東方米花異聞   作:秋刀魚食べたい

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第6話 謎めいた乗客・後編

暗い車内で、役が入れ替わろうとしている。

 

その直後、犯人の一人が後部座席へ声を飛ばした。

 

「おい、お前もこっちへ来い」

 

呼ばれたのは、風船ガムを噛んでいた女だった。

 

それまで乗客の一人として座っていたはずの女が、ためらうことなく立ち上がる。

 

その瞬間、アリスには分かった。

 

恐怖を隠す嘘ではない。

恐怖を利用する側の嘘。

乗客のふりをしていた者の嘘だった。

 

そして、江戸川コナンも動いていた。

 

彼は、暗がりを利用してジョディと呼ばれた教師へ何かを伝えようとしている。アリスの席から文字は読めない。だが、ジョディの表情がわずかに変わる。理解した顔だった。

 

やがて、コナンの手元に口紅が渡る。

 

「Show me your magic, cool guy」

 

小さな声だった。おそらく、近くの者にしか聞こえない声。けれど、アリスの耳には届いた。

 

魔法。

 

アリスは、鞄の上の指を少しだけ止めた。

 

外の世界の人間が、この場面でその言葉を使うのは不思議だった。あの子は魔法使いではない。呪文も唱えない。人形も操らない。けれど、今から何かを変えようとしている。

 

口紅一本で。

 

コナンは、犯人の視線と暗がりを利用して、爆弾のある袋へ近づいた。ジョディから渡された口紅で、袋の表面に赤い文字を書く。

 

アリスの席からは、その文字がまだ読めなかった。

 

やがて、バスがトンネルを抜けた。

 

暗がりに沈んでいた車内へ、春先の光が一気に流れ込む。影の中で入れ替えられようとしていた役割が、急に現実の色を取り戻した。

 

その瞬間、コナンが動いた。

 

彼は阿笠博士に目配せした。博士は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに意図を察したように、スキー用具の袋を支える。

 

コナンは、乗客たちへ向かって声を張った。

 

「犯人の言うことを聞いてても、どうせみんな死んじゃうよ! この爆弾で!」

 

車内が凍った。

 

それまで犯人の銃に縛られていた乗客たちの視線が、一斉にスキー用具の袋へ集まる。新出と呼ばれた青年も、ジョディも、黒いニット帽の男も、その袋へ目を向けた。

 

博士に支えられた袋が、運転席のバックミラーへ向けられる。

 

STOP

 

赤い文字。

 

レミリアが言っていたもの。

 

コナンは袋を掲げたまま、さらに声を張った。

 

「早く!」

 

子どもの声だった。けれど、その一言だけは、車内の悲鳴や怒号を裂いて運転席まで届いた。

 

運転手の目がバックミラーへ走る。

 

次の瞬間、バスが急ブレーキをかけた。

 

車内が大きく揺れた。悲鳴、怒号、荷物の落ちる音。立っていた犯人たちの体勢が崩れ、銃口が跳ねる。

 

その一瞬を、見逃さない者たちがいた。

 

ジョディと呼ばれた教師が、さっきまでの怯えた表情を消して動いた。新出と呼ばれた青年も、近くにいた犯人へ飛びかかる。

 

そして、黒いニット帽の男も。

 

スキーウェアを着せられたまま、倒れ込む乗客たちの影で、彼の片手が静かに上がった。慌てた動きではない。逃げようとする動きでもない。

 

犯人の首筋へ、迷いなく落とされようとする手。

 

だが、それよりわずかに早く、コナンの腕が上がった。

 

小さな針が飛ぶ。

 

アリスはそれを見た。

 

魔力はなかった。

呪文もない。

糸もない。

人形もない。

 

ただ、腕時計のような小さな道具から放たれた針が、犯人の身体に届き、その意識だけを正確に断ち切った。

 

犯人の身体が崩れ落ちる。

 

外の世界では、これも科学と呼ぶのだろうか。

 

アリスはそう思った。

 

