今回は雛人形回です。
バスジャック事件の後なので、少し落ち着いた雰囲気で、アリスが人形店主として関わる話にしてみました。
人形工房マーガトロイドの扉の鈴が鳴った。
作業机の上では、修理途中の西洋人形がこちらを見ている。袖口のレースを留め直すだけなら、あと少しだった。
あと少し。
そう思ったところで客が来るのは、まあ、よくあることだ。
人形も商売も、こちらの都合には合わせてくれない。
「いらっしゃいませ」
針を置いて、顔を上げる。
入ってきた女性は、棚の人形を見て回る客とは少し違っていた。手には封筒。中に写真でも入っているのか、胸の前で大事そうに抱えている。
買うつもりの客ではない。
この手の客は、だいたい不安を持ってくる。人形を持ち込む前から、すでに顔に出ている。
「今日は、どのようなご用件でしょうか」
少し緊張したような会釈が返ってきた。
「観野と申します。こちらで、人形の状態を見ていただけると聞いて」
「ええ。種類にもよりますが、傷みや修復の必要を見ることはできます」
「実は、うちに古い雛人形がありまして」
雛人形。
そちらか。
西洋人形の袖口から、頭の中を切り替える。
布、髪、顔、道具。見る場所は違うが、見るものはそう変わらない。
封筒から写真が出てきた。
七段の雛飾りだった。
赤い毛氈。金屏風。上段の男雛と女雛。三人官女、五人囃子、随身、仕丁。道具類も揃っている。
思ったより大きい。
こういうものが、普通の家の押し入れや納戸に当然のようにしまわれている。小さな宮廷を箱に入れてしまっておくようなものだ。
「七段飾りですか」
赤い毛氈の上に並ぶ人形たちは、写真越しでも古いものだと分かった。けれど、顔の線は崩れていない。衣の乱れも少ない。
古い。
ただし、放っておかれた古さではない。
誰かがきちんと箱へ戻し、また出せるようにしまってきた古さだ。
「古いもののようですが、よく残っています。しまわれていた時間は長そうですが、扱いは丁寧ですね」
「そう見えますか?」
声が少し明るくなった。
その反応だけで、この雛人形がただの古道具ではないことは分かる。
売るか捨てるかだけのものなら、人はこういう顔をしない。
「ええ。ただ、写真だけでは分からないこともあります。胡粉の浮き、髪の緩み、布の擦れ、虫食い、小道具の欠け。実物を見ないと判断できない部分も多いです」
写真を持つ手に、少し力がこもった。
「知り合いの小さな女の子が、この雛人形をとても気に入ってくれているんです。並べ方を覚えられたら譲ってあげる、という約束をしていて」
それはまた、ずいぶん大きな約束だ。
七段飾りの並べ方を覚える。大人でも、五人囃子あたりでだいたい怪しくなる人がほとんどじゃないだろうか。
その小さな女の子は、よほど欲しいのだろう。もしくは、よほど負けず嫌いか。
小さな女の子、と聞いて、自然と歩美の顔が浮かんだ。米花町で知っている子どもなど、まだそう多くない。
灰原哀の顔も一応浮かんだが、すぐに消えた。
雛人形に意味を見出すようには見えない。
……いや、それは少し失礼か。
ただ、七段飾りをもらうために並べ方を覚える姿は、あまり想像できない。
「でも、古いものだから、譲る前に傷んでいないか一度見てもらった方がいいかと思って」
「雛人形でも大丈夫です。人形そのものの状態なら見られます」
「本当ですか?」
「ええ。飾り方には家や地方ごとの違いもありますが、人形そのものの状態なら見られます。古いものなら、譲る前に一度確認しておくのは良いと思います」
ほっとしたような息が漏れた。
「それならお願いしたいわ。実は、今日その子たちがうちに来ることになっているんです」
「今日ですか」
「ええ。数日前に約束して、歩美ちゃん、覚えてくるって張り切っていて」
