなたにも分からないの?」
「分からないわ。私が感知できるのは、外の世界からこちらへ届くはずのない揺らぎと、その揺らぎがほどける瞬間だけ。現場で何が起き、誰がそれをほどいているのかまでは見えない」
「場所そのものが原因かもしれない?」
「その可能性もあるわ」
「人かもしれない?」
「ええ」
「偶然かもしれない?」
「何度も続く偶然を、偶然と呼び続けるのは難しいわね」
アリスは紫を見た。
「だから、私に見に行けと」
「ええ」
「あなたが行けばいいでしょう」
「私が行くと、外の世界の境界が騒ぐのよ。私は少し目立ちすぎる」
「目立つ自覚はあるのね」
「それに、外の世界で人間に紛れて会話し、長く観測を続けるなら、あなたの方が向いているわ」
嫌な予感が、だんだん形を持ち始めていた。
「長く観測?」
「ええ」
「どうやって?」
「店を構えるの」
「誰が?」
「あなたが」
「どこに?」
「米花町に」
「何の店を?」
「人形店」
紫は当然のように言った。
アリスは、しばらく無言で紫を見た。
「……今、何て?」
「米花町で人形店を開いてちょうだい」
「聞き間違いではなかったのね」
アリスは額に手を当てた。
「待って。なぜ店なの。なぜ私なの。なぜ人形店なの。そもそも外の世界で店を開くには、手続きとか、仕入れとか、近所付き合いとか、色々あるんじゃないの?」
「そこは私がうまくやるわ」
「一番信用できない言葉ね」
紫は扇で口元を隠した。
「大丈夫。店は、昔からそこにあったことになる」
「ならないわよ」
「なるわ」
「ならないと言っているの」
「認識の境界を少し撫でるだけよ」
「その“少し”で外の世界の人間がどれだけ混乱すると思っているの?」
「ほとんど混乱しないわ。普通の人間は、通りに一軒店が増えても深く考えない。昔からあった気がする。そう思って通り過ぎる」
アリスは地図を見下ろした。
「それでも、気づく人間はいるでしょう」
「いるでしょうね」
紫は嬉しそうに言った。
「長くそこに住んでいる者。記憶に敏い者。嘘に慣れている者。真実を暴くことに執着する者」
「あなた、それを期待していない?」
「少しだけ」
「やっぱり」
アリスは深くため息をついた。
「つまり私は、米花町に突然現れる人形店の店主として潜入して、その歪みがどうして膨らんで、どうやってほどけるのかを観測しろと?」
「そういうこと」
「犯人を捕まえるためではなく?」
「ええ」
「事件を解くためでもなく?」
「ええ」
「そもそも、何の事件かも分かっていない」
「ええ」
「よくそれで人を外の世界へ送り込もうと思ったわね」
「あなたなら見られるでしょう?」
紫の声は、軽かった。けれど、その奥には確信があった。
アリスは紅茶を一口飲んだ。少し冷めていた。
「私は異変そのものを見られるわけじゃないわ」
「ええ」
「糸が絡まっていることは、たぶん分かる。人形を動かす時と同じよ。見える糸だけじゃない。魔力の流れ、意識の向き、動かすものと動かされるものの関係。そういうものには、多少敏い」
「だから頼んでいるのよ」
「でも、人間の事件を見て犯人を当てるなんてできないわよ」
「そこまでは求めていないわ」
「本当に?」
「本当に」
「あなたの本当も、あまり信用していないのだけれど」
「ひどいわね」
「日頃の行いよ」
紫は笑った。
アリスは地図の赤い丸を指先で押さえた。紙の上の米花町は、ただの町にしか見えない。だが紫の言葉を聞いた後では、その線の奥に、目に見えない糸が絡んでいるように思えた。
「あなたが見るのは、答えではない」
紫は言った。
「歪みがどう生まれて、どうほどけるのか。その過程よ」
「介入は?」
「基本的にはしない」
「基本的には、ね」
「外の世界の出来事は、外の世界の者が向き合うべきものよ。あなたが魔法で無理にほどいても、異変の正体は分からない」
「それは分かるわ」
「ただし、あなたが何を見て、何を思うかまでは私が決めることではない」
「便利な逃げ道を作らないで」
「あなたは理性的でしょう?」
「そう言われると、少し不安になるわね」
紫はくすりと笑った。
アリスは、もう一度地図を見た。
「店の場所は?」
紫は待っていましたとばかりに、地図の一点を扇で指した。
米花町商店街の外れ。角地。現在は空き店舗らしい場所。
「ここに、人形工房マーガトロイドを置くわ」
