東方米花異聞   作:秋刀魚食べたい

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第2話 人形工房マーガトロイド

 

アリスは、しばらく地図を見下ろしていた。

 

米花町。線と文字だけで描かれた外の世界の町。その地図からは、紫の言う歪みも、嘘も、恐怖も見えない。ただ、道路があり、駅があり、公園があり、人が住んでいることだけが分かる。

 

「あなたにも分からないの?」

 

「分からないわ。私が感知できるのは、外の世界からこちらへ届くはずのない揺らぎと、その揺らぎがほどける瞬間だけ。現場で何が起き、誰がそれをほどいているのかまでは見えない」

 

「場所そのものが原因かもしれない?」

 

「その可能性もあるわ」

 

「人かもしれない?」

 

「ええ」

 

「偶然かもしれない?」

 

「何度も続く偶然を、偶然と呼び続けるのは難しいわね」

 

アリスは紫を見た。

 

「だから、私に見に行けと」

 

「ええ」

 

「あなたが行けばいいでしょう」

 

「私が行くと、外の世界の境界が騒ぐのよ。私は少し目立ちすぎる」

 

「目立つ自覚はあるのね」

 

「それに、外の世界で人間に紛れて会話し、長く観測を続けるなら、あなたの方が向いているわ」

 

嫌な予感が、だんだん形を持ち始めていた。

 

「長く観測?」

 

「ええ」

 

「どうやって?」

 

「店を構えるの」

 

「誰が?」

 

「あなたが」

 

「どこに?」

 

「米花町に」

 

「何の店を?」

 

「人形店」

 

紫は当然のように言った。

 

アリスは、しばらく無言で紫を見た。

 

「……今、何て?」

 

「米花町で人形店を開いてちょうだい」

 

「聞き間違いではなかったのね」

 

アリスは額に手を当てた。

 

「待って。なぜ店なの。なぜ私なの。なぜ人形店なの。そもそも外の世界で店を開くには、手続きとか、仕入れとか、近所付き合いとか、色々あるんじゃないの?」

 

「そこは私がうまくやるわ」

 

「一番信用できない言葉ね」

 

紫は扇で口元を隠した。

 

「大丈夫。店は、昔からそこにあったことになる」

 

「ならないわよ」

 

「なるわ」

 

「ならないと言っているの」

 

「認識の境界を少し撫でるだけよ」

 

「その“少し”で外の世界の人間がどれだけ混乱すると思っているの?」

 

「ほとんど混乱しないわ。普通の人間は、通りに一軒店が増えても深く考えない。昔からあった気がする。そう思って通り過ぎる」

 

アリスは地図を見下ろした。

 

「それでも、気づく人間はいるでしょう」

 

「いるでしょうね」

 

紫は嬉しそうに言った。

 

「長くそこに住んでいる者。記憶に敏い者。嘘に慣れている者。真実を暴くことに執着する者」

 

「あなた、それを期待していない?」

 

「少しだけ」

 

「やっぱり」

 

アリスは深くため息をついた。

 

「つまり私は、米花町に突然現れる人形店の店主として潜入して、その歪みがどうして膨らんで、どうやってほどけるのかを観測しろと?」

 

「そういうこと」

 

「犯人を捕まえるためではなく?」

 

「ええ」

 

「事件を解くためでもなく?」

 

「ええ」

 

「そもそも、何の事件かも分かっていない」

 

「ええ」

 

「よくそれで人を外の世界へ送り込もうと思ったわね」

 

「あなたなら見られるでしょう?」

 

紫の声は、軽かった。けれど、その奥には確信があった。

 

アリスは紅茶を一口飲んだ。少し冷めていた。

 

「私は異変そのものを見られるわけじゃないわ」

 

「ええ」

 

「糸が絡まっていることは、たぶん分かる。人形を動かす時と同じよ。見える糸だけじゃない。魔力の流れ、意識の向き、動かすものと動かされるものの関係。そういうものには、多少敏い」

 

「だから頼んでいるのよ」

 

「でも、人間の事件を見て犯人を当てるなんてできないわよ」

 

「そこまでは求めていないわ」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

「あなたの本当も、あまり信用していないのだけれど」

 

「ひどいわね」

 

「日頃の行いよ」

 

紫は笑った。

 

アリスは地図の赤い丸を指先で押さえた。紙の上の米花町は、ただの町にしか見えない。だが紫の言葉を聞いた後では、その線の奥に、目に見えない糸が絡んでいるように思えた。

 

「あなたが見るのは、答えではない」

 

紫は言った。

 

「歪みがどう生まれて、どうほどけるのか。その過程よ」

 

「介入は?」

 

「基本的にはしない」

 

「基本的には、ね」

 

「外の世界の出来事は、外の世界の者が向き合うべきものよ。あなたが魔法で無理にほどいても、異変の正体は分からない」

 

「それは分かるわ」

 

「ただし、あなたが何を見て、何を思うかまでは私が決めることではない」

 

「便利な逃げ道を作らないで」

 

「あなたは理性的でしょう?」

 

「そう言われると、少し不安になるわね」

 

紫はくすりと笑った。

 

アリスは、もう一度地図を見た。

 

「店の場所は?」

 

紫は待っていましたとばかりに、地図の一点を扇で指した。

 

