地下水路最奥部。
狂気の工房。
先ほどまで響いていた絶叫も、異形の咆哮も、今はもう無い。
残されているのは。
濃厚な血の臭い。
崩れ落ちた肉塊。
そして。
静寂。
キャスター――ジル・ド・レェの亡骸は、赤黒い水の中へゆっくり沈みつつあった。
魔導書から溢れていた禍々しい魔力も、既に急速に霧散している。
空間そのものが崩壊し始めていた。
壁に刻まれた血文字が消え。
蠢いていた肉壁が腐り落ち。
地下工房は、ようやく“死”を迎えようとしている。
その中央で。
ブラッドレイは静かに立っていた。
納刀した軍刀。
返り血に染まった軍服。
そして隻眼は、沈んでいくキャスターを見下ろしている。
誰も声を出せなかった。
ウェイバーですら。
イスカンダルですら。
ディルムッドですら。
戦いは終わった。
それなのに。
地下空間には、まだ何か張り詰めたものが残っていた。
その時。
ブラッドレイが、ゆっくり右手を胸元へ持っていく。
静かな動作。
そして。
額。
胸。
左肩。
右肩。
十字を切った。
その瞬間。
空気が止まる。
ウェイバーが目を見開いた。
ケイネスも僅かに眉を動かす。
綺礼は、地下入口付近からその光景を見つめていた。
ブラッドレイは静かに呟く。
「さらばだ、哀れな騎士よ」
低い声。
だがその言葉には、先ほどまでの冷徹な殺気が無かった。
「安らかに眠れ」
地下空間へ響く鎮魂。
それは皮肉ではない。
侮辱でもない。
本物の弔意だった。
ジル・ド・レェ。
狂った魔術師。
大量虐殺者。
怪物。
だが同時に。
かつては祖国を守り、聖女と共に戦った騎士でもあった。
ブラッドレイは、その“残骸”を見たのだ。
最後の最後。
狂気の奥底に残っていた、小さな騎士の残滓を。
だからこそ。
せめて最期だけは、騎士として送った。
ディルムッドが静かに目を伏せる。
「……見事だ」
小さな声だった。
騎士として。
あの最期を否定できなかった。
ジル・ド・レェは救いようのない外道だった。
だが。
最後に剣を握り、騎士として死んだ。
それだけは真実だった。
イスカンダルも腕を組みながら低く唸る。
「ふむ……」
征服王の顔から笑みは消えていた。
「貴様、本当に奇妙な男だなセイバー」
ブラッドレイは振り返らない。
「そうか?」
「うむ」
イスカンダルは静かに答える。
「貴様ほど冷徹で、貴様ほど人間臭い者を余は知らん」
その言葉に。
ブラッドレイは小さく笑った。
「人間だからな」
短い返答。
だが、その一言が妙に重い。
切嗣は無言だった。
煙草へ火をつける。
紫煙が地下空間へ溶ける。
そして彼は、ブラッドレイの背中を見ていた。
理解できない。
敵へ祈る意味など。
殺した相手へ敬意を払う理由など。
だが。
同時に分かる。
この男は、“命の価値”を知っている。
数え切れないほど殺してきたからこそ。
人の死が、どれほど重いかを理解している。
だからこそ。
あんな風に祈れる。
綺礼は、その光景を静かに見つめていた。
胸の奥がざわつく。
理解できない。
殺しながら祈る。
斬り捨てながら弔う。
合理と情が同居している。
矛盾している。
なのに。
異様なほど完成されている。
(……なぜだ)
綺礼は思う。
なぜこの男は壊れない?
これほど人を殺し。
これほど血を浴びながら。
なぜ“人間”でいられる?
綺礼には分からなかった。
だからこそ惹かれる。
ブラッドレイは静かに歩き出す。
軍靴が血溜まりを踏む。
その途中。
泣いていた子供の一人が、小さく震えながら彼を見上げた。
ブラッドレイは足を止める。
返り血に染まった顔。
隻眼。
軍服。
普通なら恐怖しか感じない姿。
だが。
彼は静かに軍帽を取り、子供へ目線を合わせた。
「もう大丈夫だ」
低い声。
驚くほど穏やかだった。
「終わった」
子供は震えながら涙を流す。
ブラッドレイはそれ以上何も言わない。
ただ立ち上がり、再び歩き出す。
切嗣がそれを見て、小さく息を吐いた。
「……甘いな」
その呟きに。
ブラッドレイは肩越しに笑う。
「そうかもしれんな」
「だが」
切嗣が続ける。
「嫌いじゃない」
その瞬間。
ブラッドレイは僅かに目を見開いた。
そして。
珍しく、本当に少しだけ穏やかに笑った。
地下深く。
怪物の巣は崩れ去った。
だが。
その場にいた誰もが理解していた。
今宵、最も恐ろしかった存在は。
キャスターではない。
“人間のまま怪物へ至った男”。
セイバー――キング・ブラッドレイだったのだと。