冬木の番外次席   作:甘めのコーヒー

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第31話

龍之介は、しばらく何も言わなかった。

 

 地下水路の冷気が、血に濡れた身体から熱を奪っていく。

 

 片足はもう動かない。

 

 切断されてはいない。

 

 だが、腱も筋も正確に断たれている。

 

 立てない。

 

 逃げられない。

 

 その事実だけは、さすがの龍之介にも理解できた。

 

 ぽたり。

 

 ぽたり。

 

 床へ血が落ちる。

 

 やけに大きな音に聞こえた。

 

 彼は初めて、自分の血の匂いを強く意識した。

 

「……」

 

 笑おうとした。

 

 いつものように。

 

 軽く。

 

 ふざけるように。

 

 だが、うまく笑えなかった。

 

 喉が乾いている。

 

 心臓が妙にうるさい。

 

 視界が少し滲む。

 

 それが出血のせいなのか、それとも別の何かなのか、龍之介には分からなかった。

 

 黙って待っていた。

 

 急かさない。

 

 脅さない。

 

 ただ見ている。

 

 まるで、何かを見極めるように。

 

 その視線が、龍之介には奇妙に重かった。

 

「……なぁ」

 

 やっと声を絞り出す。

 

「人間って、なんなんだよ」

 

 その問いは、無意識だった。

 

 考えて言ったわけではない。

 

 ただ。

 

 目の前の男にそう問いたくなった。

 

 すぐには答えなかった。

 

 地下空間の奥では、まだ排水音が低く響いている。

 

 遠くで、救急車のサイレンも聞こえ始めていた。

 

 冬木市の夜は、今なお燃えている。

 

 キャスターが撒き散らした狂気の傷跡は、今夜だけでは終わらない。

 

 その現実を知りながら。

 

 静かに口を開いた。

 

「簡単な話だ」

 

 低い声。

 

 鋼のような響き。

 

「人間とは、死を恐れる生き物だ」

 

 龍之介が目を瞬く。

 

「……そんだけ?」

 

「充分だ」

 

 即答した。

 

「恐怖する」

「苦痛を嫌う」

「失う事を恐れる」

 

「だから生へ縋る」

 

 その隻眼が細まる。

 

「その醜さこそ、人間だ」

 

 龍之介は黙り込んだ。

 

 理解できない。

 

 だが。

 

 なぜか、その言葉は耳に残った。

 

「貴様は今まで、“死”を眺めていただけだ」

 

 セイバーは続ける。

 

「壊れる肉を見て」

「流れる血を見て」

「悲鳴を聞いて」

 

「それを楽しんでいた」

 

「だが、それだけだ」

 

 軍靴が一歩、前へ出る。

 

「貴様は一度も、“自分の死”を見ていない」

 

 龍之介の背筋が震えた。

 

 初めて。

 

 本当に初めて。

 

 自分が死ぬ光景を想像した。

 

 暗い。

 

 寒い。

 

 痛い。

 

 息ができない。

 

 その想像が脳裏を過ぎた瞬間、胸が締め付けられる。

 

「……っ」

 

 呼吸が乱れる。

 

 セイバーは、その変化を見逃さなかった。

 

「そうだ」

 

 静かな声。

 

「それが恐怖だ」

 

 龍之介が歯を食いしばる。

 

「……なんだよ、それ」

 

「怖がったら、人間なのかよ」

 

「そうだ」

 

「はぁ?」

 

「貴様は勘違いしている」

 

 セイバーの声は、どこまでも冷静だった。

 

「恐怖は弱さではない」

 

「死を理解し、生を求める本能だ」

 

「それを捨てた瞬間、人は壊れる」

 

 龍之介は何か言い返そうとした。

 

 だが、言葉が出ない。

 

 代わりに込み上げてきたのは、苛立ちだった。

 

「……分かんねぇよ」

 

「分からなくていい」

 

 再び即答。

 

「だが、死ぬ瞬間まで考えろ」

 

 龍之介を見下ろした。

 

「貴様は何だったのか」

「何を見て」

「何を感じていたのか」

 

「最後まで抗え」

 

「それが人間だ」

 

 沈黙。

 

 長い沈黙だった。

 

 切嗣は煙草を吸い終え、足元で火を踏み消す。

 

 その横顔は変わらず冷たい。

 

 だが。

 

 視線だけはセイバーから外していなかった。

 

(……お前は何なんだ)

 

 衛宮切嗣には分からない。

 

 この男は冷酷だ。

 

 必要なら何百人でも殺せる。

 

 戦場で躊躇などしない。

 

 実際、先程もキャスターの怪物達を、一切の感情なく解体していた。

 

 だが。

 

 今、この瞬間だけは違う。

 

 まるで教師のように。

 

 いや。

 

 死刑囚へ最後の問いを与える裁判官のように。

 

 “人間”を語っている。

 

 それが切嗣には、奇妙だった。

 

 同時に。

 

 ほんの僅かだけ――羨ましくもあった。

 

 自分には出来ない。

 

 衛宮切嗣は、人を救うために人を切り捨てる。

 

 命を秤へ乗せる。

 

 数字で選ぶ。

 

 合理で決める。

 

 その先にあるのは結果だけだ。

 

 だがこの男は違う。

 

 結果の先に、“人間”を見ている。

 

 だからこそ、この男は恐ろしい。

 

 ただの兵器ではない。

 

 確固たる意思を持った怪物だ。

 

 遠く。

 

 暗闇の中で、言峰綺礼が静かに笑う。

 

 黒衣の神父は壁へ背を預け、細く目を閉じた。

 

「……なるほど」

 

 その声は小さい。

 

「衛宮切嗣とは真逆だ」

 

 片方は理想のため、人間性を切り捨てる。

 

 片方は怪物になりながら、人間性へ執着する。

 

 あまりにも対照的だった。

 

 そして綺礼は思う。

 

 いずれ。

 

 この二人は決定的に衝突する。

 

 理念ではない。

 

 もっと根深い場所で。

 

 “人間とは何か”という問いそのもので。

 

 龍之介は、荒い呼吸を繰り返していた。

 

 寒い。

 

 怖い。

 

 苦しい。

 

 その感覚が、少しずつ身体を蝕んでいく。

 

 彼は今まで、人が死ぬ瞬間を何度も見てきた。

 

 だが。

 

 ようやく理解し始めていた。

 

 あの時、人々が浮かべていた顔。

 

 泣き叫ぶ理由。

 

 助けを求める声。

 

 あれは。

 

 “生きたかった”のだ。

 

「……は、はは」

 

 龍之介が乾いた笑みを漏らす。

 

「なんだよ、それ」

 

 涙なのか。

 

 汗なのか。

 

 頬を濡らすものがあった。

 

「死ぬの、嫌じゃんか……」

 

 セイバーは静かに目を閉じた。

 

 そして。

 

 ほんの僅かだけ。

 

 哀れむように息を吐いた。

 

「そうだ」

 

 低い声が、地下空間へ静かに落ちる。

 

「ようやく理解したか」

 

 その瞬間。

 

 龍之介は初めて、“自分が人間だった”事を知った。

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