今回もアリスが事件を解くというより、人形師として事件の周辺を見る話です。
コナンはいつも通り事件をほどき、アリスは人形と、それを大切にする人の時間を見ています。
マンションを出ると、午後の空気は少しだけ冷たかった。酒粕を買いに行くだけの外出である。少なくとも、言葉にすればそうなる。
けれど、米花町では「少し買い物に行ってくる」が、どこまで本当に少しで済むのか分からない。バスに乗れば銃と爆弾に出会う町だ。酒粕くらいなら平和であってほしい。切実に。
歩美は先頭を歩き、元太と光彦がその横に並んでいる。コナンと灰原は、その少し後ろだった。
「甘酒って、酒ってつくけど子どもでも飲めるんですよね?」
「アルコールが入ってるやつもあるんじゃねえの?」
「酒粕から作るものは、少し残ることがあるわね。火にかければ飛ぶけれど、作り方次第だと思うわ」
「へえ、アリスさん詳しいんだ」
こちらを見上げてくる。
「詳しいというほどではないわ。同じ名前でも、家や土地で作り方が違うことがあるでしょう」
「うちのカレーと、光彦くんちのカレーが違うみたいな?」
「たぶん、そういうことね」
「じゃあ元太くんちの甘酒は、うな重味かもしれませんね」
「なんでだよ!」
元太の声が歩道に響く。分かりやすい。本当に分かりやすい。この子は秘密を持つには向いていない。いや、持てないわけではないのかもしれないが、持った瞬間に顔に貼り出しそうだ。
その点、江戸川コナンは逆だった。何気ない顔で歩きながら、信号も車も通行人も店の入口も拾っていく。酒粕を買いに行くだけの道を、勝手に捜査現場にしないでほしい。
灰原哀は、その隣で静かに歩いていた。会話に積極的に入る気はなさそうだった。けれど、聞いていないわけでもない。
歩美が笑えば、ほんの少しだけ目を向ける。元太が大声を出せば、呆れたように眉が動く。輪の中心にはいない。けれど、もう輪の外でもない。その距離の取り方には、少し身に覚えがあった。だからだろうか。少しだけ、他人事には思えなかった。
「あのね、アリスさん」
歩美の歩調が少し落ちる。
「アリスさんって、米花町に友達いる?」
「友達?」
思わぬ問いだった。客ならいる。商店街で挨拶をする人間も増えた。歩美たちも、店へ来る。けれど、それを友達と呼ぶのかどうかは、まだよく分からない。
「……まだ、いないかもしれないわね」
「えっ、そうなの?」
本気で驚いた顔だった。
「じゃあ、私たちが友達だよ!」
「そうだぞ! 俺たち少年探偵団と知り合いなんだから、もう友達みたいなもんだろ」
「元太くん、みたいなものじゃなくて、ちゃんと友達でいいじゃないですか」
「アリスさんが嫌じゃなければだけど」
歩美の目が、少しだけ上目遣いになる。答えに困る。嫌ではない。けれど、簡単に頷いていい言葉なのかどうか、まだ分からない。
幻想郷での関係は、もっと曖昧だった。隣人、知人、敵、協力者、顔見知り。弾幕を撃ち合っても、翌日には茶を飲むことがある。友達という言葉は、時に近すぎる。それでも、歩美の目に悪意はなかった。
「……そうね。友達、なのかもしれないわ」
「やった!」
ぱっと笑う。元太も満足げに頷いた。
横から、コナンの声がした。
「友達、ねえ」
「何か言いたそうね」
「いや。ただ、友達になる前に、住所くらいはちゃんと言えるようにしといた方がいいんじゃねえかと思ってさ」
歩美たちは不思議そうにコナンを見る。こちらは、何を言われているのか分かっていた。
「あなた、まだそれを言うのね」
「大事なことだろ」
「ええ。よく分かったわ」
身分証。住所。番地。外の世界で人として扱われるために必要なもの。あの事情聴取のことを、彼はまだ忘れていない。当然だ。こちらも忘れていない。
「コナンくん、住所って?」
首を傾げる歩美に、コナンは何でもないような顔をした。
「別に。アリスさんがうっかりさんだったって話」
「うっかりではないわ」
「じゃあ何?」
「準備不足よ」
「もっと悪いじゃん」
反論しにくい。こういうところが、非常にやりにくい。
*
酒粕を買って戻ると、マンションの空気が変わっていた。玄関を開けた瞬間、観野さんの声がした。
「ないんです。掛け軸が……!」