歩美。
やっぱり。
「吉田歩美さんですか?」
「ええ、そうそう。歩美ちゃん。お知り合いなんですか?」
「何度か、店に来たことがあります」
何度か、というほど多くもない。
けれど、知らない仲ではない。
それにしては、妙に印象に残る子ではある。
「吉田さんのお嬢さんと、そのお友達も一緒に来る予定なんです。もしご都合がよければ、今日見ていただけないかしら」
少し申し訳なさそうに付け足される。
「もちろん、急にお店を空けることになるなら、別の日でも構いません」
もっともな心配だった。
店を構えている以上、いつ客が来るかは分からない。作業机には、袖口だけ残された西洋人形もいる。
ただ、今日は大きな予定はない。
急ぎの修理も、今のところはない。
それに。
歩美がいるなら、少年探偵団もいる可能性が高い。
少年探偵団がいるなら、江戸川コナンもいるかもしれない。
人形を見るついでに、あの子どもも見られる。
ついで。
あくまで、ついでだ。
「今日は特に予定もありませんし、歩美さんも知らない仲ではありませんから」
そう答えると、顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ。店は少し閉めていきます。実物を見た方が早いでしょうし」
作業机の西洋人形が、こちらを見ている。
……ような気がしただけだ。
戻ったら続きはする。
心の中で、誰にともなく言い訳をした。
店の奥から札を取る。
『一時外出中』
外の世界の店は、こういう紙一枚で不在を説明できる。
便利だ。
いや、正確には、説明したことにできる。
針を片づけ、糸を巻き、作業中の西洋人形に薄布をかける。袖口のレースは、あと少しで留まるところだった。
あと少し。
本日二度目のそれを見なかったことにする。
「少しだけ待っていただけますか」
「もちろんです」
鞄に小さな裁縫道具を入れる。雛人形の状態を見るだけなら、大きな道具はいらない。必要なら、後日改めて預かればいい。
念のため、柔らかい布も入れておく。
それから、上海人形。
鞄の底で静かにしている人形に、指先が触れる。
今回は出番がないに越したことはない。
雛人形を見るだけの外出で人形を動かすようなことになれば、この町はいよいよどうかしている。
……いや、もう少し前からどうかしていたか。
店の灯りを落とし、扉に札を掛ける。
鈴が、出る時にも小さく鳴った。
「急にすみません」
「いえ。人形の状態は、写真より実物の方が分かりますから」
それは本当だ。
ついでにコナンがいるかもしれない、という方は言わない。
米花町は狭い。
狭いというより、変なところでよく繋がる。
昨日まで知らなかった糸が、気づけば店の作業机まで伸びてくる。
面倒な町だ。
ただ、今回は人形の話だ。
それなら、悪くない。
*
観野家のマンションは、駅から少し歩いたところにあった。
玄関を上がると、奥の和室に赤い毛氈が見えた。廊下の先から、子どもたちの声も聞こえてくる。
「これで合ってるよね?」
「たぶん、こっちです!」
「おお、なんかすげーな!」
元太の声は、どこにいても分かりやすい。
便利というより、もはや目印である。
和室に入ると、七段の雛壇がそこにあった。
写真で見るより、ずっと大きい。
赤い毛氈の上に並んだ人形たちは、長くしまわれていたはずなのに、変にくたびれてはいなかった。埃っぽさも少ない。
ちゃんとしまわれて、ちゃんと出された人形だ。
歩美が振り返った。
「あっ、アリスさん!」
「こんにちは、歩美さん」
「どうしてここに?」
「雛人形の状態を見てほしいと頼まれたの」
そこで、歩美たちの顔を順に見る。
歩美、光彦、元太。
少し離れて、コナンと灰原。
