『百貌の影』
冬木市、深夜。
街は静かだった。
海鳴りだけが遠くで響いている。
ネオンは消え始め、人々は眠りにつき、昼の喧騒は嘘のように消えていた。
だが。
その静寂の裏側で。
既に聖杯戦争は始まっている。
誰にも知られず。
血も流れぬまま。
静かに。
確実に。
⸻
■間桐邸
『最後の召喚』
間桐邸地下。
そこは地獄だった。
腐臭。
湿気。
蟲。
無数の刻印虫が壁を這い回り、床を蠢き、空気そのものを濁らせている。
その中心。
召喚陣の前で、間桐雁夜は荒い息を吐いていた。
全身は既に限界だった。
皮膚の下を蟲が食い破る感覚。
激痛。
熱。
吐き気。
だが。
彼は立っている。
「…………」
目の前の召喚陣を見る。
赤黒い魔力が渦巻いていた。
聖杯戦争。
その最後の一騎。
バーサーカー。
雁夜は拳を握る。
桜のため。
あの子を救うため。
それだけだった。
「ほっほっほ……」
背後。
闇の奥から、間桐臓硯が嗤う。
「よい顔になったのう、雁夜」
「……黙れ」
「憎しみは良い」
老人の目が細まる。
「人を狂わせる」
雁夜は振り返らない。
振り返れば。
殺してしまいそうだった。
だが今は駄目だ。
まずは力。
遠坂時臣を殺す力。
そのために。
彼は自ら地獄へ堕ちた。
「始めるぞ」
臓硯が言う。
召喚陣が脈動する。
赤黒い光。
空気が軋む。
魔力が渦を巻き、地下室全体が震え始めた。
雁夜は歯を食いしばる。
そして。
詠唱を始める。
その声は掠れていた。
だが。
確かな憎悪が宿っていた。
⸻
その頃。
冬木教会地下。
言峰綺礼は静かに目を閉じていた。
暗闇。
沈黙。
その周囲には、誰も居ない。
だが。
気配だけは存在している。
無数に。
アサシン。
ハサン・サッバーハ
百の貌を持つ暗殺者。
その分身達が、冬木全域へ放たれていた。
綺礼は静かに呟く。
「報告を」
次の瞬間。
背後の闇から声が響く。
「――アインツベルン城、異常なし」
別方向。
「――遠坂邸、結界強化確認」
さらに。
「――ホテル上層部、ロード・エルメロイ工房形成中」
無数の声。
男。
女。
老人。
子供。
百貌のハサン達が、一斉に情報を伝えていく。
綺礼は静かに聞いていた。
その姿は、まるで蜘蛛だった。
冬木という街全体へ糸を張り巡らせる怪物。
「……セイバーは」
綺礼が問う。
一瞬、沈黙。
そして。
「――現在、こたつ内にて確認」
綺礼の沈黙が数秒続いた。
「……何?」
「――みかんを食べています」
「…………」
さらに別個体。
「――イリヤスフィールとテレビ視聴中」
「…………」
綺礼は人生で初めて、本気で困惑した。
埋葬機関番外次席。
死徒二十七祖を滅ぼした黒剣。
人類側の怪物。
それが。
「……何を見ている」
「――時代劇です」
綺礼は黙った。
理解不能だった。
何故あの男は、こんなにも自然に日常へ馴染んでいる。
いや。
馴染もうとしているのか。
「……継続監視を」
「――了解」
気配が消える。
綺礼は静かに目を開いた。
そして。
ほんの少しだけ。
笑った。
「本当に、妙な男だ」
⸻
一方。
アインツベルン城。
「この悪代官、隙が多いな」
ブラッドレイが真顔で呟く。
テレビ画面では時代劇が流れていた。
イリヤが隣で笑っている。
「おじさん、またそういうこと言うー」
「事実だ」
切嗣はソファで煙草を吸いながら呆れていた。
「お前、時代劇好きなのか」
「合理的だからな」
「どこがだ」
「斬れば解決する」
「最低だなお前」
ブラッドレイは真剣だった。
その時。
ふと。
彼の目が細まる。
「……」
空気。
気配。
ほんの一瞬。
極僅かな違和感。
切嗣も同時に気付く。
「どうした」
ブラッドレイは窓を見る。
雪。
森。
静かな夜。
だが。
そこに。
“視線”があった。
「監視されている」
切嗣の空気が変わる。
舞弥が即座に武器へ手を伸ばした。
「敵ですか」
「恐らくな」
ブラッドレイは立ち上がる。
殺気は無い。
だが。
気配が薄い。
極めて訓練された存在。
「アサシンか」
切嗣が低く呟く。
ブラッドレイは静かに笑った。
「成程」
その目が細くなる。
戦場の眼。
獣の眼。
「ようやく聖杯戦争らしくなってきた」
その瞬間。
森の奥。
監視していたハサンの一体が、全身総毛立った。
見つかった。
完全に。
視線だけで。
怪物だ。
本能が叫ぶ。
逃げろ、と。
だが。
遅い。
次の瞬間。
ブラッドレイの姿が消えた。
「――ッ!?」
森。
雪。
黒い影。
銀閃。
ハサンは反射的に跳躍する。
だが。
頬が裂けた。
血が舞う。
見えなかった。
何も。
斬撃すら。
「ほう」
ブラッドレイは雪の中に立っていた。
軍刀を片手に。
静かに。
「分身型か」
ハサンは距離を取る。
恐怖。
圧倒的恐怖。
目の前の男は危険だ。
存在そのものが。
「安心しろ」
ブラッドレイは穏やかに笑う。
だが。
その眼は冷たい。
「今は殺さん」
ハサンは即座に撤退した。
影へ溶けるように。
ブラッドレイは追わない。
ただ静かに空を見る。
「……言峰綺礼」
その名を呟く。
背後から切嗣が来る。
「どうだった」
「面白い相手だ」
「嫌な言い方するな」
ブラッドレイは小さく笑う。
「お前と同じ匂いがする」
切嗣は煙草へ火をつける。
夜空を見る。
そして。
静かに理解する。
始まった。
もう。
後戻りは出来ない。
第四次聖杯戦争が。
静かに。
確実に。
幕を開けようとしていた。