廊下の奥で、和室へ続く襖が開いている。リビングや寝室は荒らされていた。引き出しが開けられ、物が床に落ちている。けれど、和室だけは妙に静かだった。
雛壇は、荒らされた部屋の中で、そこだけ静かに残っていた。けれど、上段が違う。男雛と女雛の位置。小道具の向き。さっき見た時とは、ほんの少しずれている。乱暴に荒らされたのではない。誰かが、触った。
「手がかりは、たぶんこの和室にあるよ」
コナンの声がした。見れば、彼も同じ和室を見ていた。
「え?」
歩美が雛壇を見上げる。コナンは上段を指さした。
「ほら、男雛と女雛の位置、さっきと違うだろ?」
「あ……本当だ」
そこで初めて気づいたように、歩美は目を丸くした。
その後のことは、早かった。警察が呼ばれ、話を聞かれ、コナンはいつものように小さな身体で動き回る。事件の糸は、こちらが手を伸ばす前にほどかれていった。
掛け軸は盗まれていなかった。雛壇の裏に隠されていた。リビングや寝室が荒らされていたのは、外から入った泥棒に見せかけるため。
売られそうになったから隠した、というだけではないのだろう。あの掛け軸がなくなったことになれば、もう誰も「売ってくれ」とは言えない。値段をつけられたものを、値段の話から遠ざけるための嘘。そういう隠し方だった。
男雛と女雛の位置が変わっていたのは、この家で昔から飾ってきた並びへ、老婦人が戻したから。京都の並び。記憶に残っていた飾り方。
そして、掛け軸にも理由があった。昔は、風神と雷神の二幅が揃っていたらしい。けれど、風神の掛け軸は手放してしまった。そのあと、老婦人の夫が乗っていた客船が沈んだ。
守り神を売ってしまった罰が当たったのだと、老婦人はそう思ったのだという。それ以来、残った雷神の掛け軸に染みや汚れがつくたびに、災いを代わりに受けてくれたのだと思うようになった。
高価な掛け軸。二千万円の価値があるもの。けれど、この人にとっては、そういうものではなかった。家を守ってきたものだった。
刑事は、困ったような顔で手帳を閉じた。
「まあ、これは事件にできるようなものではないですよ。上司に怒られてしまいます」
その言葉で、張りつめていた空気が少し緩んだ。
*
警察が帰ったあと、和室には少しだけ落ち着いた空気が戻った。コナンは、見つかった掛け軸を床の間へ掛け直していた。子どもの背では少し高い。けれど、台に乗って、妙に手慣れた様子で位置を確かめている。本当に、何でもする子どもだ。
老婦人が、歩美たちへ向き直る。
「ほんまに、ごめんなさいねえ。こんなことに巻き込んでしもて」
歩美は小さく首を振った。
「ううん」
「今年だけ待ってもらう言うてたけど……やっぱり、ちゃんと梱包して送らせてもらいます。堪忍ね」
「あ、やっぱり貰うのよすよ!」
返事は、思ったより早かった。観野さんが目を丸くする。
「歩美ちゃん、本当にいいの?」
「うん!」
迷わず頷く。
「すっごく欲しかったよ。七段で、きれいで、ちゃんと並べられたらもらえるって言われて……だから一生懸命覚えたんだもん」
そこで、雛壇を見る。
「でもね、私の家にも、立派なお雛様があるの」
「そうなの?」
「うん。でも、前にちょっと大変なことがあって……一回直してもらったんだけど、帰ってきた日にまたぐちゃぐちゃになっちゃって」
元太が気まずそうに目を逸らした。なるほど。詳しく聞かなくても、だいたい何かあったのは分かった。
雛壇の人形たちを見上げる。
「でも、おばあちゃんの掛け軸みたいに、私に悪いことが起きないように、お雛様が代わりに壊れてくれたのかなって思ったの」
その声は明るかった。けれど、軽くはなかった。
「だから、お父さんに頼んで、ちゃんと直してもらいたいの。アリスさんのお店に持っていってもいい?」
期待でまっすぐな目だった。あっさりしているように見えた。けれど、そうではないのだろう。老婦人の話を聞いている間に、歩美の中ではもう答えが出ていたのだ。
新しい雛人形をもらうことではなく、自分の家にある雛人形をもう一度直すこと。壊れたものを、ただ壊れたものとして終わらせないこと。それなら、受け取る理由はある。
「一度、私の工房に持ってきて」
ぱっと顔が明るくなる。
