扉の鈴が鳴り終わっても、アリスはしばらくその場を動かなかった。
店内には、子どもたちの声の残り香のようなものが残っている。棚の上の人形たちは、いつも通り黙っていた。外の商店街からは、自転車のベルと、遠くの八百屋の呼び声が聞こえてくる。
静かだった。
静かすぎて、さっきまで本当に子どもたちがいたのか、少し疑わしくなるほどだった。
アリスはカウンターに手をつき、小さく息を吐いた。
「……店主って、思ったより難しいのね」
棚の影から、青い服の小さな人形が顔を出した。上海人形だ。先ほど、江戸川コナンに見られかけた。いや、ほとんど見られていた。
アリスはそれを見て、少しだけ眉をひそめた。
「あなたもよ。お客の前で勝手に出てこない」
上海人形は答えない。ただ、首を傾げるようにわずかに動いた。
「何よ。気になったのは分かるけれど」
人形はまた黙っている。
アリスは、コナンたちが出て行った扉を見る。
普通の子どもたちだった。
少なくとも、三人は。
吉田歩美は、素直に人形をかわいいと言った。小嶋元太は、人形店にうな重を求めた。円谷光彦は、関節の構造に目を向けた。三人とも外の世界の子どもとしては少し賑やかで、少し無防備で、そしてごく自然だった。
問題は、残りの二人。
灰原哀。
あの少女は、子どもにしては静かすぎる。恐怖を知っている者の目をしていた。けれど、こちらを見た時の反応は恐怖ではなかった。警戒。観察。諦めに似た冷静さ。そのどれもが、小学生の少女には少し重すぎる。
そして、江戸川コナン。
アリスは机の上のメモに、その名前を書いた。
江戸川コナン。
名前は子どものものだった。姿も子どものものだった。声も、笑い方も、店主に質問する時の調子も、いかにも小学生らしく作られていた。
作られていた。
アリスは、そこに引っかかった。
最初から何かを見抜いたわけではない。紫のように、境界の向こう側まで覗けるわけでもない。
それでも、あの子は見方が違った。
人形を見ているようで、人形だけを見ていない。
棚の並び、床の擦れ、作業机の道具、私が答えるまでの間。
目に見えるものを拾い集めて、そこにないはずの何かを見ようとしていた。
店の違和感にも、たぶん気づきかけている。
「よく見る子ね」
そう呟いてから、アリスは苦笑した。
それだけなら、あの光彦という少年もよく見ていた。だが、あちらの視線は好奇心だった。コナンの視線は、疑いだった。
奥の鏡が、かすかに揺れた。
水面のような波紋が広がり、その向こうに八雲紫の姿が浮かぶ。相変わらず、何もかも分かっているような顔をしていた。
「初日から繁盛しているようね」
「子どもが五人来ただけよ。しかも一人はうな重を探していたわ」
「外の世界の商売は難しいのね」
「他人事みたいに言わないで。あなたが用意した店でしょう」
紫は扇で口元を隠して笑う。
「よく似合っていたわ。人形店の店主」
「似合っていることと、うまくできることは別問題よ。帳簿の場所も、仕入れ先も、ご近所付き合いも、何一つ分からないのだけれど」
「大丈夫よ。必要な書類も、仕入れ先との記録も、昔からあったように整えてあるわ」
「昔からあったように、という言い方が一番信用できないのだけれど」
「細かい綻びは、店主のあなたが埋めればいいわ」
「それを大丈夫とは言わないのよ」
紫は扇の向こうで笑った。
アリスは深く息を吐いた。
「それで、どうだったの?」
紫の声が少しだけ低くなった。
アリスは机の上のメモに視線を落とす。
「江戸川コナンという子に会ったわ」
「あら」
「知っているの?」
「知らないわ」
紫はあっさりと言った。
「でも、あなたが初日に名前を報告するくらいには、気になったのね」
「気になる子だった。見た目は小学生。けれど、見方が違う」
「見方?」
「目に見えるものから、見えていないものを探そうとしていた。店の違和感にも、たぶん気づきかけている」
「たぶん?」
「まだ確信はしていないと思う。境界は効いているわ。彼自身も、あったような気もする、なかったような気もする、という顔をしていた」