科学という言葉は、便利すぎる。

 

数秒後、犯人たちは床へ押さえつけられていた。

 

風船ガムを噛んでいた女も、新出と呼ばれた青年に取り押さえられている。彼女の顔から、乗客のふりをしていた余裕は消えていた。

 

犯人たちは、ただ逃げようとしていたのではない。服を着せ替え、役を押しつけ、自分たちは乗客に紛れるつもりだった。残った者たちは、爆弾ごと燃やす。

 

新出と呼ばれた青年と、黒いニット帽の男を犯人に見せかけて。

 

アリスは、車内を覆っていた糸が一本、強く引き抜かれるのを感じた。

 

ほどけた、と思った。

 

その時だった。

 

新出と呼ばれた青年に押さえられていた女が、身をよじった。逃げようとしたのか、何かを隠そうとしたのか。アリスには分からない。

 

女は、ふと自分の手首を見た。

 

腕時計。

 

アリスにはそれが何なのか分からない。けれど、女の顔色が変わった瞬間、それがただの時計ではないことだけは分かった。

 

「スイッチが……入っちゃった……!」

 

車内の空気が凍った。

 

ほどけたと思った糸が、別の場所で締まる。

 

女は青ざめた顔で、震える声を漏らした。

 

「もう……三十秒もない……」

 

その瞬間、乗客たちの緊張が弾けた。

 

悲鳴が上がる。誰かが出口へ駆け出す。それに押されるように、他の乗客たちも一斉に動き出した。先ほどまでの恐怖とは違う。今度は、ただ死が近づいてくる恐怖だった。

 

逃げなければ死ぬ。

 

アリスもその流れに押されるように、バスの外へ出た。鞄を胸に抱え、足元の砂利を踏む。春先の空気が、車内の熱と恐怖を少しだけ冷ました。

 

だが、すぐに違和感に気づいた。

 

灰原哀がいない。

 

子どもたちの泣き声。博士の声。警察官の怒号。乗客たちの足音。その中に、あの静かな少女の姿だけが見えない。

 

アリスはバスを振り返った。

 

車内の奥に、小さな影が残っている。うつむいたまま、動かない。

 

何を考えているのかは分からない。

 

けれど、逃げ遅れたというより、逃げることをやめたように見えた。

 

アリスの指が、鞄の留め具にかかる。

 

上海を出せば、あの子の足元まで行けるかもしれない。袖を引くことくらいはできるかもしれない。

 

けれど、今この場で人形がひとりでに動けば、逃げ出した乗客たちはさらに混乱する。警察官が何を見るかも分からない。何より、爆弾は止まらない。

 

できることと、していいことは違う。

 

分かっている。

 

分かっているけれど、見ているだけというのは、こんなに指先が冷えるものなのか。

 

その時、江戸川コナンが人の流れを逆に走った。

 

アリスは思わず息を呑んだ。

 

止める声がいくつも上がる。けれど、彼は振り返らない。小さな身体が、まだ煙の残る車内へ消える。

 

しばらくして、銃声が響いた。

 

後部の窓が砕ける。ガラス片が春先の光を弾いて散った。

 

アリスには、車内で何が起きたのかまでは見えない。

 

だが次の瞬間、割れた後部窓から、江戸川コナンが灰原哀を抱えて飛び出した。

 

小さな身体が二つ、地面へ転がる。

 

直後、爆発が起きた。

 

炎がバスを包み、熱風が路肩まで押し寄せる。アリスは鞄を抱えたまま、思わず一歩下がった。

 

爆風に押された砂埃の向こうで、コナンが身を起こす。灰原も生きている。少なくとも、死の中に置き去りにはされなかった。

 

事件は終わった。

 

犯人の嘘は暴かれた。乗客を殺す計画は破られた。灰原哀は、死の中に置き去りにされなかった。

 

その瞬間、アリスははっきりと見た。

 

バスに満ちていた歪みが、ほどけていく。

 