「見てくれるの?」
「ええ。状態を見てみるわ。直せるかどうかは、それから」
「ありがとう、アリスさん!」
歩美の声が和室に弾んだ。
その横で、コナンが掛け軸の位置を直し終える。雷神の絵が、床の間に戻る。値段のついた絵ではなく。この家を守ってきたものとして。
*
「そうだ!」
「写真!」
「写真?」
「ほら、撮りたい写真があるって言ってたでしょ?」
そう言って、コナンたちを玄関の方へ急かす。
「え、今からかよ」
「夕方じゃないとだめなの!」
「エレベーターのところですか?」
「そう! 早くしないと日が沈んじゃうよ!」
「なんだよそれ」
「いいから早く!」
子どもたちの声が、玄関の向こうへ遠ざかっていく。観野さんも、少し笑いながらカメラを手に後を追った。
和室には、静かな時間が戻った。老婦人と、雛壇。そして、手を入れられるなら今だと思った。
上段の女雛の袖に、ほんの少し乱れがある。指先を伸ばす前に、老婦人を見る。
「少し、整えても?」
「ええ。お願いします」
穏やかに頷いてくれた。慎重に手を伸ばす。
古い布は、強く引けばそれだけで傷む。袖の重なりを押さえ、髪の流れを乱さないように、檜扇の角度をほんのわずかに戻す。
人形は動かない。けれど、触れれば分かる。どれだけ丁寧にしまわれてきたか。どれだけ長く、誰かに見守られてきたか。
「……あんたは、ほんまに人形が好きなんやねえ」
手が止まる。
「そう見えますか」
「見えますわ。人形を見る目が、ただ綺麗なものを見る目やあらしまへん」
老婦人は雛壇を見上げた。
「この子らが、どこを痛めて、どこを大事にされてきたか。そういうことまで、見てはるように思います」
少しだけ、言葉を探した。
「人形は、話しませんから」
「ええ」
「だから、見るしかないんです。布の擦れ方、髪の乱れ方、指先の欠け。どこに置かれて、どう触れられて、どんなふうにしまわれてきたのか」
女雛から手を離す。
「人形は何も言わないけれど、何も残さないわけではありません」
老婦人は、ゆっくり頷いた。
「そうどすなあ」
今日、この雛人形は手放されなかった。掛け軸もまた、手放されずに済んだ。けれど、何も変わらなかったわけではない。
歩美は、欲しかった雛人形を持ち帰らないことを選んだ。老婦人は、隠したものを元の場所へ戻した。そしてこちらは、壊れた雛人形をひとつ、預かる約束をした。
「歩美さんの雛人形も、見てみます」
「きっと喜ばはります」
「直せるとは、まだ言えません」
「それでも、見てくれる人がいるだけで、人形も嬉しいもんです」
人形が嬉しいかどうかは、分からない。けれど、人形を大切にしたいと思う人間がいることは、分かった。
しばらくして、玄関の方で小さく扉の開く音がした。歩美が戻ってくる。カメラを胸に抱えていたが、顔には少しだけ不満が残っていた。それでも、まったく嬉しくないわけではなさそうだった。
「アリスさん、撮れたよ」
「そう。よかったわね」
「うん。……でも、ほんとはもうちょっと、うまく撮りたかったなあ」
少しだけ唇を尖らせる。本当に撮りたかった一枚ではなかったのだろう。けれど、それでも何かは残せたらしい。そこで、はっとしたように顔を上げた。
「あ、そうだ! アリスさんも一緒に撮ろ!」
「私も?」
「うん! 友達でしょ!」
答えに困る。今日だけで、歩美はこの言葉をずいぶん強く使うようになった。さっきは、まだ少し迷えた。けれど今は、差し出された手が目の前にある。
「……ええ。少しだけなら」
「やった!」
笑って、こちらの手を取った。
その手に引かれながら、もう一度だけ雛壇を見る。男雛と女雛は、昔からこの家で飾られてきた並びで、静かに座っている。
今日、この雛人形は手放されなかった。歩美は、自分の家の雛人形をもう一度直すことを選んだ。そしてこちらは、なぜか写真に加わることになっている。
人形師としてできることは、思っていたより多いのかもしれない。
いや。
友達として、できることも。
そう思いながら、歩美に引かれて玄関の方へ歩き出した。
「夕陽に染まった雛人形」編でした。
アリスにとっては、歩美との距離が少し近くなる回でもあります。
しばらく日常回(米花町比)が続きます。