「この前は、大変だったわね」
一瞬、空気が止まった。
「あ、バスジャックのこと?」
歩美が少し声を落とす。
「ええ」
「ほんとだよなー。スキー行けなかったし」
元太が真っ先に言った。
そこなのか。
「元太くん、そこですか」
光彦が呆れたように言う。
「だってよ、せっかく博士が連れてってくれるって言ってたのにさ」
「けどまあ、全員無事だったんだからいいだろ」
コナンが横から言った。
その言い方だけ、少し子どもらしくなかった。
「まあ、そうなんだけどよ」
元太は不満そうに口を尖らせた。
歩美は少しだけ笑って、それからこちらを見る。
「でも、アリスさんも無事でよかったね」
「ええ。あなたたちも」
そう答えると、コナンと目が合った。
一瞬だけ。
あのバスの中で、こちらを見ていた時と同じ目だった。
無事だったかどうかだけを確認している目ではない。
まだ覚えている。
たぶん、こちらと同じように。
「……で、今日は雛人形か」
コナンが視線を雛壇へ戻した。
話を切り替えたのか、逃がしたのか。
どちらでもいい。
少なくとも今は、銃でも爆弾でもなく、人形の話だった。
「すごい! アリスさんなら絶対分かるよね!」
歩美の目は、最初から疑っていなかった。
根拠がない。
ないのに、歩美の中ではもう決まっているらしい。
人形のことならアリスさん。
たぶん、そういう分類になっている。
悪い気はしない。
少しだけ困るが。
「できる範囲で見るわ」
雛壇の横から、コナンの視線が来た。
「雛人形も見るんだな」
「人形ですから」
「西洋人形とは、ずいぶん違いそうだけど」
「作りも、飾り方も違うわ。でも、傷みを見る目はそう変わらない」
コナンは雛壇を見る。
からかうでもなく、感心するでもなく、ただ状況を確認している目だった。
この子は本当に、何を見てもまず情報として拾う。
雛人形まで証拠品にしそうで、少し嫌だ。
観野さんが笑う。
「歩美ちゃん、並べ方を覚えられたら譲るって約束したものだから、朝からずっと真剣で」
「だって、ちゃんと覚えたもん!」
歩美が胸を張る。
なるほど。
雛人形の配置を覚えてまで欲しいのか。
それは、かなり欲しいということだ。
「すごいですね、歩美ちゃん」
光彦が素直に感心した。
「おう。俺なんか五人囃子の場所でごちゃごちゃになったぞ」
元太も素直だった。
それはそれで分かる。
七段は、普通に多い。
人形というより、配置問題である。
雛人形の前へ膝をつく。
まずは上段。
男雛の冠、笏、衣の重なり。
女雛の檜扇、髪、袖口。
古い人形特有の細い顔立ち。きらびやかではあるが、どこか静かだ。
京都の人形に近い。
飾り方や小道具の細部には、土地や家ごとの癖が出る。どちらが正しいと一言で決めるものではない。長くその家で飾られてきた並びには、その家の時間が乗る。
「どうですか?」
少し心配そうな声がした。
「大きく壊れているようには見えません。布は古いので、強く引かない方がいいですね。髪も、触るなら最小限に。小道具は少し緩んでいるものがあるので、動かす時に気をつけた方がいいと思います」
「よかった……」
歩美が安心したように笑った。
「じゃあ、まだ飾れるんだね」
「ええ。大切に扱えば」
歩美は、雛壇を見上げた。
本当に欲しいのだろう。
大きな七段飾り。
整った人形。
自分で覚えて並べたという達成感。
まあ、欲しくならない方が難しい。
その時、玄関の方で呼び鈴が鳴った。
「少し失礼しますね」
廊下へ出ていく足音。
続いて、低い男の声が二つ聞こえてきた。
来客は、鑑定士と、掛け軸を欲しがっているという男だった。
そう分かったのは、彼らが和室に入ってからだ。
それまで、意識はほとんど雛人形に向いていた。
男たちは床の間の掛け軸を見て、すぐに声を低くした。
