今回はコナン視点で、人形工房マーガトロイドとの初遭遇回です。
アリス側の事情を知らないコナンたちから見ると、少しだけ違和感のある店、という温度感で書いています。
その店の前を通りかかった時、俺は一度だけ足を止めた。
理由を聞かれれば、うまく説明できなかったと思う。
米花町商店街の外れにある、小さな人形店。古びた木の扉、曇り硝子の窓、赤茶けたレンガ調の外壁。扉の上には、控えめな金文字で看板が掲げられている。
人形工房マーガトロイド
その下には、小さく英字が添えられていた。
Margatroid Doll Atelier
マーガトロイド。
英語圏の名字のようにも見える。けれど、少なくとも俺には聞き馴染みのない名前だった。人名なのか、屋号なのか、それとも別の何かなのか。
窓の向こうには、西洋人形が並んでいた。白い肌、硝子玉の目、細い指、レースのドレス。眠るように目を閉じたものもあれば、じっとこちらを見ているものもある。どれもよくできていて、古い商店街の一角に置かれているには少し目を引く。
けれど、見知らぬ店という感じはしなかった。
むしろ逆だ。
そこにあることが、妙に自然だった。昔からそこにあって、俺がただ気に留めていなかっただけ。そう思わせるだけの馴染み方をしている。
だからこそ、引っかかった。
「……こんな店、あったっけ」
俺が小さく呟くと、歩美ちゃんがすぐに顔を輝かせた。
「わあ、人形のお店だ! かわいい!」
元太は看板を見上げて、すぐに興味をなくしたように肩を落とす。
「なんだよ、うな重屋じゃねーのかよ」
「元太くん、人形店にうな重を期待するのは間違っています」
光彦は窓の向こうの人形を見ながら、素直に感心していた。
「でも、綺麗なお店ですね。西洋人形でしょうか。こういう球体関節人形、テレビで見たことがあります」
三人とも、店がいつからそこにあったかなんて気にしていない。それが普通だ。商店街の店を一軒一軒覚えている小学生なんて、そうはいない。
俺だって、普通ならそう思ったはずだった。
けれど、どうにも胸の奥に小さな棘が残った。
「コナンくん?」
歩美ちゃんが俺を見上げる。
「どうしたの?」
「いや……別に」
そう答えながら、俺はもう一度看板を見る。
人形工房マーガトロイド。
初めて見たような気がする。でも、前から知っていたような気もする。そんな曖昧な感覚が、妙に気持ち悪かった。
灰原哀だけは、歩美ちゃんたちとは違う顔で窓の向こうを見ていた。
「灰原?」
声をかけると、灰原は人形たちから視線を外さないまま、少しだけ目を細めた。
「……別に」
「何か感じたのか?」
「組織じゃないわ」
「まだ何も聞いてねえよ」
「だから言ったのよ。少なくとも、そういう嫌な感じじゃない」
灰原はそこで言葉を切り、窓の奥を見た。
「でも、あまり長居したくなる場所でもないわね」
その言い方は、恐怖というより警戒に近かった。黒ずくめの組織に反応する時のような、背筋が凍るような怯え方ではない。ただ、普通の店を見ている時の目でもなかった。
店の奥で、何かが動いた。
人形ではない。人影だった。
金色の髪を肩口で揃えた若い女。青を基調にした落ち着いた服。白いブラウスに、淡い色のエプロン。外国人のようにも見えるが、日本語の看板が並ぶ商店街の中で、不思議なくらい浮いていない。
その人は、窓越しにこちらを見た。
俺を見た、ような気がした。
ただ、その目は思っていたより柔らかかった。警戒しているというより、こちらの人数を見て、少しだけ困ったような顔をしている。
「ねえ、入ってみようよ!」
歩美ちゃんは完全に人形に夢中だった。
「えっ、勝手に入っていいんですか?」
「お店なんだからいいだろ。見るだけならタダだしよ」
元太が扉に手をかける。
俺は止めようとして、一瞬迷った。違和感の正体を確かめるには、都合がいい。
「まあ……見るだけならいいんじゃねえか」
そう言うと、歩美ちゃんは嬉しそうに扉を開けた。
からん、と小さな鈴の音が店内に落ちる。
一歩入った瞬間、外の商店街の音が少し遠くなった気がした。
埃っぽくはない。けれど、新しい店の匂いもしない。古い布、乾いた木、かすかな花のような香り。棚には人形が並び、作業机には針と糸、小さな靴、まだ目の入っていない人形の頭が置かれている。
古いのに、古くない。
新しいのに、新しくない。
そんな妙な印象だけが残る。
「いらっしゃい」
店の奥から、さっきの人が出てきた。
声は静かだった。けれど、冷たいわけじゃない。むしろ、子どもが五人も入ってきたことに、少し戸惑っているように聞こえた。
「……ええと、見るだけでも大丈夫よ。ただし、走らないこと。人形はあなたたちより転びやすいから」
「はい!」
歩美ちゃんが元気よく返事をする。