「それでも足を止めた」
「ええ」
紫は楽しそうに目を細めた。
「いいわね」
「よくないわ。初日から綻びを見つけられるなんて、先が思いやられる」
「綻びを見つける子だから、必要なのかもしれないわ」
アリスは黙った。
紫が言いたいことは分かる。
米花町で起きる小さな異変。外の世界ではただの出来事として処理されるはずのもの。だが、それがこの町では一度歪みとして浮き上がり、なぜかほどけていく。
紫が感知したのは、事件そのものではない。事件の後に残るはずの歪みが、誰かによってほどかれているという事実だった。
「私は異変そのものを見られるわけじゃないわ」
アリスは、机の上の糸巻きを指先で転がした。
「ただ、人形を動かす時には、糸の張り方を見るでしょう。見える糸だけじゃない。魔力の流れ、意識の向き、動かすものと動かされるものの関係。そういうものを、私はずっと扱ってきた」
「だから、人と人の間に張ったものも見える?」
紫が面白そうに尋ねる。
「見える、というより、引っかかるのよ。嘘をついている者、恐れている者、何かを隠している者。そういう人間が同じ場所に集まると、糸が絡んだように感じる」
「それで十分よ」
「十分ではないわ。絡まっていることは分かっても、どの糸が何に繋がっているかまでは分からない。犯人を当てることも、事件を解くこともできない」
「それは、外の世界の者がすることでしょう?」
紫はそう言って笑った。
アリスは小さく息を吐いた。
「だから私を行かせたのね」
「ええ。あなたは現場で、糸が絡んでいることだけを見ればいい。誰がそれをほどくのかは、また別の話」
「便利に使われている気がするわ」
「適材適所よ」
「そういう言葉で雑な依頼を包むの、やめた方がいいと思う」
紫は聞かなかったことにしたように、扇を揺らした。
「もう一人、灰原哀という少女もいたわ」
アリスは続けた。
紫の目が細くなる。
「その子も?」
「ええ。彼女は私を怖がってはいない。でも、普通の子どもの反応でもなかった。何かから逃げている者の目をしている。名前も、たぶんそのまま受け取らない方がいい」
「外の世界には、名前の境界が曖昧な子どもが多いのかしら」
「少なくとも、今日の店には二人来たわ」
「面白いわね」
「私は面白がるために来たわけではないのだけれど」
「でも、興味はあるでしょう?」
アリスは答えなかった。
興味はある。
それは否定できない。
江戸川コナン。灰原哀。二人とも、ただの子どもではない。だが、妖怪でも魔法使いでもない。外の世界の理の中で、何かを隠して生きている。
奥の鏡が、もう一度揺れた。
紫の背後に、別の色が滲んだ。
紅い。
夜よりも濃い紅。水面の向こうで、小さな影が椅子に腰かけているように見える。
「呼んだのはそちらでしょう?」
幼さを残した声だった。けれど、その響きは子どものものではない。退屈を嫌い、世界が自分に従うことを疑わない者の声。
「レミリア?」
アリスは眉をひそめた。
「あなたまで関わっているの?」
「関わっている、というほど親切ではないわ。ただ、少し引っかかっただけ」
レミリア・スカーレットは、退屈そうに頬杖をついた。
「引っかかった?」
「運命の裾が、変なところで撓んでいるのよ。町の外へ向かう鉄の箱。子ども。銃声。赤い文字。割れる硝子。それから、燃える匂い」
アリスは無言になった。
レミリアは、軽く目を伏せる。
「赤い文字だけは、やけにはっきり残っているわ」
「……随分と物騒ね」
「運命なんて、見え方はいつも物騒よ。綺麗な時もあるけれど」
「それで、鉄の箱というのは?」
「知らないわ」
レミリアはあっさりと言った。
「そこはパチェに聞いたの。外の世界で人を乗せて町の外へ向かう鉄の箱なら、バスか電車ではないかしら、ですって」
「ずいぶん曖昧ね」
「私に言わないで。私は外の世界の乗り物に詳しくないもの」
「パチュリーでも断定できないの?」
「断片だけではね。絵葉書の端だけ見せて、場所を当てろと言っているようなものよ」
紫が扇で口元を隠したまま、静かに続けた。
「でも、候補としては十分よ」