鑑定。
保険。
二千万。
そういう言葉が途切れ途切れに耳に入る。
観野さんは、その価値を知らなかったようだった。
男たちは驚き、売却を勧めるようなことを言った。細かい話までは追わなかった。人形とは別の話だ。
値段がつくものは、急に周りの声が大きくなる。
人形でも掛け軸でも、そこは変わらないらしい。
けれど、奥からゆっくりと老婦人が出てきた。
背筋は少し曲がっているが、目ははっきりしている。和室へ入ると、掛け軸を見て、それから男たちへ視線を向けた。
「売るつもりは、あらしまへん」
静かな京都弁だった。
それだけで、場の空気が変わった。
男たちはまだ何か言いたそうだったが、老婦人はそれ以上取り合わなかった。掛け軸はこの家のもの。売るつもりはない。
話は、それで終わりだった。
強い。
大声ではないのに、扉を閉める音がした。
やがて男たちは帰っていった。
和室には、雛壇と、観野さんと、老婦人と、子どもたちが残る。
老婦人は雛人形の前に座った。
「懐かしいわぁ」
その声には、さっき掛け軸を守った時とは違う柔らかさがあった。
「この子ら、よう出してくれはったねぇ」
しわのある手が、膝の上で重なる。
触れはしない。
けれど、ずいぶん長くこの人形を見てきた人の距離だった。
距離の取り方だけで、触れているように見えることがある。
人形相手には、特に。
観野さんの顔が、少し変わった。
「歩美ちゃん」
「はい?」
「ごめんなさい。今年だけ、待ってもらってもいいかしら」
歩美は目を瞬かせた。
「今年だけ?」
「ええ。おばあちゃんに、もう少し見せてあげたいの。見納めになるかもしれないから」
歩美は雛壇を見た。
欲しかったはずだ。
並べ方を覚えて、今日を楽しみにしていたはずだ。
それでも、老婦人の顔を見たあと、小さく頷いた。
「うん。いいよ」
「本当に?」
「うん。おばあちゃん、すごく嬉しそうだもん」
観野さんはほっとしたように笑った。
歩美は、もう一度雛壇を見上げる。
「それに、もう少しだけ眺めててもいい? 撮りたい写真もあるし」
「写真ですか?」
光彦が首を傾げる。
「うん。あとでね」
歩美はそう言って、嬉しそうに雛壇を見上げた。
しばらくして、観野さんが手を叩いた。
「そうだ。せっかくだから甘酒を作りましょうか」
「甘酒!」
元太の声が大きくなる。
「お菓子もある?」
「元太くん、目的が変わってますよ」
光彦が呆れる。
老婦人が台所の方を思い出すように見た。
「酒粕、切れてますえ」
「あら、そうだったかしら」
少し困った顔になる。
「私、これから少し用事があって買いに行けないの。悪いけれど、近くのお店で酒粕を買ってきてもらえる?」
「いいよ!」
歩美がすぐに手を挙げた。
「僕たちで行ってきます」
光彦も頷く。
「おう、任せろ!」
元太が胸を張った。
コナンは少しだけ苦笑していたが、断る気はなさそうだった。
こちらへ視線が向く。
「アリスさんも、もしよければ子どもたちと一緒にお願いできますか? 最近、物騒な事件もありましたし」
物騒な事件。
その言葉に、コナンと目が合った。
一瞬だけ。
あのバスジャックのことだと、互いに分かっている。けれど、ここで口に出す話ではない。
コナンが、ほんの少しだけ肩をすくめる。
それにつられて、苦笑が漏れた。
「ええ、もちろんです」
雛壇を見る。
男雛と女雛は、静かに座っていた。
この家の雛人形も、まだ少し見ておきたい。
けれど、それは戻ってからでもいい。
「行きましょう」
歩美が嬉しそうに頷いた。
子どもたちの声に押されるように、和室を後にした。
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