「名字をそのまま看板にされると、少し落ち着かないわ」
「外の世界では自然でしょう?」
「自然かどうか以前に、私の名前なのだけれど」
「あなたの店だもの」
「私が決める余地は?」
「看板の字体くらいなら」
「ずいぶん寛大ね」
アリスは皮肉を込めて言った。
紫はまるで気にしない。
「近所の人間は、昔からそこにあったように感じる。客は必要な時に来る。仕入れ先や帳簿も用意しておくわ」
「帳簿の中身は?」
「自然に見えるように」
「私に覚えは?」
「ないわ」
「でしょうね」
アリスはもう一度、額に手を当てた。
「昔からあったことにするなら、私にも昔からやっていた記憶くらい付けておいてほしいものね」
「本当に欲しい?」
紫が楽しそうに尋ねる。
アリスは一瞬黙り、すぐに首を振った。
「やっぱりいらない」
「賢明ね」
「あなたに記憶をいじられるなんて、想像しただけで嫌だわ」
「信頼が足りないわね」
「足りるようなことをしてから言いなさい」
紫はまた笑った。
アリスは机の上の人形を手に取った。修繕はまだ途中だ。片腕は外れたままで、袖口から細い糸が少しだけ出ている。
米花町。
外の世界の揺らぎ。
自然にほどける歪み。
人形工房マーガトロイド。
言葉だけ並べると、どうにも現実味がない。
「期間は?」
「分からない」
「最悪の答えね」
「詳細が分かるまで」
「もっと悪くなったわ」
「でも、あなたなら退屈はしないでしょう?」
「私は退屈が嫌いなわけじゃない。面倒が嫌いなの」
「似たようなものよ」
「違うわ」
アリスは即答した。
それでも、断らなかった。
自分でも分かっていた。面倒だと思っている。厄介だとも思っている。外の世界で店主をするなど、考えただけで肩が凝る。
けれど、気になっている。
絡まった糸が何度もほどける町。
外の世界の理で処理されるはずの事件。
それをほどいている、まだ名前も知らない何か。
気になってしまった時点で、負けだった。
紫はそれに気づいているのだろう。扇の向こうで、少しだけ満足げに目を細めている。
「分かったわ」
アリスは言った。
「ただし、条件がある」
「何かしら」
「私の工房と人形には、勝手に余計な細工をしないこと。店の内装も、私が気に入らなければ変える。あと、外の世界の生活に必要なものは全部用意して」
「もちろん」
「本当に分かっている?」
「だいたい」
「だいたいで返事をしないで」
「細かいことは現地で調整しましょう」
「それが一番怖いのよ」
紫は立ち上がった。
「明日の朝には店を用意しておくわ」
「急すぎる」
「外の世界の揺らぎは待ってくれないもの」
「あなたの段取りが悪いだけではなくて?」
「そうとも言うわね」
「認めるの?」
「認めた方が話が早いでしょう?」
アリスは長く息を吐いた。
紫は隙間へ戻りかけ、ふと思い出したように振り返る。
「アリス」
「何?」
「あなたが見るものは、幻想郷の異変とは違うわ。犯人を倒して終わりではない。弾幕を避けて、相手を負かして、宴会をして終わりでもない」
「分かっているわ」
「外の世界の歪みは、人間の嘘と恐怖の中にある。だから、見ていて気分のいいものではないかもしれない」
アリスは、手元の人形を見た。
壊れたものを直すのは好きだ。絡まった糸をほどくのも嫌いではない。
けれど、それが人間の嘘と恐怖でできた糸なら、どれほど厄介なのだろう。
「それでも見る必要があるのでしょう?」
「ええ」
紫は静かに頷いた。
「なぜなら、それをほどいている何かがあるから」
「人か、場所か、流れか。まだ分からない何か」
「そう」
紫は微笑むだけだった。
「確かめてきてちょうだい」
隙間が閉じる。
部屋には、再び静けさが戻った。
アリスはしばらく、冷めた紅茶と修繕途中の人形を見比べていた。
「……人形店の店主ね」
棚の上の上海人形が、いつの間にかこちらを見ている。
「あなたも来るのよ。ただし、外の世界では勝手に動かないこと。絶対に」
上海人形は小さく首を傾げた。
「絶対に、よ」
もう一度念を押してから、アリスは針を手に取った。
まずは、この人形の腕を直さなければならない。外の世界の揺らぎも、米花町の調査も、人形工房マーガトロイドも、その後だ。
針に糸を通しながら、アリスは小さく呟いた。
「本当に、見るだけで済めばいいけれど」
人形は、何も答えなかった。