元太は棚の上の人形を見ながら、口を尖らせた。
「人形ってそんな転ぶか?」
「あなたが棚にぶつかれば、きっとね」
彼女は淡々と言った。怒っているわけではない。けれど、なぜか元太は「お、おう」と小さく返事をして一歩下がった。
歩美ちゃんは、淡い青いドレスを着た人形の前で目を輝かせている。
「この子、かわいい!」
「ありがとう。その子は少し気難しいの」
彼女が言った。
「人形なのに?」
歩美ちゃんが真剣に聞き返す。
「ええ。リボンを曲げて結ぶと、少し機嫌が悪そうに見えるでしょう?」
歩美ちゃんは人形の顔を覗き込んだ。
「ほんとだ! ちょっと怒ってるみたい!」
その瞬間、彼女は初めて小さく笑った。
ほんの少しだけだった。けれど、その笑い方は、さっき窓越しに見た時の謎めいた印象とは違っていた。人形の話をしている時だけ、少し肩の力が抜けるらしい。
光彦は別の棚を見て、興味深そうに目を細めている。
「すごいですね。この関節、球体関節ですか? 市販品とは少し作りが違うような……」
「よく見ているのね」
「えっ、あ、はい。こういう工芸品には少し興味があって」
「なら、触る時は両手で。大切なものを扱う時の基本よ」
「はい!」
光彦は背筋を伸ばして返事をした。こういうところは妙に律儀だ。
元太は人形の値札らしきものを見て、目を丸くした。
「うわっ、たっけえ!」
「元太くん!」
光彦が慌てる。
彼女は少しだけ眉を上げたあと、困ったように笑った。
「正直なのは悪いことではないけれど、お店の中では少し小さな声でお願いできるかしら」
「お、おう……」
「残念だけれど、うな重よりは高いわね」
「うな重何杯分だよ……」
「数えない方が幸せなこともあるわ」
歩美ちゃんがくすくす笑った。
俺はそのやり取りを見ながら、少しだけ印象を改めていた。この人は、ただの怪しい人間というわけじゃない。少なくとも、子どもに対して妙にきついわけではないし、人形のことになると普通に柔らかくなる。
けれど、それで違和感が消えたわけでもなかった。
店内を見回す。
棚の配置はきれいに整っている。人形の向きも不自然ではない。値札もある。レジらしきものもある。店として必要なものは、一応揃っている。
ただ、生活感が薄い。
古くからある店なら、どうしても残るはずの癖がある。客がよく触る棚の角。店主が何度も通る床の擦れ。長く置かれたものの周りにできる、埃の溜まり方の差。
そういうものが、どうにも薄い。
作られたばかりの店というわけでもない。古びてはいる。だが、時間が積もった古さではなく、古く見えるように整えられた古さに見えた。
俺は視線を作業机に移した。
机の上には、使いかけの糸巻きがいくつか転がっている。小さな裁ちばさみ。細い筆。人形の手首ほどの部品。どれも本物に見える。飾りじゃない。実際に使われている。
つまり、店は怪しいが、人形作りは本物。
そこがまた、妙だった。
「あのさ、お姉さん」
俺は子どもらしい声を作った。
彼女がこちらを見る。
「なあに?」
「このお店って、いつからあるの?」
灰原が横目で俺を見る。
彼女は、ほんの少しだけ言葉に詰まった。それは一瞬だった。けれど、俺は見逃さなかった。
「さあ。……店主が自分の店のことを“さあ”なんて言うのも、変だけれど」
彼女は少し困ったように笑った。
「外の世界の店というのは、思ったより覚えることが多いのよ。開店日とか、仕入れ先とか、ご近所への挨拶とか」
「外の世界?」
俺が聞き返すと、彼女は「あ」と小さく声を漏らした。そして、少しだけ目を逸らす。
「……町の外、という意味よ。言い方が変だったわね」
ごまかした。
しかも、今のは完全な失言だ。
灰原も気づいている。歩美ちゃんたちは気にしていないが、灰原だけは一瞬、俺と同じように彼女を見た。
「ふーん。僕、ここよく通るのに、あんまり覚えてないや」
「気に留めていないものは、案外覚えていないものよ」
「そうかな」
「私も、外の世界の交通ルールを全部覚えているわけではないし」
また外の世界と言った。
本人も気づいたのか、彼女は軽く咳払いした。
「……町の外、ね」
今度の言い直しも、自然とは言い難かった。
けれど歩美ちゃんたちは気にしていない。灰原も、それ以上は追及しなかった。組織の気配ではない、と判断した以上、深く関わる気はないのかもしれない。
この人、完璧に隠しているわけじゃない。
むしろ時々、言葉の端が妙にずれる。怪しい。けど、慣れていない。嘘をついているというより、慣れない役を演じているみたいだ。
それも、かなり急に。
「お姉さん、外国の人?」
歩美ちゃんが人形から顔を上げて尋ねた。
彼女はそちらを見る。
「そう見える?」
「うん!」
「なら、そういうことにしておきましょう」
