地下水路に満ちていた血臭は、未だ濃く肺へ絡みついていた。
腐った水。
焼けた肉。
魔術によって歪められた命の残滓。
人が本来、存在してはならぬものへ変えられた痕跡が、この地下空間の至る所に刻み込まれている。
救出された子供達の声は、既に遠い。
泣き声。
咳き込み。
震える呼吸。
それらは少しずつ地上へ運ばれていった。
残されたのは。
死。
そして、まだ終わっていない戦場だけだった。
龍之介は床へ転がったまま、片足を押さえて荒い呼吸を繰り返していた。
大量の血が流れている。
本来なら、とっくに恐慌していてもおかしくない。
だが彼は、まだ笑おうとしていた。
理解できないまま。
状況の本質に追いつけないまま。
子供のような顔で。
「なぁ……あんたさぁ」
龍之介が見上げる。
「なんでそんな怖ぇ顔してんの?」
サーベル――キング・ブラッドレイは答えなかった。
ただ静かに、軍刀を鞘へ納める。
金属音が、地下空間に細く響いた。
その所作には一切の無駄がない。
長年、殺し続けてきた者だけが持つ完成された動き。
だが。
龍之介を見下ろすその隻眼には、殺意だけではないものが宿っていた。
軽蔑。
怒り。
そして――僅かな哀れみ。
切嗣は壁へ背を預け、煙草の煙を吐き出す。
沈黙が落ちた。
重い沈黙だった。
誰もが、この場に漂う異様な空気を感じていた。
龍之介だけが、それを理解できない。
「……私は、貴様に説教をする気はない」
やがて。
サーベルが低く言った。
その声は静かだった。
怒鳴りもしない。
感情を荒げもしない。
だからこそ、余計に冷たかった。
「何が善で」
「何が悪か」
「何が命で」
「何が罪か」
「そんなものを、今さら貴様へ語る意味はない」
龍之介は瞬きを繰り返す。
サーベルの言葉を理解しようとしているのではない。
ただ、“続きを待っている”。
まるで面白い話でも聞くように。
それが、余計にこの男の空虚さを際立たせていた。
サーベルは続ける。
「貴様は理解しない」
「理解する気もない」
「ならば、それでいい」
静かに。
本当に静かに。
キング・ブラッドレイは龍之介を見下ろした。
「私から何も言う事はない」
その瞬間。
龍之介は初めて、目の前の男に“完全に切り捨てられた”感覚を覚えた。
怒られているわけではない。
裁かれているわけでもない。
ただ。
“価値がない”と断じられた。
それだけだった。
サーベルは一歩近づく。
軍靴が、血溜まりを踏む。
「だが――」
低い声。
冬の刃のような響き。
「死ぬ最期の一瞬まで抗え」
「……ぇ?」
「足掻け」
「惨めでもいい」
「無様でもいい」
「恐怖に泣き喚こうと構わん」
サーベルの隻眼が、真っ直ぐ龍之介を射抜く。
「それが人間だ」
空気が止まった。
龍之介は、口を半開きにしたまま固まっている。
理解できなかった。
この男は、自分を嫌っている。
軽蔑している。
殺そうとしている。
それは分かる。
なのに。
なぜ最後に、“人間であれ”などと言うのか。
なぜそんな言葉を向けるのか。
サーベルは続けた。
「貴様は今まで、何も見ていなかった」
「命も」
「死も」
「痛みも」
「自分自身ですらだ」
地下に転がる死体。
血塗れの魔術陣。
壊れた子供達。
その全てを見回しながら、サーベルは静かに言う。
「人は死ぬ時、初めて己を知る」
「恐怖し」
「後悔し」
「生へ縋る」
「その瞬間だけは、誰もが平等だ」
龍之介の喉が鳴った。
その言葉は、理解できない。
だが。
妙に耳へ残った。
切嗣は煙草を咥えたまま、無言でサーベルを見ていた。
(……らしくないな)
いや。
違う。
これこそが、この男の本質なのかもしれない。
キング・ブラッドレイ。
最強の殺人者。
冷酷な軍人。
だが。
この男は、ただ命を刈るだけの怪物ではない。
死の瞬間にすら、“人間性”を見ている。
それは衛宮切嗣には理解し難い感覚だった。
切嗣にとって死とは結果だ。
必要なら殺す。
犠牲を選ぶ。
世界を救うためなら切り捨てる。
そこに感情を混ぜる余地はない。
だがサーベルは違う。
殺す。
切り捨てる。
容赦なく。
徹底的に。
それでも。
最後の最後で、“人間として死ね”と告げる。
まるで。
戦場で何万もの死を見続けた末に、それだけは捨てられなかったかのように。
龍之介が震える声を漏らす。
「……あんた」
「変だなぁ」
サーベルは答えない。
「俺、いっぱい殺したんだぜ?」
「ガキも」
「女も」
「いっぱい、いっぱい」
「なのにさぁ……」
龍之介の笑みが、少しだけ歪む。
「なんでそんな事言うんだよ」
沈黙。
数秒。
やがてサーベルは、静かに背を向けた。
「貴様が外道である事と」
「貴様が人間である事は、別だからだ」
それだけ言い残す。
龍之介は、その背中を呆然と見つめた。
理解はできない。
だが。
胸の奥に、初めて奇妙な“重さ”が残っていた。
言峰綺礼は闇の中から、その光景を見ていた。
黒衣の神父は静かに目を細める。
「……なるほど」
小さく呟く。
「最後まで、人であろうとするか」
綺礼は知っている。
戦場を極めた者ほど、人間性を捨てる。
そうでなければ壊れる。
だが。
キング・ブラッドレイという男は違う。
怪物でありながら。
殺戮機械でありながら。
なお、人間であろうとしている。
それが綺礼には――酷く歪に見えた。
そして同時に。
どうしようもなく、興味深かった。