冬木の番外次席   作:甘めのコーヒー

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第29話

地下水路に満ちていた血臭は、未だ濃く肺へ絡みついていた。

 

 腐った水。

 

 焼けた肉。

 

 魔術によって歪められた命の残滓。

 

 人が本来、存在してはならぬものへ変えられた痕跡が、この地下空間の至る所に刻み込まれている。

 

 救出された子供達の声は、既に遠い。

 

 泣き声。

 

 咳き込み。

 

 震える呼吸。

 

 それらは少しずつ地上へ運ばれていった。

 

 残されたのは。

 

 死。

 

 そして、まだ終わっていない戦場だけだった。

 

 龍之介は床へ転がったまま、片足を押さえて荒い呼吸を繰り返していた。

 

 大量の血が流れている。

 

 本来なら、とっくに恐慌していてもおかしくない。

 

 だが彼は、まだ笑おうとしていた。

 

 理解できないまま。

 

 状況の本質に追いつけないまま。

 

 子供のような顔で。

 

「なぁ……あんたさぁ」

 

 龍之介が見上げる。

 

「なんでそんな怖ぇ顔してんの?」

 

 サーベル――キング・ブラッドレイは答えなかった。

 

 ただ静かに、軍刀を鞘へ納める。

 

 金属音が、地下空間に細く響いた。

 

 その所作には一切の無駄がない。

 

 長年、殺し続けてきた者だけが持つ完成された動き。

 

 だが。

 

 龍之介を見下ろすその隻眼には、殺意だけではないものが宿っていた。

 

 軽蔑。

 

 怒り。

 

 そして――僅かな哀れみ。

 

 切嗣は壁へ背を預け、煙草の煙を吐き出す。

 

 沈黙が落ちた。

 

 重い沈黙だった。

 

 誰もが、この場に漂う異様な空気を感じていた。

 

 龍之介だけが、それを理解できない。

 

「……私は、貴様に説教をする気はない」

 

 やがて。

 

 サーベルが低く言った。

 

 その声は静かだった。

 

 怒鳴りもしない。

 

 感情を荒げもしない。

 

 だからこそ、余計に冷たかった。

 

「何が善で」

「何が悪か」

 

「何が命で」

「何が罪か」

 

「そんなものを、今さら貴様へ語る意味はない」

 

 龍之介は瞬きを繰り返す。

 

 サーベルの言葉を理解しようとしているのではない。

 

 ただ、“続きを待っている”。

 

 まるで面白い話でも聞くように。

 

 それが、余計にこの男の空虚さを際立たせていた。

 

 サーベルは続ける。

 

「貴様は理解しない」

「理解する気もない」

 

「ならば、それでいい」

 

 静かに。

 

 本当に静かに。

 

 キング・ブラッドレイは龍之介を見下ろした。

 

「私から何も言う事はない」

 

 その瞬間。

 

 龍之介は初めて、目の前の男に“完全に切り捨てられた”感覚を覚えた。

 

 怒られているわけではない。

 

 裁かれているわけでもない。

 

 ただ。

 

 “価値がない”と断じられた。

 

 それだけだった。

 

 サーベルは一歩近づく。

 

 軍靴が、血溜まりを踏む。

 

「だが――」

 

 低い声。

 

 冬の刃のような響き。

 

「死ぬ最期の一瞬まで抗え」

 

「……ぇ?」

 

「足掻け」

 

「惨めでもいい」

「無様でもいい」

 

「恐怖に泣き喚こうと構わん」

 

 サーベルの隻眼が、真っ直ぐ龍之介を射抜く。

 

「それが人間だ」

 

 空気が止まった。

 

 龍之介は、口を半開きにしたまま固まっている。

 

 理解できなかった。

 

 この男は、自分を嫌っている。

 

 軽蔑している。

 

 殺そうとしている。

 

 それは分かる。

 

 なのに。

 

 なぜ最後に、“人間であれ”などと言うのか。

 

 なぜそんな言葉を向けるのか。

 

 サーベルは続けた。

 

「貴様は今まで、何も見ていなかった」

 

「命も」

「死も」

「痛みも」

 

「自分自身ですらだ」

 

 地下に転がる死体。

 

 血塗れの魔術陣。

 

 壊れた子供達。

 

 その全てを見回しながら、サーベルは静かに言う。

 

「人は死ぬ時、初めて己を知る」

 

「恐怖し」

「後悔し」

「生へ縋る」

 

「その瞬間だけは、誰もが平等だ」

 

 龍之介の喉が鳴った。

 

 その言葉は、理解できない。

 

 だが。

 

 妙に耳へ残った。

 

 切嗣は煙草を咥えたまま、無言でサーベルを見ていた。

 

(……らしくないな)

 

 いや。

 

 違う。

 

 これこそが、この男の本質なのかもしれない。

 

 キング・ブラッドレイ。

 

 最強の殺人者。

 

 冷酷な軍人。

 

 だが。

 

 この男は、ただ命を刈るだけの怪物ではない。

 

 死の瞬間にすら、“人間性”を見ている。

 

 それは衛宮切嗣には理解し難い感覚だった。

 

 切嗣にとって死とは結果だ。

 

 必要なら殺す。

 

 犠牲を選ぶ。

 

 世界を救うためなら切り捨てる。

 

 そこに感情を混ぜる余地はない。

 

 だがサーベルは違う。

 

 殺す。

 

 切り捨てる。

 

 容赦なく。

 

 徹底的に。

 

 それでも。

 

 最後の最後で、“人間として死ね”と告げる。

 

 まるで。

 

 戦場で何万もの死を見続けた末に、それだけは捨てられなかったかのように。

 

 龍之介が震える声を漏らす。

 

「……あんた」

「変だなぁ」

 

 サーベルは答えない。

 

「俺、いっぱい殺したんだぜ?」

「ガキも」

「女も」

「いっぱい、いっぱい」

 

「なのにさぁ……」

 

 龍之介の笑みが、少しだけ歪む。

 

「なんでそんな事言うんだよ」

 

 沈黙。

 

 数秒。

 

 やがてサーベルは、静かに背を向けた。

 

「貴様が外道である事と」

「貴様が人間である事は、別だからだ」

 

 それだけ言い残す。

 

 龍之介は、その背中を呆然と見つめた。

 

 理解はできない。

 

 だが。

 

 胸の奥に、初めて奇妙な“重さ”が残っていた。

 

 言峰綺礼は闇の中から、その光景を見ていた。

 

 黒衣の神父は静かに目を細める。

 

「……なるほど」

 

 小さく呟く。

 

「最後まで、人であろうとするか」

 

 綺礼は知っている。

 

 戦場を極めた者ほど、人間性を捨てる。

 

 そうでなければ壊れる。

 

 だが。

 

 キング・ブラッドレイという男は違う。

 

 怪物でありながら。

 

 殺戮機械でありながら。

 

 なお、人間であろうとしている。

 

 それが綺礼には――酷く歪に見えた。

 

 そして同時に。

 

 どうしようもなく、興味深かった。

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