「そういうこと?」
歩美ちゃんが首を傾げる。
彼女は、少し困ったように笑った。
「外国人かどうかより、人形を作っている人だと思ってもらえる方がありがたいわ」
「じゃあ、人形屋さん?」
「それなら合っているわね」
そこで、彼女は作業机の上に置かれていた小さな布を畳んだ。ほんの何気ない動作だったが、指先の動きは滑らかだった。糸の端を拾い、絡まないように寄せる。針を避け、部品を倒さない。手慣れている。
店主には慣れていない。
でも、人形には慣れている。
その差が、妙にはっきりしていた。
「この店、ひとりでやってるの?」
俺はもう少し聞いた。
「ええ。今のところは」
「今のところ?」
「店番を任せられる人形がいれば楽なのだけれど」
「人形に店番?」
俺が聞き返すと、彼女はまた「あ」と小さく声を漏らした。
「……冗談よ。そういう冗談は、こちらでは通じにくいのね」
こちら。
その言い方が、妙に引っかかった。
外国から来たという意味なら、おかしくはない。けれど、彼女の口ぶりは、日本と外国というより、もっと別の場所とここを分けているように聞こえた。
彼女は作業机の上の布を畳み直し、少し困ったように笑った。
「少し、店主に慣れていないだけよ」
店主に慣れていない。
その言い方が、妙に耳に残った。
普通、店を始めたばかりなら、そう言うこと自体はおかしくない。けれど、この店は昔からそこにあったような顔をしている。
店は古い。
店主は慣れていない。
その二つが、うまく噛み合っていなかった。
「でも、アリスさん、お店の人っぽいよ!」
歩美ちゃんが笑顔で言った。
「ありがとう。そう見えるなら助かるわ」
アリスは少しだけ安心したように笑った。
俺は棚の上の人形を見た。
その硝子玉の目が、こちらを見返している。
店も、人形も、店主も。
全部がそこにある。
なのに、どこかで少しずつ噛み合っていない。
この店、やっぱり変だ。
そう思った時、歩美ちゃんが彼女を見上げた。
「お姉さん、お名前は?」
あまりに素直な質問だった。
彼女は一瞬だけ目を瞬かせる。店名を見れば分かるでしょう、とでも言いかけたように見えたが、すぐに小さく笑った。
「アリス。アリス・マーガトロイドよ」
「アリスさん!」
歩美ちゃんは嬉しそうに名前を繰り返した。
「私は歩美。吉田歩美です!」
「小嶋元太だ!」
「円谷光彦です」
三人が次々と名乗る。
俺は一拍置いてから言った。
「江戸川コナン」
アリスの視線が、俺に留まった。
それはほんの一瞬だった。けれど、ただ名前を聞いたというより、名前と中身が合っているかを確かめるような目だった。
「江戸川コナン」
彼女は俺の名前を繰り返した。
「ええと……変な名前だった?」
俺が子どもらしく首を傾げると、アリスは少し困ったように目を逸らした。
「いいえ。覚えやすい名前だと思っただけよ」
ごまかした。
今の間は、名前を覚えた時の反応じゃない。
「こっちは灰原哀」
俺が言うと、灰原は軽く会釈しただけだった。
アリスは灰原を見る。その目が、ほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。
俺を見る時の目とは違う。探られているというより、触れてはいけないものを見つけたような目だった。
「あなたは……静かな子ね」
「よく言われるわ」
灰原はそっけなく返した。
二人の間に、妙な沈黙が落ちる。敵意じゃない。けれど、無関心でもない。相手が自分と同じように何かを隠していると、互いに分かっているような沈黙だった。
「それで、アリスさん」
俺は笑顔を作って尋ねた。
「このお店、これからずっとここでやるの?」
「そのつもりよ」
「そのつもり?」
「予定は変わるものだから」
「ふーん」
予定。
店主。
外の世界。
慣れていない。
頭の中で、引っかかった言葉が並んでいく。
どれも決定的な証拠じゃない。けれど、全部を偶然で片づけるには少し多い。
その時、店の奥で何かが動いた。
今度は見間違いじゃない。
小さな人形だった。手のひらほどの大きさ。青い服。金色の髪。棚の影から半分だけ顔を出し、こちらを見ていた。
次の瞬間には、もういなかった。
俺は反射的に天井を見た。糸はない。棚の下、床、壁。どこかに仕掛けがあるのか。ラジコン、小型ロボット、磁石、ワイヤー。博士なら似たようなものを作りかねない。だから、ありえないとは言えない。
けれど、今の動きは機械にしては妙だった。ぎこちなさがない。音もない。
「どうかした?」
アリスが言う。
俺はすぐに子どもの顔へ戻した。
「ううん。今、小さい人形が動いた気がして」
「気のせいでしょう」
そう言ってから、アリスは少しだけ視線を逸らした。
「……たぶん」
たぶん?
