龍之介は、しばらく何も言わなかった。
地下水路の冷気が、血に濡れた身体から熱を奪っていく。
片足はもう動かない。
切断されてはいない。
だが、腱も筋も正確に断たれている。
立てない。
逃げられない。
その事実だけは、さすがの龍之介にも理解できた。
ぽたり。
ぽたり。
床へ血が落ちる。
やけに大きな音に聞こえた。
彼は初めて、自分の血の匂いを強く意識した。
「……」
笑おうとした。
いつものように。
軽く。
ふざけるように。
だが、うまく笑えなかった。
喉が乾いている。
心臓が妙にうるさい。
視界が少し滲む。
それが出血のせいなのか、それとも別の何かなのか、龍之介には分からなかった。
黙って待っていた。
急かさない。
脅さない。
ただ見ている。
まるで、何かを見極めるように。
その視線が、龍之介には奇妙に重かった。
「……なぁ」
やっと声を絞り出す。
「人間って、なんなんだよ」
その問いは、無意識だった。
考えて言ったわけではない。
ただ。
目の前の男にそう問いたくなった。
すぐには答えなかった。
地下空間の奥では、まだ排水音が低く響いている。
遠くで、救急車のサイレンも聞こえ始めていた。
冬木市の夜は、今なお燃えている。
キャスターが撒き散らした狂気の傷跡は、今夜だけでは終わらない。
その現実を知りながら。
静かに口を開いた。
「簡単な話だ」
低い声。
鋼のような響き。
「人間とは、死を恐れる生き物だ」
龍之介が目を瞬く。
「……そんだけ?」
「充分だ」
即答した。
「恐怖する」
「苦痛を嫌う」
「失う事を恐れる」
「だから生へ縋る」
その隻眼が細まる。
「その醜さこそ、人間だ」
龍之介は黙り込んだ。
理解できない。
だが。
なぜか、その言葉は耳に残った。
「貴様は今まで、“死”を眺めていただけだ」
セイバーは続ける。
「壊れる肉を見て」
「流れる血を見て」
「悲鳴を聞いて」
「それを楽しんでいた」
「だが、それだけだ」
軍靴が一歩、前へ出る。
「貴様は一度も、“自分の死”を見ていない」
龍之介の背筋が震えた。
初めて。
本当に初めて。
自分が死ぬ光景を想像した。
暗い。
寒い。
痛い。
息ができない。
その想像が脳裏を過ぎた瞬間、胸が締め付けられる。
「……っ」
呼吸が乱れる。
セイバーは、その変化を見逃さなかった。
「そうだ」
静かな声。
「それが恐怖だ」
龍之介が歯を食いしばる。
「……なんだよ、それ」
「怖がったら、人間なのかよ」
「そうだ」
「はぁ?」
「貴様は勘違いしている」
セイバーの声は、どこまでも冷静だった。
「恐怖は弱さではない」
「死を理解し、生を求める本能だ」
「それを捨てた瞬間、人は壊れる」
龍之介は何か言い返そうとした。
だが、言葉が出ない。
代わりに込み上げてきたのは、苛立ちだった。
「……分かんねぇよ」
「分からなくていい」
再び即答。
「だが、死ぬ瞬間まで考えろ」
龍之介を見下ろした。
「貴様は何だったのか」
「何を見て」
「何を感じていたのか」
「最後まで抗え」
「それが人間だ」
沈黙。
長い沈黙だった。
切嗣は煙草を吸い終え、足元で火を踏み消す。
その横顔は変わらず冷たい。
だが。
視線だけはセイバーから外していなかった。
(……お前は何なんだ)
衛宮切嗣には分からない。
この男は冷酷だ。
必要なら何百人でも殺せる。
戦場で躊躇などしない。
実際、先程もキャスターの怪物達を、一切の感情なく解体していた。
だが。
今、この瞬間だけは違う。
まるで教師のように。
いや。
死刑囚へ最後の問いを与える裁判官のように。
“人間”を語っている。
それが切嗣には、奇妙だった。
同時に。
ほんの僅かだけ――羨ましくもあった。
自分には出来ない。
衛宮切嗣は、人を救うために人を切り捨てる。
命を秤へ乗せる。
数字で選ぶ。
合理で決める。
その先にあるのは結果だけだ。
だがこの男は違う。
結果の先に、“人間”を見ている。
だからこそ、この男は恐ろしい。
ただの兵器ではない。
確固たる意思を持った怪物だ。
遠く。
暗闇の中で、言峰綺礼が静かに笑う。
黒衣の神父は壁へ背を預け、細く目を閉じた。
「……なるほど」
その声は小さい。
「衛宮切嗣とは真逆だ」
片方は理想のため、人間性を切り捨てる。
片方は怪物になりながら、人間性へ執着する。
あまりにも対照的だった。
そして綺礼は思う。
いずれ。
この二人は決定的に衝突する。
理念ではない。
もっと根深い場所で。
“人間とは何か”という問いそのもので。
龍之介は、荒い呼吸を繰り返していた。
寒い。
怖い。
苦しい。
その感覚が、少しずつ身体を蝕んでいく。
彼は今まで、人が死ぬ瞬間を何度も見てきた。
だが。
ようやく理解し始めていた。
あの時、人々が浮かべていた顔。
泣き叫ぶ理由。
助けを求める声。
あれは。
“生きたかった”のだ。
「……は、はは」
龍之介が乾いた笑みを漏らす。
「なんだよ、それ」
涙なのか。
汗なのか。
頬を濡らすものがあった。
「死ぬの、嫌じゃんか……」
セイバーは静かに目を閉じた。
そして。
ほんの僅かだけ。
哀れむように息を吐いた。
「そうだ」
低い声が、地下空間へ静かに落ちる。
「ようやく理解したか」
その瞬間。
龍之介は初めて、“自分が人間だった”事を知った。