銃の恐怖が消えたわけではない。爆発の傷がなかったことになるわけでもない。乗客たちの記憶から恐怖が消えるわけでもない。けれど、事件が生んだ嘘の歪みだけは、確かに収束していた。

 

魔法ではない。弾幕ではない。結界でも、祈祷でもない。

 

観察。推理。証拠。言葉。

 

そして、諦めかけた少女を死の中から引き戻す手。

 

外の世界には、こういう戦い方があるのだと、アリスは思った。

 

しばらくして、怪我人の確認が始まった。

 

灰原哀は、念のため病院へ向かうことになったらしい。高木と呼ばれた刑事が車のドアを開け、彼女を後部座席へ促している。

 

灰原は、まだどこか遠い顔をしていた。

 

アリスは乗客たちの列の端から、その様子を見ていた。声をかけるほど近くはない。けれど、聞こえないほど遠くもない。

 

コナンが車のそばへ歩いていく。

 

彼は、灰原に向かって言った。

 

「逃げるなよ灰原……自分の運命から……」

 

灰原は一瞬だけ目を伏せた。

 

その言葉を聞いた時、アリスはようやく理解した。

 

あの子は、事件を解いただけではない。死の中に留まろうとした少女を、現実へ引き戻したのだ。

 

高木刑事の車が走り出したあと、コナンはしばらくその後ろ姿を見ていた。

 

アリスは、乗客の列から一歩だけ離れた。

 

「江戸川コナン」

 

呼ぶと、少年が振り返る。

 

「アリスさん。無事だったんだ」

 

「ええ。あなたも、ずいぶん無茶をするのね」

 

「まあね」

 

短いやり取りのあと、アリスは聞いた。

 

「あなた、何者なの?」

 

少年は一瞬だけ目を丸くした。けれど、すぐに笑った。

 

子どもらしい笑顔ではなかった。

 

「江戸川コナン。探偵さ」

 

その言葉を聞いた瞬間、アリスは胸の奥で、絡まっていた糸が一本だけ形を持つのを感じた。

 

探偵。

 

外の世界では、真実を暴く者をそう呼ぶのか。

 

紫が探していたものに、アリスは初めて名前を与えた。

 

ただし、断定するにはまだ早い。彼の周りには、まだ見えていない糸が多すぎる。

 

ジョディと呼ばれた教師。

新出と呼ばれた青年。

黒いニット帽の男。

灰原哀。

江戸川コナン。

 

そして、自分自身。

 

このバスに閉じ込められていた秘密は、バスジャック犯のものだけではなかった。

 

アリスは鞄の中の上海人形にそっと触れた。

 

「……動かなくて正解だったわね」

 

小さく呟く。

 

けれど、正解だったはずなのに、指先はまだ少し冷たかった。

 

   *

 

事件の後始末は、思ったより長かった。

 

救急車、パトカー、事情を聞かれる乗客たち。犯人たちが連行されても、すぐに帰れるわけではないらしい。

 

灰原哀と少年探偵団は、念のため病院へ向かった。

阿笠博士と高木刑事も付き添っている。

 

残った乗客たちに、女性刑事が手帳を片手に声をかけていた。

 

「すみません。皆さん、念のためお名前とご住所を確認させてください」

 

アリスの身体が、ほんの少し固まった。

 

名前。

 

それは、まだいい。

 

住所。

 

そこから少し怪しい。

 

「身分証など、お持ちの方はご提示をお願いします」

 

身分証。

 

そこまで来て、アリスはようやく静かに鞄の中を見た。

 

仕入れ用のメモ。

小さな財布。

裁縫道具。

上海人形。

 

身分証。

 

ない。

 

当然、ない。

 

住民票もない。免許証もない。保険証もない。外の世界で成人女性が当たり前に持っているはずのものが、何一つない。

 

紫。

 

アリスは心の中で、境界の妖怪の名を呼んだ。

 

あの妖怪は、必要な書類も昔からあったように整えてあると言った。

だが、今この鞄の中にはない。

 