「動くの?」
歩美ちゃんが目を輝かせる。
「動かないわ」
アリスは即答した。
その少し慌てた言い方が、逆に怪しかった。
「本当に?」
「少なくとも、お客さんの前では動かないことになっているわ」
「ことになっている?」
光彦が聞き返す。
アリスは一瞬だけ黙り、そして小さく息を吐いた。
「今のは忘れてちょうだい」
「アリスさんって、ちょっと面白いね!」
歩美ちゃんが笑う。
アリスは少し困った顔をした。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
俺は黙ってアリスを見ていた。
謎めいている。
でも、完璧ではない。
少なくとも、全部を見透かしているような余裕のある大人ではなかった。むしろ、外の世界という舞台に慣れないまま、何とか店主の役をこなそうとしているように見える。
それが逆に、気になった。
灰原が小さく言った。
「帰りましょう」
「えー、もう?」
歩美ちゃんが残念そうにする。
「博士のところへ行くんでしょう」
「そうだった!」
元太が手を打った。
「博士んちでゲームするんだった!」
「元太くん、目的が変わっています」
光彦が律儀に突っ込む。
「また来てもいい?」
歩美ちゃんが尋ねる。
アリスは少しだけ表情を柔らかくした。
「ええ。走らないなら」
「うん!」
「あと、棚の奥には手を入れないこと」
「はーい!」
「特にあなた」
アリスは元太を見る。
「え、俺?」
「あなたが一番、棚にぶつかりそうだから」
「ぶつかんねーよ!」
元太がむくれる。アリスは、ほんの少し笑った。
からん、と鈴が鳴った。
店を出た瞬間、商店街の音が戻ってくる。自転車のベル、八百屋の呼び声、遠くを走る車の音。たった今まで、別の場所にいたような気がした。
俺は振り返った。
人形工房マーガトロイド。そこに店はある。看板も、扉も、人形も、全部ある。
なかった、と言い切れるほどの確信はない。けれど、昔から知っていたと言えるほどの記憶もない。
こんな感覚は、あまり気持ちのいいものじゃない。
「江戸川くん」
灰原が小声で言った。
「何だ」
「深入りしすぎない方がいいわ」
「組織じゃないんだろ?」
「組織じゃないからって、安全とは限らない」
それはその通りだった。
「でも」
灰原は少しだけ店の方を見た。
「悪意は感じないわ」
「珍しいな。お前がそう言うの」
「悪意がないことと、面倒ごとがないことは別よ」
それもまた、その通りだった。
俺はもう一度、店の窓を見た。硝子の向こうに、アリスの姿はない。代わりに、棚に並ぶ人形の一つがこちらを向いている。
さっきまでは、違う角度を向いていた気がする。
「……気のせい、か」
俺は呟いた。
だが、そう言いながら自分でも分かっていた。
気のせいで片づけるには、あの店は少しだけ静かすぎた。
その夜、俺は何気なくスマホの写真を見返していた。
きっかけは、本当にただの偶然だった。元太が数日前にふざけて撮った商店街の写真。光彦が変な顔をして、歩美ちゃんが笑っていて、俺が半分見切れている。そんな、どうでもいい写真だった。
けれど、その背景に、あの角が写っていた。
俺は画面を拡大した。
人形工房マーガトロイドがあるはずの場所。今日、歩美ちゃんたちと入った店。アリス・マーガトロイドがいた場所。
そこに写っていたのは、錆びたシャッターの空き店舗だった。
日焼けした「テナント募集」の貼り紙。剥がれかけたテープ。曇ったガラス。
俺はしばらく、画面を見つめた。
記憶違いじゃない。少なくとも数日前、あの場所に人形店はなかった。
じゃあ、今日見たあの店は何だ?
俺はスマホを握りしめた。
人形工房マーガトロイド。
米花町に、またひとつ、妙な謎が増えた。
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