アリスは紫を見る。
「十分?」
「外の世界からこちらへ届きかけている揺らぎがある。レミリアは、その周辺の運命の断片を感じた。パチュリーは、その断片から乗り物の候補を出した」
「そしてあなたは?」
「米花町から外へ向かう流れを見る」
紫が言った。
「駅へ向かう流れ、郊外へ向かう流れ、行楽地へ向かう流れ。町の中で生まれた揺らぎが外へ出るなら、そういう場所を通る」
「バスか電車かも分からないのに?」
「分からないわ。ただ、鉄の箱というなら、電車よりバスの方が形としては近いでしょう?」
「そんな決め方でいいの?」
「決めてはいないわ。可能性が少し高い方から見るだけ」
紫は、まるで天気の話でもするように言った。
「米花公園前に、バスの乗り場がある。町の外へ向かう流れも、行楽地へ向かう流れも、いくつかそこで重なる。まずはそこで待ちなさい」
「つまり、場所を特定したわけではないのね」
「ええ。観測点よ」
紫は言った。
「何が起きるかまでは分からない。バスなのか電車なのかも断定できない。ただ、強く絡まった流れが来れば、あなたには分かるでしょう」
アリスは小さくため息をついた。
「絡まっているものに乗れ、ということね」
「ええ」
「簡単に言うわね」
「簡単ではないから、あなたに頼んでいるのよ」
「褒められている気がしないわ」
「褒めているわ」
「余計に信用できない」
レミリアは頬杖をついたまま、つまらなそうに、それでいてどこか楽しそうに言った。
「せいぜいよく見てきなさい。退屈はしないはずよ」
「あなた、本当に楽しんでいるでしょう」
「もちろん」
レミリアは悪びれもせずに言った。
「退屈よりは、事件の方がましだもの」
アリスは鏡の中の二人を見る。
境界を操る妖怪。
運命に触れる吸血鬼。
どちらも、肝心なことを全部は言わない。
「明日、米花公園前で待つ。町の外へ向かう流れを見る。糸が絡まっているものを選ぶ。乗った後は、観測のみ」
アリスは確認するように言った。
「そう」
紫が満足げに頷く。
「外の世界の出来事は、外の世界の者が解くべきよ。あなたは犯人を捕まえる必要はない。答えを出す必要もない。ただ、外の世界の歪みが、どうやってほどけるのかを見なさい」
「見るだけ、ね」
「基本は」
アリスは紫を睨んだ。
「その基本という言葉、嫌いになりそう」
「予定は、現場で変わるものよ」
「最初からそう言うなら、予定とは呼ばないわ」
レミリアが小さく笑った。
「まあ、壊さない程度に見てくればいいわ。外の世界の箱が、どれほど頑丈なのかは知らないけれど」
「不吉な言い方をしないで」
「運命は、いつだって少し不吉なものよ」
レミリアはそう言って、紅い影の中へ溶けていく。
紫もまた、扇を閉じた。
「気をつけて」
「あなたがそれを言うと、逆に不安になるわ」
「あら。心配しているのよ」
「なら、もっと早く言いなさい」
紫はくすくす笑い、鏡の波紋の向こうへ消えた。
部屋には静けさが戻る。
棚の上の上海人形が、いつの間にかアリスの方を見ていた。
「あなたも来るのよ」
アリスは言った。
「ただし、勝手に動かないこと。今日みたいに見られたら困るわ」
上海人形は小さく首を傾げる。
「気になるからって、顔を出さない。特にあの江戸川コナンという子の前では」
人形は黙っている。
アリスは小さく笑った。
「もっとも、あの子相手だと、隠れていても見つかりそうだけれど」
そう言ってから、アリスは窓の外を見た。
夜の米花町は静かだった。昼間の商店街の喧騒も、子どもたちの声も、今はない。けれど、その静けさの下に、いくつもの糸が絡んでいるように感じる。
秘密を持つ子ども。
恐怖を隠す少女。
外の世界に縫い込まれた人形店。
運命の吸血鬼が感じた、鉄の箱と赤い文字。
アリスは机の上のメモに、明日の予定を書き加えた。
米花公園前。
町の外へ向かうバス。
仕入れ。
観測のみ。
最後の一行だけ、少し強く書いた。
介入しない。
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