つまり、整えてあるのは店の書類であって、外出中の身分証ではない。

 

細かい綻びは、店主のあなたが埋めればいいわ。

 

アリスは、あの時の紫の声を思い出した。

 

埋められるわけがないでしょう。

 

「すみません、次の方。お名前を確認しても?」

 

女性刑事がこちらを見る。

 

「アリス・マーガトロイドです」

 

女性刑事のペンが、手帳の上で少し止まった。

 

「マーガトロイドさん、ですね。ご住所は?」

 

「……米花町の商店街です」

 

「商店街の、どちらでしょう?」

 

「人形工房マーガトロイド」

 

女性刑事は少し困ったように手帳を見る。

 

「お店の名前ではなく、住所を……」

 

「住所……」

 

アリスはわずかに黙った。

 

番地。

 

外の世界には、そういうものがある。

 

もちろん、店にはあるはずだ。あることになっているはずだ。だが、今すぐ口に出せるほど自然には覚えていない。

 

女性刑事の表情が、少しだけ真面目になる。

 

「身分証はお持ちですか?」

 

「……今は」

 

「今は?」

 

「店に」

 

「店にあるんですね?」

 

「おそらく」

 

「おそらく?」

 

まずい。

 

アリスはそう思った。

 

バスに残った灰原哀を見た時とは、まるで違う種類の冷たさが、また指先まで降りてくる。

 

銃口でもない。

爆弾でもない。

ただの確認。

 

けれど外の世界では、それが人を立ち止まらせるらしい。

 

その時、横から声がした。

 

「佐藤刑事」

 

江戸川コナンだった。

 

「その人、米花町の商店街で人形店をやってる人だよ」

 

「え? 知ってるの、コナン君」

 

「うん。僕たち、前にお店に行ったことあるんだ。人形工房マーガトロイドっていう店」

 

佐藤刑事は、少しだけ表情を緩めた。

 

「そうなの」

 

「歩美ちゃんたちも知ってるよ。今は病院に行っちゃったけど」

 

コナンは、子どもらしい顔で言った。

 

「商店街にあるお店だから、後で確認すれば分かると思うよ」

 

「分かったわ。では、後ほどお店の方にも確認させていただきますね」

 

「……ええ」

 

アリスは短く答えた。

 

助かった。

 

助かった、のだろうか。

 

佐藤刑事が別の乗客の方へ向かうと、アリスはコナンを見た。

 

「助けたつもり?」

 

「困ってたみたいだから」

 

コナンは笑った。

 

子どもらしい笑顔。

 

けれど、その目は少しも子どもらしくない。

 

「米花町で店をやってるなら、住所くらい覚えておいた方がいいよ。アリスさん」

 

アリスは一瞬だけ言葉に詰まった。

 

そして、すぐに微笑んだ。

 

「忠告として受け取っておくわ」

 

「うん」

 

コナンは頷いた。

 

「あと、今度またお店に行くかも」

 

「歓迎するわ」

 

「身分証、見せてもらえる?」

 

「お客に見せるものではないでしょう」

 

「冗談だよ」

 

コナンはそう言って笑った。

 

アリスは、今度こそ確信した。

 

この子は、やはりただの子どもではない。

 

そして、自分は紫に言わなければならないことが一つ増えた。

 

外の世界では、事件よりも厄介なものがある。

 

身分証明書というらしい。




ここまで読んでいただきありがとうございます。

原作「謎めいた乗客」後編でした。
バスジャック事件そのものは原作通りに進めつつ、アリス視点では「観測者としてどこまで見て、どこまで動かないか」を意識して書きました。

コナン、灰原、ジョディ、新出、黒いニット帽の男。
事件は解決しても、バスの中に残った糸はまだ多いですね!

少しでも面白いと思っていただけたら、感想・評価・誤字報告など、なんでもいただけると嬉しいです。
次回はバスジャック後の振り返り回になる予定です。
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