米花町商店街の外れ。角地。現在は空き店舗らしい場所。

 

「ここに、人形工房マーガトロイドを置くわ」

 

「名字をそのまま看板にされると、少し落ち着かないわ」

 

「外の世界では自然でしょう?」

 

「自然かどうか以前に、私の名前なのだけれど」

 

「あなたの店だもの」

 

「私が決める余地は?」

 

「看板の字体くらいなら」

 

「ずいぶん寛大ね」

 

アリスは皮肉を込めて言った。

 

紫はまるで気にしない。

 

「近所の人間は、昔からそこにあったように感じる。客は必要な時に来る。仕入れ先や帳簿も用意しておくわ」

 

「帳簿の中身は?」

 

「自然に見えるように」

 

「私に覚えは?」

 

「ないわ」

 

「でしょうね」

 

アリスはもう一度、額に手を当てた。

 

「昔からあったことにするなら、私にも昔からやっていた記憶くらい付けておいてほしいものね」

 

「本当に欲しい?」

 

紫が楽しそうに尋ねる。

 

アリスは一瞬黙り、すぐに首を振った。

 

「やっぱりいらない」

 

「賢明ね」

 

「あなたに記憶をいじられるなんて、想像しただけで嫌だわ」

 

「信頼が足りないわね」

 

「足りるようなことをしてから言いなさい」

 

紫はまた笑った。

 

アリスは机の上の人形を手に取った。修繕はまだ途中だ。片腕は外れたままで、袖口から細い糸が少しだけ出ている。

 

米花町。

外の世界の揺らぎ。

自然にほどける歪み。

人形工房マーガトロイド。

 

言葉だけ並べると、どうにも現実味がない。

 

「期間は?」

 

「分からない」

 

「最悪の答えね」

 

「詳細が分かるまで」

 

「もっと悪くなったわ」

 

「でも、あなたなら退屈はしないでしょう?」

 

「私は退屈が嫌いなわけじゃない。面倒が嫌いなの」

 

「似たようなものよ」

 

「違うわ」

 

アリスは即答した。

 

それでも、断らなかった。

 

自分でも分かっていた。面倒だと思っている。厄介だとも思っている。外の世界で店主をするなど、考えただけで肩が凝る。

 

けれど、気になっている。

 

絡まった糸が何度もほどける町。

外の世界の理で処理されるはずの事件。

それをほどいている、まだ名前も知らない何か。

 

気になってしまった時点で、負けだった。

 

紫はそれに気づいているのだろう。扇の向こうで、少しだけ満足げに目を細めている。

 

「分かったわ」

 

アリスは言った。

 

「ただし、条件がある」

 

「何かしら」

 

「私の工房と人形には、勝手に余計な細工をしないこと。店の内装も、私が気に入らなければ変える。あと、外の世界の生活に必要なものは全部用意して」

 

「もちろん」

 

「本当に分かっている?」

 

「だいたい」

 

「だいたいで返事をしないで」

 

「細かいことは現地で調整しましょう」

 

「それが一番怖いのよ」

 

紫は立ち上がった。

 

「明日の朝には店を用意しておくわ」

 

「急すぎる」

 

「外の世界の揺らぎは待ってくれないもの」

 

「あなたの段取りが悪いだけではなくて?」

 

「そうとも言うわね」

 

「認めるの?」

 

「認めた方が話が早いでしょう?」

 

アリスは長く息を吐いた。

 

紫は隙間へ戻りかけ、ふと思い出したように振り返る。

 

「アリス」

 

「何?」

 

「あなたが見るものは、幻想郷の異変とは違うわ。犯人を倒して終わりではない。弾幕を避けて、相手を負かして、宴会をして終わりでもない」

 

「分かっているわ」

 

「外の世界の歪みは、人間の嘘と恐怖の中にある。だから、見ていて気分のいいものではないかもしれない」

 

アリスは、手元の人形を見た。

 

壊れたものを直すのは好きだ。絡まった糸をほどくのも嫌いではない。

 

けれど、それが人間の嘘と恐怖でできた糸なら、どれほど厄介なのだろう。

 

「それでも見る必要があるのでしょう?」

 

「ええ」

 

紫は静かに頷いた。

 

「なぜなら、それをほどいている何かがあるから」

 

「人か、場所か、流れか。まだ分からない何か」

 

「そう」

 

紫は微笑むだけだった。

 

「確かめてきてちょうだい」

 

隙間が閉じる。

 

部屋には、再び静けさが戻った。

 

アリスはしばらく、冷めた紅茶と修繕途中の人形を見比べていた。

 

「……人形店の店主ね」

 

棚の上の上海人形が、いつの間にかこちらを見ている。

 

「あなたも来るのよ。ただし、外の世界では勝手に動かないこと。絶対に」

 

上海人形は小さく首を傾げた。

 

「絶対に、よ」

 

もう一度念を押してから、アリスは針を手に取った。

 

まずは、この人形の腕を直さなければならない。外の世界の揺らぎも、米花町の調査も、人形工房マーガトロイドも、その後だ。

 

針に糸を通しながら、アリスは小さく呟いた。

 

「本当に、見るだけで済めばいいけれど」

 

人形は、何も答えなかった。

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